大地に刻んできた歴史 4

2012年09月28日 | 歴史を尋ねる

 農の城塞   (丸山千枚田  三重県紀和町)

 三重・奈良・和歌山三県が接する大峰山脈南部、熊野川の曲折から東に5キロほどの熊野山地に丸山千枚田はある。近くに「瀞八丁」の景勝もあり、熊野古道伊勢路の参詣巡礼者の賑わいもある。ここ紀和町丸山地区は、海抜700mを越える白倉山を背にして、南西斜面にひらけた山村で、集落と田は見晴らしがよく、日の出から日没まで棚田は常に太陽の恵みを受ける。現在1400枚ほどの棚田があり、千枚田の名にふさわしい景観がひらけている。丸山千枚田がいつの時代に造成されたか不明らしいが、慶長6年(1601)には2200枚の棚田があったと記録されているそうだ。明治31年(1898)には2483枚の棚田があり、当時丸山の人は山地を共有の草刈場と山林に分け、棚田を見下ろす高所には集落や畑、寺などを配して特有の景観を形づくってきた。近年、減反政策や過酷な労働条件、高齢化によって一時550枚ほどに減少したが、条例を作った行政と保存会とによって850枚が復旧された。斜面を刻む棚田は石組みづくりの畦垣で仕切られたものが多く、それぞれの地形に応じて曲線を描く雛壇造成の連なりは、平地の水田地帯には見られない見事な大地への刻みである。千枚田の命脈の水は、東側を流れる丸山川から4ヶ所の井堰で取水し、また井戸、湧き井戸、溜池などの水源も利用して、用水路や樋を通じて棚田を上の田から次の田へと順繰りにめぐりながら、効率的に利用されている。ここの棚田の特徴は、棚田石垣の圧倒的な数であるが、確実な資料はないが、戦国時代の築城に際して石垣の構築で名をはせた「穴太(あのう)衆」についながるのではないかと著書は言っている。戦乱の世から平和な江戸時代に移り、石組み技術は棚田石垣、堤防、護岸、港湾、さらには民家の土台石垣、九州では眼鏡橋の構築まで石造技術が活かされた、と。

 古代・中世の残影  (条里制遺構・環濠集落  奈良盆地)

 奈良盆地一帯は、碁盤の目のように区画された圃場(ほじょう)の中を、東西・南北に通じる道沿いに、高壁に囲まれた屋根瓦と白壁塗りの家々が立ち並ぶ集落が散在する農村景観がどこまでもひらけている。古代大和政権が行なった条里制の名残りであり、現在でもその歴史的遺産が大地に刻まれている。条里制の起源は研究者の間で確定していない。一般的には大化の改新(646)による班田収受制の開始とされたが、斑鳩地区の発掘調査では7世紀前半にすでにあったことが判明している。条里制とは古代日本で行なわれた耕地の地割制度で、全国各地の平野部で実施された。とくに機内、北九州、瀬戸内、近江から東に至る濃尾平野、福井平野に讃岐平野などで発達し東北、関東、山陰、南九州で部分的に行なわれた。条里制地割りにより、田を農民に与えて耕作させる班田制は古代律令制度の基礎をなしたが、時代が変わっても条里制の土地区画や土地表示はそのまま残り、奈良盆地には当時の名残を留める長矩形の水田景観が随所に見られる。

 また奈良盆地は環濠集落の多いことで知られ、かつて盆地内には180ヵ所の環濠集落があったと報告されている。環濠集落は奈良盆地に限らず、近畿地方の5府県全域や佐賀県の平野部にも見られ、吉野ヶ里遺構や三内丸山遺跡調査でも濠が確認されている。奈良盆地の環濠の起源は室町期、応仁の乱の頃からで村落の自治の発展と相まって、集落全体を堀や竹薮・堤防などで囲んだとする中世防禦起源説と環濠集落が平野部の河川流域に多く点在することから、排水と洪水防禦集落であったとする説などがある。


