ヴェノナ文書とローズベルト民主党政権

2017年09月25日 | 歴史を尋ねる
 アメリカ政府は1939年の第二次世界大戦開始以来、アメリカに出入りする国際電信をコピーして集積していた。ソ連のものもあったが暗号電文であり、ロシア語であったから、解読作業まではしていなかった。1943年、アメリカ陸軍情報部のスタッフが、ドイツとソ連との間で、米英を出し抜いて単独和平交渉が秘密裏に行われているという噂を聞き、2月クラーク大佐の命令で通信情報部(NSA)は、ソ連の外交暗号電信の解読が始まった。これがヴェノナ作戦の始まりであった。ソ連の暗号の解読は極めて困難で、技術的には暗号が極めて高度で、政治的にはローズベルト政権からの妨害であった。技術的に暗号の解読に成功したのは大戦後であった。ヴェノナ作戦を指揮していたクラーク次長はこの情報を活かすため、戦前からアメリカ共産党を監視していたFBIに協力を依頼した。FBIは1943年、捜査を開始し、ソ連がアメリカ共産党と一緒になって、大規模なスパイ攻勢を仕掛けていることを掴んでいた。しかし通信文に出てくる名前は仮名で、実際は誰なのか特定化が困難であったが、1970年代までに、2200以上の通信文を解読、ソ連からカバーネームをつけられた人物が300人以上いることを突き止め、そのうち100名を特定化できた。注目すべきは、日本に関わり合いがある人物が多い、と江崎道朗氏。アルジャー・ヒス:北方領土などを明け渡す密約を結んだヤルタ会談に大統領側近として参加。ハリー・デクスター・ホワイト:在米日本資産の凍結を主導し、日本の金融資産を無価値にして、日本を実質的に破産に追い込んだ人物、さらにハル・ノート原案作成に関与。ラフリン・カリー:1941年3月、蒋介石政権と本格的な対中軍事援助について協議、真珠湾攻撃4カ月前に日本空爆計画を立案、大統領の承認サインをとっていた。ダンカン・リー:戦略情報局(OSS)は戦後の対日占領政策をつくったが、その責任者など。詳細については、江崎氏の著書を参考にして頂きたい。ここではソ連がローズベルト政権にどう関わっていたに絞って、見ていきたい。

 ソ連は、世界各国で「敗戦革命」を引き起こすことで世界共産化を達成しようと考え、世界各地にコミンテルンの支部を結成した。とりわけコミンテルンが敵視したのが、ドイツと日本で、日本で敗戦革命を引き起こすためには、日本とアメリカを戦わせる必要があり、対米工作の拠点としてアメリカ共産党を設立した。が、共産主義イデオロギーを全面に出した党勢拡大ではうまくいかず、対米工作もうまくいかなかった。転機になったのは、1929年に始まる大恐慌であった。時の紛争共和党政権が経済政策に失敗したため、アメリカには失業者が溢れ、資本主義はダメだという雰囲気の中で、社会主義に期待する声がアメリカに溢れた。共和党政権に代って登場した民主党のローズベルト政権は、ニューディール政策という社会主義政策を推進し始めた。
 ソ連・コミンテルンは、満州事変とナチス・ドイツの台頭を受けて、1935年「アメリカやイギリスといった自由主義陣営と手を結び、ファシズム勢力(ドイツや日本)と戦う」として、各国共産党に「平和とデモクラシーのための人民統一戦線」を構築するよう指示した。この指示を受けてアメリカ共産党は、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組(CIO)」といった労働組合やキリスト教団体に「内部穿孔工作」を仕掛け、乗っ取っていった。共産党色を消した反ファシズム、平和擁護運動は、ナチス・ドイツの台頭を憂慮するリベラル派知識人や、キリスト教グループなどの参加を売るようになっていった。この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・ブラウダーだった。1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの労働組合、キリスト教、人権団体、学生団体、平和人道団体などが、構成員に共産党員は少なかったが、ローズベルト民主党政権を支持しつつ、反日親ソ親中の宣伝活動を、アメリカ各地で繰り広げた。全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟は11月全米大会を開催し、名称を「アメリカ平和デモクラシー連盟」と改め、大々的な反日キャンペーンを開始し、アメリカ共産党の工作に影響を受けたマスコミも、この動きを好意的に報じた。さらにこの連盟の下に支部を持つ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国侵略反対デモや、対日武器禁輸を議会に請願する活動も開始した。
 在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付き機密文書「米国内の反日援支運動」によれば、中国支援評議会の名誉会長に就任したのは、サラ・デラノ・ローズベルト女史で、ローズベルト大統領の実母だった。名誉副会長には国民党政府の胡適元駐米大使、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長の夫人が就任した。表向きは支援評議会であるが、その実態は、やはりアメリカ共産党のフロント組織であった。常任理事にソ連のスパイが就き、事務局長もソ連のスパイだった。ヴェノナ文書が公開された現在だから、彼らがスパイと分かっても、当時の一般のアメリカ人たちの目には、中国救援に熱心な人道主義者と映った。

 1937年12月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は戦地の模様を映画フイルムで秘かに撮影していた。このフィルムは、中国国民党顧問だったハロルド・ティンパリーの指示で侵略された中国と題して編集され、YMCA(キリスト教青年会)による中国支援・日本非難キャンペーン用の映画としてアメリカ各地で上映された。この映画を南京から持ち出したのは中国YMCA主事ジョージ・フィッチで、ワシントンでヘンリー・スチィムソン元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら要人と会見している。その後、フィッチらが発起人になって1938年7月、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まった。この活動も大々的にアメリカのマスコミによって報道され続けたが、そのマスコミを裏で操っていたのもまた、アメリカ共産党で、その活動はアメリカの対日世論を反日へと牽引することになった。
 江崎氏が云うのは、当時アメリカ世論は、必ずしも反日的という訳ではなかったという。フーヴァー前大統領やロバート・タフト上院議員は、悪いのは国際法を無視して邦人を殺害する国民党政権と中国を侵略しようとしているソ連であり、アメリカは紛争の早期解決のために協力すべきと主張し、支那事変が始まった頃行われた世論調査でも、95%の人たちは日中紛争のどちらにも同情しないと回答していたが、民主党のローズベルト大統領は、「日本が中国大陸で戦争を始めたのは、明らかに日本による侵略戦争だ。アジアの平和を乱しているのは、日本だ」と考え、秘かに対日経済制裁を検討し始めていた。そしてローズベルト民主党政権の反日親中政策を後押ししたのが、アメリカ共産党主導の反日宣伝であった。この反日宣伝とロビー活動を受けて、ローズベルト大統領は中国支援へと舵を切っていく。このロビー活動を背後で指揮したのが、アメリカ共産党本部のプラウダ―書記長が部長を務める政務部だった。連邦議会の対日政策を仔細に検討し、その対策案を作成すると共に、影響下にあるフロント団体を前面に出してロビー活動を展開した。
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対日政策で対立する二つのグループ

