政党政治の揺籃期

2013年07月28日 | 歴史を尋ねる

 伊藤博文は発想が柔軟で、現実主義者であったと岡崎氏はいいます。伊藤が心血を注いでプロシア型の憲法を作ったとき、ビスマルクのように議会操縦が出来ると考えていたが、議会を開設してみると、そうもいかないことがわかった。次いで自分で政党を組織しようとしたが、それにも失敗した。まだ、誰も議会政治の本質を肌で経験していない時期であった。結局は民党の代表的存在である自由党と提携するという議会政治の王道しかないことに気づき、やがて自由党を中心とする政友会を結成して、大正デモクラシーへの道を開いた。振り返ってみれば、日本のデモクラシーの根源は板垣退助の自由党にあると岡崎氏は解説する。自由民権運動を色々解説する人は多いが、岡崎氏の様に素直に解釈すると、明治期の議会政治の流れがわかりやすい。

 伊藤は初期議会を経験して、最大野党の自由党と組むという議会政治の大道を覚ったが、これを冷静に見ていたのは陸奥だったといいます。陸奥はプロシア型憲法でも何でも、議会さえ開設すれば、それはやがて政党政治にならざるを得ないことを見通しつつ、年来の知己である伊藤を援けて議会民主主義の確立を計っていた。陸奥の死ぬころは、政党の離合集散の激しい時期で板垣は自由党の総裁を辞任し、次期の総裁は陸奥になるのが避け難い流れとなっていたといいます。さすがに岡崎氏は陸奥研究の第一人者です。それを果せず陸奥は逝きますが、その遺志は、陸奥の子飼いの星亨、原敬に引き継がれたという。

 伊藤が自由党の板垣退助と提携して、政府が与党を持つことの便利さがわかってくると、今度は薩派も立憲改進党と提携して松方・大隈内閣が出来た。そうなると民党としては利用されるだけではつまらないということで、自由党と立憲改進党が合体して憲政党を作り、絶対多数政党を作った。そこで伊藤は、山縣有朋などの反対を押し切って政権を大隈重信、板垣退助の憲政党に譲った。もしここで山縣などの超然主義を貫いていれば、藩閥内閣は議会では少数だから、解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備も出来ず、あえて戦争の準備をすると憲政の停止も止むを得なかった事態が考えられた。隈板内閣は準備不足で短命で終わったが、憲法発布の時にプロシア的超然主義を標榜して発足した日本の憲政は10年もたたずに政党内閣が誕生した。こうした背景には、日本人同士の信頼関係があった、伊藤にとって、大隈、板垣は維新以来の同志であった。国を思う心に変りはないという信頼関係があって政権を譲れたと解説する。

 ところで民党の政権移譲を反対していた山縣有朋などを中心とする藩閥勢力は政党政治に対する歯止めを考えた。それは軍部大臣現役制と文官任用令だった。文官任用令は政治が容喙できる役人の人事の範囲を狭めた。この時決めた政官関係は今でも西欧諸国では普通で、日本では定着している。軍部大臣現役制こそ、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた元凶だと岡崎氏はいう。統帥権の独立が悪の根源のように言われるが、それより実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向に従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になった。政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして作ったこの制度が昭和期になって国を誤らせることになったと岡崎氏は解説する。


