日本の野心

2014年06月24日 | 歴史を尋ねる

 日露戦争後のポーツマス条約と日本が清国と結んだ満州善後協約によって、日本が東北南部における特殊権益を得たことは既述済みである。日本はこの特権を利用して、辛亥革命のころには、すでに東北侵略の実質的地歩を上げていたいう。東北地区に住む日本人は7万9千人にのぼっていた。東北南部における貿易と鉱山開発事業は三井物産が一切を取り仕切り、南満州鉄道会社は遼東の輸送事業を独占していた。東北南部は北部にくらべて面積は小さいが、大豆、コウリャンなど農産物生産量は北部を凌ぎ、貿易額は62%を占めていた。しかし日本の真の狙いは、軍事的意図にあったという。元老山県有朋は以前から主権線、利益線を主張し、朝鮮及び中国東北部を日本の勢力範囲に組み込むことを明らかにしていた。日清、日露戦争で勝利をおさめ、朝鮮から東北南部に日本の勢力が伸びるにつれ、日本の東北三省への領土的野心が、現実のものになった。その急先鋒は陸軍参謀本部であった。東北における日本の地位が固まらなければ、ロシアは必ず外蒙から東北を侵犯する。日露の勢力均衡が破れれば、日本の東北南部における勢力は脅威を受ける。もし南部が確保できなければ、朝鮮も守りがたくなる、これが日本軍閥の発想であった。日露両国は相手を警戒しながら、権益の山分け、既得権益の相互防衛によって勢力の均衡をはかろうとした。

 武昌起義直後の1911年10月17日早くも、日本の外相(第二次西園寺内閣)・内田康哉は駐ロシア大使・本野一郎を通じて協議を開始した。日本とロシアはすでに二度にわたり日露密約(第一次1907年、第二次1910年)を交わし、外蒙古ではロシアの特殊権益を認め、東北三省では分界線を引いて、南北に分割し、さらに権益を守るため共同防衛の措置を取ることまで取り決めていた。革命の発生は密約に大きな影響を与えることが予想され、日露間で明確な取り決めのない東北三省の西半分と内蒙古について勢力範囲を確定しておく必要があった。交渉は翌年7月第三回日露密約が調印され、東北三省は分界線を延長し、内蒙古は東西に分割、内蒙古の分界線は北京の位置する東経線として、中国の領土である東北三省、内蒙古を線引きして山分けした。この動きと併行して、日本の軍部は、東北三省および内蒙古を日本の属国化にしようとする陰謀を進めた。これが第一次満蒙独立運動であり、その手先となったのが、日本の大陸浪人であった。

 大陸浪人に代表される日本の支那通、民間志士は二つに大別できる。一つは革命によって清廷を打倒することに賛成する黒龍会で、頭山満、内田良平らが主宰、立憲国民党の犬養毅も関係していた。革命が成功したあかつきには、新政府と話し合い、東北、蒙古を日本の勢力範囲におくことをもくろんだ。辛亥革命の1911年、黒龍会は革命の援助機関として、有隣会を設立、単に有志の義侠心によるものではなく、これを機会に満蒙問題を解決する為であることが、設立趣旨にはっきりうたわれていた。他の一派は清廷を助け、清廷に恩を売ることによって、東北・蒙古を略取しようとした志士たちであった。第一次満蒙独立運動はこの一派によって画策された。その主役は川島浪速で、その背後には、日本陸軍の参謀本部の全面的なテコ入れがあった。川島浪速はかねてから、中国人蔑視の民族観と、日本の利益獲得の発想を結びつけた中国侵略論の持ち主であった。東洋のマタハリと呼ばれ、抗日戦争の漢奸(売国奴)として処刑された川島芳子(清皇族・粛親王の娘)は、彼の幼女であった。日本軍部は、辛亥革命の混乱に乗じて、満蒙の懸案を一気に解決しようと考えていた。その解決とは、領土的奪取を意味していたと「蒋介石秘録」はいう。川島浪速について若干補足すると、、中国が列強によって分割されることは避けがたいものとみていた。その場合、日本は中国において、必ず白人連合の圧迫にさらされる。これに対抗するためには、日本は列強にさきがけて優勢な地位を確保しておかねばならない。その立脚地となるのが満蒙であるとの考え方であったという。川島単独では行動できないスケールである。