2017年09月23日 | 歴史を尋ねる
 もう少し江崎道朗氏の論説を追ってみたい。アメリカ共和党は、対日経済制裁を仕掛けたローズベルト民主党政権の対日圧迫外交を批判していたが、それは日本に対して好意的であったからではない。ストロング・ジャパン派の論理は、①アジア太平洋地域は、ソ連の膨張主義や中国の排外的ナショナリズムによって、大きく混乱している。 ②膨張主義や排外ナショナリズムを抑止するために、日本は止むを得ず中国大陸で戦争している。日本がソ連の膨張主義と戦ってくれているお陰で、アメリカはアジア太平洋で戦争をしなくて済んでいる。よって、「強い日本を維持することがアメリカの利益となる」(タイラー・デネット教授) ③アメリカが日本に対して経済制裁などを実施して日本を圧迫すれば、日本は弱くなり、ソ連の膨張主義がますます強まり、アジアは混乱することになる。そうなると、アメリカとしては、アジアの戦争に関与しなければならなくなる。 ④しかし、初代大統領ジョージ・ワシントンは、戦争は個人の自由を制限する全体主義へと発展しかねないとして、対外戦争に干渉することを極力避けようとした。この外交方針こそ、アメリカの伝統的な外交原則であるべきだ。 ⑤日本を弱体化したら、アジアの混乱は助長され、アメリカ政府としてはアジアの戦争に関与せざるを得なくなる恐れがある。 ⑥よって、アジアでの戦争に関与しなければならなくなる恐れがある、ローズベルト民主党政権の対日圧迫外交には反対である。
 
 ストロング・ジャパン派は、リベラル派やグローバリスト(対外干渉主義者)からは「孤立主義」「アメリカ第一主義」などと揶揄されているが、自国の自由とアメリカの国益を守る観点から、ローズベルト民主党政権の対日圧迫外交を批判しているのであって、親日的であったからではない。しかも当時、このストロング・ジャパン派を、アメリカの世論は圧倒的に支持していた、と江崎氏。1936年のアメリカ大統領選挙において、満州国が建国されていたにも拘らず、日本と中国については、何ら争点にならなかった。民主党は「真の中立」を訴え、対外戦争に関与しないことを訴えていた。共和党も紛争に巻き込まれるような同盟を避けると訴え、やはり対外戦争に関与しないことをアピールしていた。大統領選挙では、アメリカ海軍の増強の是非が争点の一つとなった。そして、増強を指示する民主党のローズベルトが再選を勝ち取った。その結果、空母三隻、巡洋艦11隻、駆逐艦63隻、潜水艦18隻を建造する大軍拡に踏み切ったが、当時のアメリカ国民は強力な海軍によって、将来アメリカが戦争に巻き込んれる可能性が少なくなると考えたのであって、そん時点では、中国問題で日本と戦争をするつもりはなかった。では、なぜ日米戦争になってしまったか、その要因の一つが、戦前、ウィーク・ジャパン派のローズベルト民主党政権が対日圧迫外交を強行し、日本を追い詰めたことだ、共和党が政権を握っていたら、日米戦争は起こらなかったかも知れない、と。

 ではローズベルトはなぜ大統領になれたのか、そのきっかけは、1929年10月24日の株価の大暴落に端を発する大恐慌であった。当時の政権は、共和党のハーバート・フーヴァー大統領だった。株価の暴落と未曾有のデフレに対して政府は大規模な金融緩和と財政出動で政府が主導して公共工事などを実施すべきところ、フーヴァー政権は財政均衡政策を採る一方、1930年には保護貿易政策をとり、世界各国の恐慌を悪化させてしまった。アメリカ経済は急速に悪化し、1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上も下落し、工業生産は平均で三分の一以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。街中に失業者が溢れ、資本主義はダメだ、これからは社会主義の時代だという風潮が一気に蔓延した。共和党では駄目だという世論の中で、圧倒的な支持を集めて大統領に就任した民主党のローズベルトは、1933年大統領に就任すると「ニューディール(新規蒔き直し)と称して「社会主義的な」経済政策を次々と打ち出した。
 テネシー渓谷開発会社、民間植林治水隊、公共工事局、社会保障局、農産物価格維持政策によって農民に利益を保証し、労働者の権利を保護する政策によって、労働者の生活向上を支援した。このため、連邦政府の財政規模は急増し、税負担が高まる一方、ニューディーラーと呼ばれるリベラル派官僚達の権力が肥大化し、労働組合員も1933年の300万人から1941年には950万人へを膨れ上がった。そして、リベラル派官僚たちと巨大労組、そしてリベラル派のマスコミによる一大政治勢力が、ワシントンを席捲することになった。この一大政治勢力をアメリカの政治史では、「ニューディール連合」と呼んだ。ローズベルト民主党政権による「ニューディール政策」によって構築された政治集団である。
 これまでのアメリカは州政府の寄合所帯であり、連邦政府の力はそれほど強くなかったし、官僚の数も少なかった。何よりキリスト教を基本とした自助努力と、キリスト教会を拠点とした地域互助協同体によって、アメリカ社会は成り立っていた。ところが大恐慌とその後のニューディール政策によって、大規模な社会保障と公共事業を推進するため連邦政府、特に官僚たちの力が飛躍的に強くなった。しかも彼らは、これまでの伝統的なキリスト教道徳よりも、社会主義的な価値観を重視し、リベラルに傾斜するようになった。同様に労働組合のメンバーは経営者に敵対的な態度をとり、ストライキやデモを繰り返し、ドイツや日本に対する経済制裁を訴えるなど、政治的な課題を重視するイデオロギーの強い反体制集団となっていった。アメリカはローズベルト民主党政権の時代に、大きく変わっていった、と。

