軍部すら平和的方針をとらざるを得なかったのに、何故日本政府は挑戦的な「焦土外交」を採用したのだろうかという緒方氏のテーマの続きである。8月27日の「時局処理方針案」では、列国の「特殊事情をも利用し列国との間の友好関係を増進」する方針としており、列国との間に相互理解の余地が依然存在し、国際的な敵意が必ずしも戦争を意味するものではないとの判断に基ずくものであった。そして、英国、フランス、米国、ソ連の四か国を日本が特別な政策的考慮を必要とする国と指定した。
では英国から。英国は昭和7年1月に治外法権問題について日英両国が共同で中国と交渉することを提案したが、この事も日英協調を回復する可能性として方針案に挙げられた。満州事変中、不承認主義を宣言するよう呼びかけたスチムソンの要求にサイモンが拒否した経緯もあり、英国の特殊利益を有している「上海・広東その他長江沿岸及び南支方面における英国の立場を適当に尊重」することで、英国との協力関係を樹立することを期待した。昭和7年7月陸軍省から出版された「満州事変に対する列強の態度」と題する小冊子は日英協力を可能とする現実的な基盤として、①伝統的友好関係、②ロシア南下阻止の必要性、③中国ナショナリズムに対する共通の利害、④香港問題を挙げている。香港は日本が条約に基づく満州での権益を喪失すれば、差し迫った危険に直面する。軍部は英国が日本との友好関係の維持を余儀なくされるであろうと判断、場合によってはインドに対する安全を保障することも考慮した。
次いでフランス。日仏協力の基礎は、極東で有している共通の利益であった。満州については何ら直接の利益を有していなかったが、インドシナ及び広州湾地域に重大な権益を有していたため、中国ナショナリズムの失権回復要求に対しては強硬な手段を用いてもこれを保護する立場にあり、日本と接近する可能性が大と考えられた。また、フランスはナチス・ドイツの台頭および独オーストリア合併の結果欧州におけるフランスの失墜を憂えて、日仏接近を求めるのではないかとも考え、政府としては日仏協商の締結も想定していた。極東での日仏接近は、英国にも中国問題に関して日本との協調的立場をとるに至らしめる契機となることを期待していた。関東軍は満州開発にあたりフランス資本に優先権を与えることに同意しており、インドシナの安全について保障を与えることも考えていた。
米国については前回も触れたが、日本の極東政策に関し了解を得ることが最も困難な国と目されていた。時局処理方針案では米国との対決にそなえ、内外諸般の準備を速やかに進め置くの必要性を指摘しているが、この時点では政府はまだ戦争がそれ程切迫しているとは考えていなかった、と。ということは、内田外相の焦土外交発言は日本の断固たる意思表示の修辞上の言葉か。現在北朝鮮が採用している、瀬戸際外交か。当時日本はそこまで追い込まれていなかった。もう少し外交上の言葉があったのではないか。
当時米国は深刻な経済不況に悩んでいたし、海軍軍縮条約の結果海軍力には限界があった。そして中国における米国の利害は米国に軍事行動をとらしめる程重要なものではないとの見通しに日本は立っていた。また、関東軍の情勢判断の中で、米国の極東貿易及び投資は日本が中国よりはるかに大きい割合を占めている点を強調し、「米国は経済的利害の打算に依り国策を決するの傾向特に顕著なる国柄」であることを指摘して、米国が対日戦争に突入することはあり得ないと結論した。そして前回触れた政策に至ることとなった。
更にソ連について。満州事変を通じて、日ソ両国が直接衝突を回避しようと努力した。日本では軍中央部と関東軍の間で取り交わされた最大の論争は、関東軍の北満進出をめぐるものであり、ソ連を挑発する危険を冒すものとして禁止した。結局関東軍は徐々に北満の要所を占領するに至ったが、ソ連は妥協的態度を守る続け、昭和6年12月には日ソ不可侵条約の締結を提案した。ソ連のこの提案は日本をジレンマに陥れた。具体的に不可侵条約の締結という問題に直面すると、満州国の安定を計ると共に日本の立場を拘束しないよう、条約によらず不可侵の意図を表明することを希望した。条約締結をためらった理由は①ソ連の軍事力が次第に増強されていくことに陸軍は不安を感じ、先に行くほど不利となる。②対露戦を仮定して軍備を拡大してきた陸軍としては、ソ連からの脅威はある程度必要であり、将来の日露戦争は不可避で、また満蒙経営に妨害行為をするか赤化の魔手を恣にする場合、日本は直ちに行動できるよう準備を固めておく必要を考えていた。
ソ連及び中国からの共産主義の浸透が、満州国の真の脅威となり得たことは否定できない。緒方氏は、それならば条約に共産主義宣伝活動を禁止する条項を付け加えることも可能であったと考えたが、しかしソ連は米国にもいまだ承認されておらず、国際連盟の加盟国でもなく、国際社会において孤立的立場にあった。これは共産主義国家と資本主義国家間に介在した一般的な敵意を反映したものであった。従ってソ連との不可侵条約締結は、赤化阻止という大義名分を損なうものであった、と。日本は昭和7年12月、日ソ不可侵条約の締結を拒否したが、その後まもなくソ連は中国に接近し、中国との間に正式な外交関係を樹立した。