列強六か国の思惑

2014年06月21日 | 歴史を尋ねる

 辛亥革命当時、中国と深い利害関係をもっていたのは、日本をはじめ、米、英、仏、独、露の六列強であった。これら列強は、生まれ変わろうとする中国を舞台に、さまざまな思惑をもって激烈な外交戦を展開した。反応の仕方は、その国の在華権益の大小、侵略的野心の程度によって決まった。
 日本は中国革命同盟会発足の地であり、旧知の人々も多く、隣国であるだけに革命派が日本に対して抱いた期待は大きかった。実際、民間の志士たちは、一般的に革命に対して同情的な姿勢を取っていた。これに対し、日本政府は、大陸侵略政策に裏打ちされたものであった。中国が安定した共和国家になることをのぞまず、乱に乗じて、中国における権益の伸長をはかろうとした。一方で清廷を援助しながら、他方で革命派にも協力するふりを見せ、関係諸国に対しては、その顔色をうかがいつつ、もっとも陰謀的な外交を繰り広げたと、蒋介石秘録は解説する。
 米国は中国への進出が遅れていた。そのため中国の領土保全という大義名分をかかげて各国を牽制し、中国が各国に対して門戸開放、機会均等政策をとることを主張した。革命派に対して同情的で、もっぱら厳正中立を押し通し、中華民国の承認も、他国にさきがけ実行した。
 英国はもともと革命派に同情的だった。しかし革命が英国ともっとも関係の深い長江流域で発生したため、利害関係に細心で、中立をかかげながらも、一刻も早い政情の安定を願った。英国が国益のライバルとしたのは同盟関係にあった日本とロシアで、袁世凱へのテコ入れ、チベット問題などをめぐって、虚々実々のかけひきを繰り広げた。
 フランスは当初から中国革命を理解していた。中国革命の理想がフランス共和政府の理想と一致するものであると認め、内政干渉を避けようとした。しかしのちになって袁世凱支持に回り、中華民国承認についても、帝国主義的な野心をちらつかせた。
 ドイツは、当初清廷を助けようとし、武器の供給、ドイツ兵の上陸などを策した。山東省における権益を維持するために、清廷を支持しようとした。しかし、革命の進展とともに、日本の武力干渉の企図に気づき、米英各国と歩調を揃えて中国の主権尊重の立場を取り、日本の動きをけん制した。
 ロシアは清廷を支持し、革命派との交渉はなかった。表面的には内政不干渉を唱えていたが、本心は中国内部の混乱を機に、東北三省、外蒙、新疆などをめぐる中露両国の懸案を、有利に解決しようと考えていた。やがて東北三省における日本との取引、外蒙、チベット問題をめぐる英国との取引へと発展した。

 武昌起義の直後、漢口で開かれた、日、英、仏、独、露の五か国による領事団会議は革命軍を交戦団体として承認するとともに、正式に革命に対して中立を布告し、居留民にもその旨、通告した。この布告は清廷の陰謀を粉砕しただけではなく、外国勢力の中国侵略の野望を封じ込める効果もあった。しかし日本政府は、長江下流に軍艦数隻を派遣したが、漢陽にある大冶鉄鉱山の安全確保がその口実であった。大冶鉄鉱山は日清戦争後、日清戦争後、急成長した日本の鉄鋼業界が原料を求めて資本投下していた。日本の軍事行動は、たちまち列強の反発を受けた。米国はこれに強く反対し、日本の同盟国の英国ですら賛成しなかった。


脇道 辛亥革命

2014年06月21日 | 歴史を尋ねる

武昌起義の発端は1911年(明治44年)9月24日の作戦会議に始まる。革命の主軸となった文学社と共進会はメンバー六十数人を集め実行計画を打ち合わせた。起義の日は10月6日と決め、作戦の重点は大砲陣地と兵器庫の占拠におかれた。起義の噂はどこからともなくひろまった。新聞にも報道されるようになった。糊広総督は内閣に電報を打ち、武漢の防衛の手薄なことを訴えた。10月5日官兵に禁足令をだし、武官一帯で特別厳戒を実施している。革命軍の準備が遅れる中、9日革命軍の参謀長・孫武は漢口で爆弾づくりを行い、誤って爆発が起き重傷を負った。警察が駆けつけ三十数人が一網打尽、会員名簿、軍旗、ピストルなどが洗いざらい押収された。対岸の武昌では臨時総司令・蒋翊武は今夜12時に決行の命令を出した。しかしこの司令部も手順に失敗し軍警に一網打尽となった。10日朝、武昌は革命派を追い求める軍警であふれた。難を逃れた幹部もチリジリ、武器弾薬もすべて押収された。名簿を押収された以上遠からず摘発の手が伸びてくる、死中に活を求め残された同志で決起することになった。10日夜、武昌城内工兵第八大隊で騒ぎが起こったとき、革命派の同志・程定国が銃を掴んで第一発目の弾丸が放たれた。中華民国の黎明を告げる銃声であった、辛亥革命の幕は、ここに切って落とされたとサンケイ新聞刊「蒋介石秘録」は記述する。たちまち決起を呼びかける声が充満し、さらにあちこちの部隊も呼応して決起し、革命派はあっけなく兵器庫を手に入れた。翌11日夜明けまでに、武昌城内は完全に革命軍の制圧するところとなり、時を同じくして対岸の漢口、漢陽も起義に向って進み、武漢三鎮は革命軍の手に落ちた。武漢三鎮の光復は、清朝の権威が失われつつあった中国全土に、決定的な衝撃を与えた。武昌起義から一か月のうちに、十五省が光復、軍政府が樹立された。