 「ニューディール連合」は戦後も、アメリカのマスコミ、労働組合、官僚たちを牛耳り、民主党を支持する選挙マシーンとして活動した。日米戦争に勝利したアメリカの連邦政府は、「ニューディーラー」と称する社会主義者たちによって席捲されてしまった。こうした現状に対して、アメリカの保守主義運動は、ローズベルト民主党政権によって構築された「ニューディール連合」に対抗する目的で始まったと、保守系シンクタンク・ヘリテージ財団のリー・エドワード博士は指摘する。アメリカは「ニューディール連合」によって乗っ取られ、支配されてしまった第二次世界大戦後の戦後体制から脱却しようと、保守派は奮闘しているという。安倍首相の、「戦後レジームからの脱却」という主張と、相似しているということか。
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当時のアメリカの外交政策 強い日本と弱い日本

2017年09月17日 | 歴史を尋ねる
 アメリカでいま、近現代史の見直しが起こっている。日本では、東京裁判史観を見直すことは戦争を賛美することに繋がる、このような議論を信じ込まされている方が多い。しかし、共和党支持の、特に保守派のアメリカ人の多くは、大戦当時の民主党大統領であるローズベルトのことを嫌っている。それどころか、日本を開戦に導き、結果として中国大陸と朝鮮半島の半分を共産勢力に明け渡した責任を、厳しく問う姿勢を示している、国会議員政策スタッフを務め、主として安全保障、インテリジェンス、近現代史研究に従事する評論家、江崎道朗氏はその著書「アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄」で、冒頭以上のように書き起こしている。
 江崎氏は1997年に、中国系アメリカ人のアイリス・チャン女史が「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」という本を出し、全米各地で日本の戦争犯罪を告発するキャンペーンを繰り広げた際に、内外の専門家とその対策を講じて来た。そして歴史認識に関する日本の立場をアメリカに理解させるためにどうしたらよいか、その経験から多くの貴重な知見を得ることが出来た、と。特に重要な発見は、アメリカの保守派の中に、東京裁判史観に疑問を持つグループがいる、ということだった。大別して三つ、①当時のソ連・中国の膨張主義に対抗するためには、日本の軍事行動は容認されるべきであり、対日圧迫外交を繰り広げたルーズベルト民主党政権の対日政策は間違っていた。 ②日本を「平和に対する罪」で裁くことは、実定国際法に反している。 ③民主党のローズベルト政権の内部にソ連のスパイが入り込んでいて、アメリカの国益を損なう外交が行われた。戦後においてソ連と中国共産党の台頭をもたらした責任は、ローズベルトのある筈だ。 いずれも日本が正しいと考えているわけではないが、日本だけが悪かったとする東京裁判史観に対しては、大きな違和感を持っていることは確かだと江崎氏。特にアメリカ政府が1995年、戦前から戦後にかけての、在米のソ連スパイの交信記録を解読した「ヴェノナ文書」を公開したことをきっかけに、現在ローズベルトとコミンテルンの戦争責任を追及するという視点から、近現代史の見直しが進んでいる、という。

 アメリカは共和党と民主党という二つの政党が政権交代を繰り返してきた。そして民主党のローズベルトは1933年、大統領に就任すると直ちに、共産主義を掲げるソ連と国交を樹立し、反共を唱えるドイツと日本に対して敵対的な外交政策をとるようになった。この対ドイツ敵対外交によって、アメリカがヨーロッパの紛争に巻き込まれることになるのではないかと懸念した共和党議員たちは、1935年から37年にかけて一連の中立法を制定し、外国で戦争が起こった場合、アメリカ交戦国に軍事物資を輸出したり、借款を供与したりすることを禁じた。戦争になると、大統領に権限が集中する。大統領に権限が集中すると、政府の権限が強化され、個人の自由を侵害される恐れがある。だから、出来るだけ戦争を避けるべきであり、特に自国の安全保障と密接には結びつかない外国での戦争に、アメリカは出来るだけ関与すべきでない。これは初代大統領ワシントンが唱えた外交原則で、一部の専門家はこれを孤立主義と呼ぶが、正確には非干渉主義というもので、どちらかというと、共和党はその傾向が強かった。ところが1939年、第二次世界大戦が欧州で勃発すると、民主党のローズベルトは、イギリスに対する軍事援助を実施するため、武器貸与法案を連邦議会に提出した。この法案に真っ向から反対したのが、共和党のフーヴァー前大統領やロバート・タフト上院議員、ハミルトン・フィッシュ下院議員たちで、1940年9月に結成されたアメリカ第一委員会であった。第一委員会は武器貸与法案に反対すると共に、対日経済制裁の強化にも反対した。そこには、強い日本がないと、アジアでの軍事バランスが崩れ、アメリカ政府はアジアに対して介入せざるを得ず、結果的にアメリカも、アジアでの戦争に巻き込まれると考えた。けっして日本に好意的だったからではないが、当時のアメリカ共和党の政治家たちがこのような視点から、対日経済制裁に反対していた。