それでは、満州事変直後の日本の対中国政策はどのようなものであったか。時局処理方針案では、列国との協力の下に中国との経済関係を促進することを目標に掲げていた。しかし日本の満州占領の結果高まった中国の反日感情を考慮した場合、中国が自ら進んで日本の貿易相手国となるのを期待することは到底無理であった。しかしこの時期における日本側の資料中には、中国の報復、特に軍事的報復に対する懸念は全く見当たらない、という。明治の指導者を恐れさせた「眠れる獅子」は払拭され、今は弱体化した中国しか見えなかった。
関東軍の昭和7年「情勢判断」では、「支那に統一なく政情不安なるは即ち満蒙問題の解決を有利ならしむるものと謂うべく東洋永遠の平和を確立する途上要すれば機宜の措置として之を助成すること亦一策たるを失わず」(索引注:板垣征四郎「情勢判断」昭和7年5月) 緒方氏は「情勢判断」をもとに、関東軍が中国に対し大規模な介入や紛争を考えていたのでは無かったことは関東軍の関心が当時の満州の開発にあり、そのためには列国を刺激しないよう自制の必要を説いていたことからも推察できる、と。日本の中国政策を牽制したのは列国の動向であった。列国は、中国に対し常に強い関心を示し、日本の行動を監視していたので、日本は列国の諒解なしには中国に於いて何らの手を打つことも出来なかった。ところで、緒方氏は板垣のいう「助成すること亦一策」について触れていないが、これは何を指しているのか。当時の中国は国民党内部の紛争、国民党・共産党間の抗争による内戦で分裂状態にあった。歴史の先読みが出来れば、蒋介石を援けて国民党政権を作ることで満州問題の解決策を見出すことも考えられたか。ただ板垣の云う一策とはそこまでは見えていないだろう。
満州事変中、日本は連盟ならびに列国に対し、「支那は組織ある国家にあらず」と論じたが、これは日本が満州分離を画策し中国の領土保全尊重の条約に違反しているという列国の非難に対する外交上の対抗手段であった。中国の地位に関する正式見解を昭和7年2月国際連盟宛て声明で上記のことを表明した。満州における中国主権をこのような形で否定しようという政策(中国が組織ある国家に値しない)を推し進めたが、この政策は中国に対する帝国主義的意図であり、満州人民に対し民族自決と自治の高遠な原則と皮肉な対象なしていると、緒方氏。日本は列国との友好関係の促進を政策目標としたが、中国との間には依然敵対関係が継続することを予想し、それを緩和する何らの措置を講じる意図も持ち合わせていなかった、と。満州事変の収拾策が見つからず、中国要人とのパイプも途絶えたのかな。
では英国から。英国は昭和7年1月に治外法権問題について日英両国が共同で中国と交渉することを提案したが、この事も日英協調を回復する可能性として方針案に挙げられた。満州事変中、不承認主義を宣言するよう呼びかけたスチムソンの要求にサイモンが拒否した経緯もあり、英国の特殊利益を有している「上海・広東その他長江沿岸及び南支方面における英国の立場を適当に尊重」することで、英国との協力関係を樹立することを期待した。昭和7年7月陸軍省から出版された「満州事変に対する列強の態度」と題する小冊子は日英協力を可能とする現実的な基盤として、①伝統的友好関係、②ロシア南下阻止の必要性、③中国ナショナリズムに対する共通の利害、④香港問題を挙げている。香港は日本が条約に基づく満州での権益を喪失すれば、差し迫った危険に直面する。軍部は英国が日本との友好関係の維持を余儀なくされるであろうと判断、場合によってはインドに対する安全を保障することも考慮した。
次いでフランス。日仏協力の基礎は、極東で有している共通の利益であった。満州については何ら直接の利益を有していなかったが、インドシナ及び広州湾地域に重大な権益を有していたため、中国ナショナリズムの失権回復要求に対しては強硬な手段を用いてもこれを保護する立場にあり、日本と接近する可能性が大と考えられた。また、フランスはナチス・ドイツの台頭および独オーストリア合併の結果欧州におけるフランスの失墜を憂えて、日仏接近を求めるのではないかとも考え、政府としては日仏協商の締結も想定していた。極東での日仏接近は、英国にも中国問題に関して日本との協調的立場をとるに至らしめる契機となることを期待していた。関東軍は満州開発にあたりフランス資本に優先権を与えることに同意しており、インドシナの安全について保障を与えることも考えていた。
米国については前回も触れたが、日本の極東政策に関し了解を得ることが最も困難な国と目されていた。時局処理方針案では米国との対決にそなえ、内外諸般の準備を速やかに進め置くの必要性を指摘しているが、この時点では政府はまだ戦争がそれ程切迫しているとは考えていなかった、と。ということは、内田外相の焦土外交発言は日本の断固たる意思表示の修辞上の言葉か。現在北朝鮮が採用している、瀬戸際外交か。当時日本はそこまで追い込まれていなかった。もう少し外交上の言葉があったのではないか。