「憲政の完備」道半ば

2013年07月27日 | 歴史を尋ねる

 日清戦争の宣戦布告は明治27年(1894)8月、日清の講和条約交渉妥結は翌28年4月。巧みに戦争に持ち込んだのは陸奥宗光と川上操六だったと前に触れたが、終戦外交処理並びに三国干渉処理は陸奥の働きが大きかった。そして明治30年、病が悪化して陸奥はなくなりった。臨終の床で同士中島信行に「自分の願うところは、条約の改正と憲政の完備にあった。条約改正は既に成功したが、憲政の方はまだ半ばまでもいっていない。これが自分の妄執で成仏しきれない」と言いつつ逝ったそうだ。政府部内での議会民主主義のための陸奥の戦いはほとんど孤軍奮闘だったと、「百年の遺産」の岡崎久彦氏は語る。陸奥の生立ち、経歴から彼は生粋の反藩閥で、国会開会後の第一回議会の運営を成功させた土佐派の動きの背後に陸奥がいた。しかし時の内相品川弥二郎など藩閥の保守派にとって、これは屈辱であった。そこで民党は国家の公敵、不忠不孝の徒、その撲滅こそ君国に忠なるゆえんと考えて、第二回総選挙には警察の実力を使って大々的に選挙干渉をした。汚れのないサムライ・デモクラシーが退廃していったのは、この大干渉をはじめとして、健全な選挙を育てようという観念が藩閥側になく、民党撲滅のために暴力や買収などの行為も許されるという習慣が蓄積していったからと言えると岡崎氏はいう。陸奥は閣内でその干渉が非法であることを論じ、終には農商務大臣を辞任した。周囲の忠告を退け、歯に衣を着せず藩閥政府を攻撃した。

 他方、日本の民党(自由民権運動を推進してきた自由党・立憲改進党などの民権派各党の総称)は、自由民権運動以来の確固たる地盤のある政党であり、選挙干渉してもどうなるものではなく、第二回議会でも過半数を占めた。しかも弾圧で負傷して松葉杖をつく議員が登院する議会の雰囲気は険悪を極め、松方正義総理は総辞職をまとめる政治力もなく、独りで辞職を出して辞めてしまった。このままでは日本の議会政治は続けられるかどうかわからず、憲法を停止してやり直しさえ考えられる事態であった。この時、伊藤博文は「現今の形勢をもっておすときは、二~三年のうちに政権は地におち、収拾できない混乱状態となることは明瞭である」とし、「このような国家の困難な時期にあたり、我々の目的を貫通しようとする明治政府末路の一戦であるから互に提携しなければ成功しない」と強硬に山県の入閣を求めた。元勲総出の内閣を迎えた民党は、結束して戦費節減・民力休養の名のもとに戦艦製造費から官吏の俸給に至る大削減に協力した。第四議会で仮に伊藤内閣を倒せば、藩閥の牙城は潰えてもはやその後援となるものはないと信ぜられたからである。更に山県は民党の攻撃に対し、たとえ憲法を停止しても軍備拡張を決行せよと論じた。しかし、伊藤首相がこの意見を容れず、詔勅の下付によって政党と妥協する道を選んだとき、山県は司法大臣を辞し、枢密院議長に転じた(明治26年)。

 明治天皇は内定費30万円を節約して、6年間建艦に寄付をした。一方清朝西太后は海軍経費から頤和園建設に流用した。戦争準備の取り組み方がその後の日本と中国の歴史的経験の差となっていくと岡崎氏は解説する。日清戦争の際の一般国民の愛国心の昂揚ぶりは日露戦争や大東亜戦争を上回ったといわれる。全国で義勇兵の志願が後を絶たず、ついに詔勅で、各々生業にいそしむようにと訓諭したほどだったそうだ。明治27年秋の議会はすべての軍事関係の法案を5分で無修正で通した。その前の伊藤、陸奥の議会操縦の苦労を考えると、夢のような変り方であった。日本の議会民主制度が安定軌道に乗るのは、日清戦争のお陰ともいえた。この挙国一致態勢を作らせた戦争が終われば、また伊藤内閣が議会対策の困難に直面することは目に見えていた。そこで伊藤と自民党の提携の話しが進み、板垣が内相として入閣した。陸奥は閣内で板垣を援け自由党を政権与党とする方向に誘導した。