 当時のアメリカの外交政策を詳しく調べると、大別して二つに分かれる。一つはローズベルト大統領に代表されるグループで「ウィーク・ジャパン派」と呼ばれる。アジアの戦争を引き起こしているは日本なのだから、日本を弱くすればアジアの平和は保たれるという考え方で、具体的には対日経済制裁を主張し、日本が軍事的に弱くなるように圧力を加えて来たグループで、中国大陸で始めた戦争は、明らかに日本による侵略戦争で、アジアの平和を乱しているのは日本だと主張していた。積極的に外国の政治に干渉しようとすることから、「国際主義」「グローバリズム」などと呼ばれ、どちらかと言えば、民主党やアメリカ国務省の中の「中国派」と呼ばれる官僚たちに、この傾向が強かった。もう一つのグループは、ロバート・タフト上院議員に代表される人たちで、「ストロング・ジャパン派」と呼ばれる。「日本が中国大陸で戦争を始めたのは、ソ連による中国侵略を阻止すると共に、中国の排外主義から、中国大陸に住んで仕事をしている在留邦人たちを守るためだ。悪いのは、国際法を無視して在留邦人を殺害する中国国民党政権と、中国を侵略しようとしているソ連だ」 国際政治は、パワー・バランスで決まるのであって、アジアの平和を維持するためには、ソ連や中国の台頭に対抗するために、日本に対して経済制裁を加えるべきでないという考え方であり、共和党やアメリカ国務省の「日本派」と呼ばれる官僚たちに、この傾向が強かった。

 1931年、満州事変をきっかけに日本政府は、満州全域を軍事占領し、翌32年に満州国が建国された。この日本の動きに対してアメリカ政府内は、見解が真っ二つに割れていた。そこで1935年11月、国務省極東部長ホーンベックは、ジョン・マクマリー駐中アメリカ公使に、現状分析の報告書を書くよう命じた。マクマリー公使は1932年、ソ連情報収集の前進拠点であったバルト三国のリガの公使となっており、ソ連の拡張主義の恐ろしさをよく理解していた。そのためアメリカ本国に対して、「満州事変だけを見てアメリカ政府が対日経済制裁など日本に対する圧迫外交を行えば、結果的にソ連の台頭を助長することになるので、アメリカの国益からすればマイナスだ」と、対日非干渉主義を主張した。
 日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないだろう。それは単に、新しい緊張を生むだけで、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に代って極東支配のための敵対者として現れることを促すに過ぎないだろう。・・・こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる(『平和は如何に失われたか』)。だから、アメリカ政府は日本との協調を模索すべきだと、マクマリー公使は提案した。強い日本がアジアに安定をもたらすと考える「ストロング・ジャパン派」だった。ところが強い日本がアジアに混乱を持たらしていると考えたウィーク・ジャパン派のホーンベック極東部長は、この時点でこのメモランダムを握り潰した。このホーンベックのアシスタントをしていたのが、アルジャー・ヒスという後に、ローズベルト大統領の側近となった人物だが、ソ連のスパイであった、と。ローズベルト民主党政権は、その後もウィーク・ジャパン派の政策を採用して対日圧迫外交を続け、最終的にはマクマリー駐中公使の憂慮した通りとなった。日本が軍事的に敗北した結果、中国大陸はソ連の援助を受けた中国共産党に占領されてしまった。ストロング・ジャパン派の見方の方が適切だったことが、その後の歴史で証明された。
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ハル・ノート発出の背景は

2017年09月15日 | 歴史を尋ねる
 なぜ日米交渉の過程で、米国の態度が硬化したのか、当時のアメリカ政府内の動向を知るには、ハル・ノート発出の背景に単刀直入に入るのが手っ取り早い、岡崎久彦氏は分析する。
 ハル・ノートは11月20日に日本が提出した乙案に対する回答である。ハルはもともと乙案にも否定的であったが、軍の要望する時間稼ぎの必要があり、またローズベルトが暫定案解決に興味を示したので、アメリカ側の暫定案をつくって、英中などの感触を探った。アメリカ側の暫定案は、ついに成案として日本側に提示されず、内容の実施要項も最終的に確定したといえるものはなく、随って戦略物資や石油をどの程度日本に供給する腹づもりがあったのかわからない。ハルは「低質の石油を限られた量供給するだけで九十日間日本の南進の脅威を避けられる案なのに・・・」(ハル回想録)と蒋介石の暫定案に対する反対に不満を漏らしているので、その程度の内容のものと考えられる。しかし、その時日本の輸送船団が南下中という情報も伝わり、ローズベルトが交渉の最中の軍事行動は背信であるとして激怒したこともあって、ハルは暫定案を放棄して、いわゆるハル・ノート発出を決意した、と。

 ハル・ノートは、公式には十項目提案を呼ばれる。もともとは英国などに回覧して意見を求めた暫定案の付属文書であり、暫定案が受諾された後で本交渉に入る際の米国側の基本的立場、それも最大限の要求を記したものであった。それを本文の暫定案から切り離して、それだけを日本側にぶっつけたのであるから、当面の交渉の答えになっている筈もなく、従来の日米間の交渉の経緯をまったく無視して一方的に米国の最大限の要求だけを突きつけた最後通牒と解されても仕方がない文書だった。公式の宣戦文書ではないが、日本側が交渉打ち切りの通告と受け取って当然の内容だった。東京裁判のパル判事も同様の通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して鉾をとって立ち上がったであろうといっているし、東郷茂徳外相も「戦争を避けるために眼をつむって鵜呑みしようとしてみたが喉につかえてとても通らなかった」と記している。

 いったい誰がこの十項目提案を誰が起案したのか。その元は、ホワイト財務次官が起案し、モーゲンソー財務長官がハルに提示した案であり、それを国務省が一部採択し整理したものであった。モーゲンソー・ホワイト案は、アジア復興のための大型借款や、対日移民法廃止などの前向きの提案も含む包括的な解決案であるが、支那からの全兵力の撤収、汪政権切り捨てのように日本が到底受諾し得ないものも入っていた。ホワイトはIMFの創案者でもある切れ者であるが、戦後、ソ連のスパイであることが発覚し自殺している。それならば、資本主義国同士の戦争である日米戦争の起ることを希望する国際共産主義勢力の一員として、日本が受諾できないような提案をつくったのは当然である、と岡崎氏。他方、国務省の対日政策をすべて立案、実施したのは、ホーンベック以下の極東専門家のチームであった。ホームベックは、28年から37年まで国務省極東部長、37年から41年まで国務長官の極東担当顧問として終始極東政策の中枢にいた。国務省に入る前は中国の大学で教鞭をとったこともある中国通で、日本に在勤した経験はない。日本や中国のような異文化を理解するには実際に現地で生活した経験が大きく影響するが、ホーンベックが日本の歴史と日本人を理解する背景を持たなかったのも、日米交渉が成功しなかった一つの原因であろうと、岡崎氏はいう。外交の世界では、そうしたパイプ作りなどが大変重要なのだろう。一般の国民には見えない世界であるが。

