日本の禍機 2

2014年03月31日 | 歴史を尋ねる

 では朝河は具体的にどの様な事実を心配しているのか。それは日本に対する世評の変化だ。戦役後欧米のいずれのところでも、自分に対する態度が様変わりだ、その理由は、日本は戦勝の余威を弄して次第に近隣を併呑し、ついには欧米の利害にも深く影響を及ぼすようになった、すなわち日本は戦前も戦後も反復揚言して、東洋政策の根本は清帝国の独立及び領土保全、並びに列国民の機会均等と称しながら、韓国は日本の保護国になったことは措くとしても、満州ではこれらに背いている。その証拠に、欧米の新聞紙上に、北京、奉天、営口、京城、東京、ロンドン、ペテルブルグ、ワシントン等よりあたかも申し合せたように、日本の満州における不正を訴える通信が続々発表され、日本が戦前の公言は一時世を欺く欺瞞の言に過ぎず、今や満州及び韓国において私意を逞しくするものだ。戦前世界が露国に対してあった悪感は、今や変じて日本に対する悪感となり、当時日本に対した同情は、今や転じて支那に対する同情となった。

 「請う、さらに進みてこの感情の関するところいかに深きやを察せん」 支那:北清事変以後の日本、戦時多大な犠牲をもって満州を保存したにも関わらず、実に支那こそ満州に於ける日本の横暴侵略を世に訴え、世は支那の言を容れてこれに同情し日本を擯斥(ひんせき)する。清韓に住する欧米人は日本の私曲(しきょく:よこしまで不正のな態度)を鳴らし、あらゆる手段を尽くして日本を不利の地位に陥れんとしつつ見える。英国:日英同盟は英国に利があるが、英人は日英同盟を戦後喜ばなくなり、これは満州および支那における競争に非を募らせている。またインド人の不穏な動きも、日本人の下心からでもないが、日本勝利の結果と支持を落とす結果となっている。満期以後日英同盟が継続するべきでないとの有力な主張が出てきた。米国:古来日本と親善の関係を有した米国の人士が日本に多大の同情を表したのは、日本の公言が支那主権および門戸開放を主張する堂々たる正義の声に依ったことが、幾千の人に触れて得たところだが、日本の背信と私曲とをもって東洋に雄視すれば、列国の公平競争が妨害され、他日東洋の正義を擁護し列国競争の公平を主張するのは米国となり、これがためにあるいは日本と刃を交えることを憂う識者も少なくない。この種の思想感情に触れつつあり、また幾倍する憂うべき言論を日夜実見している。読者は移民問題の暫時解決あるいは米国艦隊の歓迎等かりそめなる表面の光明に眩暈して、裏面の暗黒を忘れざらんことを要すと、朝河は警告を発する。米国は過去の政策および未来の利害の上より東洋の正当競争をますます固く主張せざるを得ない地位にあり、これがためには、驚くべき深大の国力を傾けて、これを遂行することも辞さない決心を有している。将来は味方として頼むべく、敵として恐るべきことこの上ない。これを敵とするか味方とするか、一に日本の行動がこれを決める。なんとなれば、米国の対清政策は変わることがないから。

 しかるに世の疑いを被れる日本自らは多く弁解の辞を用いず、政府も南満州鉄道会社も単に門戸開放主義を離れてないことを抽象的に宣言するにとどまり、ひそかに日本当局者の心を察するに、満州に関する今日の世論は一時の現象に過ぎず、日本が沈黙していれば自然に消滅する、自ら弁護するとかえって世の注意を促し疑惑を増すとしているのか。外国に在る日本同情者が日本のために弁護しようと欲しても出来ない状況で、天下の人心を偏に誤解曲解の報道にのみ支配されるに至りたるも止むを得ない、と。朝河の嘆息が聞こえてきそうだ。


日本の禍機(災いが生じるきっかけ)

2014年03月29日 | 歴史を尋ねる

 世界に孤立して国運を誤るなかれー日露戦争後の祖国日本の動きを憂え、遠くアメリカからエール大学教授・朝河(あさかわ)貫一が訴えかける、日露戦争終結後3年目の明治41年(1908)「日本の禍機」は日本で発行された。朝河は福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ、明治6年生まれ、明治28年援助を受けてアメリカ・ダートマス大学に入学、明治35年エール大学院を卒業。日露戦争が始まったとき、歴史学徒としてアメリカに在った朝河貫一は、日本擁護のために英語の論文を発表したり、全米で講演を繰り返し、ついには「日露衝突」(The Russo-Japanese Conflict)という英文の著書を書き上げた。日本は自国の存亡を賭けて戦っているだけではなく、同時に清国の主権の尊重及び満州に於ける機会均等という主義・原則のために戦っていることを、直接欧米人に訴えた。しかし曇りなき信念ではなかった。彼の心中には「汝の論は今日のみ善し。しかし明日より世を欺き己を欺く偽善の言とならないか」と。