戦後財政10年計画

2013年07月23日 | 歴史を尋ねる

 日清戦争後の三国干渉により、ロシアは満州進出の足掛かりを獲得し、戦後早々朝鮮を篭絡(高橋の見方)してその勢力を扶植し、日本と鋭く対立するに至った。日本の朝野は戦勝気分に酔うどころか他日のロシアの侵略に備えることを急務とするに至った。その見方の是非は別として、当時の国の思いはそうであったのだろう。当時井上馨は高橋是清に次のように語ったという。「この戦勝によって得たるわが国の地位を確実なものにして、ますます進取主義をとるか、退いて旧態に戻るか、このことが先決問題である。前者をとるならば、内は専ら経済に注目して倹約、忍耐の気風を涵養し、外は列強と提携するの方針で進まねばならぬ。しかし今回の戦勝はこれまで子ども扱いされたわが国に警戒心を起させ、シベリア鉄道の完成も早まるだろう。内外の形勢より察するに、五ヵ年のうちに外国との関係で一大国難を来すだろうことを覚悟し、予めその備えをなさねばならぬ。」 こうして戦後の最大課題は、軍備の画期的拡張と、これを支える得る産業の振興であった。「富国強兵」は新装され、改めて時代の最高標語となった。明治28年、松方蔵相によって「戦後財政計画案」が閣議の提出された。冒頭の一節に、「日清交渉の結果我国俄に強国の一たらんとす。従って各国の猜疑心をましたるを以って、これに応ずるの兵力なかるべからず。清国の復讐に対する兵力なかるべからず。而してこれ等の兵備は、3、5年の間に完成するの必要あるべし。欧米列強は既に我国に対する外交の面目を改め三国の同盟を訂約せり。・・・我国軍備の拡張は実に一日もゆるがせにすべからず。」 戦後最初の議会における伊藤首相の施政方針演説では、「平和克服と共に万事面目を一新したる今日、国家の計画せざるべからざる事業少なからず。軍備の整頓と共に、経済に発達を企画し、財政の強固を考えると同時に、民産の増殖をつとむるを大主義大綱領となしたり。」と強調し、新たな増税を断行し、積極的な戦後計画に乗り出すという、決意を表明したものであった。

 「戦後財政10年計画」の中身について見て置きたい。この計画は既存の歳出以外の新規の歳出計画であり、歳入計画は戦費賠償金収入、増税収入、公債募集、自然増収を考えた。歳出は軍備拡張費39%、事業拡張費(主として鉄道、電話)17%、行政拡張費(産業保護奨励費で殖産興業施策を含む、教育事業拡張費)43%。しかし、松方が立案したころには予測できなかった事態によって、手直しや補完が行われた。①戦後不況によって公債募集難に陥ったこと、②当初の見通しより経費が上回った、③北清事変の勃発。これ等に対処するため財政のやりくりと、議会の反対で回避していた地租増税の断行で、議会の内外で反対の火の手が上がり、幾たびか政治的危機の要因を作った。こうした経緯をへながら、軍備拡張は達成され、産業面では陸海軍工廠の拡大、関連民間産業の拡大をもたらし、戦後の企業勃興の有力な要因となった。他方、日清戦後の増税には、宿望のわが税制体系の近代化をこの機会に遂行しようとする大蔵当局の意図が大きく働いたと高橋はいう。財政を預かる当局としてはいつの世も同じ行動を執るものだ。それにしても、このときの増税は、営業税、法人所得税、兌換銀行発行税、砂糖消費税、葉煙草専売制、登録税等を新設し、さらに酒税と地租を増税した。全国商業会議所連合会は過度の増税は商工業の発達を阻害するとして建議も行った。しかし政府はこの要求に対して一顧も与えず、計画を推進した。こうしてこの計画はあまりに意欲的な計画であったため、金融的齟齬を来し、弊害を作ったが、全体として評価すれば、我国の経済の飛躍的発展の発奮力となり、機関車となり、飛躍台ともなったものとして、高く評価すべきと高橋は結んでいる。


