アメリカ政府は1939年の第二次世界大戦開始以来、アメリカに出入りする国際電信をコピーして集積していた。ソ連のものもあったが暗号電文であり、ロシア語であったから、解読作業まではしていなかった。1943年、アメリカ陸軍情報部のスタッフが、ドイツとソ連との間で、米英を出し抜いて単独和平交渉が秘密裏に行われているという噂を聞き、2月クラーク大佐の命令で通信情報部(NSA)は、ソ連の外交暗号電信の解読が始まった。これがヴェノナ作戦の始まりであった。ソ連の暗号の解読は極めて困難で、技術的には暗号が極めて高度で、政治的にはローズベルト政権からの妨害であった。技術的に暗号の解読に成功したのは大戦後であった。ヴェノナ作戦を指揮していたクラーク次長はこの情報を活かすため、戦前からアメリカ共産党を監視していたFBIに協力を依頼した。FBIは1943年、捜査を開始し、ソ連がアメリカ共産党と一緒になって、大規模なスパイ攻勢を仕掛けていることを掴んでいた。しかし通信文に出てくる名前は仮名で、実際は誰なのか特定化が困難であったが、1970年代までに、2200以上の通信文を解読、ソ連からカバーネームをつけられた人物が300人以上いることを突き止め、そのうち100名を特定化できた。注目すべきは、日本に関わり合いがある人物が多い、と江崎道朗氏。アルジャー・ヒス:北方領土などを明け渡す密約を結んだヤルタ会談に大統領側近として参加。ハリー・デクスター・ホワイト:在米日本資産の凍結を主導し、日本の金融資産を無価値にして、日本を実質的に破産に追い込んだ人物、さらにハル・ノート原案作成に関与。ラフリン・カリー:1941年3月、蒋介石政権と本格的な対中軍事援助について協議、真珠湾攻撃4カ月前に日本空爆計画を立案、大統領の承認サインをとっていた。ダンカン・リー:戦略情報局(OSS)は戦後の対日占領政策をつくったが、その責任者など。詳細については、江崎氏の著書を参考にして頂きたい。ここではソ連がローズベルト政権にどう関わっていたに絞って、見ていきたい。
ソ連は、世界各国で「敗戦革命」を引き起こすことで世界共産化を達成しようと考え、世界各地にコミンテルンの支部を結成した。とりわけコミンテルンが敵視したのが、ドイツと日本で、日本で敗戦革命を引き起こすためには、日本とアメリカを戦わせる必要があり、対米工作の拠点としてアメリカ共産党を設立した。が、共産主義イデオロギーを全面に出した党勢拡大ではうまくいかず、対米工作もうまくいかなかった。転機になったのは、1929年に始まる大恐慌であった。時の紛争共和党政権が経済政策に失敗したため、アメリカには失業者が溢れ、資本主義はダメだという雰囲気の中で、社会主義に期待する声がアメリカに溢れた。共和党政権に代って登場した民主党のローズベルト政権は、ニューディール政策という社会主義政策を推進し始めた。
ソ連・コミンテルンは、満州事変とナチス・ドイツの台頭を受けて、1935年「アメリカやイギリスといった自由主義陣営と手を結び、ファシズム勢力(ドイツや日本)と戦う」として、各国共産党に「平和とデモクラシーのための人民統一戦線」を構築するよう指示した。この指示を受けてアメリカ共産党は、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組(CIO)」といった労働組合やキリスト教団体に「内部穿孔工作」を仕掛け、乗っ取っていった。共産党色を消した反ファシズム、平和擁護運動は、ナチス・ドイツの台頭を憂慮するリベラル派知識人や、キリスト教グループなどの参加を売るようになっていった。この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・ブラウダーだった。1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの労働組合、キリスト教、人権団体、学生団体、平和人道団体などが、構成員に共産党員は少なかったが、ローズベルト民主党政権を支持しつつ、反日親ソ親中の宣伝活動を、アメリカ各地で繰り広げた。全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟は11月全米大会を開催し、名称を「アメリカ平和デモクラシー連盟」と改め、大々的な反日キャンペーンを開始し、アメリカ共産党の工作に影響を受けたマスコミも、この動きを好意的に報じた。さらにこの連盟の下に支部を持つ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国侵略反対デモや、対日武器禁輸を議会に請願する活動も開始した。