 戦後朝河の不安が的中した。奉天に伝道師として滞在していたイギリス人クリスティーは「日本人は救い主としてではなく、勝利者として来たり、支那人を被征服者として軽侮の念をもって取扱った。日本国民中の最も低級な、最も望ましくない群衆が入ってきた。支那人は引き続き苦しみ、失望は彼らの憤怒をつよからしめた」と、語っている。この状況を朝河はどのように記しているか。冒頭、「余は日本の大事につきて、あえて当路者および国民の深慮を請わんと欲す。人生最大の難事は周囲の境遇と一時の感情および利害とを離れて考えかつ行うにあり。・・・世論は霊妙不可思議の圧力あるゆえに、思想行為を束縛されざるものは賢者といえども稀なり。史上の国民が、危機に際して己に克ちて将来の国是を定むるが出来ず、窮地に陥りたる恐るべき幾多の実例あり。実に吾人の胆(きも)をさむからしむ。」 歴史学徒とはいえ、先を見通したような書き出しだ。「今や世人が日本国運の隆盛を謳歌するにあたり、余はひそかに思う、日本は一の危機を通過して他の危機に迫りたりと。・・・第二の危機は第一の危機と性質は甚だ相異なれり。戦争は壮烈にして一国の人心を鼓舞振作する力ありしも、今日の問題はすこぶる抽象的なり、はなはだ複雑なり、一見するところ平凡にして人を衝動する力を欠く。これが解決に要するところは超然たる高明の先見と未曾有の堅硬なる自制力とにありて、・・・目前の利害以上を見るの余裕なき大多数の世論に対して、いかんともすることが出来ず、問題の解決はおろか、問題の何たるかを国民に告ぐることすら難しい。・・・今日、日本の要するところは反省力ある愛国心なり。まず明快に国家前進の問題を意識して、次にこれに処するに非常なる猛省をもってするにあらざれば、国情日に月に危かるべし。」 これは日露講和に対して、日本国内では、当初要求の樺太全島割譲を南半分だけにとどめ、また戦費賠償要求を撤回したことなどを弱腰外交だとする国論が起こり、講和反対の集会が各所で開かれ、焼き打ち事件まで起きた。これによって、桂太郎内閣は総辞職に追い込まれた。こうした事件を背景に書いているのだろう。

 朝河は世評、世論に対して、極めて高い評価を持っている。「世界の交通ますます親密なれば世評の我に及ぼす利害も切実なることをひと時も忘れるべからず。且つ公平に観察する時は、世の常に我を監視するは憂うるに足らずかえって喜ぶべきこと也。我は世評に刺激されて彼と対等の地位に進まんと奮発すべし。・・・誤れる世評の中にもまた直接に間接に我を啓発することを多かるべきことは、欧米諸国間の相互の批評練磨を見て知るべし。我日本のごときもまた漸くこの域に達したるものの如し。」 世評から切磋琢磨せよと彼は言っている。


満州問題に関する協議会

2014年03月26日 | 歴史を尋ねる

 ここまで日露戦争終結をきっかけに日本に対する賞賛の裏側で、日本が如何に孤立化していくか、海外の目線で見てきたが、日本の中ではどうであったか、振り返ってみたい。

 関静雄氏は外務省文書を読み取り、日露戦争時の対満基本方針は領土保全と機会均等であったという。1905年(明38)高平駐米公使は小村外相の訓令で、ルーズベルト大統領宛ての申入れ文書で、「日本政府は満州に於ける機会均等を執ることを幾度も明確に声明している・・・・満州に於ける清国領土保全も、露国の不法占有地域を維持されることは論を待たず、」 ここにいう満州の領土保全、機会均等の2原則は日本政府の一貫した対外方針で、日英協約の全文も、日露交渉の目標も、日露戦争の目的もそうであったという。戦前から日露講和に至るまで、日本が英米と共有していた対清国外交の指導原理であり、露国に苦しめられた中国人の歓迎する原理であった。この変化を探るのがhttp://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/d/20140224であった。

 1906年米国は満州に於ける日本の閉鎖的行動に対して、日本政府に猛省を促してきた。「露国が当該地方に対して国家的独占を行って失敗したのに、日本もまた同様に排他的利益の扶植は痛切なる失望である」 同月英国大使も本国政府の抗議を西園寺首相の伝えただけでなく、伊藤統監府統監にも密書を送り、日本に対する不満を訴えた。「目下英米貿易会社が殆ど公言する所は、日本の軍官憲は軍事的行動により外国貿易の拘束を加え、ロシアの時に比して一層閉鎖的である・・・・このような日本政府の閉鎖政策は、これまで同情して戦費を供給した英米等を疎隔する自殺的政略だと評して、伊藤統監に注意を促した。伊藤はこの抗議に憂慮を深めていた。第一に軍部が言うように露国による対日報復戦が起こるとするなら、これまでの協力を得られず、開戦の場合非常な損害を被る。第二に戦後の厳しい財政状態を憂慮した。莫大な外債を募りながら賠償金が取れなかった。従って財政的に対英米依存度を深めていた。戦前には日英同盟より対露協調を説いていたが、戦後には目先の小益にとらわれず英米との協調を唱える論者に変身した。更に伊藤の憂慮は対中関係にも及んでいた。「清人の不満を買わない様努めるのは日本にとって最も適当なる方策である、・・・・満州に於いても清国人の満足する方針をとるべき」と。この急変を、伊藤博文は誰よりも深く心配し、西園寺首相に「満州問題に関する協議会」の開催を要請した。かくて1906年5月会議が開かれた。出席者の面々はアーカイブスでご覧願いたい。http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B03030227200?TYPE=jpeg

 席上統監伊藤は、戦争中の公約に反して満州で閉鎖主義を続けるなら、日本は英米からも清国からも信頼を失う。門戸開放による対英米協調と日清の信頼こそ日本の利益にかなうと開陳した。出席者は概ね伊藤に賛成であったが、矢面に立たされた陸軍の児玉参謀総長は、満州経営の上から見れば、将来種々の問題が発生するだろう、一切を指導する官衙を新たに作ったらどうかと述べると、伊藤の逆鱗に触れ、次の様に述べた。「児玉参謀総長は満州に於ける日本の地位を根本的に誤解している。満州に於ける日本の権利は講和条約に依って露国から譲り受けたもの以外に何もない。満州経営という言葉は戦時中から我が国の人が口にしていた所で、今日では官吏や商人もしきりに満州経営を説くが、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行われる道理は無いし、従って拓務省のようなものを新設して事務を取扱う必要もない。満州行政の責任はこれを清国に負担させねばならない」 伊藤はここまで明確に言っていたのか、おどろくばかりだ。協議会の論争は形の上では伊藤の提案に沿った決着となったが、実際の行動は児玉参謀の考えに近い外交政策となった。当時如何に国際的視野に立った政治家がいなかったか、単に軍部、山県有朋のせいばかりではないだろう。そして伊藤の正確な人間像が日本で理解されていないことが、安重根英雄説を生み出す要因でもあるのだろう。


