リットン報告前夜

2016年01月29日 | 歴史を尋ねる
 軍部すら平和的方針をとらざるを得なかったのに、何故日本政府は挑戦的な「焦土外交」を採用したのだろうかという緒方氏のテーマの続きである。8月27日の「時局処理方針案」では、列国の「特殊事情をも利用し列国との間の友好関係を増進」する方針としており、列国との間に相互理解の余地が依然存在し、国際的な敵意が必ずしも戦争を意味するものではないとの判断に基ずくものであった。そして、英国、フランス、米国、ソ連の四か国を日本が特別な政策的考慮を必要とする国と指定した。

 では英国から。英国は昭和7年1月に治外法権問題について日英両国が共同で中国と交渉することを提案したが、この事も日英協調を回復する可能性として方針案に挙げられた。満州事変中、不承認主義を宣言するよう呼びかけたスチムソンの要求にサイモンが拒否した経緯もあり、英国の特殊利益を有している「上海・広東その他長江沿岸及び南支方面における英国の立場を適当に尊重」することで、英国との協力関係を樹立することを期待した。昭和7年7月陸軍省から出版された「満州事変に対する列強の態度」と題する小冊子は日英協力を可能とする現実的な基盤として、①伝統的友好関係、②ロシア南下阻止の必要性、③中国ナショナリズムに対する共通の利害、④香港問題を挙げている。香港は日本が条約に基づく満州での権益を喪失すれば、差し迫った危険に直面する。軍部は英国が日本との友好関係の維持を余儀なくされるであろうと判断、場合によってはインドに対する安全を保障することも考慮した。

 次いでフランス。日仏協力の基礎は、極東で有している共通の利益であった。満州については何ら直接の利益を有していなかったが、インドシナ及び広州湾地域に重大な権益を有していたため、中国ナショナリズムの失権回復要求に対しては強硬な手段を用いてもこれを保護する立場にあり、日本と接近する可能性が大と考えられた。また、フランスはナチス・ドイツの台頭および独オーストリア合併の結果欧州におけるフランスの失墜を憂えて、日仏接近を求めるのではないかとも考え、政府としては日仏協商の締結も想定していた。極東での日仏接近は、英国にも中国問題に関して日本との協調的立場をとるに至らしめる契機となることを期待していた。関東軍は満州開発にあたりフランス資本に優先権を与えることに同意しており、インドシナの安全について保障を与えることも考えていた。
 米国については前回も触れたが、日本の極東政策に関し了解を得ることが最も困難な国と目されていた。時局処理方針案では米国との対決にそなえ、内外諸般の準備を速やかに進め置くの必要性を指摘しているが、この時点では政府はまだ戦争がそれ程切迫しているとは考えていなかった、と。ということは、内田外相の焦土外交発言は日本の断固たる意思表示の修辞上の言葉か。現在北朝鮮が採用している、瀬戸際外交か。当時日本はそこまで追い込まれていなかった。もう少し外交上の言葉があったのではないか。
 当時米国は深刻な経済不況に悩んでいたし、海軍軍縮条約の結果海軍力には限界があった。そして中国における米国の利害は米国に軍事行動をとらしめる程重要なものではないとの見通しに日本は立っていた。また、関東軍の情勢判断の中で、米国の極東貿易及び投資は日本が中国よりはるかに大きい割合を占めている点を強調し、「米国は経済的利害の打算に依り国策を決するの傾向特に顕著なる国柄」であることを指摘して、米国が対日戦争に突入することはあり得ないと結論した。そして前回触れた政策に至ることとなった。

 更にソ連について。満州事変を通じて、日ソ両国が直接衝突を回避しようと努力した。日本では軍中央部と関東軍の間で取り交わされた最大の論争は、関東軍の北満進出をめぐるものであり、ソ連を挑発する危険を冒すものとして禁止した。結局関東軍は徐々に北満の要所を占領するに至ったが、ソ連は妥協的態度を守る続け、昭和6年12月には日ソ不可侵条約の締結を提案した。ソ連のこの提案は日本をジレンマに陥れた。具体的に不可侵条約の締結という問題に直面すると、満州国の安定を計ると共に日本の立場を拘束しないよう、条約によらず不可侵の意図を表明することを希望した。条約締結をためらった理由は①ソ連の軍事力が次第に増強されていくことに陸軍は不安を感じ、先に行くほど不利となる。②対露戦を仮定して軍備を拡大してきた陸軍としては、ソ連からの脅威はある程度必要であり、将来の日露戦争は不可避で、また満蒙経営に妨害行為をするか赤化の魔手を恣にする場合、日本は直ちに行動できるよう準備を固めておく必要を考えていた。
 ソ連及び中国からの共産主義の浸透が、満州国の真の脅威となり得たことは否定できない。緒方氏は、それならば条約に共産主義宣伝活動を禁止する条項を付け加えることも可能であったと考えたが、しかしソ連は米国にもいまだ承認されておらず、国際連盟の加盟国でもなく、国際社会において孤立的立場にあった。これは共産主義国家と資本主義国家間に介在した一般的な敵意を反映したものであった。従ってソ連との不可侵条約締結は、赤化阻止という大義名分を損なうものであった、と。日本は昭和7年12月、日ソ不可侵条約の締結を拒否したが、その後まもなくソ連は中国に接近し、中国との間に正式な外交関係を樹立した。