日清戦争を契機とする経済の飛躍

2013年07月13日 | 歴史を尋ねる

 日清戦争は、はからずも、経済の飛躍的発達をもたらす重要な契機となったと高橋亀吉はいう。明治10年の西南の役は戦費のために財政は一大インフレーションを起し、紙幣暴落という経済破綻をもたらした。それより大規模の日清戦争は、外資に拠らず、自力の自由経済のもとで、インフレ破綻を伴わなかった。独力で日清戦争を賄いえた裏には、国民の熱誠な公債応募などの支援もあったが、根本には国の経済力がすでにこれに耐える程度に発展していたからだという。それではその状況を振り返ってみると、明治20年前後:離陸条件を具備、明治20~23年:近代企業の第1次勃興期、明治23~24年:反動としても恐慌の試練、明治27年経済体力が充実して、第二次企業勃興の素地が出来る。当時の工業能力は、紡績事業と造船技術の発達であった。綿糸布はすでに輸入品を国内市場から駆逐し、輸出に販路を求めはじめていた。綿糸輸出税を撤廃し、軽工業発達の一端を語るものであった。この間重工業の発達は遅々としていたが、海軍横須賀造船所において巡洋艦等を進水させるに至った。日清戦争までの輸出内容の変化を見ると、ながく農業関係品に依存した純農業国的性格のものであったが、明治10年代の前半は73%→26年54%に低下し、工業製品に生糸を加えると工業品の割合は77%に大きく増える。この間の工業品の発達が相対的に大きかったことが読み取れる。

 明治23年にはじまった国会は、民党の多年にわたる不平不満の爆発の場となり、官民の軋轢は4ヵ年余も続き、政治機能は麻痺して政府の前向きの政策は予算面からストップされ、潜在的発展を大きく削ぐ結果となっていた。この時日清戦争が勃発して、「風雲は日本国民の精神を刺激し、議会に於ける各会派は政府攻撃の矛を収め、宣戦目的を達せんことを期する」に変化した。さらに露独仏の三国干渉によって、議会と政府の関係は改善された。代表的現象は、これまで犬猿の仲であった伊藤内閣と自民党とが、提携に一転した。「今日は戦後経営の時代である。挙国一致、戦後経営の大業を成就せねばならぬ」と当時の自民党領袖河野広中は語っている。

 戦勝の結果、①台湾の領有、②軍事賠償金2億両得た、③通商条約上大きな特権(最恵国待遇)の獲得であった。賠償金は銀本位から金本位に改革した金準備の財源となった。そして新通商条約は欧米諸国が早くから清国より獲得していた治外法権および関税権等の不平等な特権につき、その最恵国待遇を日本もかちえた。また日本国民の商業、住居、工業および製造業のため、欧米同様の開港場の特典、並びに新たな開市開港をすること、および汽船の航海権を新たに拡張することなどであった。欧米人との差別待遇による通商上の不利を一掃し、新たに有利な開市開港を獲得した。これによって日清戦後の対中貿易が画期的増大を示した。また、朝鮮に対する日本の地位を向上させ、貿易額を飛躍的に増大させた。

 日清戦争後の経済発展を俯瞰すると次の点に要約されるという。①日本経済の海外貿易はもっぱら外商に依存していた。対外貿易の積極的働きかけ、転換で、経済の画期的発展をもたらした。②全国的鉄道網の完成、海外航路は欧米の支配下にあったが、日本中心の航路網・料金体系の導入、金融機関の整備と近代信用機能が本格化した、③先駆的な紡績業が、中国、インドの紡績業を圧して輸出産業としての地歩を築いた。製糸、織物の機械化が本格化し、造船、車両、機械器具等の重工業が第一歩を踏み出した。近代経済は成人期の第一階段にまで成長した。そしてその成長を加速させて、明治37~38年ロシアとの戦いに勝利を収めうる経済的実力までに発達させた。