清国の対日接近と目覚めた民族意識

2014年03月17日 | 歴史を尋ねる

 1905年8月日露戦争終結とほぼ同時に、国父・孫文は「興中会」を中心に同志を糾合して「中国革命同盟会」を東京に発足させた。甲午(日清)戦争のとき、ハワイに生まれた初の革命組織「興中会」は、日露戦争という国際的激動を経て、さらに一段と変貌した。一方、清朝は1898年わずか103日の維新に終わった戊戌変法を一部再び「新政運動」として行おうとした。中国国内における国政改革の声は日増しに高まり、西太后も改革を認めざるを得なかった。1908年清朝は自ら憲政の大綱を発表、9年以内に憲政を施行することを明らかにした。その憲法は、まったく日本の憲法の翻訳版といえるものであった。清朝は憲法を決めるにあたり、日本を担当した載沢(皇族)が、伊藤博文から日本の天皇の大権のことを聞いて感銘を受け、それをそのまま中国に持ち込んだものであった。このように清朝は日本を見習おうとした。日本から学ぶのが手近であったが、一つは国家体制が似ていた、維新前の日本の制度は中国にならうところが多かったが、維新によってたちまち世界の強国になった。その過程が大いに参考に足るものと考えられた。もう一つは言葉の問題であった。西欧諸国にくらべ、同じ漢字を使う日本語は、文法の手ほどきを受ければ、曲がりなりにも読むことができた。一衣帯水を隔てただけの日本は、留学するにも視察するにも都合のいい位置にあった。

 かって戊戌変法に失敗した康有為は、日本の書籍を集めて「書目志」をまとめたが、その序文で「泰西の諸学の書は、すでに日本人によって翻訳されている。我々は日本人の成し遂げた結果を利用すればよい。すなわち、泰西を牛となし、日本人を農夫となし、彼らの耕したところを、我々は座して食べればよい」と。やがて日本の書籍の翻訳熱は高まる一方で、学校の教科書まで日本の転訳本が使われるほどであった。ヨーロッパの学術用語も、日本語の訳語がそのまま使われた。哲学(中国訳語:智学)、経済学(:資生学)、社会学(:群学)などは、日本から伝わって、そのまま定着した。特に軍事方面では、軍事論文はもちろん、軍事教程なども日本から導入された。1929年、国民政府が中国を統一した際に定めた「陸軍典範令」は日本の複製品が用いられた。こうした風潮で、日本への留学生は急増した。科挙制度が改められ、帰国留学生には、試験で進士、挙人の資格を与え、立身出世の道も開かれた。このため多い時には十万人を超える留学生が日本にいたという。米国もこの時期賠償金の半分を留学生招致にあてて、文化交流に乗り出した。このため一般学術分野は、次第に米国の影響が強まったが、軍事方面では、圧倒的に日本であった。

 日本の中国に対する経済進出は、日露戦争後急速に伸びた。中国からは大豆、ゴマ、綿花などの農産物、石炭、鉄鉱石などを輸出し、日本からは綿製品、小麦粉、砂糖などの輸入が主だった。砂糖は台湾に産出するもので、大豆は東北三省の特産品で、日本はそれをヨーロッパ市場まで売りさばいていた。中国における日本の投資も増加した。原料と安い労働力の入手しやすい紡績業の進出が著しかった。特に上海地区では全紡績工場の2/3を占め、6万人以上の労働者がいたが、低賃金と長時間労働で酷使された。日本の商社が中国に根を張ったのもこの時期で、三井物産、大倉洋行、三菱合資などが、大陸に積極的に進出した。このほか横浜正金銀行、台湾銀行なども進出し、なかでも横浜正金銀行は紙幣を発行して東北三省に流通、三省の金融はほとんど独占する所となった。このように条約上の特権を利用し、清朝の官僚勢力と結託し、中国の広大な市場を操縦して、中国から利益を奪った。このような経済的独占に対して、中国の民衆の間には、民族主義的自覚に裏打ちされた、日貨排斥運動が芽生えていった、と。

 


大陸侵略を意図する満鉄設立

2014年03月16日 | 歴史を尋ねる

 満州から敗戦後引き揚げてきた人にとって、満州での大きな象徴は赤い夕日と一万二千キロも伸びる鉄路だ。南満州鉄道株式会社、通称満鉄の存在はさまざまな貌で人々の中に生きていたと草柳大蔵の実録満鉄調査部は語る。日本に帰って不思議に思ったのは、祖国日本の生活装置の劣悪さであった。満鉄の附属病院にゆくと、給湯装置は完備しているし、医療器具も自動化された滅菌装置のトンネルからベルトで流れてきた、という。当時満鉄本社には600台のタイプライターが唸りをあげ、電話はダイヤル即時通話であり、大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理され、特急あじあ号は営業速度130キロをマークしていた。しかも冷暖房付である。ロシア語の2級ライセンスを持つ者4500人、中国語や英語を話せないものはほとんど皆無であった。この満鉄が日本の植民地経営機関であったことは言うまでもない。1906年(明治39年)、資本金二億円をもって創立、翌40年4月1日営業を開始を開始した。2億円のうち1億円は日本政府の出資、他の1億円を清国政府および応募した民間人。事業のはじめは鉄道と炭鉱の経営である。ポーツマス条約でロシアが敷設した東清鉄道の南部分を引き継ぎ、炭鉱の経営権を持った。さらに鉄道付属地として、鉄道線路の周辺に一般行政権を認められた地域を保有し、10キロメートルにつき15人の駐兵権を有した。それから40年の間、満鉄は70の関連会社・傍系機関を擁し、満州で生活する人にとって、赤い夕日とともに不滅の殿堂であった。経営の根幹であると同時に、医療・教育・娯楽・スポーツも供給してくれる小国家であったと草柳はいう。

