日露戦争後のポーツマス条約と日本が清国と結んだ満州善後協約によって、日本が東北南部における特殊権益を得たことは既述済みである。日本はこの特権を利用して、辛亥革命のころには、すでに東北侵略の実質的地歩を上げていたいう。東北地区に住む日本人は7万9千人にのぼっていた。東北南部における貿易と鉱山開発事業は三井物産が一切を取り仕切り、南満州鉄道会社は遼東の輸送事業を独占していた。東北南部は北部にくらべて面積は小さいが、大豆、コウリャンなど農産物生産量は北部を凌ぎ、貿易額は62%を占めていた。しかし日本の真の狙いは、軍事的意図にあったという。元老山県有朋は以前から主権線、利益線を主張し、朝鮮及び中国東北部を日本の勢力範囲に組み込むことを明らかにしていた。日清、日露戦争で勝利をおさめ、朝鮮から東北南部に日本の勢力が伸びるにつれ、日本の東北三省への領土的野心が、現実のものになった。その急先鋒は陸軍参謀本部であった。東北における日本の地位が固まらなければ、ロシアは必ず外蒙から東北を侵犯する。日露の勢力均衡が破れれば、日本の東北南部における勢力は脅威を受ける。もし南部が確保できなければ、朝鮮も守りがたくなる、これが日本軍閥の発想であった。日露両国は相手を警戒しながら、権益の山分け、既得権益の相互防衛によって勢力の均衡をはかろうとした。
武昌起義直後の1911年10月17日早くも、日本の外相(第二次西園寺内閣)・内田康哉は駐ロシア大使・本野一郎を通じて協議を開始した。日本とロシアはすでに二度にわたり日露密約(第一次1907年、第二次1910年)を交わし、外蒙古ではロシアの特殊権益を認め、東北三省では分界線を引いて、南北に分割し、さらに権益を守るため共同防衛の措置を取ることまで取り決めていた。革命の発生は密約に大きな影響を与えることが予想され、日露間で明確な取り決めのない東北三省の西半分と内蒙古について勢力範囲を確定しておく必要があった。交渉は翌年7月第三回日露密約が調印され、東北三省は分界線を延長し、内蒙古は東西に分割、内蒙古の分界線は北京の位置する東経線として、中国の領土である東北三省、内蒙古を線引きして山分けした。この動きと併行して、日本の軍部は、東北三省および内蒙古を日本の属国化にしようとする陰謀を進めた。これが第一次満蒙独立運動であり、その手先となったのが、日本の大陸浪人であった。
大陸浪人に代表される日本の支那通、民間志士は二つに大別できる。一つは革命によって清廷を打倒することに賛成する黒龍会で、頭山満、内田良平らが主宰、立憲国民党の犬養毅も関係していた。革命が成功したあかつきには、新政府と話し合い、東北、蒙古を日本の勢力範囲におくことをもくろんだ。辛亥革命の1911年、黒龍会は革命の援助機関として、有隣会を設立、単に有志の義侠心によるものではなく、これを機会に満蒙問題を解決する為であることが、設立趣旨にはっきりうたわれていた。他の一派は清廷を助け、清廷に恩を売ることによって、東北・蒙古を略取しようとした志士たちであった。第一次満蒙独立運動はこの一派によって画策された。その主役は川島浪速で、その背後には、日本陸軍の参謀本部の全面的なテコ入れがあった。川島浪速はかねてから、中国人蔑視の民族観と、日本の利益獲得の発想を結びつけた中国侵略論の持ち主であった。東洋のマタハリと呼ばれ、抗日戦争の漢奸(売国奴)として処刑された川島芳子(清皇族・粛親王の娘)は、彼の幼女であった。日本軍部は、辛亥革命の混乱に乗じて、満蒙の懸案を一気に解決しようと考えていた。その解決とは、領土的奪取を意味していたと「蒋介石秘録」はいう。川島浪速について若干補足すると、、中国が列強によって分割されることは避けがたいものとみていた。その場合、日本は中国において、必ず白人連合の圧迫にさらされる。これに対抗するためには、日本は列強にさきがけて優勢な地位を確保しておかねばならない。その立脚地となるのが満蒙であるとの考え方であったという。川島単独では行動できないスケールである。