在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付き機密文書「米国内の反日援支運動」によれば、中国支援評議会の名誉会長に就任したのは、サラ・デラノ・ローズベルト女史で、ローズベルト大統領の実母だった。名誉副会長には国民党政府の胡適元駐米大使、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長の夫人が就任した。表向きは支援評議会であるが、その実態は、やはりアメリカ共産党のフロント組織であった。常任理事にソ連のスパイが就き、事務局長もソ連のスパイだった。ヴェノナ文書が公開された現在だから、彼らがスパイと分かっても、当時の一般のアメリカ人たちの目には、中国救援に熱心な人道主義者と映った。
1937年12月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は戦地の模様を映画フイルムで秘かに撮影していた。このフィルムは、中国国民党顧問だったハロルド・ティンパリーの指示で侵略された中国と題して編集され、YMCA(キリスト教青年会)による中国支援・日本非難キャンペーン用の映画としてアメリカ各地で上映された。この映画を南京から持ち出したのは中国YMCA主事ジョージ・フィッチで、ワシントンでヘンリー・スチィムソン元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら要人と会見している。その後、フィッチらが発起人になって1938年7月、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まった。この活動も大々的にアメリカのマスコミによって報道され続けたが、そのマスコミを裏で操っていたのもまた、アメリカ共産党で、その活動はアメリカの対日世論を反日へと牽引することになった。
江崎氏が云うのは、当時アメリカ世論は、必ずしも反日的という訳ではなかったという。フーヴァー前大統領やロバート・タフト上院議員は、悪いのは国際法を無視して邦人を殺害する国民党政権と中国を侵略しようとしているソ連であり、アメリカは紛争の早期解決のために協力すべきと主張し、支那事変が始まった頃行われた世論調査でも、95%の人たちは日中紛争のどちらにも同情しないと回答していたが、民主党のローズベルト大統領は、「日本が中国大陸で戦争を始めたのは、明らかに日本による侵略戦争だ。アジアの平和を乱しているのは、日本だ」と考え、秘かに対日経済制裁を検討し始めていた。そしてローズベルト民主党政権の反日親中政策を後押ししたのが、アメリカ共産党主導の反日宣伝であった。この反日宣伝とロビー活動を受けて、ローズベルト大統領は中国支援へと舵を切っていく。このロビー活動を背後で指揮したのが、アメリカ共産党本部のプラウダ―書記長が部長を務める政務部だった。連邦議会の対日政策を仔細に検討し、その対策案を作成すると共に、影響下にあるフロント団体を前面に出してロビー活動を展開した。
ソ連は、世界各国で「敗戦革命」を引き起こすことで世界共産化を達成しようと考え、世界各地にコミンテルンの支部を結成した。とりわけコミンテルンが敵視したのが、ドイツと日本で、日本で敗戦革命を引き起こすためには、日本とアメリカを戦わせる必要があり、対米工作の拠点としてアメリカ共産党を設立した。が、共産主義イデオロギーを全面に出した党勢拡大ではうまくいかず、対米工作もうまくいかなかった。転機になったのは、1929年に始まる大恐慌であった。時の紛争共和党政権が経済政策に失敗したため、アメリカには失業者が溢れ、資本主義はダメだという雰囲気の中で、社会主義に期待する声がアメリカに溢れた。共和党政権に代って登場した民主党のローズベルト政権は、ニューディール政策という社会主義政策を推進し始めた。
