農の城塞 (丸山千枚田 三重県紀和町)
三重・奈良・和歌山三県が接する大峰山脈南部、熊野川の曲折から東に5キロほどの熊野山地に丸山千枚田はある。近くに「瀞八丁」の景勝もあり、熊野古道伊勢路の参詣巡礼者の賑わいもある。ここ紀和町丸山地区は、海抜700mを越える白倉山を背にして、南西斜面にひらけた山村で、集落と田は見晴らしがよく、日の出から日没まで棚田は常に太陽の恵みを受ける。現在1400枚ほどの棚田があり、千枚田の名にふさわしい景観がひらけている。丸山千枚田がいつの時代に造成されたか不明らしいが、慶長6年(1601)には2200枚の棚田があったと記録されているそうだ。明治31年(1898)には2483枚の棚田があり、当時丸山の人は山地を共有の草刈場と山林に分け、棚田を見下ろす高所には集落や畑、寺などを配して特有の景観を形づくってきた。近年、減反政策や過酷な労働条件、高齢化によって一時550枚ほどに減少したが、条例を作った行政と保存会とによって850枚が復旧された。斜面を刻む棚田は石組みづくりの畦垣で仕切られたものが多く、それぞれの地形に応じて曲線を描く雛壇造成の連なりは、平地の水田地帯には見られない見事な大地への刻みである。千枚田の命脈の水は、東側を流れる丸山川から4ヶ所の井堰で取水し、また井戸、湧き井戸、溜池などの水源も利用して、用水路や樋を通じて棚田を上の田から次の田へと順繰りにめぐりながら、効率的に利用されている。ここの棚田の特徴は、棚田石垣の圧倒的な数であるが、確実な資料はないが、戦国時代の築城に際して石垣の構築で名をはせた「穴太(あのう)衆」についながるのではないかと著書は言っている。戦乱の世から平和な江戸時代に移り、石組み技術は棚田石垣、堤防、護岸、港湾、さらには民家の土台石垣、九州では眼鏡橋の構築まで石造技術が活かされた、と。
古代・中世の残影 (条里制遺構・環濠集落 奈良盆地)
奈良盆地一帯は、碁盤の目のように区画された圃場(ほじょう)の中を、東西・南北に通じる道沿いに、高壁に囲まれた屋根瓦と白壁塗りの家々が立ち並ぶ集落が散在する農村景観がどこまでもひらけている。古代大和政権が行なった条里制の名残りであり、現在でもその歴史的遺産が大地に刻まれている。条里制の起源は研究者の間で確定していない。一般的には大化の改新(646)による班田収受制の開始とされたが、斑鳩地区の発掘調査では7世紀前半にすでにあったことが判明している。条里制とは古代日本で行なわれた耕地の地割制度で、全国各地の平野部で実施された。とくに機内、北九州、瀬戸内、近江から東に至る濃尾平野、福井平野に讃岐平野などで発達し東北、関東、山陰、南九州で部分的に行なわれた。条里制地割りにより、田を農民に与えて耕作させる班田制は古代律令制度の基礎をなしたが、時代が変わっても条里制の土地区画や土地表示はそのまま残り、奈良盆地には当時の名残を留める長矩形の水田景観が随所に見られる。
また奈良盆地は環濠集落の多いことで知られ、かつて盆地内には180ヵ所の環濠集落があったと報告されている。環濠集落は奈良盆地に限らず、近畿地方の5府県全域や佐賀県の平野部にも見られ、吉野ヶ里遺構や三内丸山遺跡調査でも濠が確認されている。奈良盆地の環濠の起源は室町期、応仁の乱の頃からで村落の自治の発展と相まって、集落全体を堀や竹薮・堤防などで囲んだとする中世防禦起源説と環濠集落が平野部の河川流域に多く点在することから、排水と洪水防禦集落であったとする説などがある。