 ホーンベックは外交に道徳的信念を貫き、妥協を徹底的に嫌い、従来米国が宣言してきた門戸開放、機会均等などの原則を準法律的にまでに格上げしたという。妥協成立の可能性があった近衛・ローズベルト会談をハルが阻止した背景には、ホーンベックなどの国務省専門家の進言があったのではないか、岡崎氏は想像する。原則を貫くホーンベックと、共産主義者のホワイトの合作が十項目提案であると考えれば、その内容の硬直性も充分頷ける。ホーンベックは自ら認める情勢判断の過ちを犯している、と岡崎氏。それは力で押せば日本は抵抗できず屈服するという判断だ、と。開戦の一月前、在日大使館の書記官が帰国してホーンベックを訪問し、日本が戦争を始めるかもしれないと在日大使館の憂慮を伝えた。これに対しホーンベックは、歴史上絶望感から戦争を始めた国家の例が一つでもあったら言ってみてくれと反問したという。岡崎氏流の筆法では、日米戦争は、アメリカはこちらが強く出れば引っ込むという松岡の考えで衝突路線が敷かれ、日本を抑えるには力しかないというホーンベックの最後通牒によって開始されたといえる、と。

 もし、ハル・ノートでなく暫定案が出されていたらどうなったであろうか、さらに遡って、近衛・ローズベルト会談が行われていたらどうなったか、岡崎氏は想像を巡らす。
 暫定案は危機を三か月先延ばししただけだろう、付属文書十項目提案は関係国に通知済みで、その内容を譲歩することは難しく、交渉は決裂しただろう。そしてアメリカはその三カ月の間フィリピンの防衛は強化され、蘭印の油田防衛も取られ、米国の建艦計画も進んでいた筈。開戦の日12月8日は、ヒトラーがモスクワ前面で赤軍の激しい抵抗にあってモスクワ進攻を諦めた次の日であり、独ソ戦はいずれが勝つか分からない状態に入った。しかしスターリングラードの敗戦までまだ一年もある時期に、日本軍が頭を切り替えられたかどうか、可能性は少ない。
 むしろ、近衛・ローズベルト会談の方は成功の可能性があった。時はドイツ軍が破竹の進撃を続け、モスクワ陥落は時間の問題のように思われていた時期で、まだ米英にとって日本との妥協は戦略的な意味があった。問題は近衛が軍を抑えることが出来たかどうかであるが、近衛はグルー大使、ドーマン、秘書官の4人だけで秘かに会って「ローズベルトに会いさえすれば・・・私は彼が拒否することの出来ない提案を用意している」といっている。そして近衛は、通訳の訳をしている親日家ドーマンに対して、「あなたは日本をよく知っている。私はいまあなたに一つの秘密を漏らすが、それを直接通訳しないで、私の意のあるところをグルーに伝えてほしい。あなたは、われわれが天皇を日米紛争に巻き込むことが出来ないことをよく知っているはずだ。しかし、私はローズベルトとの合意が出来れば、陛下にお願いして、陸軍にあらゆる対米敵対行動を直ちにやめるよう命令を出していただくつもりだ」 天皇に責任を取らせるべきでない。しかし、敢えて終戦の詔勅のような思い切った措置をあの時期にお願いする覚悟がある、ということであった。そんな提案は、陸海軍と協議は出来ない。首脳会談で、その場で決めるしかない、これが近衛の考えだった。それが唯一のチャンスっだった、と岡崎氏。1994年、アメリカは北朝鮮攻撃の寸前までいった。その時カーター元大統領が金日成主席と直接会って妥協が成立した。もし真珠湾攻撃前にアメリががあれだけ丁寧な交渉をしていたならば、大東亜戦争などは何度でも避け得たとの感想を漏らしている。
 
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なぜ南部仏印に進駐したのか

2017年09月12日 | 歴史を尋ねる
 1941年8月1日、米国による対日石油禁輸。なぜ、石油禁輸を受けたのか。歴史的経緯からすれば南部仏印に進駐したから。北部仏印進駐までは、支那事変の延長と説明できた。支那事変は宣戦なき戦いであったから、第三国は中立義務を守る必要のなく、日中両国に武器を売ることが出来た。しかし、海岸線を日本に抑えられた中国としては、仏印とビルマが輸入ルートであった。従って1940年6月、フランスがドイツに敗れると、日本はすぐに仏印当局に援蒋ルートの中止を求め、北部仏印に進駐した。しかし、南部仏印となると話が違ってくる、と岡崎氏。南部仏印進駐は、タイ、シンガポールへの進攻基地として以外は不必要である。少なくともアメリカはそう認識した、と。
 日本で南部仏印進駐を決めたのは6月25日の大本営政府連絡会議であったが、その際でも海軍の有識者(井上成美など)は「米国と戦う覚悟なしにこんなことは出来ない」と考えていたし、松岡外相も「南に手を付けると大事ななると我が輩は予言する」といって、最後まで南部仏印進駐に反対した。それならば、それだけの危険を冒して南部仏印の進駐する必要があったのか、またそれだけの危険を冒す覚悟をあったのか、そうなると、どうもはっきりした説明が出てこない、と岡崎氏はいう。