大地に刻んできた歴史 3

2012年09月18日 | 歴史を尋ねる

 明治の耕地整理  田区改正(石川県金沢市、富山県朝日町)

 金沢市西端、上安原町一帯は、明治期の田区改正発祥の地として知られている。今から120年ほど前、形状もさまざまで地権が複雑に交錯する狭隘な水田群に、畔と用排水路が雑然と入り乱れる中で、江戸時代以来の非効率な農業が営まれていた。明治20年1月内務省の地方官会議において、桶田魯一の欧米農業視察談で、ルクセンブルグの耕地整理の事例が日本における農事改良の範となることを強調。これに感銘した石川県令高村高俊は、帰庁後郡長会議で農地(田区)改良の実施を要請したが希望者はなく、止むを得ず石川郡立模範農場で実施し成果を得た。この成果をもとに篤農家と知られる高多久兵衛に農地改良の必要性を説得した。久兵衛は従来より用水路改修や畔直しなどを手掛けており、早速村内の地主を説得したが、逆に非難され承服してもらえなかった。意を決した久兵衛は自身が責任を取る4か条を提示し、漸く賛同を得た。その内容は①増歩分は各自の所有分に応じて配分、②事業費は久兵衛が立替、失敗したら自弁。③収穫減少の場合久兵衛弁償、④地権書換は久兵衛の自弁。こうして3月5日着工、6月28日竣工。今に残る田区改正の前・後を比較すると事業の成果ははっきり見てとれる。改正後は牛馬耕が可能な長方形の区画で、それぞれが水路に接している。零細水田が減少し、増歩も得て、その年の反当り収量も増え、地主・小作人から感謝された。この成功は近隣の諸村にも影響を与え、明治32年耕地整理法発布にまでつながった。

 富山県東北端、新潟県に接する朝日町舟川新地区は江戸時代の開墾された新田で、耕地整理前は黒部川の氾濫常襲ちで、7割が排水不良の水田であった。このような現状を憂えた筆頭地主藤井十三郎(23歳)、山崎市次郎(24歳)は明治31年から9年間をかけて耕地整理を計画、推進した。当時としては画期的、先進的なものであった。その内容、①耕地整理:増歩率は36%、用排水は石川方式に倣った。②集落再編:旧来の散居集落を解体して、街村集落を建設。③協業、共同方式の実施:共同苗代、共同田植、共同購入、共同出荷、消防団も組織した。④生活改善:共同浴場と集会所を設け、交流、憩いの場とした。⑤河川改修:少改修のほかに、河川法に基づく事業の実施。時の政府もなし得なかった先見性あふれる農村総合整備のさきがけであった。

 碧海(あおみ)台地を潤す  明治用水(愛知県豊田市、安城市)

 東海道新幹線で三河安城駅付近にさしかかると、窓外に新興の市街地と周辺にひらける水田地帯の景観が現れる。平坦な大地に縦横に通じる農道と水路、整然と区画された圃場(ほじょう)とビニールハウス群などの田園風景は、生産基盤が整備された豊かな農村地帯に見える。この一帯を第二次大戦前までは「日本のデンマーク」と呼ばれていた。かつては米作を中心とする農業を営みながら、大正から昭和にかけて鶏卵、スイカ、ナシなどの生産と組合活動による産品の流通合理化を進めるなどして、この地方の農業を発展させた。しかし120数年前の矢作川西岸一帯の碧海台地は酸性の強い粘土質で水利に乏しく、長い間原野と草刈場、小松原として放置されていた。幕末期の文政10年(1827)代官で酒造業を営む都築弥厚は窮状を救うため用水路開削願を幕府に提出した。天保4年(1833)幕府の許可が下りたが、当地方は小藩や知行地が交錯し、容易に領主の一致が得られず、又村々の利害得失があって地元農民の反対にあった。ようやく始まった開削事業も弥厚の死で挫折した。40年後、弥厚の計画を引き継いだ岡本兵松と同様の計画を提出した伊予田与八郎の案は、愛知県が一つに纏めて用水開削を許可した。地元村々の説得と県の積極的な援助を得て、民営資本による県営工事という官民共同の事業となった。明治12年1月の農閑期に工事が始まり、開削工事は鍬ともっこによる人海戦術で、早朝から夜遅くまでつづけられた。農作業が始まる頃は一旦帰宅し、秋には工事を再開した。こうして明治18年ほぼ現在の用水路を完成させ、明治用水と命名され組合に引き継がれた。そして明治末期には8000ヘクタールの一大穀倉地帯に変貌した。