 孫文は米国西部を募金活動中であった。その日新聞を広げると「武昌、革命党に占領さる」という見出しが飛び込んできた。自ら革命の指揮をとろうか迷ったが、結局革命は中国にいる同志たちに任せ、外交面で力を尽くした方が良いと考え直し、直ちに英国、フランスに向かうことを同志に伝えた。世界の世論は、すでに革命軍支持に傾いていた。デーリー・メール紙(英国)「欧州人を侵害しない限り、干渉すべきでない。革命は中国国内の争いであり、外人が干渉すべきことではない」、デーリー・テレグラフ紙(英国)「中国人の教育、自治の権利を奪うような老衰政府は、消滅すべきである。革命党を大いに歓迎する。中国人は愚かでも、無能力者でもない。数日のうちに中国共和政体の出現を見ることになるであろう」 英国との交渉の目的は清廷が英、仏、米、独四か国銀行団との借款取り決めで、凍結・停止を求めるものであった。孫文はグレー英国外相から、①清廷に対する一切の借款を停止する。②日本が清廷を援助することを制止する。③英領各地で出された孫文放逐令を取り消し、孫文がスムーズに帰国できるようにする、三つの約束を取り付けた。孫文帰国を待ち受けた上海の話題は、孫文がどのくらいの資金を持ち帰って来るかだった。孫文は記者の質問にこたえ、「私は一文無しだ。持ち帰ったのは、革命の精神だけだ」 翌日早くも同志は孫文を臨時大総統に選ぶことを各省の代表に持ち掛け賛同を得た。翌日各省代表者会議が南京で開かれ、新暦を採用して、年の明けた1912年元旦孫文は大総統に就任、中華民国が誕生した。


脇道 革命前夜

2014年06月18日 | 歴史を尋ねる

 清朝末期、心ある若者たちは、こぞって留学救国を唱えていた。蒋介石は18歳のころから日本に留学し、陸軍に学ぶことを志望していた。日露戦争における日本の勝利が、日本を選ばせた。「日本に学べ」の声は、中国の前途を憂う青年たちの合言葉になっていた。日本で入学したのは振武学校であった。これは清廷から派遣された軍事留学用専用の陸軍予備学校で、三年間の訓練を受けた後、卒業後は士官候補生として、日本国内の連隊に配属されることになっていた。というのは、義和団事件以来、留学生の間に革命運動が広まり始めたので、当局による留学生の管理、取り締まりを狙いとしていた。しかし蒋介石は日本到着後、すぐに中国革命同盟会へ加入した。1910年振武学校在学最後の年、孫文とはじめて対面した。孫文との出会いによって、革命への志向は明確に定まった。この年の12月、新潟県高田の第13師団野砲兵第19連隊に入隊、実践訓練に励んだ。

 1910(明治43)年12月、長年心に期していた日本陸軍を実地に学ぶ時が来た。野砲兵連隊への配属も希望通りであった。兵営における生活は厳しかったが、ここで体験として得たものはじつに大きかった。明治維新の立国精神を感得し、武士道の精神に触れる生活がそこにあった。のちに「私は、日本の伝統精神を慕い、日本の民族性を愛している。日本は私にとって第二の故郷である」とまで言い切った日本認識は、この時期に得たものであった。「私が連隊に入隊したあとの生活状況は、わが国の一般青年学生のは想像も及ばないものであった。当初二等兵だった。入隊は冬季に行われる。高田は寒さが厳しく、冬になると大雪が積もる。毎朝五時前に起床し、井戸端に行って、冷水で顔を洗った。少年のころは体が丈夫でなかったが、みずから鍛錬に意を注ぎ、体は強健になってきた。野砲兵の重要な日課の一つに馬の世話があった。これは最大の修行になった。苦をもって楽となし艱難危険を恐れぬ精神はこの仕事を通じて得た。馬は決して酷使するものではなく愛護するものであった。また、粗食をもって知られる日本の軍隊の食事は、質量ともにかって経験したこともないほどひどいものだった。しかしこれも軍事教練の一つでもあった。そして軍隊内における精神教育は極めて厳格なもので、兵舎内での日常生活にまで規律が行き届き、すみずみまで緊張感がみなぎっていた。この時期蒋介石は日本を吸収することに振り向けられた。ひたすら訓練に身を委ねていたが、自国中国での革命の動きは、日を追って高まりつつあったと、「蒋介石秘録」は伝える。

 清国政府は人心をつなぎとめるために、「不分満漢」(満人と漢人を差別しない)の政策をかかげ、1906年には預備立憲を宣布、1908年には憲政大綱(9年後に国会を召集)と矢継ぎ早に近代化政策をとっている。清廷が憲政大綱を発表して間もなく、1908年11月光緒帝が死去、翌日西太后が74歳で没した。これが清廷の落日に拍車がかかった。光緒帝には嗣子がなかったので、光緒帝の実弟の子である溥儀がわずか三歳で帝位につき、宣統帝と称した。太祖(ヌルハチ)から数えて十二代目、清国最後の皇帝である。溥儀は辛亥革命後廃帝となり、のちに一時満州国皇帝を称した人である。