 直接の原因は、6月上旬の対蘭印交渉の行き詰まりで、蘭印は本国占領後も対独抗戦の態度をとり、日独伊三国同盟締結以降は日本に対する物資の供給を渋った。日・蘭印交渉は1941年初頭からつづけられていたが、オランダ側は英米の後ろ盾を頼んで原則的立場を変えず、6月6日の返答は、ほとんど交渉打ち切りに等しかった。対蘭印関係の根本的打開は結局英米との関係に手を触れざる限りほとんど不可能だった。といって南部仏印進駐は、蘭印の石油を貰えなくなるうえに米国からの供給が止まるリスクまである。もう米、蘭との諒解をあきらめて蘭印の石油を武力で取りに行くことに決めたというならばわかる。しかし、陸軍も海軍も、表向きは威勢のよいことをいっても、内実は武力で南方に進出する決意も準備もまだなかったのが実情だった、と。結局背景にあったのは、漠然たる強硬を是とし、軟弱を否とする傾向であり、その背後にあったのは空想的といってもよい拡張主義、世界分割思想であったのだろうと岡崎氏は想像する。三国同盟を結んで以来、大東亜共栄圏地域は日本の勢力圏になった、と。
 この時も海軍は最後まで煮え切らなかったが、「英米に対し武力を行使す」を「対英米戦争を賭するも辞せず」と表現をやや緩める修文で妥協した。昭和の作文による戦略設定の弊であると指摘されるも頷ける。結局歯止めにならずに、南部仏印進駐は実施された。

 それではアメリカ側はどう考えていたか、児島襄氏の著書で見てみたい。
 野村大使は7月23日豊田外相に意見具申電を送った。日本政府とフランス政府との間に、日本軍の南部仏印進駐の交渉が進み、7月21日フランス側は日本軍進駐に同意した。両政府とも発表はなおしていなかったが、情報は漏れて、米国各紙は日本の南進を批判し、経済制裁を加えよとの論評を掲げるものが多かった。「我南進の場合、日米関係に及ぼす影響はかなり急速度をもって進展し、国交断絶一歩手前迄進むの惧れ大なり・・・日本は一面日米諒解を売物となし、反面南進の策を立て、国務長官の如きは騙されたるなりと非難もある趣にて・・・」 野村大使はその日の朝、国務次官ウエルズと会見、療養中のハル国務長官から、日本が南方侵略をやめなければ日米会談の必要はない、日米諒解のほうが仏印進出による結果よりも日本に有利だと野村大使に伝えよと指示を受けていた。ウエルズ次官は「ハルは交渉継続の基礎がなくなったと考えている」と言明した。野村は新聞が対日経済制裁を叫んでいることと思い合わせて、おそらく米国は日本資産凍結または重要物資の対日禁輸を考えていると判断した。知人である海軍作戦部長に斡旋を頼んで、至急ローズベルト大統領と会見したいと依頼、そのあと豊田外相あてに電文を走り書きした。ワシントン時間7月23日午後三時過ぎ南部仏印に向かう陸軍第二十五軍四万人が、すでに海南島で輸送船に乗組みを待っている頃であった。

 野村大使は意見具申電を送ったあと、入れ違いに豊田外相から訓電を受けた。南部仏印進駐は御前会議決定事項だから中止出来ない。しかし、北部仏印進駐のような衝突は起こらない。フランス政府の了解を得て共同防衛のために部隊を増派するのである。さらに米英両国と摩擦を避ける方針であるから、米国がパナマ運河の閉鎖や資金凍結のなどの制裁的措置を取らぬよう、米国政府に善処を求めてほしい、と。大使は米国側がうなずける提案を含めて訓令が望ましかったが、時間がないと大統領との会見に臨んだ。
 南部仏印進駐は、日本に必要な米や資源を入手するためと、第三国の勢力範囲になって日本の安全が脅かされるのを防ぐためであり、いわば経済および軍事的自衛措置である。日本側に領土獲得の野心は、まったくない。就いては、米国政府においてもこれを諒とせられ、余り極端なる態度に出ざることが望ましい、野村大使はメモを読み上げながらゆっくり力を込めて発言した。大統領は、微笑しながら野村大使の言葉を聞き終わったが、アドミラル(提督)と野村大使に呼びかけながら、その声音には、友好の暖気よりは峻厳な政治の空気が明白に感得された、と。「日本が南進を続ける以上、太平洋の平和維持は困難になる。わが国が太平洋地域から、錫、ゴムなどの物資を入手することが困難になり、フィリピンをはじめ他の太平洋地域の安全も危険となってくる」 日本が物資不足状態にあることに対しては同情する、国務省に相談していないが、一つ提案をしたいといって、仏印を中立化しようという提案がなされた。野村大使は大統領との会談を終えると、会談要旨を東京に打電した。大使はその後岩佐大佐と意見交換したが、岩佐は「仏印中立化ねえ・・・要するに、日本はインドシナ半島から手を引けという訳でしょうが、アメリカにも譲歩の気持ちがなければ問題外です、もう、おしまいでしょう」 岩佐大佐の情勢判断によれば、米国はすでに日米交渉を断絶する意思を表明したと見做すべきである。大統領の提案は、一方で外交ルートでの交渉打ち切りを宣言し、他方で太平洋の平和のために努力しているとのジェスチャーを示すためだ、と。それにしても米国は身勝手だ、大統領が云う様に米国にとって東南アジアの資源は必要である。しかし資源の必要度から云えば、自給自足できる米国とそれが不可能な日本とでは、格段の差異がある。日本にとって、米、石油、ゴム、錫など、軍需だけでなく生活必需物資の殆どは輸入せねばならず、その対象は米国と東南アジアである。