関税自主権の回復

2013年07月08日 | 歴史を尋ねる

 明治期の経済運営に多大の不利を被った慶応2年(1866)の改税約書(条約)は当時外国貿易に対する無知に乗じて締結したものと高橋亀吉は解説するが、その経緯をもう少し調べると、江戸幕府がイギリス,アメリカ,フランス,オランダの4国と結んだ関税率改訂についての協約のことだ。慶応1年、4ヶ国の連合艦隊は大坂湾に入り,上京していた将軍徳川家茂に対し,長州藩の下関での外国船砲撃事件の償金の3分の2を放棄する代りに,58年に結んだ修好通商条約の勅許,兵庫開港,輸入税率を5%にすることの3ヵ条の実現を要求した。この武力の威嚇の下で開かれた朝議は,兵庫開港は認めないが条約は勅許することを決定した。 このときの英国公使はオールコックの後任のハリー・パークス。明治維新後は、日本に対して西洋文明の導入を推進するなど、日本の近代化と日英交流に貢献し、日本アジア協会の会長を務めていたそうだ。

 この協約の何が問題だったのか。その内容は①輸出入税率は従価5%基準、②出入港の船舶に大小にかかわらず一律の手数料 、③関税行政も拘束、④改定について外交交渉で相手方の承諾を要する。この④の条項が既得権を譲らず、改定が難航した要因であった。そして輸入税率は表面上従価5%となっていたが、その多くは従量税となっていたので、その後の物価上昇や高級品化などで、その実質率は2~4%という低率になった。しかもこの関税は原料品も完成品も贅沢品も同一率であった。こうして産声を上げたばかりの日本の工業は、裸の状態で先進工業国の競争に晒され、関税による保護育成の道は完全に閉ざされた。また、当時の財政は窮迫していたので、輸出税にまで頼る構造となった。そして貿易入超化を助長した。その巨額な入超が通貨不安を引き起こし、輸入を抑制する措置を封じられていた。明治13~17年の紙幣整理、紙幣の大幅な騰落、その結果の明治14~19年の一大不況の要因にもなった。明治7年租税頭松方正義は建議で、本邦産業の保護育成と貿易入超抑制との二大目標のため、関税改定の急務を力説している。

 陸奥外相による条約改正交渉は、まず治外法権の完全回復を主として、必要なら関税権について譲歩は止むなしという方針で臨んだ。明治27年こうした経路を経て改正日英条約は成立し、その他の国の条約改正も進展した。しかし実施は5年後の明治32年であった。関税条約の中身は①日本は自主的に国定関税を設定する、②列強からの輸入主要品は、別に各国と協定税則を締結(有効期限12ヵ年、明治44年まで)し、最恵国扱いとする、③爾後の関税改正は、実施前6ヶ月以前にこれを公布する。以上のように不完全なものであったが、それでも大きな前進であった。従来の各品一律5%という半植民地的輸入税則を脱して、有税品、無税品(例えば綿花などの原料品)、禁制品に大別し、税率は5%~40%の8段階に分けて税率を引き上げ、増えた税収で産業の対外競争力を不利にしていた輸出税を全廃、綿花などの原材料の輸入税を免税に踏み切った。

 本格的な関税保護政策を実施しうるに至ったのは、明治44年の自主的関税改革以降であった。〇繊維工業:32年の協定税率段階でも原綿の無税化によって紡績工業は発展したが、44年の自主的関税改革で高級綿糸にも進出して、他日ランカシャーを凌駕する基礎を築いた。〇機械・車両・造船・時計・楽器:明治32年の関税改革において協定税率の適用以外におかれた品目は、早くも関税保護の効果を示した。代表的なものは時計(精工舎、楽器(日本楽器)、鉄道車両(日本車両)。特に鉄道車両は重工業発達の先駆をなした。〇化学工業:44年の改革で保護の対象になったのは、硝子、製紙、ペイント。〇製糖業:最も恩恵を受けたのは製糖業、飛躍的に発達し砂糖の自給に成功した。44年の関税改革のより重大なポイントは、わが国の経済発達に即応して、自由に選択改定できたことで、大正年代以降の飛躍的経済発展に大きく貢献したと、高橋は評価する。