 1911年5月清廷は慶親王を総理大臣として責任内閣を組織した。新内閣は組閣の翌日、鉄路(鉄道)国有化を宣布したが、これが民衆の反対運動を呼び起こし、清廷崩壊へとつながった。国有化されることとなったのは広東ー漢口間と四川ー漢口間の2線であった。すでに4年前から民営による建設がきまり、建設資金には地元の地主が小作料の3%を出資金として積立てていた。これを国有化し、返還には債券を充てる方針であった。それほど清廷は財政危機に見舞われていた。しかし自分たちの金と労力で築いてきた鉄道が、突然政府に奪われることに、反発した。鉄道が国有化されれば四川が滅びると訴え、反対運動が組織された。民衆の決起は燎原の火のごとく聖都から近隣に広がり、編成された民軍が清軍と戦闘態勢に入った。民軍の旗にスローガンがしるされたが、それは同盟会のスローガンであり、民軍の先頭には同盟会員が立っていた。同盟会はすでに、武昌と漢口の秘密革命組織と連合会議を開き、武昌で相呼応して決起することを決めていた。臨時総司令部を組織し主要ポストを決めて、9月21日までに起義の具体的準備を終了する手はずを整えた。


脇道 孫文と蒋介石

2014年06月14日 | 歴史を尋ねる

 1894年(明治27年)、孫文はハワイで興中会を結成した。日清戦争が勃発した年で、孫文29歳であった。第一回会議の出席者は二十数人で、ほとんどが孫文と同じ広東省の出身で、孫文が主席となった。発表された宣言書は「中国の積弱は限度にたっし、上は因循姑息、粉飾虚帳、下は蒙昧無知で先を考えることが少ない。近年の国辱的敗北で中国は隣邦と同列におかれず、文物衣冠も外国に軽んじられている。四億の民と数万里の豊かな土地があれば、天下無敵の雄になれる。しかるに売国奴は国を誤り、人民は苦しみ、国の衰退はその極みにある。列強は中華の富や物産を虎視眈々と狙い競ってわが国土を分割しようとしている。危機は目前にある。諸君、中華の復興のため、知恵と力を合わせよう、同志諸君、決起せよ。」 甲午(日清)戦争の戦局は日増しに悪化、清廷の威信は地に落ち、人民の憤激は極みに達した。同志の帰国要請で香港に立ち寄り興中会の本部を香港に置いて、広州ではじめて起義(蜂起乃至革命)を決行しようとするが仲間の密告で失敗、日本に逃れアメリカを経て英国に渡った。清国政府は孫文を起義(革命)の首謀者として、賞金をかけて捜索、ロンドンの清国公使館による孫文監禁事件が発生した。英国政府はこの事件を国の主権の侵害、基本的人権の問題ととらえ、慎重ではあったが、きわめて強硬な態度で臨み、孫文を釈放させた。この後孫文は大英博物館の図書館で三民主義の構想を得た。1905年ベルギーで開かれた留学生の革命団体成立会の席上、構想を述べ、中国同盟会の機関誌「民報」を東京で発刊した時、具体的内容を明らかにした。蒋介石は後に、三民主義(民族主義、民権主義、民生主義)は孫文の残したもっとも重要な教えであり、中華民国の最高理念であると言っている。

 中華人民共和国は孫文が容共主義者であったという解釈のもとに、革命の先導者としての敬意を払っている。しかし批林批孔にもみられるように、孔子を否定した時期があった。これに対し、孔孟の道に通じる三民主義を立国精神とする中華民国は、「共産党は自ら歴史を絶ち、文化を絶とうとしている。・・・孔孟の道の神髄は「仁」の一字にあり、三民主義による国政は、すべて仁に依拠する」と声明を発表していると、サンケイ新聞社刊「蒋介石秘録」は解説する。更に蒋介石は「三民主義は、マルクス主義と相容れない。マルクスは単なる社会病理学者であり、単に社会が進化するにつれて生じた病理だけを見て、社会進化の生理を見ていない。このためマルクスの定めたすべての方法は残忍で、消極的で、ただ社会の進化を阻害するだけで、甚だしくは社会の生存すら破壊する。これが三民主義と共産主義の根本的に相容れない点である」と記している。これは蒋介石が解説するところである。

 この時ロシア革命はまだ始まっていない。1905年中国革命同盟会の成立大会は、東京赤坂霊南坂の、代議士岡本金弥の別邸で、三百余人が参加して開かれた。会の規約が採択されたあと、黄興が孫文を初代総理に推薦し、執行部には、黄興、陳天華、廖仲愷らがなお連ね、評議部には汪兆銘ら、司法部には宋教仁らが押された。同盟会の成立は新しい中国を背負って立つべき主な主導者がずらりと顔を揃え、政権を担当する基礎的準備が整ったと秘録はいう。1906年、日本から帰国した留学生が湖南、江西両省で決起、それを機に清国政府の追及が強まり、孫文は日本から安南(ベトナム)に逃れた。その後も立て続けに革命を発動した。これらの革命に多くの日本人の志士たちが海を渡って参加した。しかしいずれも失敗、漸く清廷をくつがえすことができたのは、11回目の武昌起義をきっかけとする辛亥革命であった。