 それでは、満州事変直後の日本の対中国政策はどのようなものであったか。時局処理方針案では、列国との協力の下に中国との経済関係を促進することを目標に掲げていた。しかし日本の満州占領の結果高まった中国の反日感情を考慮した場合、中国が自ら進んで日本の貿易相手国となるのを期待することは到底無理であった。しかしこの時期における日本側の資料中には、中国の報復、特に軍事的報復に対する懸念は全く見当たらない、という。明治の指導者を恐れさせた「眠れる獅子」は払拭され、今は弱体化した中国しか見えなかった。
 関東軍の昭和7年「情勢判断」では、「支那に統一なく政情不安なるは即ち満蒙問題の解決を有利ならしむるものと謂うべく東洋永遠の平和を確立する途上要すれば機宜の措置として之を助成すること亦一策たるを失わず」(索引注:板垣征四郎「情勢判断」昭和7年5月) 緒方氏は「情勢判断」をもとに、関東軍が中国に対し大規模な介入や紛争を考えていたのでは無かったことは関東軍の関心が当時の満州の開発にあり、そのためには列国を刺激しないよう自制の必要を説いていたことからも推察できる、と。日本の中国政策を牽制したのは列国の動向であった。列国は、中国に対し常に強い関心を示し、日本の行動を監視していたので、日本は列国の諒解なしには中国に於いて何らの手を打つことも出来なかった。ところで、緒方氏は板垣のいう「助成すること亦一策」について触れていないが、これは何を指しているのか。当時の中国は国民党内部の紛争、国民党・共産党間の抗争による内戦で分裂状態にあった。歴史の先読みが出来れば、蒋介石を援けて国民党政権を作ることで満州問題の解決策を見出すことも考えられたか。ただ板垣の云う一策とはそこまでは見えていないだろう。
 満州事変中、日本は連盟ならびに列国に対し、「支那は組織ある国家にあらず」と論じたが、これは日本が満州分離を画策し中国の領土保全尊重の条約に違反しているという列国の非難に対する外交上の対抗手段であった。中国の地位に関する正式見解を昭和7年2月国際連盟宛て声明で上記のことを表明した。満州における中国主権をこのような形で否定しようという政策(中国が組織ある国家に値しない)を推し進めたが、この政策は中国に対する帝国主義的意図であり、満州人民に対し民族自決と自治の高遠な原則と皮肉な対象なしていると、緒方氏。日本は列国との友好関係の促進を政策目標としたが、中国との間には依然敵対関係が継続することを予想し、それを緩和する何らの措置を講じる意図も持ち合わせていなかった、と。満州事変の収拾策が見つからず、中国要人とのパイプも途絶えたのかな。

満州国承認と戦争の予期

2016年01月25日 | 歴史を尋ねる
 緒方氏はズバリ「満州国承認にふみきった日本は、果して最終的に戦争を予期していたのかどうかという問題」を提示する。そして史実から一貫した答を見出すことは容易ではないとも漏らす。満州における軍事行動に突入せしめた関東軍は、この時期においては節度ある態度をもって対外関係にあたるよう主張するようになった、と緒方氏は分析する。

 少し時間を巻き戻して満州国承認問題のプロセスを追ってみたい。犬養前内閣の時は、日本政府は新国家成立の通告を受理するにとどめた。斉藤内閣も国際関係を考慮して容易に早期承認を受け入れなかった。英国・フランスは国際連盟において日本のために非常に尽力したが、日本が早急に満州国の承認に踏み切ることに強く反対していた。しかし7月6日、満鉄総裁内田康哉が外務大臣に任命されるや、日本は早期承認へ急速に傾斜していくこととなった。7月12日内田はリットンと会談し、日本は満州国を正式に承認する意向であることを明らかにした。リットンが前外相芳沢謙吉が「日本の利益が擁護せられるに於いて満州に如何なる政府存在するも日本は大いなる関心を有せず」と述べたことを言及すると、内田は「右は満州国成立前なるが故なるべく満州国の存在は現実の事実にして之に依り全般の事態一変せり吾人は此の事実を無視することを得ず」と答えた。リットンは日本は満州国を承認するにあたっては、極東に関する多数国間の条約当事国の了解を得るべきであると主張したが、内田は「満州国の承認は九か国条約に抵触するものに非ずと認む、尚日本は嘗て満州問題につき支那と交渉せんとする態度を執りたるも満州国独立後は最早右直接交渉の余地あるとも思えず」と反論し、さらに「満州問題は日本のヴァイタルインタレス(死活問題)及び自衛権に関係するものにして日本はこの問題につき関係国と相談せざることあるべし」と述べた。内田の見解に従えば、日中紛争が複雑化した主たる原因は、支那が連盟その他第三者の干渉を期待し居る点にある。従って内田としては連盟が中国に対し、問題の解決のためこの上連盟に依頼すべきものに非ずと説得することこそ望ましいと考えた。リットンに自己の見解を明らかにした内田は、7月14日、天皇に対し日本が満州国を承認する意向である旨を報告した。これまで列国との協調関係のシンボルとして長期に亘り推進されてきた連盟外交は、ここにおいて日本の利益にとり重大であると判断された満州国問題に比べれば、第二義的な重要性をもつものに過ぎないと宣言されるに至った、と緒方氏。ふーむ、内田の言い分は当時の状況から率直な言い回しだが、日本の思いを率直に伝えるだけで、前任が配慮した厳しい国際関係をさらりと押しのけているように思える。しかも外相一人の判断で当時は行えたものなのか。内閣の一員とも思えず。

 この政策転換が何を意味するものであったか、森恪が満州国の承認は単なる法律上条約上の問題ではないと述べたことの中に、表明されている、と。森の見解では、承認の相手は満州国ではなく、日本国民、中国および列国であった。日本の満州国承認は「従来追従を惟れ生命と致す様な」日本の外交が、「自主独立に相成った」ということを、日本自らが「世界に宣言する」ことに等しかった。森は、政府の政策転換が、「六十年間盲目的に模倣し来った西欧の物質文明と袂を別って伝統的日本精神に立帰る」ことを意味するものである、と。自主独立外交という言葉は今でもかっこいい言葉として使われているが、緒方氏はこれを挑戦的なナショナリズムとコメントしている。
 8月25日、外務大臣は議会で演説し、たとえ日本の満州国承認が日本にとって不利な国際的反響をもたらしたとしても、日本国民は「此の問題の為には所謂挙国一致、国を焦土にしてもこの主張に徹することに於いては、一歩も譲らないという決心を持って居る」と述べた。「焦土外交」として知られる内田外交は、列国の圧力を顧みずこれに反発した点において歓迎されたが、同時に非常な冒険を敢てした点では不安をもたれた、と。試しにこの時期の朝日新聞社史を覗いてみると、内田外交に対するコメントは一行も触れられていない。社論がすでに早期承認を主張していたので、そのためか。一気にリットン調査団の報告書問題になっている。敢えて避けている社史の書き方か。