欧化政策の功罪

2013年07月06日 | 歴史を尋ねる

 条約改正に初めて本格的に着手した井上馨外相(明治18~21年)は、諸外国に承諾させるためには日本そのものを西欧並みにする必要があり、それは日本の近代的発展の基盤になるとして、欧化政策をとった。この欧化政策は、当時もその後も軽佻浮華の行為として非難を浴び、反動として国粋主義運動の勃興をもたらした。近代的発達は、維新直後の徳川遺制の徹底的排除に負うところが大きいが、それは制度に関するものであり、風俗習慣等の改革に触れるものではなかった。風俗習慣その他の改革を促進する側面が必要であったが、井上の欧化主義政策はそれらを著しく促進させたと、高橋亀吉は云う。

 「伊藤、井上は条約改正を承諾せしめるには日本を文明国と認識させる必要があるとして、赤十字社及び万国戦時公約に加盟し、いわゆる鹿鳴館時代を現出させた。西洋建築、洋装、洋食が奨励され、ダンスパーティ、夜会、洋風遊戯、西洋音楽、骨牌、排球等が盛んに行われ、極端は人種改造論まで現れた。また、皇族大臣以下の制服を定め公式に於ける服装を悉く洋装に改めたのも条約改正のためであった。」「時の内閣は欧化主義を唱え和魂洋才の必要を鼓吹し、日比谷に鹿鳴館を作って舞踏夜会に歓楽の夢を追う様になり、一方女子教育奨励会を設立して、頻りに洋装束髪を勧めた。その真意は条約改正の進捗をはかり、併せて島国的観念を改めんとするにあった。総理大臣官邸で行われた仮装舞踏会の如きは、一堂に集まれる内外の貴紳淑女450人、いずれも意匠を凝らしたる仮装の姿にて、伊藤総理大臣はヴェニスの商人、山縣内務大臣は長州奇兵隊、警視総監は児島高徳、東京府知事は牛若丸、イギリス武官は別当姿、山縣夫人は田舎娘と思い思いの服装で、夜を撤して踊り狂った。このようなことに反応して、敢然条約改正に反対する一派とこの浮華軽佻の風潮に慨する志士の一団は決然と起って、条約改正反対、風紀振粛を訴えるに至った。」

 井上外相はその真意を次のように語る。「これ等の患(東亜の諸国のように日本が半植民地化される)を未然に防ぐ所以の意見を陳ぜん。之に処するの道ただわが帝国及び人民を化して、しかも欧州邦国の如く、しかも欧州人民の如くならしむるに在るのみ。切言すれば、欧州的一新帝国を東洋の表に造出するに在るのみ。」 そして人民が勇敢活発になり、独立自治の精神を養うか、それは欧州人民と接触し、各自に不便を感じ不利を悟って、西洋の知識を吸収するに在る。我国民が各自に文明開化に要する知識、気象を具えるに至って、我帝国は始めて真に文明の域にのぼることが出来る。今や外国貿易自由交通は万国交際上必須であり、我帝国は外国人に閉鎖して内地に入ることを許さざるは固陋背理のことのみならず、外国人に苦情を鳴らす口実を与える虞あり。井上の場合の欧化主義は、内地雑居の解放によるわが社会・経済の西洋化までも意図している。建築、事務室、住宅、服装、飲食、音楽、娯楽等における欧化は井上外相時代の欧化政策に促進されたものと、高橋氏は評価する。

 鹿鳴館の仮装舞踏会などの行き過ぎやや誤った西欧心酔などに対して、国粋主義が勃興した。志賀重昮らは欧米諸国の植民地政策の餌食となっている南洋諸島の現状を見聞し、国家の独立、そのための国民の精神的統一、そのための国粋保存主義、藩閥政治批判、そのための殖産興業、その限りでは民権の主張であった。この矢印の方向が反対なのは、徳富蘇峰らの、人類史の大勢→生産主義→平民主義→平和主義→国家の繁栄であった。明治政府は欧米の生産設備技術の導入につき、はじめ外人技師に一任して直訳的に移植しようとしたが、失敗に終わった。それは採算上、損失の累積となった。そこで日本の労働・資本等の実情に即応した欧米設備と科学技術の導入に切り替えた。そうしてはじめて、近代的鉱工業が日本に根付くに至った。明治20年の国粋論の勃興は西洋の文物制度風習の導入につき、結果的には、科学技術の導入と同質の経過を辿った。