大地に刻んできた歴史 2

2012年09月15日 | 歴史を尋ねる

 明治新政府の国策事業  安積(あさか)疏水・十六橋水門(福島県郡山市他)

 郡山市は福島県中通りのほぼ中央に位置する人口34万人の大都会であるが、江戸時代末期は安積3万石領下の郡山村として、人口5千人の寒村であった。安積地方は年間雨量が少ない荒涼とした原野で、水利・水源に乏しく、稲作に不適な大地が広漠と広がっていた。明治6年福島県の奨めにより二本松藩士が入植し、地元商業資本開成社が設立され、溜池造りと開墾が進められた。数年後には100ヘクタールの開墾地が出現し、入植者による村が誕生した。明治9年明治天皇の東北御巡幸に先立って郡山を訪れた内務卿大久保利通は、この開墾事業を目の当たりにし、また福島県典事中條政恒の請願に大きな関心を寄せた。当時廃藩置県で失業した士族の相次ぐ反乱と困窮する士族の救済にせまられていたことから、士族の開墾地として安積平野が有望視され、全国の旧藩士500戸を入植させるためにも、郡山西方20キロの猪苗代湖が注目された。猪苗代湖の水は阿賀野川水系を通じて日本海側に流されているが、疏水事業はこの水を奥羽山脈を掘り抜いた墜道で東流させ、安積平野に導水するという、地元や県が熱望した壮大な計画であった。明治12年国直轄のプロジェクトとして農業水利事業第一号地区が着工された。日本海への流量を調節して猪苗代湖の水位を保持する十六橋水門や安積地方に取水する門が建設され、墜道、架樋を含む用水路工事が3年で完成した。安積疏水の全体設計はフランスに留学して土木技術を学んで帰国した内務省勧農局技師、山田寅吉を中心に、彼を補佐する数名の日本技師たちによってなされた。明治31年、水路の落差を利用して3ヶ所で水力発電が行なわれ、安い電気を求めて紡績や化学工業が郡山に興った。安積疏水は地域経済の原動力となって、明治初期の国家プロジェクトは、安積平野に見事に開花した。

 土地改良400年  利根川東遷と新田開発 (埼玉県ほか)