 犬養前内閣は満州国が一国家の実質を備えるよう誘導する政策を採ると共に、連盟に対しては日本代表の引揚げを切り札に連盟による満州問題への具体的干渉を排除するよう努めていたが、満州国承認を差し控えることにより、列国との正面衝突を避けていた。満州国承認を決定した斉藤内閣は、国民や軍部の要求を満足させたが、対外的にはますます反日的となっていく世界に対決する準備をしなければならなかった。8月27日、閣議で「国際関係より見たる時局処理方針案」を決定、基調は「自主外交」で、「帝国独自の立場で満蒙経略の実行に邁進するを以て・・・帝国外交の枢軸たらしむること」が明白に定められ、今後の対満政策は前内閣が決定した「満蒙問題処理方針要領」に基づいて実施されることも確認された。今後国際緊張が激化することは不可避であるとの前提に立って、軍事衝突を予想し、この問題と正面から取り組むことであった。
 まず満州に対する自主外交の第一歩は、8月8日武藤信義大将を満州国駐箚特命全権大使に任命し、日満議定書の交渉に当たらせた。満州国は従来の日中間の条約ならびに協定に基づく日本の権益を尊重することを約すと共に、両国共同して国家防衛にあたる目的で日本軍が満州に駐屯することを許すことになっていた。全権大使を派遣したもう一つの目的は、日本の文武両機関を統合すること、大使は関東軍司令官と関東庁長官とを兼任することになった。9月15日、日満議定書は調印され、日本は正式に満州国を承認した。

 冒頭の緒方氏のテーマであるが、8月1日原田が海軍大臣を訪問した際、海相が軍令部と参謀本部の間に「第一に露国と米国ともになるべく戦争を避ける。第二に国際連盟脱退は不可である」の二点について秘密の協定が成立したと語ったという。国際的ならびに国内的状況を判断した時、軍部ですら平和的方針をとらざるを得なかった。ではなぜ日本政府は挑戦的な「焦土外交」を採用したのだろうか、と。この疑問に対する解答の鍵は、列国が国際連盟の加盟国としては日本を非難しながらも、個々の国家利益の追求車としては妥協的態度をとっていることを日本がはっきり見てとったことだろう、と。日本は満州問題を小国の強い批判の場となり得る連盟から切り離して、日本同様極東に利害関係を有する大国との間で解決することが可能と考えた。8月27日の「時局処理方針案」は、列国との間に相互理解の余地が依然存在し、国際的な敵意が必ずしも戦争を意味するものでないとの判断に基づくものであった。日本政府としては、一方で戦争に対する準備態勢確立の必要性を説くと共に、他方では米国極東外交の基本原則である「機会均等」「門戸開放」を巧みに利用することで、日本の満蒙経略に対する米国の反対を和らげようとしていた。米国の実業界は門戸開放機会均等主義が現実に維持されればその他の問題は成り行きにまかせ差支えなしの空気が徐々に台頭しつつあると認められると希望的観測を時局処理案では述べている。資本主義に対し批判的であった関東軍も、米国の反対を除去するためには日米経済関係を緊密化することが必要であることを認め、満州国への米国資本導入を奨励することを標榜した。米国を中国や満州に既得権益を有する植民地国に転化させることであったといえようと緒方氏。ちょっとムシのいい話ではある。

政党政治の終末と外交政策の転換

2016年01月24日 | 歴史を尋ねる
 満州の政治情勢が急速に発展し、昭和7年3月9日、新国家が独立するに至って、日本政府も新事態に対処するよう政策転換の必要性を痛感するようになった。政策再検討のきざしは、すでに昭和6年11月若槻内閣の下で外務省が満州各地に結成されつつあった治安維持委員会に対する援助の公式方針を決定した時早くもみられた。その後これら途方委員会が独立運動の中心的役割を果たすに至ったこと、また、新しく結成された省政府が単一国家に合流する意思を相次いで表明するに至ったこと等の事実を前にして、変転する政治情勢に対処する方針を確立する必要に迫られた。
 若槻内閣の行った努力が主として戦線の拡大を阻止することに注がれていたのに対して、後継犬養内閣の課題は新しく作られた体制を認めた上で如何にして危機を収拾するかという点にしぼられた。犬養内閣の最初の声明は、馬賊行為の増大を理由として禁止されていた遼河以西の地域への日本軍の進出を認め、そのような事態を招いた責任をすべて張学良政府に帰した。犬養内閣は前内閣とくらべ言行両面で軍部の要求に協調的であった。しかし犬養自身、軍部の希望する条件通り収拾する意思は毛頭なかった。軍部の統制を維持し、財政および外交に関して充分慎重を期してほしいという西園寺の意向(天皇の意向でもあった)に対して、犬養も同意を表明していた。しかし青年将校に人望のある荒木貞夫を陸相にして彼らの急進性を阻止することを選んだが、逆に急進主義の直接的また圧力を内閣は受けることになった。また、書記官長に森恪を任命したことで、犬養が自ら画策した中国との満州問題解決秘密交渉も頓挫に追いやられた。犬養内閣は最初試みた満州国の独立を阻止することには失敗したが、国際的非難を緩和するため、3月15日閣議で新国家の正式承認を差し控える方針を打ち出した。