 米国は日本の南方進出を侵略だといい、支那事変も侵略だといい、満州国も侵略の成果だといい、すべての対外進出を中止して日本列島だけで生活せよというが、それでは日本はどうやって生活の向上をはかるのか。「これまでの交渉の過程でも、米国側のステーツマンシップはうかがえませんでした。支那問題にしても、日本軍が支那から撤退すれば問題が片付くことは、誰にでもわかる。しかしとにかく四年間も続いた事変である以上、いきなり全面撤退という訳にもいかない。血を流してきた国民に対する説得も必要だし、今後の日本の生存のために必要な経済的発展の可能性も確保しなければならない。その辺の事情については、サッパリ同情が見えませんでした」 岩佐大佐は、如何に国力と国際的発言力に差がある国家関係でも、一方が他方に経済的に依存をしているのを承知で、相手の糧道を絶って折衝するのであれば、それはもはや交渉ではなく、降伏要求になる、と嘆息した。

 野村大使が破局への時間の延長を願っていた頃、ホワイトハウスは7月25日在米日本資産を凍結する、と発表した。第二十五軍の海南島出航が確認されたからである。国務省顧問ホーンベックは、7月22日付のハル長官あて覚書で、支那に対する援助強化だけで日本を支那から駆逐できる、と進言していた。「時間は、日本にとって不利な要素になりつつある。支那にたいして、その対日抵抗力を適度の友好水準と充分な期待を維持できる程度に援助すれば、支那がわの努力と米国の援助と時間とが合成されれば、日本は自動的に支那から撤退することになるだろう」 ホーンベック顧問の進言は、燕京大学総長の情報と、独ソ戦が予想外に長期化する見通しとにもとづいていた。日本としては、ソ連攻撃のチャンスを見逃したはずであり、そのうえに支那軍の抵抗力が強まれば、選択する道は南進か、政策転換による対米協調以外にない。しかし、急激な南進を誘うことは日米戦を招く可能性も高まるので、極度の経済的圧迫を避けて支那から敗退させる方策を採用すべき、と。ハル長官も、このホーンベック顧問の意見に賛成して、25日朝、ウエルズ次官に電話「なにか日本を思いとどまらせる事態が発生しない限り、日本は確実に南方進出を続けるだろう」 南部仏印の次はタイ、さらにマレー、シンガポール、フィリピン、蘭印にも日本は足を伸ばすかもしれない、とハルは予測した。そうなれば、先ず日英戦、日蘭戦、そして日米戦が予期されるが、早期の戦争は米国に不利であり、不利な戦いを避けるため日本に物資を与えるべきでないか。このハル長官の慎重な姿勢が対日輸出禁止措置を停滞させていたが、しかしハル長官の姿勢を長く維持することが出来なかった。資産凍結令の発表は、予想を超えて日米双方の危機感をあおり立て、戦争気運を急激にあげさせた。まさに、岩佐大佐が指摘する糧道の断絶であり、7月29日、企画院総裁鈴木貞一は「戦争遂行に関する物資動員上よりの要望」と題する報告書を大本営政府連絡会議に提出して警告したが、この内容はすでに既述済みである。鈴木企画院総裁は、一息つくと、静まり返る会議上に視線を走らせて、報告書の結論部分を朗読した。「即ち、帝国はまさに遅疑することなく最後の決心をなすべき竿頭に立てり」
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真珠湾へ

2017年09月10日 | 歴史を尋ねる
 大東亜戦争開戦に至る過程は、誰しも悔恨と無念さをもって、反芻するが、日本が石油を止められた後は、もうほかの名誉ある選択肢がほとんどなくなっていた。しかし石油が止められることは当時想定外ではなかった。その直接の引き金は、南部仏印の進駐だった。なぜ、南部仏印に進駐したのか、そもそも南進とは何だったのか、さらに日米交渉は何だったのか、近衛・ローズベルト会談の実現を阻んだのは何だったのか、日米妥協に反対する蒋介石の圧力、国際共産主義の策謀などは、どこまで関係があったのか、岡崎久彦氏は「重光・東郷とその時代」で掘り下げているので、これを見てみたい。以上の疑問を解くため事態の推移を日誌風にまとめている。

