三国軍事同盟の締結 3 なぜ敢えて締結したか

2017年06月05日 | 歴史を尋ねる
 当時陸軍の松岡に対する攻勢は強化され、武藤や若い士官が頻繁に松岡の部屋に訪れ、斉藤は隣室で、声高な興奮を毎日聞いた。松岡に聞くと、それがいずれも日独問題で、武藤と岩畔が「同盟を決行せねば、近衛も松岡もあったものか」と、近衛内閣打倒をほのめかし、斉藤は、松岡が軍部の圧迫に抗し続けることを祈った。ところがある日、松岡は「国策を思い切って転向し、アメリカとの了解に取り掛かるべき日は、一日でも早い方が良い」と言い出した。斉藤はその真意を聞くと、松岡は「今日の孤立日本ほど力の弱った時代は、近年にない。一方、日華事変の深田にはまり込んで、身動きがならなくなり、他方で、世界の総スカンを食らって、物資の供給は制限され、日本品に対する市場は狭まり、日本は事実上経済封鎖のなかにあえいでいる。しかも国内は軍部と右翼のファシズムが横行し、如何ともすることが出来ない。こんな窮乏時の国策転換は、得てして不名誉な対外妥協に堕しやすいが、僕らはそうした妥協を狙うべきではない。また、国内情勢から見ても、そんなことが出来ようはずがない。我々はまず自分の力を強くして、外交的威力を高めねばならぬ。その高まった威力は、世界の平和、なかんずく日華事変の解決と日米国交の調整にために使われねばならぬ。」
 「日本の外交威力を増加する方法は、他国の力を利用する方法だが、我々の求めるところは、アメリカの英独戦争なり、日華事変なりに参入することを防止し、世界の大乱を予防するにあるから、当面の目標は、米、英、仏、蘭等諸国の合同の力を押さえつけることに置かれるべきである。これには、ドイツやイタリアの力だけを利用するだけでは不十分で、ソ連を同調させねばならぬ。しかしこの大同団結は最終目的ではなく、世界の強国の大同団結にもっていかねばならないが、ソ連とその衛星国は結局資本主義国との対立勢力となる運命にある。しかし日本の課題である日華事変の解決とアメリカの参戦防止のことのためには、ソ連がまだ資本主義と対立関係に立たぬ現在の政治関係を利用するのが良い。日ソ関係は見方によっては緊迫状態にあるので、第三国の斡旋が必要、この意味でドイツを利用することが考えられる。しかし狙いはドイツでもソ連でもなく、一時これを利用してアメリカとの親善関係に持ち込むことである。現今の政治家が軍部の意向に表面から反対したのでは、その政治理念も外交方策も、実現の機会を失う。ときに必要な謀略である。僕がいう国策転換とは、こうした国際関係と国内政治との融合による新しい方策という意味だ。第三国を欺き、軍部を欺くような謀略は決して褒めたことではないが、危機存亡の窮地に立つ日本にとって、このような権道もやむを得ないであろう」と。

 斉藤は、「ソ連が資本主義国と心から握手する筈がない、独ソ不可侵条約は上っ面のもので、バルカンの噴火がいつ起こるかわからぬ、日本の威力の増加を喜ばないのは、ソ連の対中国外交政策が立証している、ドイツが英国と戦っていながら、ソ連と日本を握手させる力はもっていない等々を指摘して松岡の見解の危険を説いた。しかも仮に日ソ共同の力をもっても、アメリカがその威圧を恐れて引っ込む望みはない。アメリカは形式的にはまだ戦争に参加していないが、対英援助のやり方を見ると、参戦と事実上違っていない。新中立法や武器禁輸条項の廃止や、ドイツのアメリカ船舶潜水艦攻撃に対する武力行使決意などは、これを証明している。日本への石油輸出に関する思わせぶりも一つの証拠である。日米通商条約の廃棄に続く対日圧迫は日本に対する断固たる決意を示すものである。そればかりか、米英連合軍と戦う決心がなければ、たとえ謀略であっても、ドイツやソ連との握手は日本に極めて大きな危機をもたらすものである。アメリカ威圧を試みるのは無謀もまた極まれりというべきである」と説いたが、松岡はあくまでも自説を固執した、と斉藤は記述する。
 うん、やっぱり内政を外交問題で解決しようとするのは、真の解決にはならない。この時点では、重光が云う様に、『条件の如何を問わず支那問題を解決し、日支親善を恢復し、更に東亜諸民族親善の政策を樹立する』ことしかなかったのだろう。松岡が云う様に、『政治家が軍部の意向に表面から反対したのでは、その政治理念も外交方策も、実現の機会を失う』のも事実だ。従って、世界を敵に回しての戦争の危険を国民に訴えながら、愚直に国政転換を進めるしかなかったのだろう、命を張って、国民を信じて。

 ドイツからスターマーが東京に来るとの電報が届くと、斉藤は危機が迫ったと見て、松岡にその危険性を説いたが効果が全くなかった。辞職を決意して松平に相談すると、「外務省は松岡と白鳥の天下になってしまう」と慰留された。そして、松岡・スターマー会談が行われ、ドイツの態度を知った松岡は、同盟条約締結に同意し、松岡は斉藤に次のような指示を出した。「同盟締結の主義上の話合いが済んだ以上、僕らの次の仕事は、同盟条約の内容の決定だ。・・・独、ソ両国との握手により、アメリカとの参戦を防止することが出来ないと見た場合、日本の外交転換を容易にしておく、更に日本が日米戦争突入を余儀なくされると見た場合、いつでも同盟から脱退する余地を残しておく、更に同盟を厳正な意味の防御同盟とし、戦争の機会をできるだけ少なくすること、この三つを入れて条約文案を作ってくれ」と。斉藤はその晩ほとんど寝ずに草稿を作って松岡に提出、それがほとんどそのまま条約になった。ただ、正確には松岡は条約という形を採らず、その宣言を両国共同宣言の形式で内外に宣明するつもりだった。ところがスターマーはこれに強く反対、会談三日目には条約原案が確定、本国に承認を求めた。ドイツ側は防御同盟に反対したが、これは松岡の拒否で松岡案が通った。なお、同盟が日、独、伊の三国を締結国としているが、イタリア代表を参加させなかった。イタリアが同盟成立を知ったのは、原文がすっかり決まったからで、在東京イタリア大使が、このことで外務省に来たのは、条約調印の日だった。

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