 満州事変勃発以来、日本の行動は国際的非難の的になってはいたが、それにもかかわらず列国間には日本に対するある種の同情が存在し、それが彼らの対日非難をかなり弱めていた。しかし昭和7年1月末、日中間の戦闘が上海にまで波及するに至って、列国は従来の態度を再検討することとなった。上海の如く列国の利益の交錯する地域で、一国が中国と敵対関係に入ることは、直ちに他の諸国をも危機に巻き込むこととなった。満州事変勃発後、上海における対日ボイコット運動が激化し、反日機運が日本人に対する暴行事件にまで発展すると、租界における列国市民の命と財産は重大な危機に瀕した。日本は事態の悪化を回避することに努め、国際的調停による収拾が実現し、3月3日停戦となった。しかし日本に対する列国の反応は上海事変を期して著しく硬化した。国際連盟は日中紛争が開始されて以来はじめて日本一国に対して警告を発し、日本は世界世論の前で公正にして節度ある態度で中国に対処する重大な責任を課せられた。
 錦州爆撃以来警戒的になった米国は、次第に対日制裁を考慮するに至り、錦州陥落直後の1月7日スチムソン宣言を発表、程なく上海事件が勃発すると米国世論も急激に対日非難を始めた。満州と異なり、華北、華中地方には米国の経済的利益が集中していたのみならず、キリスト教宣教師はじめ多数の米人が居住していた。スチムソンは米国アジア艦隊を上海に派遣、さらに2月23日外交委員長ボラーへ公開書簡を送り、スチムソン宣言(不承認主義)を再確認し、その原則は不戦条約のみならず九か国条約の違反にも適用される旨を公表した。スチムソンの不承認主義はその後国際連盟の決議案中に盛り込まれ、3月11日総会は採択した。さらに連盟は不承認主義を、中国に対してのみならず満州に対しても適用することを表明した。満州国が独立を世界各国に通達した時には、すでに世界は満州の事態に対し承認を拒否する態勢が整えられていた。このような事態の中で、内閣は満州国の法的承認を延期し続ける方針をとった。政府はここで列国との正面衝突を避け、軍部に対する統制力を確保し、中国も列国も受け入れられる方式で満州問題の解決を計ろうと努めた。その当時は、リットン報告書が後で明らかに記したように、日本が満州に対する中国の主権を正式に認めれば、世界各国もまだ日本の満州支配を許容する意図を有していた。解決の一縷の望みは残っていたといたと緒方氏。主権が中国にありながら、日本の満州支配は許容するということはどんな統治(解決)方法なのか、例え北方4島、台湾にどうなんだ。知恵の出し方はあったのかな。

 上記の目的を達成し得るほど強力な政治力が犬養内閣にあったか、緒方氏は分析する。昭和7年2月の総選挙で政友会は絶対多数を占めたが、軍部に対する議会権力の弱化、国民一般も次第に軍部支持傾向で、満州の軍事的成果が大きく上がると、歓喜を以てこれを迎えた。満州事変下、国内に軍需景気が起ると国民は満州が約束する莫大な利益を裏付けるものと考え、軍部ならびに満州事変に対する批判は影を潜めていくばかりであった、と。軍部の横暴を正面から批判した朝日新聞でさえも、日本が長く中国の対日敵対行為に耐えてきた上、今また自己の重要権益を擁護するために行動しているという理由から、満州事変そのものは支持した。事変中日本反帝同盟の活動及び宣伝工作の影響は極めて弱かった。事変当初、断固反対の立場をとっていた全国労農大衆党は、多くの党員が国家社会主義政党である日本国民社会党に奪われることとなった。従来階級的団結を強調していた労働者政党の間で、国家を団結の基本とする重大な転換が行われた。
 犬養は政党政治を再建することにより軍部を抑えようと考えた。首相としての短い任期を通じて議会政治擁護の重要性を強調し続けた。ラジオ聴取者100万に突破記念週間に放送された5月1日の犬養の演説は、当面する思想的危機の原因を指摘し、「極端の右傾と極端の左傾である、両極端は正反対の体系なれど、実はその間隔は毫髪の差であり、ともに革命的進路をとるもので実に危険至極である」と述べた。このような過激主義の傾向をくい止めるためには政治改革が必要、その改革は議会政治の否認を通じて実現されるものではなく、選挙法の改善や選挙される人々の質の向上により議会政治そのものの改良を通じてなされるべきものと主張した。犬養内閣の下で次第に激しさを加えていった政府と軍部との対立は、5月15日の暗殺で急転直下終結を見た。

 後継齋藤実内閣は、社会的及び経済的改革を漸次行うことによって、五・一五事件の如き不祥事が再発することを防止することを使命としていたが、軍の要求、特に対満政策に関する要求には極めて協調的な態度を以て臨んだ。まず最初の課題は満州国の承認問題であった。承認を促進しようとする軍部の圧力に加えて、世論一般もまら満州国を承認することを次第に強く求めるに至った。国際的影響をたえず考慮することを強く主張していた朝日新聞までが、昭和7年3月には、満州国の早期承認を主張するに到った。満州からは、満州青年連盟の第五次遊説隊が派遣され、早期承認を実施するよう直接政府に働きかけると同時に、世論の喚起に努めた。6月14日貴衆両院が満場一致で満州国の承認を決議、政府としても議会決議を無視することも出来なかった。政府は国内の声を容易に受け入れなかったのは、国際関係を考慮したからであった。国際連盟は前年12月10日、理事会で委員会の派遣を決議して以来、事変の直接審議は除外していた。英国のリットンを団長とする調査団は四カ月にわたって、日本、中国、満州に滞在し、指導者と会見し、種々の資料の収集に従事していた。国際連盟ならびにアメリカはすでに国際条約に違反して出現した如何なる事態も承認しない方針を表明しており、リットン調査団はいまだその使命を完了していなかったから、その時に満州を承認することは、世界の大勢に挑戦し、独自の道を進む意思表示に等しかった。