近代的法秩序の整備

2013年07月03日 | 歴史を尋ねる

 維新政府の封建制度の撤廃は、同時に在来の産業経済秩序をも破壊しながら、これに代わる新秩序を与えず、放任してきた。ために諸弊害が漸次あらわになり、明治10年代に至って、新法規設定の要求が起こって来た。農商務省公刊の興業意見では、「農工商業者維新以来拠るべき規律も備わらず、慣習故例も守るものなく、営業上諸般の秩序紊乱して収拾すべからざるもの多し。商は維新後最も秩序紊乱して問屋仲買の制度もなく、殊に株主の権利義務、役員の権限等を規定する法則なく、終に奸商の奇貨とするところとなり、各地の良賈が損失を招くところ少なからず。その他法律上商事と民事との区別もなくて、商事に係る裁判迅速ならず。」 近代法典の整備は、近代経済発達の基盤として緊要であった。しかもそれは専門の法律家の養成からはじめねばならぬ大事業であった。当時の政府は緊急を要する問題が山積していた。単に国内的養成のみであれば、法典の整備の進行は期待できなかった。しかし明治20年代においてこの事業が完成したのは、不平等条約改正が不可欠の条件として諸外国が要求していたものであったからだ。

 条約改正の進行を阻んだ最も有力な反対理由は、当時の日本の法制が欧米と大きく異なり、刑罰も苛酷なものが少なくなく、西洋人をこれに従わせることは到底困難であるということにあった。『条約改正経過概要』では、「裁判組織及び諸法制を完備し、一般文明国と遜色無きに至ることが絶対に必要であることは、明治4年岩倉大使の欧米特派以来看取せられた所である。井上・大隈外相時代に、政府当局が専念努力したことは欧州の様式により法制を整備することであった。多数の外国人顧問を傭聘し、重要法典の編纂その他万般の事項に亙り、欧米の文物制度を移入することに努めたことは、条約改正により欧米諸文明国との間に相互対等の権利を得んとする」にあった。しかもその法律がかれらの合意しうる内容のものであるかまで、吟味する権限を彼らは留保しようとした。今で云うグローバルスタンダードである。英国は大隈改正草案中、13か条の不満点を指摘している。その達成経緯は上記概要に纏められている。「井上外相時代に外国人法律顧問の援助で、諸法典の編纂につとめ、大隈外相時代は第一帝国議会召集に先立ち、裁判所構成法、刑法、刑事訴訟法、民商法、民事訴訟法の五大法典を公布し、改正条約の実施と同時に全部を実施する膳立てを整えた。しかし井上・大隈条約改正の失敗は、欧米式の裁判所制度の実施を急いで、本邦の民俗習慣に適合しない法典を急いだため、国内世論や民間法学者より反対を受けることとなった。明治25年伊藤内閣は、改正条約を実施するに先立ち、民商法その他重要法典を本邦の民俗習慣に適応するよう修正を加える措置をとり、単純な模倣移入ではなく、民俗習慣に一致せしめることを要したため、条約締結以来明治32年陸奥改正条約実施に至るまで、41ヵ年の歳月を費やした。」

 商法設定が企業、銀行の発展に寄与した側面を具体的に見てみたい。商法設定以前、会社という名称は官許の新進企業であるかのイメージを伴っていたのを悪用して、いかがわしい会社が乱立して、国民に損失を与えると同時に、会社制度の信用を害した。当時の農商務省の統計に拠ると、明治25年の会社数が、明治27年には半減している。また、三井、住友、大倉、古河等の財閥も、商法発布を期に個人経営から会社組織に改革している。銀行も銀行法が施行され、その数を減らし、銀行の信用を高めて近代金融の発達を促進させた。