憲政擁護運動と立憲同志会 2

2014年06月09日 | 歴史を尋ねる

 両国国技館の国民大会から開けて2月10日、政友会・国民党の代議士は胸間に白薔薇を飾って登院した。群衆から身を守るための目印であると同時に、勅語にも拘わらず敢えて不信任案賛成票投票への登院であった。議会周辺に集まった群衆は白薔薇の代議士には万歳の歓声を上げて押し寄せ、あたりは騒然たる雰囲気に包まれた。警視庁は制服警官2200名、私服警察200名、騎馬巡査隊26騎を議会周辺に配置し、さらに騎馬憲兵三個小隊も警備に当たった。不穏な空気は、双方の小競り合いから、騎馬巡査が大群衆に突入したため大混乱が起こり、騒擾は鎮静化するどころか益々エスカレートしていった。巡査はサーベルを抜いて対峙、群衆は投石で対抗、日比谷公園、霞が関、内幸町一帯は戦場のような有様だったという。追いつめられた桂は、議会解散に打って出ようとした。解散手続きを進めるよう命じたが、このまま解散となれば内乱の危険を冒すこととなる、断然辞職する方が良いとの進言で、辞意を固めた。原敬日記にも「もし辞職せずんば殆んど革命的騒動を起したる事ならんと思はる」と記しているそうだ。

 2月10日の正午過ぎから翌11日未明にかけて、激昂した群衆はいくつもの御用新聞社を襲撃、国民新聞社前では自警団の反撃により、1人が拳銃で射殺され、数人が日本刀で斬られるという惨状が呈された。二六新聞社周辺では仕込み杖や短刀で武装した数十名の壮漢が抜刀した巡査と衝突し多くの負傷者を出した。暴徒は帝国議会や日比谷公園周辺はもとより、銀座、日本橋、神田、上野、浅草といった当時の中心部にも繰り出し、桂新党事務所や警視庁などにも投石し、交番70カ所余りが破壊された。もはや警察力では支えきれない、警視総監と東京都知事は総督に臨時出兵を請求、第一師団と近衛師団に出動命令が下り、830名の兵士が各所の出動し、事態はようやく沈静化した。この後、騒擾は日本全国に拡大し、大阪・神戸・広島・京都などでも同様の騒ぎが起こった。2月11日第三次桂内閣は成立からわずか50日余りで総辞職した。内閣制度発足以来最短命の内閣であった。2月20日第一次山本権兵衛内閣が成立した。薩派海軍と政友会との連立政権であった。小林氏は次のように感想を述べている。明治天皇という権力の中心点を失った明治国家は、この時期その運営を巡って混迷の度を深めており、桂もまたその政治的渦中で翻弄されたとみるべきかもしれない、と。桂太郎という二大政党の一翼を担うべき政治家はここに事実上失脚した。大正政変は山県と山県系官僚閥に大打撃を与えたが、同時に政権担当可能な野党勢力の成長も大きく出遅れることとなった。

 第一次山本権兵衛内閣は、陸海軍大臣現役武官制を廃止するとともに、満鉄経営に規模も大幅に縮小しようとしていた。山本内閣と与党政友会による急激な政策転換は山県や陸軍の反発を招き、たまたま発覚した海軍の汚職事件(シーメンス事件)によって、山本内閣は志半ばで総辞職に追い込まれた。そしてその後の政局の混乱の中でもたらされたものは、第二次大隈内閣による対華二十一か条要求と二個師団増設の実現であった。山県系官僚閥(陸軍)、薩派(海軍)、政友会、同志会という四つの政治勢力が熾烈な権力闘争を展開した結果、桂なき同志会は大隈の権力意思実現のための単なる道具と化し、これに憤った加藤や若槻は閣僚を辞任して抗議したが、時すでに遅かった。しかしながら、桂の幕下からは、加藤高明、浜口雄幸、若槻礼次郎という戦前日本の二大政党時代を代表する政党政治家が輩出した。加藤は護憲三派内閣の首班として、平時兵力を四個師団も減らして、陸軍の近代化を図るという宇垣軍縮を断行した。また、二十一か条要求の外交的失策を暗に認めて、日英米中心の国際協調体制=ワシントン体制の堅持へと大きく舵を切った。浜口は国内保守勢力の抵抗を押し切って、ロンドン海軍軍縮条約の調印・批准に踏み切り、英米との緊張緩和政策を推進した。若槻は更なる陸軍軍縮を実行しようとしていた。しかし民政党内閣経済政策の破綻と満州事変の勃発によって水泡に帰したが、この間、憲政会・民政党内閣は一貫して国際協調外交を堅持し続けた。


憲政擁護運動と立憲同志会

2014年06月08日 | 歴史を尋ねる

 大正元年(1912)12月、第三次桂内閣が発足した。山県系官僚を一切退けた内閣であった。新内閣は外務加藤高明、内務大浦兼武、大蔵若槻礼次郎、逓信後藤新平、陸軍木越安綱、海軍斉藤実、農商務仲少路簾、司法松室致、文部柴田家門・・・。加藤高明はかねてより元老政治には批判的で、第一次西園寺内閣の時に、公債過多と陸軍専横の抑制の観点から鉄道国有法案に反対して外相を辞任した経緯があり、桂が加藤を起用したのは、健全財政主義と反元老・反陸軍という基本姿勢で一致していたこともあるが、より根本的には加藤の親英主義や議会政治観の共感を覚えるようになったからだと、小林道彦氏はいう。イギリス訪問が夢と消えた桂にとってイギリス政党政治の加藤の実地見聞にもとづく知識は、桂の政界刷新の指南役として期待された。政党嫌いでアジア主義者の小村壽太郎から、イギリス流の議会政治を信奉する加藤高明へとそのブレーンを変えたのであり、桂の鮮やかな転身を示していると小林は言うのである。