 歴史的事実を追うと、1905年9月、遼陽に関東総督府(総督・大島義昌陸軍大将)を設置、南満一帯を軍政下において、独占的な支配体制を確立した。軍政の目的は、列強諸国の南満への影響力を断ち切ろうとするところにあり、日本以外の国には、関税、運輸、通信などあらゆる面で差別的制限を加えた。これに対し、米国、英国などは、かねてから主張していた門戸開放主義、通商の機会均等主義を理由に、日本の軍政継続に抗議、また清国も機会あるごとに、日本の態度を改めるよう勧告していた。日本もさすがに国際的圧力に屈して、1906年8月、総督府を改め、関東都督府とし、民政に移管。東北三省の行政も清国の手に移され、清国はこれまでの吉林、黒竜江、奉天の三将軍制を改め、東三省総督をおくことになり、徐世昌を総督、唐紹儀を奉天巡撫に任命した。しかし、日本の民政移管はあくまでも表面上だけのものであって、占領期間中に充分な配備を終わった日本軍の支配力はゆるがず、その後も鉄道改築、鉄道保護などを理由に駐屯兵をふやし、南満の鉄道沿線は、日本の租借地と化した。民政移管前に、日本は勅令をもって南満州鉄道株式会社を設立、満鉄は単に鉄道の経営だけでなく、東北三省侵略の大本営の役割を備えた、日本帝国主義の国策会社であったと、蒋介石秘録は言う。ちなみにこの秘録(伝記)は、蒋介石前総統の生前の記述、回想、中華民国政府公文書、外交文書、および中国国民党の公式記録に準拠したものであり、サンケイ新聞編集者が編纂したものである。

 日英関係はどうなったか。日露戦争講和の直前、第二回日英同盟に調印した。これは中国と韓国における日本の特殊権利とインドにおける英国のそれとを承認しあったものであった。しかし、英国はやがて、東北三省を独占する日本に不満を持ち、米国と1911年仲裁条約を結んだ。そして第三回日英同盟を結び直し、英国は仲裁条約締結国(米国)とは交戦義務がないことを日本に認めさせた。日本と英国との攻守同盟は、米国に関する限り消滅し、英国は米国に接近していった。日本の孤立化が一歩一歩進展している様が読み取れる。


第二次世界大戦に至るアジアの転回点

2014年03月12日 | 歴史を尋ねる

 日露戦争はアジアにおける各国の関係を一変させた。その原点は日本の領土的野心であり、中国の東北三省であった。日露戦争後、日本が東北三省の権益をひとり占めするに及んで、あれほど米国で支援した日本に対し、米国は日本を非難し始めた。すでに取り上げた東北三省における鉄道問題だった。ポーツマツで日露の講和談判中の1905年8月、米国の鉄道王エドワード・ハリマンが世界一周路線の計画をもって日本を訪れ、日本の首相・桂太郎との間に、満鉄買収の予備協定覚書を10月締結した。ところがポーツマスから帰った外相・小村寿太郎は、東北三省に外国資本が競争する原因をつくると反対、この覚書を一方的に取り消した。しかし、米国は鉄道問題を諦めず、奉天総領事ウィラード・ストレートを通じて、東北三省縦断鉄道を計画した。清朝は東北三省を日露に独占させないためにも、第三国による投資を歓迎した。奉天巡撫・唐紹儀は、ストレートと備忘録を作成し、米国から2千万ドルの投資で銀行を設立し、新法鉄道の敷設を、いったん取り決めていた。この計画を知った日本は南満州鉄道の利益を害する行為は断固たる処置をとると清朝に迫り、計画を棚上げにさせた。このため、米国では対日感情が悪化、日本移民排斥問題が起きている。同時に、中・米・独三国が同盟を結成するとか、日米開戦も近いといった噂も流布された。

 1908年、ストレートの手によって、再び鉄道問題がもち上がった。この時も日本の反対によってつぶされた。さらに翌年米国国務長官フィランダー・ノックスから東北三省鉄道中立化計画が提案された。しかしこれも日本が拒否した。日本はかえってロシアと第二次日露密約(攻守同盟)を結んで、日露による東北三省独占支配に乗り出した。加藤陽子氏の日露戦争の分析によると、日露戦争が始まるまえ、日本と米国は同時に清国との通商条約を改定し申し合せて発表したという。その内容は、日本は東北三省における満州部分の門戸開放をやるというシグナルを発しているという。米国があれほど日本を支援したのは満州の門戸開放だった。こうして日本と米国は日露戦争後ヒビが入った。