 現在は関東平野の中央を利根川が東流して太平洋に注ぐが、かつては関東造盆地運動により埼玉低地に河川が集中した。原始河川としての旧利根川、旧江戸側、旧荒川、旧入間川をはじめ、支流の小河川を交えて乱流しながら江戸湾(東京湾)に注ぐ氾濫常襲地帯を形成し、茫漠たる不毛の水域がひらけていた。だが、徳川家康の江戸入府にともなう領国経営の一環として、江戸北、東部の地に開発の手が加えられ、広大な氾濫原野は、長い歳月をかけて徐々に変貌をとげた。江戸入府にともない家康は三河以来の譜代家臣で検地に当る伊奈忠治を関東代官頭に任じ、領国の治水事業を命じた。以後初代忠治をはじめ二代忠政、三代忠治の世襲伊奈一族の働きは目覚しく、彼らが活躍した近世初頭に、現在の利根川、荒川及び諸河川の骨格のかなりが造られ、堤内地の新田開発や沼沢地の整備などが徐々に進められた。彼らの工法は後世、関東流あるいは伊奈流と称せられ、甲斐武田の甲州流も取り入れ埼玉一円の河川処理と用水開発の基礎を築いた。江戸中期に入り、徳川吉宗は配下の伊沢為永を起用して、関東流とは違った手法で河川整備、新田開発を進めた。代表例が見沼溜井の干拓と見沼代用水に見ることが出来る。こうして埼玉低地の一部は豊かな穀倉地帯に変わり、大都市近郊農村として江戸の食料供給基地として発展した。また、主要河川と無数の水路網による舟運は、江戸の経済を支える物流の動脈として大きな役割を果した。しかし昭和の末ごろまで、洪水常襲地帯とされた渡良瀬川、利根川合流点一帯から中川、江戸川の低湿地では、洪水時に備えた水塚(みずか)や揚げ舟のある民家が多く見られた。自宅の脇に土盛りした高みに建てた洪水時の避難用建物で、母屋が冠水した時、蓄えた米、味噌で水が引くまで耐え忍び、揚げ舟で冠水地を行き来する。洪水常襲地に共通する暮らしの姿であった。


大地に刻んできた歴史

2012年09月14日 | 歴史を尋ねる

 「多様で豊かな日本農業の解明に向けて」とテーマに掲げて日本の農業史を紐解く「日本農業史」に長塚節の小説「土」に代表される「蛆同様に憐れな百姓の生活」に触れてないわけではない。所謂農村問題は日露戦争後を特徴付けるもののようである。これらは次章に触れることとして、ここでは農業土木遺産を振り返ってみたい。

 日本の農耕は約2300年前の弥生時代に至って稲作に代表される農耕の時代に入ったとされていた。しかし最近の全国各地の遺跡の発掘調査と科学分析の進歩によって、稲作の開始は約6000年前の縄文前期にまでさかのぼるという説が強くなってきた。縄文前・中期は陸稲、縄文後期は水稲が栽培され、弥生時代に入って水稲が本格的に普及したといわれている。この稲に代表される農耕は、土地に対して何らかの人為的な働きかけがあって成り立つものであり、農業土木が生まれてきた。爾来、私たちの先租は数千年に亘って、水田や畑などの農地を拡大し、棚田や段々畑といわれるような田舎のピラミッドを作り上げ、水をコントロールするための様々な工夫や投資を行なってきた。日本列島の各地に、営々と農業土木を積み重ねてきた。農業土木は「大地に刻んできた歴史」であると、土地改良建設協会が出版した「農業土木遺産を訪ねて」のなかで語っている。このような農業土木の遺産は、今や単にその地域の農業の資産に留まらず地域全体の資産であり、ひいては国民全体の資産でもあると記しているが、その通りだと思う。明治期の地租改正で私有財産制になって、土地の公共性が見えなくなったが、土地の公共性の上に立って、歴代の農業土木事業や農業水利施設は形成されてきた。本著書はこの事業の概要を、技術面、人物面を含めて記録したものである。時代に関係なく北から南へと各事業を紹介しているので、興味ある事例を抜き出してみたい。

 奥入瀬川から水を引く(三本木原開拓・稲生川:青森県十和田市他)           

 青森県三沢市と十和田市一帯は今から150年前三本木平と呼ばれた荒涼たる大地で、十和田山の噴火による火山灰土壌の扇状地、 保水力が乏しく樹木も疎らなところで、人の定住を拒んできた。その台地の特徴は、周辺の河川が低地を東流し、特に奥入瀬川の川面より高い台地は最大30メートルに及んで、その水を利用することが出来なかった。南部藩士の新渡戸傳(つとう)は安政2年(1855)、奥入瀬川からの導水工事に着手、勘定奉行で江戸詰めを申し付けられると、嫡子十次郎が指揮をとり、鞍出山穴堰、天狗山穴堰を掘りぬき、4年の歳月をかけて、三本木原への通水を完成、この人工灌漑用水路は翌年、稲生川と命名された。それまで不毛の地であった三本木原は稲生川の通水により徐々に穀倉地帯に変貌した。さらに三本木原開拓の拠点となった定住地に碁盤目状の街割りが実施され、その道路計画が踏襲されて、十和田市の中心街が整備され今日に至っているという。現在日本銀行が発行する5千円紙幣の顔となっている新渡戸稲造は新渡戸十次郎の三男である。               