当時米国は深刻な経済不況に悩んでいたし、海軍軍縮条約の結果海軍力には限界があった。そして中国における米国の利害は米国に軍事行動をとらしめる程重要なものではないとの見通しに日本は立っていた。また、関東軍の情勢判断の中で、米国の極東貿易及び投資は日本が中国よりはるかに大きい割合を占めている点を強調し、「米国は経済的利害の打算に依り国策を決するの傾向特に顕著なる国柄」であることを指摘して、米国が対日戦争に突入することはあり得ないと結論した。そして前回触れた政策に至ることとなった。
更にソ連について。満州事変を通じて、日ソ両国が直接衝突を回避しようと努力した。日本では軍中央部と関東軍の間で取り交わされた最大の論争は、関東軍の北満進出をめぐるものであり、ソ連を挑発する危険を冒すものとして禁止した。結局関東軍は徐々に北満の要所を占領するに至ったが、ソ連は妥協的態度を守る続け、昭和6年12月には日ソ不可侵条約の締結を提案した。ソ連のこの提案は日本をジレンマに陥れた。具体的に不可侵条約の締結という問題に直面すると、満州国の安定を計ると共に日本の立場を拘束しないよう、条約によらず不可侵の意図を表明することを希望した。条約締結をためらった理由は①ソ連の軍事力が次第に増強されていくことに陸軍は不安を感じ、先に行くほど不利となる。②対露戦を仮定して軍備を拡大してきた陸軍としては、ソ連からの脅威はある程度必要であり、将来の日露戦争は不可避で、また満蒙経営に妨害行為をするか赤化の魔手を恣にする場合、日本は直ちに行動できるよう準備を固めておく必要を考えていた。
ソ連及び中国からの共産主義の浸透が、満州国の真の脅威となり得たことは否定できない。緒方氏は、それならば条約に共産主義宣伝活動を禁止する条項を付け加えることも可能であったと考えたが、しかしソ連は米国にもいまだ承認されておらず、国際連盟の加盟国でもなく、国際社会において孤立的立場にあった。これは共産主義国家と資本主義国家間に介在した一般的な敵意を反映したものであった。従ってソ連との不可侵条約締結は、赤化阻止という大義名分を損なうものであった、と。日本は昭和7年12月、日ソ不可侵条約の締結を拒否したが、その後まもなくソ連は中国に接近し、中国との間に正式な外交関係を樹立した。
それでは、満州事変直後の日本の対中国政策はどのようなものであったか。時局処理方針案では、列国との協力の下に中国との経済関係を促進することを目標に掲げていた。しかし日本の満州占領の結果高まった中国の反日感情を考慮した場合、中国が自ら進んで日本の貿易相手国となるのを期待することは到底無理であった。しかしこの時期における日本側の資料中には、中国の報復、特に軍事的報復に対する懸念は全く見当たらない、という。明治の指導者を恐れさせた「眠れる獅子」は払拭され、今は弱体化した中国しか見えなかった。
関東軍の昭和7年「情勢判断」では、「支那に統一なく政情不安なるは即ち満蒙問題の解決を有利ならしむるものと謂うべく東洋永遠の平和を確立する途上要すれば機宜の措置として之を助成すること亦一策たるを失わず」(索引注:板垣征四郎「情勢判断」昭和7年5月) 緒方氏は「情勢判断」をもとに、関東軍が中国に対し大規模な介入や紛争を考えていたのでは無かったことは関東軍の関心が当時の満州の開発にあり、そのためには列国を刺激しないよう自制の必要を説いていたことからも推察できる、と。日本の中国政策を牽制したのは列国の動向であった。列国は、中国に対し常に強い関心を示し、日本の行動を監視していたので、日本は列国の諒解なしには中国に於いて何らの手を打つことも出来なかった。ところで、緒方氏は板垣のいう「助成すること亦一策」について触れていないが、これは何を指しているのか。当時の中国は国民党内部の紛争、国民党・共産党間の抗争による内戦で分裂状態にあった。歴史の先読みが出来れば、蒋介石を援けて国民党政権を作ることで満州問題の解決策を見出すことも考えられたか。ただ板垣の云う一策とはそこまでは見えていないだろう。
満州事変中、日本は連盟ならびに列国に対し、「支那は組織ある国家にあらず」と論じたが、これは日本が満州分離を画策し中国の領土保全尊重の条約に違反しているという列国の非難に対する外交上の対抗手段であった。中国の地位に関する正式見解を昭和7年2月国際連盟宛て声明で上記のことを表明した。満州における中国主権をこのような形で否定しようという政策(中国が組織ある国家に値しない)を推し進めたが、この政策は中国に対する帝国主義的意図であり、満州人民に対し民族自決と自治の高遠な原則と皮肉な対象なしていると、緒方氏。日本は列国との友好関係の促進を政策目標としたが、中国との間には依然敵対関係が継続することを予想し、それを緩和する何らの措置を講じる意図も持ち合わせていなかった、と。満州事変の収拾策が見つからず、中国要人とのパイプも途絶えたのかな。