 中国から見た対日観も厳しい。「日本が中国を侵略した歴史を、私(蒋介石)は今あらためて語ろう。甲午戦争によって、日本は台湾を割取し、琉球を併呑した。それによって、中国の南部は、完全にその支配を受けるようになった。その後、日本は、大陸に向かって発展することを策した。そのためには、まず旅順、大連を占領しなくてはならない。旅順、大連を奪うためには、朝鮮を占領しなくてはならない。そこで日露戦争以後、大連、旅順を奪った上に、勢いに乗じて朝鮮を併呑したのである。その結果、中国は南から北まで、すべて日本の緊密な包囲を受け、華北の門戸である渤海湾もまた、日本の占領、制覇する所となった。これによって、中国には国防というものが全く存在しなくなった。それどころか、日本はその後も、中国が国防のための建設をすることすら許そうとしなかった。日本は、いつでも中国を脅迫し、滅亡させることが出来るようになった。」 


寄り道 東北三省をめぐるロシアと日本とアメリカと

2014年03月11日 | 歴史を尋ねる

 ロシアもまた義和団の乱を極東進出の機会ととらえた。1900年、奉天省で教会焼き打ち事件が起きたことを口実に、鉄道保護を理由として15万人の大軍を動かし、東北三省一帯を占領。義和団の乱が落着し、和議交渉が行われたとき、東北三省は別個の地域的協定を結ぶべきだと居直り、撤兵を拒否し続けた。さすがに国際的非難が起こり、日本、米国、英国、ドイツなどからもロシアに対する抗議が続いた。清国も撤兵交渉を行うが、なかなか折り合えず、漸く撤兵の合意に達した。しかし、実行段階でにわかに態度を変え、担保条件を持ち出して、全東北三省をロシアの保護下におき、他国を占めだして利益を独占しようという意思を露骨に示すものであった。清朝は断然拒絶したが、各国からの抗議にもいっこうに耳を貸さず、こんどは奉天省を撤兵した兵で朝鮮国境に集結、朝鮮領内に兵舎をつくって、そこを租借したいと申し入れてきた。さらに太平洋艦隊を旅順に集結、黄海で演習を始め、東北三省の軍事的支配体制を整えた。これは1898年の中露密約(李鴻章・ロバノフ協定)による清朝の「連露制日」策が、ロシアを東北三省に引き入れ、ロシア帝国主義の中国侵略を現実のものにした。このようなロシアの動きを日本もまた危機意識をもって受け止めていた。一つは英国と結び、ロシアを仮想敵国とする日英(攻守)同盟協約の締結、もう一つは対露交渉の切り札「満韓交換論」であった。朝鮮における日本の特殊権益をロシアに認めさせるのと引き換えに東北三省の鉄道に関するロシアの特権を認めようとしたものであった。しかしロシアは日本の朝鮮における利権を認めたものの、東北三省については、日本は関係がないと突っぱねた。日本は露国の満州に於ける地歩が絶対的なものとなり、その余波が朝鮮半島に及び、日本の存立が危殆ならしめることを危惧するに至った。

 1904年(明治37年)日本はロシアに国交断絶を宣言。日露両国は同時に宣戦、二つの帝国主義が中国の領土の中で中国の領土を争って衝突することになった。清朝は局外中立を宣言、中国の民意は日本に同情的であった。義和団の乱を口実に、東北三省に居座り、中国の撤兵要求に対しては逆に無理難題を吹っ掛け、日露戦争が始まると、軍艦をわがもの顔に、中国の港に出入りさせるロシアに対して、中国人の怒りが向けられた。義和団事件発生当初、東北国境の愛琿付近で5千人の大虐殺を行ったのをはじめ、各地で土匪と結んで掠奪をほしいままにした。ロシアに対するいきどおりは、海外の中国人にもひろがり、日本滞在中の中国人留学生が、義勇軍を編成したり、各地の華僑から清廷に対しロシア宣戦要請電や献金が寄せられた。

 米国もまたアジアを目指していた。米国は中国に関し「門戸開放」「機会均等」主義をもってのぞみ、一国による独占的支配に終始反対の立場をとっていた。日露戦争中は、米国国内世論もまた、日本に同情を示した。戦争中、日本の戦費15億円のほとんどを外国国債に求めたが、米国市場ではきわめて人気があり、勝利の報が伝わるたびに、値を上げた。日露講和の調停は、米国の第26代大統領セオドア・ルーズベルトが提唱し、米国ポーツマスで日露会談が行われた。


寄り道 中国を食い物にする列強と義和団の乱

2014年03月07日 | 歴史を尋ねる

 阿片戦争後の南京条約から馬関条約以前を列強の中国侵略の第一期とすれば、馬関以後から八国連軍(義和団の乱)までは第二期にあたるという。馬関以後、列強の侵略方式は一変し、それまでの利権追求(領事裁判権、関税協定権、内河航行権など)から、さらに一歩を進めて、租界、鉄道借款、勢力範囲の設定など、領土分割を目指すようになった。勢力範囲とは、ある国が清国に、特定の地域を指定して、他国に譲渡してはならないことを保障させるもので、領土分割の準備段階と云えるものであった。この時期を蒋介石著「中国の命運」は次のように語っている。「列強は日寇(日本)が中国をしいたげている機に乗じて、中国の領土を租借地として競取し、勢力範囲を分画し、兵営をたて、軍港を建設し、鉄道建設権、鉱山採掘権を取得した。琉球、香港、台湾、澎湖、安南、ビルマ、朝鮮の淪落・滅亡は目のあたりにあり、全領土分割の大禍が迫っていた。恥をそそぎ、強をはかる運動は、中国国民の間に奮然と起こった。人々はようやく中国の衰微の原因を知り始めた。それは銃や船が西洋に及ばないためではなく、政治の積年の腐敗にある。ならばどのように政治を改革すればよいか。人によって、その解答は異なっていた。国父孫文だけが、時代と民族の要求に順応して、革命を主張した。興中会をホノルルに組織し、満州人を駆逐し、中華を回復し(民族主義)、民国を建立し(民権主義)、地権を平均する(民生主義)のスローガンをかかげ、三民主義を最高原則として、革命を積極的に推し進めた」