・7月2日:御前会議で「情勢に伴う帝国国策要綱」を決定。独ソ開戦の新事態に際し、松岡外相が一転してソ連攻撃を主張したが、それを抑え込むのが会議の主目的。しかし対ソ戦を見送る代償に、南方進出の態勢強化、対米英戦の準備を整えることを決定。
・7月18日:第三次近衛内閣成立。松岡を更迭して豊田貞次郎が外相に就任。
・7月24日:仏印に対して南部仏印進駐を通告。野村吉三郎・ローズベルト大統領秘密会談。「いま石油禁輸せよという世論をおさえて来たが、いまやその論拠を失った。仏印から撤退してその中立を保証すれば日本による物資入手に協力する」
・7月25日:日本資産凍結。
・7月28日:南部仏印進駐。
・8月1日:対日石油禁輸。
・8月5~8日:ワシントンで事態収拾のための協議。日本側は仏印以外に進出の意図がないことで諒解を得ようとしたが、米国は仏印撤兵を主張して、不調。
・8月12日:ローズベルトとチャーチル、大西洋で洋上会談。英米共同宣言(のちに大西洋憲章)に署名。
・8月28日:ローズベルトと・近衛会談を野村よりローズベルトに手交。ローズベルトは乗り気でアラスカのジュノーでの会談を示唆したが、同夜ハルは野村を招致して、首脳会談前に事務的な詰めが必要だと述べた。
・9月3日:ハルの考え方を正式回答。首脳会談の事実上の拒否。
・9月6日:御前会議で「帝国国策遂行要領」を決定。十月上旬までに対米交渉妥結の目途がつかない場合は対米宣戦を決意。席上、天皇はあくまでも外交交渉の成功を希望され、明治天皇の御製を引用された。
・同日:近衛は、グルーとドーマンに対して首脳会談の実現を慫慂。
・9月27日:6月の米提案に対する日本側回答は、松岡外相更迭のために、在米日本大使館が手交を控えていたが、これをハルに手交。この切羽詰まった時期における回答としては内容にメリハリがなく、却って、米側に日本の真意を疑わしめることとなった。
・10月2日:米側回答。27日の日本側提案をまったく無視、結論部分で「日本側は、原則の実行に対して、いろいろ条件や例外をつけているが、こんなことで首脳会談をして意味があると思っているのだろうか?」。「この頃になって、日本側はあらゆる問題に意見を表明しているのに、米側はこれを批判し論難するばかりで一向に肚を割らない。米国は交渉を引き延ばそうとしているだけで誠意はない、という論が、不安と疑惑と焦燥のなかに、日一日深くなった」(近衛手記)
・10月12~14日:15日の期限を前にして、近衛、東条英機が激論を繰り返して、折り合わず。交渉の最大眼目である在支日本軍撤兵について東条は「駐兵問題だけは陸軍の生命であって絶対に譲れない」という。東条は「人間たまには清水の舞台から目をつぶって飛び降りることも必要だ」といい、近衛は「個人としてはそういう場合もあるかもしれないが、二千六百年の国体と一億の国民のことを考えたらそんなことは出来ることではない」と答えたという。
・10月14日:陸軍は撤兵不同意。日米交渉打ち切りを主張し、15日に開戦が買ってい出来ないならば内閣総辞職のほかなしと主張。
・10月16日:第三次近衛内閣総辞職。
・10月18日:東条内閣成立。外相は東郷茂徳。当初、陸軍も近衛も東久邇宮内閣を考えたが、木戸幸一は、皇室に累が及ぶのを恐れて反対した。その後、重臣会議では宇垣一成という声もあったが、陸軍を統制しうる人物として木戸が東条を推した。大命降下に際して、9月6日の御前会議の決定に捉われるところなく国策の大本を決定するように、との異例の「白紙還元の御諚」が伝えられた。
・11月5日:白紙還元の御諚を受けて、国策再検討が行われた結果として、「帝国国策遂行要領」を決定。対米交渉の甲乙二案を了承し、外交は12月1日午前零時までとして、開戦は12月初旬と決定。甲案。華北、蒙古、海南島は和平後25年間駐留。それ以外は二年以内に撤退。仏印は事変後直ちに撤退。乙案。危機回避の暫定案。南部仏印から引き揚げて、資産凍結以前の状態に戻す。ただし米国は日中和平を妨害しない(蒋介石援助の中止)という条件付き。交渉応援のため米国に急派される来栖三郎大使に対して、東条は撤兵の問題だけはこれ以上譲歩できないと述べた。
・11月18日:野村・来栖とハル会談。大使館側は、他の条件を付けず南部仏印進駐前の状態に戻す私案を出し、ハルは難色を示しつつも検討を約したが、東京からは訓令違反を叱責される。東京は交渉決裂も致し方なく乙案を推進するよう指示。
・11月20日:日本側乙案を提出。ハルは一顧の価値もないと思いつつも、戦争準備不足という軍の意向を考えて、米国側の暫定案を作成、友好国との間の根回しを行った。蒋介石からは否定的な反応、チャーチルからは疑念の表明あり。
・11月25日:ホワイトハウスで、大統領、国務長官、陸海軍長官、陸軍参謀総長、海軍作戦部長会議。12月1日ごろの奇襲も予想し、問題はどうすれば日本側から第一発を撃たせるようにマヌーバー工作するかであると討議(スチムソン回想録)。
・11月26日:ハルは暫定案を放棄。日本側にハル・ノートを手交。その内容は、全中国及び仏印からの無条件全面撤退であり、汪兆銘政権を見捨てて重慶政権を支持することであり、日・中・米・英・蘭・ソ連・タイの多国間不可侵条約を結んで、それを三国同盟に優越させることであった。そして全中国から満州が除外されるかどうかも明らかでない。実質的に、戦わずして日本に降伏を求めるものであった。
・11月27日:暫定協定はどうなったかというスチムソンの質問に対して、ハルはあれはやめにした。私はもう交渉から手を引いたから、問題は陸軍と海軍の手に移ったと回答。ホノルル等前進基地の司令官に、戦争近しの警報が伝えられた。
・12月1日:御前会議。対米交渉は成功せず、米英に開戦と決定。
・12月6日:交渉打ち切り通告発電。解読文を見たローズベルトは、傍らのホプキンスに、This means war と語った。
・12月7日:大統領から天皇宛公開親電。内容は仏印からの撤退要求。ただしその代償はアジアの平和とあるだけで具体的提案はない。日本側回答は開戦後グルー大使に伝達された。
・12月8日:対米覚書「かくて日米国交を調整し、アメリカと相携えて太平洋の平和を維持せんとする帝国政府の希望はついに失われた」を手交。覚書をワシントン時間7日午後一時に手交せよと訓令があったが、野村、来栖による覚書手交は二時二十分。真珠湾攻撃は7日午後一時二十五分(ワシントン時間)。

 以上の日誌から見ると、大東亜戦争の開戦を決めたのは9月6日の御前会議であった、と岡崎氏。その前日、天皇は杉山元陸軍参謀総長と長野修身海軍軍令部総長の意見を徴し、天皇「陸軍は日米戦争をどのくらいの期間で片付ける確信があるのか」杉山「南方方面は三か月のつもりです」天皇「支那事変を一カ月で片付くといってすでに四年たって片付かないではないか」杉山「シナの奥地が広く・・・」天皇「シナの奥地が広いことは初めからわかっている。太平洋はもっと広いではないか」杉山は返答に窮した。ここで永野が助け舟を出して「日本という病人は手術をしなければ衰弱して倒れてしまいますが、手術をすれば危険ではあるが助かるかもしれないという状態である」という説明をした。
 戦わなければ、石油を止められた以上、いずれも全面的に降参しなければならないことは明白なのだから、万が一の成功を頼んで戦争してみるほかない、という判断だった、という。永野は石油禁輸の前日、天皇の御下問に答えて、海軍の石油貯蔵量は二年分、戦争となれば1年か1年半で空になる、むしろこの際打って出るほかないと信じますと答えている。ふーむ、日米戦争は太平洋の戦いで、むしろ海軍の戦いである。海軍がどの程度米国と戦えるかが勝敗のカギである。その当事者が、当事者としての意識を忘れたように陸軍の助け舟を出す。これが海軍軍令部総長の見解だった。
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