ソ連・コミンテルンは、満州事変とナチス・ドイツの台頭を受けて、1935年「アメリカやイギリスといった自由主義陣営と手を結び、ファシズム勢力(ドイツや日本)と戦う」として、各国共産党に「平和とデモクラシーのための人民統一戦線」を構築するよう指示した。この指示を受けてアメリカ共産党は、「教職員組合(AFT)」や「産業別組織労組(CIO)」といった労働組合やキリスト教団体に「内部穿孔工作」を仕掛け、乗っ取っていった。共産党色を消した反ファシズム、平和擁護運動は、ナチス・ドイツの台頭を憂慮するリベラル派知識人や、キリスト教グループなどの参加を売るようになっていった。この人民統一戦線の指導にあたったのは、コミンテルンの指示で1934年にアメリカ共産党書記長となったアール・ブラウダーだった。1937年7月、盧溝橋事件が起こると、アメリカの労働組合、キリスト教、人権団体、学生団体、平和人道団体などが、構成員に共産党員は少なかったが、ローズベルト民主党政権を支持しつつ、反日親ソ親中の宣伝活動を、アメリカ各地で繰り広げた。全米24州に109の支部を持ち、会員数400万人を誇る「反戦・反ファシズム・アメリカ連盟は11月全米大会を開催し、名称を「アメリカ平和デモクラシー連盟」と改め、大々的な反日キャンペーンを開始し、アメリカ共産党の工作に影響を受けたマスコミも、この動きを好意的に報じた。さらにこの連盟の下に支部を持つ「中国支援評議会」を設置し、日本の中国侵略反対デモや、対日武器禁輸を議会に請願する活動も開始した。
在ニューヨーク日本総領事館が作成した昭和15年7月付き機密文書「米国内の反日援支運動」によれば、中国支援評議会の名誉会長に就任したのは、サラ・デラノ・ローズベルト女史で、ローズベルト大統領の実母だった。名誉副会長には国民党政府の胡適元駐米大使、常任理事にはマーシャル陸軍参謀総長の夫人が就任した。表向きは支援評議会であるが、その実態は、やはりアメリカ共産党のフロント組織であった。常任理事にソ連のスパイが就き、事務局長もソ連のスパイだった。ヴェノナ文書が公開された現在だから、彼らがスパイと分かっても、当時の一般のアメリカ人たちの目には、中国救援に熱心な人道主義者と映った。
1937年12月、日本軍占領下の南京にいたジョン・マギー牧師は戦地の模様を映画フイルムで秘かに撮影していた。このフィルムは、中国国民党顧問だったハロルド・ティンパリーの指示で侵略された中国と題して編集され、YMCA(キリスト教青年会)による中国支援・日本非難キャンペーン用の映画としてアメリカ各地で上映された。この映画を南京から持ち出したのは中国YMCA主事ジョージ・フィッチで、ワシントンでヘンリー・スチィムソン元国務長官や、ホーンベック国務相極東部長ら要人と会見している。その後、フィッチらが発起人になって1938年7月、「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」が設立され、対日禁輸措置の実施などをアメリカ政府に求めるロビー活動が大々的に始まった。この活動も大々的にアメリカのマスコミによって報道され続けたが、そのマスコミを裏で操っていたのもまた、アメリカ共産党で、その活動はアメリカの対日世論を反日へと牽引することになった。
江崎氏が云うのは、当時アメリカ世論は、必ずしも反日的という訳ではなかったという。フーヴァー前大統領やロバート・タフト上院議員は、悪いのは国際法を無視して邦人を殺害する国民党政権と中国を侵略しようとしているソ連であり、アメリカは紛争の早期解決のために協力すべきと主張し、支那事変が始まった頃行われた世論調査でも、95%の人たちは日中紛争のどちらにも同情しないと回答していたが、民主党のローズベルト大統領は、「日本が中国大陸で戦争を始めたのは、明らかに日本による侵略戦争だ。アジアの平和を乱しているのは、日本だ」と考え、秘かに対日経済制裁を検討し始めていた。そしてローズベルト民主党政権の反日親中政策を後押ししたのが、アメリカ共産党主導の反日宣伝であった。この反日宣伝とロビー活動を受けて、ローズベルト大統領は中国支援へと舵を切っていく。このロビー活動を背後で指揮したのが、アメリカ共産党本部のプラウダ―書記長が部長を務める政務部だった。連邦議会の対日政策を仔細に検討し、その対策案を作成すると共に、影響下にあるフロント団体を前面に出してロビー活動を展開した。