伊藤博文は発想が柔軟で、現実主義者であったと岡崎氏はいいます。伊藤が心血を注いでプロシア型の憲法を作ったとき、ビスマルクのように議会操縦が出来ると考えていたが、議会を開設してみると、そうもいかないことがわかった。次いで自分で政党を組織しようとしたが、それにも失敗した。まだ、誰も議会政治の本質を肌で経験していない時期であった。結局は民党の代表的存在である自由党と提携するという議会政治の王道しかないことに気づき、やがて自由党を中心とする政友会を結成して、大正デモクラシーへの道を開いた。振り返ってみれば、日本のデモクラシーの根源は板垣退助の自由党にあると岡崎氏は解説する。自由民権運動を色々解説する人は多いが、岡崎氏の様に素直に解釈すると、明治期の議会政治の流れがわかりやすい。
伊藤は初期議会を経験して、最大野党の自由党と組むという議会政治の大道を覚ったが、これを冷静に見ていたのは陸奥だったといいます。陸奥はプロシア型憲法でも何でも、議会さえ開設すれば、それはやがて政党政治にならざるを得ないことを見通しつつ、年来の知己である伊藤を援けて議会民主主義の確立を計っていた。陸奥の死ぬころは、政党の離合集散の激しい時期で板垣は自由党の総裁を辞任し、次期の総裁は陸奥になるのが避け難い流れとなっていたといいます。さすがに岡崎氏は陸奥研究の第一人者です。それを果せず陸奥は逝きますが、その遺志は、陸奥の子飼いの星亨、原敬に引き継がれたという。
伊藤が自由党の板垣退助と提携して、政府が与党を持つことの便利さがわかってくると、今度は薩派も立憲改進党と提携して松方・大隈内閣が出来た。そうなると民党としては利用されるだけではつまらないということで、自由党と立憲改進党が合体して憲政党を作り、絶対多数政党を作った。そこで伊藤は、山縣有朋などの反対を押し切って政権を大隈重信、板垣退助の憲政党に譲った。もしここで山縣などの超然主義を貫いていれば、藩閥内閣は議会では少数だから、解散に次ぐ解散で野党と対決し、日露戦争の準備も出来ず、あえて戦争の準備をすると憲政の停止も止むを得なかった事態が考えられた。隈板内閣は準備不足で短命で終わったが、憲法発布の時にプロシア的超然主義を標榜して発足した日本の憲政は10年もたたずに政党内閣が誕生した。こうした背景には、日本人同士の信頼関係があった、伊藤にとって、大隈、板垣は維新以来の同志であった。国を思う心に変りはないという信頼関係があって政権を譲れたと解説する。
ところで民党の政権移譲を反対していた山縣有朋などを中心とする藩閥勢力は政党政治に対する歯止めを考えた。それは軍部大臣現役制と文官任用令だった。文官任用令は政治が容喙できる役人の人事の範囲を狭めた。この時決めた政官関係は今でも西欧諸国では普通で、日本では定着している。軍部大臣現役制こそ、昭和期に議会民主主義を否定させ、軍閥の専制に道を開かせた元凶だと岡崎氏はいう。統帥権の独立が悪の根源のように言われるが、それより実際の運用上猛威を振るったのはこの制度で、軍の意向に従わない内閣は陸海軍大臣を得られないので組閣不可能になった。政党政治の揺籃期に、政党政治の歯止めとして作ったこの制度が昭和期になって国を誤らせることになったと岡崎氏は解説する。