 1898年、光緒帝が康有為を登用し、変法の詔勅を発して、国政改革に着手した。戊戌の政変である。しかし清廷は西太后をはじめとする保守派に実権を握られており、これらの反撃にあって、わずか百三日で崩壊し、光緒帝は幽閉され、康有為は伊藤博文の助けで日本に亡命した。康有為は日本において保皇党の組織の拡充をはかった。しかしあくまでも清朝維護、君主制の範疇から脱しきれず、孫文の革命運動とは対立するものであった。続いて起こったのが義和団の乱であった。清国はこの義和団に肩入れした結果、八国連軍を招き、辛丑条約(北京議定書)という、より一層の国辱的な事態を招くこととなった。この辛丑条約以後、日本を含む列強諸国は、中国を舞台に対峙した。

 清国は1858年の天津条約によって、中国国内でのキリスト教伝道を認めた。しかしキリスト教を邪教とみる国民は多く、各地で教会を焼き打ちするような事件が散発し、なかには、教会は子供を誘拐し、目と心臓をくり抜いて薬品をつくり、骨髄から油を搾るといった噂まで流されるほどであった。義和団は元の時代から伝わる白蓮教の流れをくむ宗教結社。彼らは「扶清滅洋」の旗印を掲げ、キリスト教を仇敵として、山東省に乱を起こした。清朝は一時鎮圧を試みたが、やがて北京まで広がり西太后まで説得されて、義和団を支持するようになった。やがて西欧人に対し、暴虐の限りを尽くし始めた。各国公使は清朝に鎮圧を要求するが容れられず、英、仏、露、米、伊、日の六か国の兵が北京に入った。しかし公使館と駐留軍は孤立状態になり、連合国により救援部隊を出発させ、本格的な実力行使に突入、清朝は各国に宣戦布告、この機会に大規模な出兵を行い、清朝並びに各国に対する発言権の拡大をはかろうとした日本は、英国に意向を打診、この時は断られるが、戦況の悪化でついに日本に派兵を懇請。二か月の戦闘ののち、西太后は西安に逃げて和を乞う。蒋介石はいう。「義和団事件は中国にとって、甲午(日清)戦争に次ぐ国辱であった。外国人すべてを仇視し、中国人に国際的な知識のないことを余すことなく示し、外国の軽侮と欺侮を招いた。」 辛丑条約による賠償金は巨額に達し、国家財政を苦しめ、人民の生活を極貧に陥れた。


寄り道 三国干渉と台湾

2014年03月05日 | 歴史を尋ねる

 ロシアは朝鮮半島北部に進出し、東北三省に足場を築いていた。極東に不凍港を求めるのがロシアの国策であり、遼東半島の旅順、大連は最も欲しい港だった。李鴻章は伊藤博文から正式に割譲要求が出されると、ただちに清の外務省に打電し、ロシア公使カッシーニに日本の要求を知らせた。ロシアはその報に接すると、直ちに列強諸国に呼びかけ、共同で日本に圧力をかけて、遼東半島割譲を諦めさせようとした。この呼びかけに英国と米国は冷淡であった。フランスはロシアの同盟国という立場から賛同。ドイツは中国に勢力の及ぶところがなく、願ってもない機会だと、これに加わった。日本は御前会議で①要求を拒否して三国と戦う、②列強会議を開いて、国際的な場で遼東問題を解決する。③遼東を返還し、清国に恩恵を示すの三案をはかり、いったんは二案を採った。しかし日本の精鋭部隊は陸軍が遼東に、海軍が澎湖に派遣され、本土防衛は空白に近かった。病床にいた陸奥は二案に反対し、三案が採られた。日本は三国の提案を受け入れ、中国に遼東半島を返還するにあたって、再び中国を威嚇し、代償としてさらに三千万両を追加した。列強三国の干渉も、結局中国のためというよりも、自国の利益のために行われた。間もなく三国は、中国に対し、日本に遼東半島を返還させた酬労費(お礼)として、ロシアには大連と旅順、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、英国は威海衛、九龍の租借を要求した。この三国干渉は、かえって国際的な中国瓜分(分割)の動きを激化させた。

三国干渉の結果は、朝鮮にも及ぼした。三国干渉に屈した日本をみて、朝鮮の閔氏一族はロシアに接近、クーデターを起こして政府部内から親日派を除き、親露派を登用した。これに対し日本公使三浦梧楼の策謀で、日本人二十数人と親日派が大院君を擁して再クーデターを起こし、閔妃を殺害した。しかし、この事件はかえって朝鮮の民衆の反日感情をあおり、親日政権はたちまちくつがえされ、日本はロシア軍の朝鮮駐在権を認めた。朝鮮に限らず、中国内でもこの時期「連露制日」の動きが起こっている。いわゆる中露密約(李鴻章・ロバノフ協定)がそれで、中国は日本を牽制するため、ロシアの勢力が東北地方に入ることを許した。日清戦争における日本の勝利は、ロシアを極東へ進出させる契機ともなり、日露戦争という次の国際緊張の遠因をつくったとサンケイ新聞の注釈は解説する。さらに付け加えると、この時点での日本の極東アジアの国際関係では、すでに随分孤立化しているように見えるし、どこの国と仲良くするのか、連携をとるのかといった視点が見えてこない。本来味方にしなくてはならない、朝鮮、中国との配慮がやはり欠けていたとの反省が浮かんでくる。当時の日本がやはりつま先立ちして、欲張りすぎている、戦争の収め方に敵を作りすぎている(戦争の目的以上のものを奪取しようとしている)のが、惜しまれる。