不平等条約改正問題

2013年07月02日 | 歴史を尋ねる

 高橋亀吉の経済の発展を促進した五大国際要因の3番目は関税自主権の獲得であるが、条約改正問題の中身について、もう少し立ち入りたい。安政の不平等条約といわれる所以は外人に治外法権を与えたこと、関税自主権を喪失したことの2点。当時不平等条約改正の急務なることを痛感させた事態は、主に治外法権のもたらした独立国家としての屈辱であった。代表的2例として、明治10年のハリート事件(イギリス商人がアヘンを密輸入したのに対して、イギリス領事裁判では、生阿片は薬用に供するもので条約による輸入禁止品ではない。日本への輸入は関係英国閣令に違反していないとして無罪にした)、明治19年のノルマントン事件(イギリス貨物船が紀州沖で沈没、乗組員は全員救助されたが、便乗していた日本人23人全員が溺死、その船長が神戸のイギリス領事による海事審判で無罪)で、この非条理のことが行われても、外務省はただ手を拱いているばかり、外国の治外法権撤廃の世論が急速に高まり、一転して井上外務大臣の推進していた欧化政策、条約改正事業への批判も盛り上った。

 不平等条約の改正交渉のはじめは、明治4年岩倉使節団派遣であったが、日本にその資格なしとして相手にされず、一行の使命は欧米の政治経済制度の調査研究と現状視察がメインとなった。外交舞台にはじめて登場したのは明治9年、寺島外相とアメリカとの交渉開始であった。この場合治外法権より関税権の一部修正であった。結果は英仏等欧米諸国が同条件を承認することであった。明治11年井上馨が外相に就任、明治19年イギリスと交渉を重ね、井上条約案がまとまった。ところがこの条約案に政府内外の反対論が強く、20年井上は条約交渉会議を無期延期して辞職に至った。反対論の要点は①外人関係の裁判は外人裁判官が過半を占める。②法廷の用語は日本語と英語にする。③条約実行期日八ヶ月前に英文の各種法律案を外国政府に通知する。要するに国家の主権を危うくするという点であった。次にその衝に当たったのは大隈重信であった。大隈は井上案の問題点改善につとめ、相当改善したが、大審院のみ外国人の過半を認めたため、依然反対論は根強く、大隈は玄洋社某の爆弾に襲われ両足を失った。結局改正交渉を中止となり時の内閣も総辞職し、代った三条実美臨時内閣は「完全平等の条約修正を行う。もしこの要求が満たされなければ、むしろ旧条約の地位を続けて、目的を達する機会を待つべし」という将来の外交政略を議定した。この政略のもとに青木、榎本外相の手で進められ、陸奥外相となって明治27年日英条約改正が行われた。日本は最も頑強に拒否していたイギリスと交渉していたが、明治23年青木外相の時ににわかに好意的になったという。その理由を外務省監修本では、ロシアのシベリア経営進捗に連れ、英国はその対抗上にわかに日本の同情を獲得する必要が出てきたと見て取れる。大隈外相がさきにフレーザー英国公使にその必要を説示した日英接近論に、漸く耳を傾けたと、している。

 しかし陸奥外相の締結した改正条約の内容は井上、大隈案の問題点を完全排除し対等の内容であったが、関税権の完全回復は他日に期する建前のものであった。関税に於ける片務的不平等が完全対等条約に改定されたのは、陸奥条約の有効期限満了時において、小村外相の手によって成し遂げられた。この場合、井上、大隈、陸奥の条約改正交渉のごとく、相手国の承諾を得ねば旧条約の改定が出来ないという不平等条約時代ではもはやなく、日本政府単独の意思をもって、旧条約を廃棄する権限があった。そこで、小村外相は断固たる決意をもって、旧条約失効一ヵ年前、陸奥諸条約に対し廃棄を通告し、もって新条約を迅速に進めることが出来た。条約改正に乗り出して、法権回復に28ヵ年、関税権の完全回復に40ヵ年の年月を要した。不平等条約の改正がいかに大事業であったか、そして近代経済の発達に大きな圧迫を受け続けたかということが改めて想起されると、高橋氏は感想を述べている。