 ところで日英同盟の動揺により空文化した帝国国防方針の見直しを考えたが、前内閣で予算化された海軍拡張計画に影響が出るとして、斉藤は海相入閣を拒んだ。桂は優詔(天皇のみことのり)渙発を奏請し、斉藤留任の勅語が下された。桂の度重なる優詔政策は、ただでさえ第二次西園寺内閣の毒殺と憤っていた新聞世論をいたく刺激した。前内閣総辞職の直後から閥族の横暴跋扈を非難する声は政党人や新聞記者の間で上がっており、東京歌舞伎座で「憲政擁護連合大会」が開催され、会場には板垣退助、尾崎行雄、犬養毅などをはじめとする貴衆両院議員が壇上に並び、聴衆が殺到した。この時「吾人は断固妥協を排して閥族政治を根絶し、以て憲政を擁護せんことを期す」との決議案が採択された。この決議が憲政擁護運動の始まりを告げる狼煙であった。以後、同様の集会は日本全国で開かれ、運動は日本全国へ急速に拡大していった。この間、桂と政友会の原敬の関係も急速に悪化した。閥族打破の声が全国に広がるなかで、原は桂と妥協すると政友会の人気が落ちると判断、大浦内相が就任したことにも反発、もはや桂と政友会との提携関係はなくなった。大正2年1月桂は山県系官僚閥幹部の田健次郎に自らの政権の一端を漏らしている。施政方針で財政整理国防方針を語り、将来の憲政運用について、現政党改造新政党組織の必要性を語った。そして陸海軍大臣文官制の導入を披歴、政党勢力による軍のコントロールを構想していた。予想される陸軍の抵抗を排除する為、強力な新党を結成して世論を味方につける必要があった。こうした政党を世に問えば、世論は必ず新党を指示するだろうと。桂が憲政擁護運動に無頓着に山県から見れば見えたのはそのためで、桂には憲政擁護、閥族打破はいずれ、自分を指示し山県を糾弾する声になると信じていたと小林氏は分析する。

 2月桂は私邸に新聞記者を招き、桂新党=立憲同志会の組織並びに宣言書を発表した。まt、全国に同志勧誘の書を発した。この時までに新党参加者は97名に達していた。参加者は、①加藤高明、若槻礼次郎、浜口雄幸、江木翼ら若手官僚出身者、②後藤新平、仲小路簾ら桂直参官僚グループ、③大石正巳、河野広中、島田三郎ら旧立憲国民党改革派グループ、④大浦兼武ら中央倶楽部、⑤秋山定輔ら国民主義的対外硬派に大別された。彼らに共通の政策はなんであったか。それは、健全財政主義に基づく軍備縮小、満州問題の解決(租借期限を迎える関東州をいかに延長させるか)、社会政策の積極的導入であった。ところが事態は思わぬ展開となった。帰国して間もない外相の加藤が、イギリスの政争をやめる方法として即位間もないジョージ五世が政争を一年だけ見合わせて貰いたいと言い出され、両党は直ちに政争をやめた逸話を紹介し、天皇も服喪期間だから政争を控える勅語を出してもらったらどうかと提案した。桂はこの案に飛びついたが、勅命が下ると政友会内部に激震が走った。西園寺や原は大命に従うしかあるまいとの意見であったが、尾崎などは天皇に直諌すべしと息巻いた。原の日記には「党員激昂せり、畢竟桂が聖旨を仰ぎて議会を押さえ、又西園寺を毒殺するものとして憲政上忍ぶべからざる事として党員大いに憤慨せしなり」と記していた。この日両国国技館で開かれた国民大会には二万人の大群衆が集まり、憲政擁護の旗印、翩翻として野に山に、閥族打破の攻め鼓、四海の果てまで轟けりと討閥の歌を大合唱したそうだ。