満州国の独立

2016年01月18日 | 歴史を尋ねる
 新国家建設の諸計画を完成した関東軍は、次に実施段階を検討するため、昭和7年1月~2月に一連の幕僚会議を開き、資金源、朝鮮人労働者の移民計画、税関官吏の人員構成、兵舎ならびに鉄道の建設等に関する具体的討議を行った。1月27日の会議では、奉天、吉林、黒龍江三省の主席を以て中央政務委員会を組織し、この委員会に新国家建設に関する調整及び準備を行わせた上、中国政府からの分離独立を宣言させる。さらに新国家の名称、国旗、宣言、政治制度、人事、国家元首等の問題を検討するが、決定された諸事項は各省毎に組織される民意を代表する機関に提示され、その同意を受けることとなっていた。民意の表現は、請願及び推挙の形式に依ることとされた。政務委員会がこの民意に従って中央政府の設立を決定した後、国家元首が宣言を発し、諸条例が発布することが定められた、と緒方氏。新国家が形式的には民意に沿って建設された、欧米諸国の価値観に合う手順を踏むということで、この混乱の中で周到に考えられている。主権がどこにという問題を除けば、満州の地では画期的な統治システムだろう。

 1月27日の幕僚会議の結果、各省主席との交渉が開始された。主席会議には吉林省の熙治、奉天省の臧式毅、黒竜江省ならびに特別区代表張景恵、新たに黒竜江省主席に約束された馬占山、奉天市長趙欣伯等が参加し、新国家が建設されるべきこと、東北行政委員会を組織し、暫時三省及び特別区における最高機関としての機能を果たすべきことを決定した。この行政委員会が新国家建設に関するすべての準備を行うことになった。中国人指導者間の最大の論争は、国家形態をめぐる問題であった。熙治は君主制を主張、臧式毅ならびに趙欣伯は共和制を支持し、張景恵は曖昧な態度をとった。二日目に出席した蒙古の王侯は君主制の採択を迫ったし、宣統帝ならびにその側近は復位を希望した。会議は結局関東軍の決定に従い宣統帝を国家元首とする点では一致したが、その正式称号と国家形態に関する最終決定は難航し、ついに24日に至り、板垣が関東軍司令官を代表して執政の称号を受諾するよう宣統帝を説得してはじめて決着を見た。また、当初「民主」国家として構想されていた新国家は、人民中心という意味を表す「民本」政治を標榜することに変更された。そして新国家の国号は「満州国」と規定された。

 その後は計画を正確に実施していく過程に過ぎなかった。東北行政委員会は2月18日中国からの独立を宣言、満州の全地域にこの事実が通告された。自治指導部の提唱により各地には新国家設立の促進を目的とする団体が結成され、これら建国促進団体の各省集会が各地で開催され、新国家建設に対する一般人民の賛意の証明であると宣伝された。29日に奉天で全満大会が開かれ、宣統帝が新国家の暫定的元首に任命する決議が採択された。次に東北行政委員会は宣統帝の下に使者を送り、執政の地位に就くよう要請、宣統帝は一年間執政となることに同意し就任した。満州国独立の通告は直ちに列国に発送され、承認が要請された。翌10日、溥儀・本庄間に書簡が交換され、新国家に対する日本の支配、より正確には関東軍の支配が合法化された。
 しかしながら、政策の立案ならびに実施の過程において関東軍が常に独走できたのではなかった。政府及び軍中央部からの強い反対で、満蒙領有の目標は達成できず、軍事行動面でもハルピン方面への出兵阻止、チチハル撤去、錦州への派兵中止命令に服した。もしも中央の命令に服さなければ、満州の軍事支配は急速に確立されたが、国際的非難を惹起し、それが国際的圧力にまで進み、日本の対外関係を一層困難なものになっただろう。また、軍中央部は列国との関係を憂慮しただけではなく、内部の統制維持の必要からも関東軍の抑制に努めた。

 一方政策面においては、関東軍に対する中央の統制は著しく無力であった。その原因としては、1、関東軍が種々の政治謀略を行い得る立場にあった。満州事変の場合、現地の政情は混乱したもので、遠い東京から適宜な指示監督は困難であったため、関東軍は中央の命令に従うことなく、自己の工作を続けることが出来た。 2、政府および軍中央部がなんら効果的な解決策を保有していなかった。関東軍幕僚は、政府及び軍中央部の無策を見抜き、自分達だけが満州問題の鍵を握るものと自負するようになった。「木戸日記」は「軍部以外には何等国の前途に対する確固たる政策がなく遂にこの破綻を来した原因なり」と述べている。 3、政府と軍部、或いは軍中央部と関東軍との見解の相違は、最終的な政策目標に関するものではなく、むしろ規模とかタイミングの上での相違であった。最終目標としては、彼らはいずれも日本の満州における権益の維持と拡張とを念願していた。このような基本目標に関し意見の一致が存在していたことは、結局関東軍が実行しようとする政策に対する中央の反対や抑制を無力なものとした。満州での政治工作に対する東京の指令が、工作そのものへの警告ではなく、むしろその露見に対するものであったことからも明らかである、と緒方氏。うーむ、この3点目の指摘は大変厳しい見方だ。中国側が革命外交を積極的に進める(満州で権益が侵食されているという危機感など)なかで、日本外交が明快な外交政策を進められなかったことも含むのだろう。

 満州政策に関して関東軍が重要な譲歩は領有から独立国の建設であった。そしてその方策は関東軍の思想傾向を示して興味深いと緒方氏は分析する。それは、新満州政権が自治を目指す大衆運動の結果成立した独立国の形態を取り、国際条約によって日本との特殊関係を規定し、しかも国家社会主義的原理を大幅に取り入れるという、政府及び軍指導部の想像を超えたものであった。元来、満州事変は、北や大川によって唱道され、経済的不況にあえぐ日本において何等かの行動を起こすことによって現状を打破しようとする軍部革新運動の対外的な現れであった。従って、新満州国に具現された関東軍の政治社会理念は、日本の現存体制に反対してはぐくまれた反政党政治および反資本主義の思想の投影だった、と。石原と板垣を中心とする関東軍が国家社会主義に影響されていたことは事実であるが、同時に差し迫った中国ナショナリズムの挑戦に直面して何等かの形でこれに理論的対応をしなければならなかった。そこで関東軍は、満州在住日本人が提唱した「民族協和」思想を中国ナショナリズムに対するもっとも効果的な武器として採用した。満州在住諸民族の福祉を強調する政策は、関東軍の反資本主義に基づくものではあったが、同時に現住民の指示を確保し、さらに隣接するソ連共産主義の影響をもあらかじめ防止しようとするもので、満州の現状に即したものであった。東北行政委員会はも、満州国も、満州青年連盟を母体とした協和会も、すべて民族の協和と社会福祉とを謳ったが、これには在満諸民族の団結を破壊するナショナリズムと階級闘争とに対抗する原理としての役割が課せられた。