日本独特の家族と村落

2012年09月05日 | 歴史を尋ねる

 近世社会は世界にも珍しい「家」制度という日本独特の家族制度を生み出したと、日本農業史の著者はいう。この「家」は伝来の家産を基礎に家名・家業を継承していく血縁を主とした集団である。家族形態は、一世代一夫婦がつながった直系家族形態をとる。相続には地位の継承と家産の継承という2側面があるが、「家」制度では両方が一致した長子(長男)単独相続であるのが特徴という。この「家」を基盤に小農経営(家族労働を基本にした経営)が営まれる。同じ地域に同じ「家」がいく世代にもわたって生産・生活するので、地域内の「家」と「家」、あるいは「家」々と農地・原野・山林との間に濃密な社会関係が形成されることになる。これが日本的な「村」となる。日本的な「村」は、生産や生活で村人が常に結び合う地縁的組織となり、個別農家を統合していくような自治的機能をある程度備えていた。日本的な「村」は、他村と区別する村境をもち、この点が、他のアジア諸地域と日本の村落を区別する特徴の一つだという。

 冒頭に日本農業史の著者としているが、もう少し細部に入って、執筆分担を眺めると、近世は平野哲也氏(栃木県立文書館指導主事)、近代は坂根嘉弘氏(広島大学大学院教授)、現代は岩本純明氏(東京農業大学教授)が担当している。現在は、坂根氏の執筆分担箇所を紐解いているわけで、氏に最近「日本伝統社会と経済発展 家と村」という著書を出版している。

 江戸時代以来、日本農業の発展を支えてきたのは、日本的「家」を基盤とする小農経営であった。途上国であった明治期日本で注目すべきは、地租重課に耐ええるだけの小農経営の成熟が見られたことであるという。小農経営が脆弱であれば、負担に耐え切れず、押しつぶされたのに、つぶされなかった足腰の強さはなぜか。それは「家」制度のもとに、相続は長男単独相続であったから、土地財産とともに親の世代までに蓄積されてきた資本や技術・経営知識などが、そのまま次世代に引き継がれることになる。この重要性は、分割相続地帯の農業経営と比べると明らかになるという。アジアでは、鹿児島地方から奄美諸島、沖縄、朝鮮、中国、東南アジア・南アジア諸国へと、すべて分割相続地帯だという。これらの地域では、農業経営は世代ごとに分裂・断絶してしまう。分割相続のために、土地財産は分割され、親世代までに獲得した経営資本や知識・技術は、日本のようにそっくりそのままで継承されることは難しい。「家」制度のもとでは、財産を増やして次世代へ受け渡していこうとする意欲が強いから、土地の価値を増やす土地改良投資にも積極的であった。先租から受け継いだ家業・家名・家産を子々孫々にまで受け渡していくことが重要で、「家」が経済的に傾いたりすることがないよう、との強い意思が醸成され、勤労・勤勉の精神が培われたと、坂根氏はいう。そしてこの小農経営を基盤に成立したのが小作制度(地主小作関係)だと分析する。小作人というと、地主に虐げられる貧しい農家のようなイメージで語られることが多いが、それは一面的だという。小作制度の基盤は、経営的に不安定な貧しい農家ではなく、比較的経営規模の大きい中層農・上層農であったという。当時のデータを比較検証すると自作農も小作農も経営面積、玄米収量、利益、労働日数はほとんど格差がない。この小作農の生産力的な強靭さは、日本農業の特徴でもあった。さらに地主小作関係の拡大を可能にしたのは、農民同士の強い信頼関係であった。日本的「村」社会では村内の農家間に、非常に濃密な社会関係が形成され、農民同士の信頼関係を非常に強いものにした。