 蒋介石は台湾、澎湖についてもその考えを披露している。中国人の祖先が台湾を発見し、以来営々と開発の努力を進めた。原始の地に文明をもたらし、村を城市へと発展させたのも、すべて中華民族の血と汗の成果である。明代末期、台湾がオランダに占領されたとき、鄭成功はオランダを駆逐して、光復した。この時期大陸の志士、仁人は海を渡って、漢民族による明国を再興するために奮闘した。これによって台湾の経済、文化は中国本土に負けぬほど発展し、民族の大義と祖国への感情も民心に深く根を下ろすこととなった。ところが清代の末期になって、台湾はまず仏軍に侵され(清仏戦争)、ついに日本に割取されるところとなった。日本への割譲を知らされた台湾では、憤激した住民が役所に押しかけ、廃約を要求した。この民情を北京に知らしたが、清国は答えず、援軍の請求も無視され、批准書交換後、台湾駐在の責任者を解職し、総引き揚げを命令された。ついに台湾では抗日以外に方法がなくなり、義勇軍を編成し、日本軍と闘った。この戦闘で日本の死傷者5千余、病兵2万7千余という大きな犠牲を払った(日本側の資料では死傷者7百余、病兵2万とされている。特にマラリアによる風土病に侵されたのが理由)。

 日本が大きな犠牲を払ってまで台湾を掌中に収めようとしたのは軍事上の理由にあった。台湾はこの後の日本の南進作戦の重要な布石となった。台湾は中国大陸にとって、東方に開かれた唯一の門戸であり、本土の東海岸と南洋諸島との中間という重要地点を占める。東南アジア一帯の島々の中で、気候は最もよく、物産も豊富である。帝国主義者たちは、中国本土を蚕食し、西大西洋を制するために、まず台湾の土地を奪い、台湾の同胞を奴役した。日本に掠取された台湾は、その後大陸をうかがう基地となり、南進を目指す踏板となった。台湾の同胞の膏血と自然資源は、日本軍閥のとなえる、大東亜共栄圏の犠牲に供せられたと蒋介石は結んでいる。中国大陸から見た台湾の地政学的重要性をこのように語っている。今も尚、日米と中国との間には同様の問題が横たわっていることを知っておくことも重要である。


寄り道 甲午戦争と馬関条約

2014年03月02日 | 歴史を尋ねる

 舞台は朝鮮。当時の日中間にとってトラブルの源泉であった。甲午(日清)戦争を引き起こしたのも、原因は朝鮮問題だった(さすがに蒋介石も当時シュタインの主権線、利益線による日本の国防論議までは承知でなかったようだ)。甲午戦争のきっかけとなったのは朝鮮の東学党の乱であった。この反乱に対し朝鮮政府当局の措置は極めて残酷なもので、暴動に参加した者は、本人を斬首するだけでなく、家族をも殺し、家を焼き払った。為に東学党と農民の反乱はかえって激化した。暴動は各地に広がり、自力では制圧できないとみた朝鮮国王は已むなく清国に援軍を求めた。日本にとっては、思う壺であった。清軍の朝鮮派遣の通告を受けた日本は、それを口実に、みずからも、朝鮮に出兵した。真相を言えば、日本はこの口実を得るために、当初からカゲにまわって東学党を助け、事態を悪化するための謀略を続けていた。内田良平ら(いわゆる大陸浪人)は日本陸軍参謀本部次長・川上操六の密命を受けて、東学党と接触、反乱をそそのかし続けた。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BD%91%E4%BE%A0) 朝鮮政府軍が全州南山で東学党を破り、和議が成立するはこびとなったとき、天祐侠団の日本浪人は、政府軍の立てた使者を斬殺した。このため両軍はかえって憤激し、はげしい戦闘が再開された。日本にとっては、事態の紛糾することこそ、のぞむところであった、と蒋介石はいう。うーむ、日本側の史書にはあまり触れられていない事柄だ。サンケイ新聞の注では、天祐侠は平岡浩太郎と川上操六との間の「清国、討つべし」の暗黙の了解により、14人の志士で結成されたとある。

 天津条約に従い、清国は日本政府に「朝鮮の請求により中国は出兵する。これは中国の保護属邦に対する慣例による出兵であり、反乱をおさめ、属邦を安んじるためである。」と通知し、同時に「反乱平定後は直ちに撤退する」と声明した。日本政府は翌日「朝鮮が属邦であることは承認できない。日本もまた出兵する。」と通知してきた。出兵通知は単なる手続きで、日本は5日前にすでに常備艦隊を仁川、釜山に集結させていた。清国の通告に接する前日には、早くも大本営を発足させて動員体制を整えていた。清国と朝鮮は東学党の乱を制したあと、日本に撤兵を要求したが、そうしたあとも、日本軍の兵員の輸送は続いた。日本は突然、両国が共同して朝鮮の内政改革を提案してきたが、清国はこれを退けると、日本軍は朝鮮王宮を包囲し、朝鮮の守備隊を追い払うという強硬手段に出た。そして内政改革案を国王に提出した。しかし国王は清国と同様に日本軍の撤兵が先決だと回答した。日本はついに「清軍の国外駆逐、清漢条約の廃棄」の最後要求を提示し、清軍との武力対決の姿勢を明らかにした。以下の戦闘行為は省略する。宣戦と同時に日本の政府と人民が一致協力しているのに比べ、清廷内は主戦派と和平派に分裂した。和平派は李鴻章のほか少数派であったが、西太后の消極的な指示で、ひそかにロシア、英国と連絡し、和議のあっせんを取り付けようとしたが、ロシアは日清間の紛争を極東進出の好機としていた。西太后は和平派の恭親王を総理に起用して6か国に調停を依頼し、講和の糸口を開いたのは米国だった。