第三次桂内閣への衝動

2014年06月06日 | 歴史を尋ねる

 明治44年7月、第二次桂内閣は第三回日英同盟協約を締結した。背景にはノックス国務長官の満州鉄道中立化案が日露協約の成立を促すとともに、アメリカを仮想敵国から除外する再改定内容であったが、明治44年(1911)に入って清国情勢がいっそう不安定化し、いつ争乱が起こってもおかしくなく、その時は英国が日本の対清政策を支持してくれることを暗に期待し、再改定に踏み切った。同盟の重点は対露抑止以上に支那保全におかれるようになったと小林道彦氏は分析する。ところが辛亥革命に際して、第二次西園寺内閣が公然と推進した対清政策は、日英協調して清国情勢に介入し、立憲君主制の導入によって清朝と革命派を妥協させるものであったが、英国は北洋軍閥最大の実力者袁世凱と提携して、共和国の樹立で事態収拾の主導権を握ろうとしていた。日本にとって共和国の樹立は、革命派の利権回収要求と反日的な袁世凱の結合を意味した。12月の閣議では立憲君主制樹立による官革妥協策の放棄が承認され、元老会議も、対英協調路線を堅持することが再確認された。その水面下で陸軍は満州権益の擁護に関心を集中するようになり、山県や寺内は満蒙問題に対するロシアとの協調と、満州への師団の出兵を主張するようになった。しかし西園寺内閣・政友会・海軍といった親英派勢力の反対の前に、陸軍の満州出兵論は実現を阻まれた。この頃から日英同盟に対する不信感が陸軍内部に広がり始めた。こうして国論の静かな分裂は同盟を前提に策定された帝国国防方針を損ない、軍事拡張をめぐる陸海軍の対立抗争が芽生えだした。

 桂は当時政友会が清国情勢の激変を隣の火事視していること、原と政友会が自らの政策的利益を追求していることに不信を募らせ、桂園体制存続の暗黙のルールであった、桂は軍備拡張要求を、西園寺は党内の積極予算を抑制するものであったが、桂の政策体系と政友会の積極政策が真っ向から衝突するようになり、桂園体制という政治的枠組みの維持が困難になってきた。更に桂は山県の陸軍支配そのものを問題視するようになった。そして当時発生し始めた都市問題を山県系官僚閥はもっぱら治安問題と認識し警察権の強化で対応しようとし、これらの諸問題を根本的に解決するためには国内政治体制の全面的な刷新が必要であり、自分が新党をつくってその先頭に立たねばならないとの決意を密かに固めたと小林氏はいう。そのためには政党政治の本場英国で実地に研究する必要があるとして、若槻礼次郎も同行することとなり、ジョージ五世への謁見、首相、外相らとの会談も英国大使加藤が整えた。しかしシベリア鉄道でロシアを横断途中、明治天皇の急逝で渡英は中止し、引返すこととなった。そして東京に向かう列車に寺内が車中に乗り込み、内大臣として大正天皇の側に仕えるよう話があり、桂の内大臣就任は世上猜疑の眼で迎えられたが、この人事は山県の策謀であった。桂の政界復帰願望を削ぐことであったと、いうのである。

 大正元年(1912)陸軍は予算作成過程で二個師団増設問題を投入した。当の山県、寺内には西園寺内閣を打倒してまでこの要求を押し通そうという意思はなかった。妥協案を陸軍筋は度々出していた。一方政友会も部分実施や一年延期で妥協できないかと考えていた。反面海軍拡張問題には内閣は前向きであった。海軍と内閣・政友会との連携は、山県系官僚閥と政友会に微妙な影を落とした。宮中にいる桂にとって増師問題の紛糾は政権復帰のチャンスと見た。逡巡・動揺する上原陸相や田中義一を焚き付け要求を強めさせ、例の上原陸相辞任問題に発展した。西園寺や原は山県に倒閣の意思ありと解釈し、閣僚の辞表を捧呈した。桂は山県の裏をかいて、第二次西園寺内閣を山県の手で倒閣させた。さらに後継首班であるが、度重なる元老会議でもなかなか決まらず、元老制度の存在理由を疑う声が上がり始め、業を煮やして山県が自ら出馬することを表明した。追いつめられた山県は自ら出馬を表明することで暗に桂の出馬を促した。桂が待っていたのはこの瞬間だったという。桂は大正天皇の許しを得て、第三次内閣の組閣をすることになった。


大正デモクラシーの一里程標(マイルストーン)

2014年06月03日 | 歴史を尋ねる

 日露戦勝により台頭した陸軍は、その軍事拡張要求を押し通すために上原勇作陸相を単独で辞任させて、後継陸相選出難を理由に時の第二次西園寺内閣を総辞職に追い込んだ。山県は後継首班に派閥ナンバー2の桂を指名し、桂は言葉巧みに大正天皇を操って宮中から脱出、第三次内閣の組閣に成功する。世論はこうした閥族の専横に強く反発したが、桂は世論の批判をかわすために敢えて政党組織に踏み切った(立憲同志会結党宣言)。しかし小手先の政治的弥縫策に人々は惑わされることはなかった。帝国議会は「憲政擁護、閥族打破」を呼号する万余の群集に取り囲まれ、ついに桂は内閣総辞職を余儀なくされる。民衆運動(第一次憲政擁護運動)が閥族内閣を実力で打倒した。大正政変こそ大正デモクラシーのマイルストーンを画した画期的事件であった・・・・。通説は以上の通りである。結果、第一次憲政運動は山県系官僚閥と陸軍、さらに桂と桂新党に大打撃を与えた。特に山県らの政治的打撃はきわめて大きく、久しく政治的に低迷していた薩派の山本権兵衛内閣が成立した。山本内閣は憲政擁護運動を担った政友会と海軍の連立政権であり、文官任用令・分限令を改正して政党勢力の勢力伸長を図ると同時に、陸海軍大臣現役武官制の廃止や植民地総督武官専任制の廃止、さらに満鉄経営規模の大幅縮小などを通じて、陸軍主導の積極的大陸政策を強く抑制しようとした。大正3年、山本内閣は不幸にしてシーメンス事件で倒れたが、この内閣がもう少し続いていれば、これらの政策も全面的に実行に移され、原敬を首班とする本格的政党内閣の成立ももっと早まっていたかもしれないと小林道彦氏はいう。大正政変は、政治の民主化のマイルストーンだった、と。