 


「村」による土地改革

2012年09月01日 | 歴史を尋ねる

 県から出張してきた地租改正掛(かかり)の官員が村の地主を前に、「官の決定に不服なものはそのまま、異議なきものは低頭せよ」とせまった。明治8年(1875)8月の地租改正人民心得書を契機に本格的な地租改正作業が始まった。その秋から翌年春にかけて地押丈量(一筆ごとの土地面積・境界の確定とその所有者の確認)が行なわれた。地押丈量は改正事業の基礎作業である。村の評価人は測量のやり方を教わり、実地の稽古を行なったあと、本番の丈量に臨んだ。地押丈量が終わると、田畑の収穫高を決める作業に入った。基準になるものは27段階に分けた等級別収穫高、それを村人の投票により一筆ごとに確定していった。その結果を県に提出したのだが、収穫見込額が旧石高に比べて低すぎると、再調査を命じられ、ついには地租改正掛官員が巡回出張して、冒頭の場面となるのであった。このケースは、村の評価人が隣村と申合せの上、等級別収穫高を低くする、という配慮を加えていた。官員に諾否をせまられた村の地主は、皆一斉に低頭した。その村の地価・地租が決まった瞬間だと、「日本農業史」は語る。

 地租改正は、太閤検地以来のもっとも大きな土地制度改革であると共に、画期的な税制改革でもあった。明治の初年、地税(地租改正前までは江戸時代の年貢徴収)は政府通常収入の八割を占めて、地税なしには何も出来ない状態であった。では旧貢租の問題は何か。江戸時代の米納年貢の根本問題は、地域的不統一であった。年貢率が異なり、不公平であった。また、米納がメインであったが畑地までを含めると年貢の種類が多様で複雑だった。また、米納は米価の変動リスクから農民を守る要素を持っていたが、国側からすると、時々の米価によって歳入金額が変動するという、近代的予算制度からは受け入れがたい制度でもあった。こうした課題を解決すべく、①地押丈量による一筆ごとの地価と土地所有者の確定、②土地所有者への地券の発行、③土地所有者から地価の3%の金納地租の徴収。3%は2.5%に減租した。このことで、近代的土地所有権が確定した。一地一主の原則が適用された。この地租改正が世界史的に見ても画期的であったのは、地租改正により農民に近代的土地所有権を認めた点であった。もっとも革新的であったといわれるフランス革命以上に徹底していたという。これにより大資産家は生まれず、全体としてフラットな社会構成となった。経済的活力を生み出しやすい社会になったとの見解もある。

 地租改正における政府の基本方針は、新しい地租総額をできる限り江戸時代の年貢総額と同等にすることであった。ところが先行した改租事業の結果からすると、かなりの減収になる見込が明らかになり、政府は改租のやり方を根本的に変更することになった。それが等級制の導入であった。そして政府の予定額を府県ごとに割り振り、さらに村々に割り振り冒頭の地価の押し付けが生じた。こうして決まった農業部門の直接税負担を見ると、明治23年(1890)でも85%。このことは殖産興業資金は農業部門が負担していることを示している。見方のよれば農業収奪的なものであったともいえる。しかしここで注目しておきたいことは、村人の手で改租作業が行なわれたことである。実際の地押丈量や地価決定の過程では、いろいろな紛争や問題が生じたことは間違いないが、その問題・紛争を村内で解決したことである。官が直接に改租作業をやっていれば解決に相当の時間と混乱が生じたと思われるが、これを、江戸時代以来の「村」に作業を任せた。成熟した「村」社会は、土地をめぐる村人間の問題をうまく処理する術を身につけていた。この「村」の調整機能は、地租改正をスムーズに進めるうえで重要な役割を果した。