 講和談判は馬関(下関)・春帆楼で開始された。日本側は首相伊藤博文、外相陸奥宗光を全権としたが、清国は大蔵次官張蔭桓、湖南省長邵友濂の二人が代表して現れた。日本側は清国の全権の有無の回答を求め、一切の談判を拒否した。そして恭親王または李鴻章の来日を要求した。しかし蒋介石は別の陰謀があったと言っている。詳細は不明だが、そのあとの軍事行動を見る限り、兵を台湾方面へ送るこために時間稼ぎをしたと、蒋介石は考える。この時、日本は山東に上陸、威海衛に迫っていたし、この上台湾、澎湖といった広大な地域にまで手を広げ、清国に過酷な条件を押し付けようとしていた、と。さらに蒋介石は次のようにいう。伊藤博文の主張は終始脅迫的であり、侮辱的であった。中国側の言い分を一切聞こうとせず、ついには李鴻章がなぜこのように清国を苦しめるのかという問いに対し、すべて清国の責任であるから、致し方なかろうと言い放ったという。こうして中国の汚点を残す馬関条約は調印された。


寄り道 日中の禍福をわけた理由

2014年03月01日 | 歴史を尋ねる

 手元に何気なくとったサンケイ新聞社刊「蒋介石秘録」がある。昭和49年からサンケイ新聞で連載された、日中関係80年の証言を綴ったもので、当時国際的にも大きな反響呼んだ。このシリーズは、中華民国の公式記録にもとづいている。資料のなかにははじめて公開される極秘文書の少なくなかったそうだ。日中関係史の真実が浮き彫りにされ、日中友好のほんとの意味を考えて頂きたいと巻頭言は言っている。中国の洋務運動と明治維新について蒋介石は次のように分析している。

 日中両国の西洋化、富国強兵の出発時期はだいたい同じで経過もよく似ていた。それでありながら日本は一躍アジアにおける唯一の強国となり、中国は列強の分割の災禍に見舞われたのは何故か。一つは両国の指導者の考え方の差があった。伊藤博文は各国の軍政を視察した後、内閣を組織し、憲政を実行に移し、軍政を確立した。清の李鴻章も洋務担当として海外を視察している。伊藤の着眼したのは、政治・憲法・経済・社会的組織・軍事的制度・科学的精神とその方法といった建国建軍の遠大な計画にかかわることである。従って維新の基礎はすこぶる深厚なものとなった。これに反し李鴻章は西洋諸国をただ「大砲の威力、小銃弾の精巧さ、機械の優秀さ、隊伍のきちんとしたさままですぐれており、中国人の及ばざるところだ」としか見ていなかった。立国建国の大政方針と学術文化の根本計画、なかでも科学的な基本精神については、まったく無関心であった。彼が担当した洋務は、西洋から顧問を呼んで西洋式銃術の訓練をしたほかは、関税をとり、機械製造局、造船廠、海運局、鉱山局を作っただけであった。つまり船をつくり、大砲をつくることであった。その結果、日清戦争の黄海海戦で完敗し、陸軍も敗れ、関税自主権も外人の手に落ちた。この問題とは別に、歴史的視点に立って回顧すれば、両国のおかれた状況の差、精神面の差に帰着する、と言って彼は三つの要素を挙げている。

 ①日本民族は単一民族で挙国一致の体制が取りやすかったこと:江戸末期攘夷派と開国派との争いがあったが、それは見解の相違・手段の相違でしかなく、その目的が国家の再興と富強を求める点にあることは、少しも変わりはなかった。これに比べ、中国の状況は民族間のいがみ合いという難しい問題があった。当時満民族と漢民族の間には、極めて厳しい差別があり、満人は漢人を「わが族類にあらず」の奴隷として排斥し、忌み嫌い、身分の低いものとみていた。光緒帝だけが漢人を重視し、漢人も喜んだが、西太后の掣肘を受けて、傀儡と同じであった。明治天皇と比べようがない。孫文が言われたように、天下を漢人の手に渡ることをおそれるのあまり、「明友に送っても、むしろ家奴には与えず」と主張して、中国の領土・主権を、すべて外国にあたえた、と。清朝の政治家・徐桐は「たとえ国が滅んでも、変法すべからず」と公言してはばからなかった。変法は漢人の利、満人の害といった流言が流され、光緒帝でさえも「中国の礼法を破壊し、満人の権勢を危うくするもの」と言われた。 ②日本の維新は科学的精神に基づき、一貫した計画によって行われたこと:日本は当初より、政治、経済、財政、軍事、交通、科学の発展など、全般的に整った計画があり、それに基づいて、終始一貫、着実に実施された。この徹底した精神が欠けていた。中国を見ると、維新格知(物事を改め知識を極める)の途が、お茶を濁されたり、改革のように見えて、実際は半新半旧、不新不旧のうわべだけの改革であり、根本的な全体を見通した計画、はっきりした目標がなかった。 ③日本は欧米を手本にしながらその援助を乞わず、自立求新の精神を堅持したこと:清朝は独立自主の精神と意識がいささかもなかった。外国の技術を学べば、自己の伝統的長所を放棄し、外国の観念に接すれば自己の立国精神を忘れた。何もかも外国人に依頼することばかり考えていた。外交政策も戦国策にあるような権謀術数をもてあそび所があった。日本人はいささかも疑わず、惑わず、怠らなかった。

 以上のように清朝時代の反省が書かれているが、その後の日本との対峙の仕方には厳しい目が注がれる。