 満州事変は満州国の建国を以て劇的な終末を遂げた。日本はこの関東軍の残した巨大な既成事実を前にして、いよいよ国策の再検討を行わねばならなかった。満州国の独立宣言に直面して、日本の国内政治および外交政策は大きく転換することになった。

新国家建設構想

2016年01月16日 | 歴史を尋ねる
 満州各地で独立運動が拡大していく中で、新国家の具体案の準備も関東軍の内外で進められた。青年連盟は10月23日、「満蒙自由国建設綱領」を関東軍司令官に提出し、その採用を強く要求した。この綱領は、政府組織、新国家建設の順序等を論じた後、次の三綱目を挙げた。1、地方維持委員会の如き暫定的機関に代えて速やかに恒久的機関に代える。2、日本人が顧問又は諮義として政治に関与するは面白からず、国家の直接構成分子として参与すべき。3、民族協和の趣旨により徹底的門戸開放主義を計り対外的名分を得ること。 この青年連盟案は、事変前の主張であった民族協和に基づいて新国家を建設するという意図のもので、この案中の諸原則は、その後関東軍によりほぼ実現されることとなった。

 関東軍は、軍法律顧問松木俠が10月21日「満蒙共和国統治大綱案」、11月7日「満蒙自由国設立大綱」を作成した。その他満州の開発、日本人顧問の性格、内面指導政策等、多方面にわたる種々の対策案も準備された。関東軍は事変勃発後間もなく、満蒙の領有は到底政府ならびに軍中央部の承認するところではないと考え、満蒙を直接統治しようという持論を捨てて同地方を独立させる方針をとった。従って新国家案は、如何にこれを支配するかが関東軍の重大関心事となった。作成した大綱では日本による満蒙の支配のための独立国を建設することを主張した。関東軍の独立国家論に対して、政府及び軍中央部は中国主権下の独立政権論を支持していた。両者の基本的差異は、関東軍が中国とアジア大陸のみに注目して満州の支配自体をを唯一無二の目標としたのに対し、政府軍中央部は満州の支配は対列国関係を損なわない範囲内において達せされるべき目標であった。
 「満蒙共和国統治大綱案」も「満蒙自由国設立案大綱」も、軍事協定に基づき日本が新国家の防衛および防衛上の鉄道ならびに航空路の管理を委託されることを規定していた。新国家の軍隊は治安維持を目的とするものであった。軍事上の支配が確立された後は日本は統治上の細部には干渉せず、日本人顧問を配しての間接統治を考えた。そして支那人は面子を重んじる国民なので日本人の干渉、監督下にあることは、決して為政者の威令は下に行われない。指導監督は成るべく表面に現れ無いよう裏面より糸を引く程度に止めおく、事毎に手を触れるは有害無益、細部は彼らに一任し大綱を抑える、と。日本の支配を成功させるためには在住民族の指示を獲得することが必要で、さらに進んで平和と繁栄とを約束することによって、これらの人々の積極的な支持を得ようと考え、福祉に重点をおく政策を実施しようと試みた。事変勃発後関東軍によって作成された満州問題解決の諸計画が、いずれも「民族の楽土」、「各民族の平等なる発展」をうたい、また官吏の削減、税制改革、天然資源開発、産業貿易の促進等を要求している。

 関東軍の福祉政策は国家社会主義に影響された彼らの思想に基づくものであった。大綱を起草した松木俠は、新満州国の人権保障法を作成したが、この法律は執政が統治を行うにあたり、人民の保障すべき権利を列挙し、特に満州国民は法令によらざる如何なる名義の課税徴発罰款を命じられること無し、満州国民は高利暴利その他あらゆる不当な経済的圧迫より保護される、こととされ、主として匪賊、軍閥、腐敗官吏らによる伝統的搾取をはじめとするあらゆる経済的不正の慣行から人民を保護しようとする表現であった。
 しかし関東軍の新国家建設案は、多くの矛盾が見られた。関東軍は被統治国の人心掌握のため、自己の国家社会主義的思想のため、在満民衆の利益と福祉とを確立し、特に軍閥の圧政ならびに資本家の搾取から民衆を保護することを標榜する傍ら、日本の支配を満州に拡大する帝国主義的要求も強く存在した。昭和7年1月片倉衷が作成した「満蒙問題善後処理要綱」では日本の利益を単刀直入に論じ、門戸開放、機会均等を標榜するも原則は日本人の利益を図ることを第一義とすると明記していた。

 その頃日本政府は軍事行動以外の満州問題の審議機関として、総理大臣の監督下に臨時満州事務委員会の設立を企図した。計画を知ると関東軍は直ちに反対し、現地の情勢は威力ある簡明直截な独裁的機関による指導を必要としている、政治工作による新政権樹立は秘密の厳守が必要、さらに中国側指導者たちはすでに関東軍との密接な関係にある等を挙げた。関東軍の意図は、その後軍司令官に対する溥儀の書簡により条約上の保障を受けることとなった。溥儀書簡は日本に対して、防衛、交通機関の管理、日本人顧問の任命を要請したが、日本人顧問の選任は関東軍司令官の推薦によりその解職は同司令官の同意を要件とすることが明文化された。関東軍は単に日本による新満州国の支配を実現しようとしたのではなく、軍中央部ならびに日本政府の監督の外に立って、自己の構想に基づいた支配を試みようとしていた、と緒方氏は結論づける。