 小林氏がいうのは、大正政変には当時のほとんどの政治勢力(元老、陸海軍を含む官僚勢力、政友会・国民党などの政党勢力、都市民衆運動)が参加しており、日露戦後政治史の総決算的な位置を占めている。その結果出現した桂新党は後の憲政党ー立憲民政党の直接的前進であり、戦前期日本における初めての二大政党時代の前提条件が整備された。桂新党問題こそ大正政変の中心的問題であるが、台頭する軍閥の政治利害の代弁者として、山県と桂をひとくくりにとらえる旧来の大正政変論では、なぜ二大政党が生まれたか説得的な解答が提示できない。この問いの過程を復元しようと小林はいう。

 明治39年(1906)1月、かねての約束通り第一次西園寺内閣が成立し、以後桂と西園寺が交替で政権を担当する「桂園体制」が出現する。これは山県排除の論理を内包していた。西園寺の首班指名は元老会議を開いて決めるようにとの明治天皇の意向を押し切る形で、桂一人の奏薦によって行われた。これは新しい後継首班指名方式で、元老抜きの慣行を作り出そうとした。日露戦後の政治体制は政党勢力の台頭と桂が山県から自立し政治家として成長する過程で、一方寺内陸相が陸軍省支配を確立する過程でもあった。後に桂が新党結成に踏み切る(大正2年)が、山県との関係が疎遠となり、寺内の支配が徐々に浸透すると、陸軍における桂の政治的影響力に陰りが生じ、政治家として成長すればするほど、新たな政治基盤を求めざるを得なかった。桂が第二次内閣の総辞職を奏上する時、「諸元老皆ようやく衰耗加わり、自ら大政を処理し輔弼の責に任じるとする気力なく、前途寒心に堪えざるものあり。今政務一段落するを機として、暫く道を後進に譲り、以て他日の材を養成せんとするなり」と率直に自らの意見を開陳している。第二次桂内閣の治績は、韓国併合・条約改正・財政整理・日英同盟改定など多岐にわたり、内閣存立理由と為すに足るものであって、自ら三度目の政権担当に含みを残したものと、小林氏はコメントしている。


大正デモクラシー

2014年06月02日 | 歴史を尋ねる

 明治期は、江戸幕末の、混乱期ではあったが次の時代を切り開く準備期間を経て、一気に世界に飛び出し、欧米諸国に伍して独立国家としての地位を確立していった時代であった。この時代の苦闘を少しでも感じ取れる事実関係をこれまで拾い集めた。これからしばらくは言葉は明確であるが、実態がよく見えない大正デモクラシーを追いかけてみたい。ウキペディアによると、「大正デモクラシー」は諸説あり、呼称されるべき期間も幾つかあるという。
  1.桂太郎内閣への倒閣運動から治安維持法の制定まで、1905年(明治38年)~1925年
    (大正14年)とする説。
  2.桂太郎内閣への倒閣運動から満州事変まで、1905年(明治38年)~1931年(昭和6年)
    とする説。
  3.辛亥革命から治安維持法制定まで、1911年(明治44年)~1925年(大正14年)とする
    説。
  4.第一次世界大戦終結(ドイツ革命)から満州事変まで、1918年(大正7年)~1931年(昭
    和6年)とする説。
など、その定義内容に応じて変動するが、いずれも辛亥革命から治安維持法制定までの時期を中心として、1917年(大正6年)のロシア革命や、1918年(大正7年)のドイツ革命と米騒動を民主化運動の中核と見なす点においては共通しているという。どうもこれだけの説明では内実が良く見えないので、その実態にもう少し迫りたい。

 その手掛かりとして、「百年の遺産」著者岡崎久彦氏は、大正デモクラシーの完成を大正13年から昭和6年の8年間の政党政治時代だといっている。この間の政治は、軍にも政治に介入を許さない、国際的基準から見ても、完全なデモクラシーだったと解説している。加藤高明、若槻礼次郎、田中義一、浜口雄幸と首相が続いた。その後、昭和6年9月満州事件が起こり、翌年には5・15事件が起こっている。なぜその後軍閥支配に取って代わられたのか、デモクラシーを守るのはどうすればよいか、これが繰り返される問いだと岡崎氏自身も語っている。そして、それは初めての民主政治だったからだという。「民主政治は最悪の政治であるが、今までに存在したいかなる政治制度よりましである」という哲理、あるいは諦念に達するには、英国といえども何世紀かの試行錯誤を経ている。戦前の日本には、まだ民主主義以外の選択肢があった、と。ふーむ、なかなか深い思索だ。