「あれ読んだ?マウンティング」はあったな… 基本先輩から。毎週朝まで飲んでたかからな… それで鍛えられたというのはある。基本変な本は勧められなかったしな。
— nasastar (@nasastar) 2017年11月7日
変な本を薦めてきてマウンティングという人に出くわす私ー…。
目的に応じた読書・考察が必要なんであってだなー…その限りでは有益な助言なんですがね。それ以外の領域にまで無前提に優先権を主張することはしかねるということ、気付かないだろうか。
…まあ一般的に言えば、「読むべき本」「知っておくべき知識」を設定する権力、それを先に得ているという先行者としての権力をふるい、他者に対する支配を楽しむわけだ、マウンティングのひとびとは。
この際、勧める本・知識が、既にオーソライズ済みの「古典」のみである場合、先行する権威に対する単なる盲従と区別がつかない。
そしてこの場合、問題設定の権力を振るう楽しみはなく、先行者としての権力も限定的である。
そのため、知的エリートたるもの、自らの鑑識眼を確かめ(場合によっては誇示することもでき)るよう、素敵な研究史(の理解)を披露するだろう―それがうまいこといけば「基本変な本は勧められなかったしな」と後輩にその能力を認められる。これは自尊心を満足させるし、知的に正しい系譜にあると確認できてステキ。
私としては、この方向を取りたいもの。
さてここにはオリジナリティを求める気持ちが差し挟まっている。数多ある先行研究のうち、何をどう重みづけるかに腕前が見られるわけである、ここにもオリジナリティが観察できる。
で、独自要素が多ければ多いほど、己の知的DNA部分が大きいわけでもあり―例えば安藤昌益を掘り起こすなどできれば、これは(本人自身が完全オリジナルの著作をしたわけではなくとも)偉大な業績というべきだろう。
日常の小事件に、実は歴史的な意義があった場合、それを掘り起こせれば、同様に偉大な業績というべきだろう。
そこで、伝統的な学術の伝統にあまり・できるだけ拠らずに、”自己のオリジナルの情報構成”を目指す方向性を考えることができよう。
ところが日常的な小事件や、日常的に出版される諸言論には、そのほとんどにはたいした意味はない。
ならば、この場合、その人の言論の価値はその小情報を構築する腕前のほうに頼ることになる。情報個々の権威が小さいがために、その情報の権威を借りることもできないからだ。
時折ひとは、己一個の能力を試そうということだろうか、そうして試しをする向きが発生する。
その場合は、ほんとうに、その人の能力が問われるのだ。
―まあその、博士様ならわりと自己の能力を信じてアレがソレして…ということは先日も引用したところである。しばしばあるんだがな、学者なら先例を多少は知っているはずで、己の行動を律するものと思いたいところ。
院生のころ「近世とはなにか?」「文学とは?」とかいう大きな問いを振ってくる人がわりといて、そのつど真面目に答えて後で悩んだりしてたけどあれ完全に時間の無駄だったと思う。それより粛々とテキスト読むのに時間を割く方が百倍よかった。
— 新稲法子 (@niina_noriko) 2017年10月27日
いやほんと、水準に満たないひとが、自分を大きく見せようと思ってか、自分が偉大であるという幻想を確認しようと思ってか、大きなことを言ってくるものなのである。こういう議論で、わかいのを鍛えてやっているんだ、と思っていたらしいのである。
基本、そーゆーのは時間の無駄である―学問の水準のためには。
まあその、それなりに”人間力”は付きますね。こういう人種もいるのだ、という学びにもなるし、それなりの抵抗力もつく。
だけれど、合理的でない。僕らは、きちんと”利用”されれば、つぎつぎ業績出すものである。にもかかわらず、そのための時間を無駄話で費やすのは、”利用”する側としても不合理である―吸うモノがすくなくなるので。
とすると、”吸い取る”側としての水準も推して知るべし、ということなのだろう、昨日の「山口放送「奥底の悲しみ」問題」を思ってもそうなる―この例の場合、将来の金鉱たるひとを完全に怒らせてしまい、闘争に無駄に時間を使わせ、へたすると金鉱たるはずのところ、ダイヤ一個産出で終わる(つまり、この仕事だけで疲れ果ててつぶれてしまう)可能性さえある。
つまりこの例に見られるTVさん側は、資源管理の能力を欠いているのだ。
まあそこで時間的ロスが生じるのはやむを得ないとしても、現場は「あのやろーのいらぬ口出し」と抵抗感を抱き、以後、当の人物とはなるべく関わらぬ形で仕事しようとする。
で、「現場との乖離」は大きくなっていく。
大きくなっているようですねー…(うちの仕事場を眺めて)
私にさえ、某筋へのご不満の声が聞こえるというのはどうかと。