自治と独立

2016年01月15日 | 歴史を尋ねる
 関東軍は満州の政治的再編成を行うにあたり、まず省政府となるべき組織を設立したことは既述済みである。昭和6年9月25日には遼寧治安維持委員会が結成され、26日吉林省政府、27日支那東部鉄道特別地区緊急委員会、さらに昭和7年1月1日黒竜江省政府が設立された。何れも日本の支持のもとに著名な中国人により設立されたものであった。また地方の諸行政機関は、従来あった自治体を利用し、活動を再開していた。満州事変勃発当初、関東軍は地方的な政治活動は成り行きに任せる方針であった。しかし10月9日、満鉄嘱託で左傾思想の持主であった日本人の反乱がおこると、民衆運動が急進化することを危惧し、一切の政治活動を軍の管理下に置くこととした。関東軍は軍閥の廃止と民衆による自治体の設立とを目的とする運動を援助すると同時に、それらの運動は総て軍の認可の下に遂行する方針を決定した。

 この決定に基づき、関東軍は自治体の発達を統一した原則のもとに指導し監督するための独立機関として自治指導部を設立した。また、青年連盟ならびに雄峯会の会員は、各地において実地に自治体の指導にあたるため訓練されることも定められた。11月10日、自治指導部長には、事変前奉天政府の著名な政治家であり、文治派の長老であった于冲漢が就任、関東軍にとっては慶賀すべき出来事であった。新満州国の建国に文治派の積極的な協力を獲得することに成功したから。于冲漢、王永江、袁金鎧、臧式毅らは「親日派でもなく、排日でもなく、公平な人々」であったといわれていたが、彼らは張学良一派の軍閥と対立して、絶対的保境安民主義を標榜し、東北諸省の安全と繁栄とが最も重要で、これに比べて中国本土との関係などは二義的な問題であると考えていた。于駐在は、税制の改革、官吏賃金制度の改善、多額の費用を要する軍隊の廃止を通じて、満州人が平和な労働のもたらす利益を享受することが出来る様になれば、防衛は最も強力な日本に委任しても良いという見解であった。
 
 関東軍は自治指導の原理を作成するにあたって、于冲漢らの政治思想を大幅に採択した。日本に協調的であったことにもよるが、以前関東軍が作成した「満州占領地行政の研究」に織り込まれた諸方針と一致するものであったから。この研究は、満州人民の保境安民に対する願望を認め、さらに日本が満州を統治するにあたって住民の日常生活を損なうような同化政策や文化指導を行わないとする原則を掲げていた。満州在住民の固有の願望や生活習慣を利用し、助成することを意図していた、と緒方氏。そういえば、満州地区は第二次大戦終了まで保境安民を実現したのだから、統治システムを構築することにかけては、柔軟で適切な仕組みが出来上がったのだろう。
 奉天に本部を置いた自治指導部は、地方自治体を機構的にも財政的にも整理することを目標とし、また生産及び商業活動を奨励し、村落の協同組合結成を通じて各地方の経済状態を改善しようと試みた。自治指導部の指示のもとに、満鉄沿線の各地に地方自治執行委員会が結成されていった。

 自治指導部の機能は間もなく独立運動の促進を主とするものに変わっていった。その前奉天省の前身遼寧省において、9月20日以後奉天市が土肥原市長以下日本人が過半数を占める緊急委員会の統治するところとなり、ついで遼寧治安維持委員会も9月25日に結成されたが、遼寧省政府の樹立及び独立宣言は遅々として進まなかった。これは中国人指導者の執拗な抵抗があったためだった。しかし治安維持委員会の下に財政局、産業局、東北連絡委員会が設置され、漸次地方政府としての実質的機能を備えるに至り、11月7日正式に遼寧省臨時政府へと発展、ついに張学良政府および中国政府からの分離を宣言するに至った。

 当時宣統帝自身清朝の復辟には積極的であり、側近の間では満州事変以前から日本の民間人および軍人と連絡をとっていたものがあった。中でも羅振玉は事変勃発後ただちに関東軍の計画に呼応して、満州の新指導部と緊密な連絡を保つことに奔走した。宣統帝を天津から誘出する任に当たったのは土肥原であった。関東軍司令官は、清朝の復辟計画が時代錯誤であるとの理由で乗り気でなかったが、9月22日の関東軍「満蒙問題解決策案」で決定された通り、宣統帝を適当な資格で利用することに同意した。9月29日、陸軍次官は宣統帝擁立運動に参加しないよう警告を発し、11月15日陸軍大臣も宣統帝を満州新政権運動に関係させないよう指令を発した。「今日急遽溥儀が新政権樹立の渦中に入ることは、たとえ形式的に満蒙民意の名をもってするも、世界をして帝国軍の心事に疑惑を抱かしめ、今日までにおける帝国の公明なる態度を傷つけ、帝国の対列強策に極めて不利なる情勢を激成するの虞あり、特に連盟の空気改善に努力の結果、最近ようやく好転の燭光を認め来たる時機において、敢えてこの種急速なる行動に出づるは策を得たるものに非ず。よってここ暫く溥儀を政権問題に関係させざる様一般を指導せられたし」
 確かに、この指令は必ずしも行動方針そのものの修正を強いられるものではなかった。全満州を網羅する新国家建設への準備は、関東軍の秘密工作を通じて推進されることが出来た、と緒方氏は云う。
 

国際連盟の動きと日本の対処

2016年01月11日 | 歴史を尋ねる
 「九・一八事変」(満州事変)によって、中国の抗日運動は一段と強くなった。その先頭に立ったのは、学生や知識人、言論界であった。学生たちの抗日運動は、早くも9月20日にはじまった。この日、全国の主要30大学に抗日救国会が結成され、五十人の代表が南京へ請願に赴いた。21日には救国会は対日宣戦と軍事訓練の実施を要求、自ら義勇軍編成要領を定めた。国際社会との接点である上海では、市民義勇軍結成の運動が起こされた。このような抗日運動の動機は、もともと純粋に国を愛する心から出たものだが、共産党の指揮による一部の学生や青年が運動に紛れ込み、外交問題にかこつけて政府攻撃を目標にしたところもあった。激しい抗日運動を目の当たりにした日本公使重光葵は、23日幣原外相に「もはや、事実上国交断絶にひとしい深刻な事態を迎えた」と報告してきた。学生たちの抗日運動は中央の自重の呼びかけにも拘わらずエスカレートし、28日、南京の学生ら4千人が授業放棄し、対日宣戦を要求して党中央と外交部にデモをかけた。彼らは外交部長王正廷に面会を強要、外交部の中になだれ込み、王正廷に怪我をさせた。王正廷はこの事件がもとで、辞任に追い込まれた。

 10月5日中国政府は日本政府に覚書を送り、連盟理事会が再開される14日までに撤兵を実施するよう要請、9日日本政府はこれを拒否し、日中国民感情の緩和を計ることを目的とした「平常関係確立の基礎たるべき数点の大綱」を協定した上で、はじめて日本軍を完全に鉄道付属地内へ撤兵させることが出来ると回答、この返書の意味は日本人の生命の安全と財産の保護が有効に確保されるに従い撤兵ということで、すでに日本が声明した方針と矛盾するものであった。連盟事務総長ドラモンドは当初中国政府が反日運動を統制し穏和な態度を保持し得るかに掛っているとしていたが、返書が発せられたあとは、排日運動の責めを中国のみに負わしめるのは難しいと日本の代表に語った。こうした状況下に行われた錦州爆撃(8日)は、世界に対する日本の道義的立場を著しく低下させた。日本は連盟に平和を約しているにもかかわらず故意に戦線を拡大したと解された。スチムソン国務長官は爆撃の報に接するや、約束にも拘らず日本軍は行動を縮小せずかえって拡大していると判断し、両国の直接交渉に任せておく静観政策を放棄し、九か国条約、不戦条約に基づいて米国が行動することを開始した。10日、米国は日中両国に同一の覚書を送り、錦州爆撃に対する米国の態度を表明、9月30日の理事会決議を再確認するよう求め、スチムソンは日本大使に、日本政府の政策が十分に満州の軍隊まで徹底しているか、政府が反張声明や錦州爆撃に対し如何なる態度をとっているのか、質した。幣原に対するスチムソンの信頼が揺らぎ始めた。

 戦線の拡大を阻止するには、米国も理事会に正式代表を送ることを希望、15日、オブザーバーの資格で理事会に参加させる案が、13対1で可決された。17日、不戦条約の適用を求める決議が採択され、日中両国に平和的手段で紛争を解決する義務を両国が有することとなった。24日、理事会で次の会議が開催される11月16日を以て撤兵終了の期限と決定した。日本では、10月1日、南陸相は閣議で、連盟が即時撤兵を主張するならば、日本は連盟から脱退すべきであるとの意見を表明。新聞も社説において、理事会の錯覚を批判し、理事会の決議は皇国日本の天賦の権利を奪わんとするものだと主張した。他方、関東軍は全く連盟を無視し、断固として自己の所信貫徹に邁進した。
 
 11月16日パリにおいて連盟理事会が再開された。16日は日本軍の撤退期日であったが、日本軍の戦線は拡大し、事態の悪化を防ぐため連盟は経済制裁の手段まで検討されたが、戦争への道に連なると恐れられ、何らかの手段で連盟は立ち向かわねばならない。連盟は当初中立的な調査団の派遣を提案したが、日本政府は当時如何なる第三者の干渉をも拒否した。この経緯にも拘らず中立的な調査団の派遣は、日本の連盟代表ならびに西欧諸国駐在大使により依然有力な手段として信奉された。「連盟の面目を立てて出来る限り当方の味方に抱き込む処置を講ずることが肝要」と考えられた。
 10月下旬林奉天総領事は次のように報告した。「当方面の実情を視察した諸外国人を見るとその多くは満州現下の状態において急速に日本軍撤退の不可能なることを了解している如くあるに付き、わが方は従来の行掛りを離れ進んで連盟より調査員を派遣するよう仕向けることは連盟が満州の実情を了解させるのに力あるのではないか・・・本庄軍司令官も連盟調査員に当方面の実情を知らしめるを有利とする意見である」
 11月21日、日本は理事会に正式に連盟は現地に調査員を派遣すべきことを提案した。調査団派遣の提案を自ら行うにあたって、外務省は連盟代表に対し、決議案から日本軍の撤退に期限をつけさせない、日本人の命と財産を保護する日本軍の軍事行動を禁止させないことを条件とする様指示した。この指示は日本が公言してきた撤兵の意思に反するもので、この誓約こそ連盟の厳しい攻撃を防止してきたものであった。日本代表と理事会各代表との交渉の結果、速やかに鉄道付属地内に撤兵することを要請しながらも、期限を規定しない決議が採択された。またこの決議に、平和を乱す恐れのある「一切の事情についても調査し、理事会に報告するために五人からなる委員会」を任命した。この委員会は、日中両国間が直接交渉を行った場合或いは両国間に軍事的取決めがなされた場合にも関与しないことになった。

 調査団の派遣は日本が満州事変を自らの意図に従い処理する時間的余裕を与えた。調査団派遣と同時に日本軍の撤退を主張した中国の要求は受け入れなかった。連盟は調査団の報告を受領するまでは満州問題の討議を打ち切ることに決した。その後の満州における日本軍の行動は匪賊討伐を理由に行われた。参謀本部は錦州攻撃を匪賊討伐のための行動として正当化し、目下兵匪は実質上正規軍と殆ど区別つかない実情にあるとした。事実12月27日すでに独立を宣言していた奉天省首席臧式毅は正式に関東軍司令官に対してとくに遼西一帯の匪賊を討伐するように請願した。錦州と山海関は翌昭和7年1月3日に日本軍の掌中に陥落した。

事変を連盟に提訴

2016年01月08日 | 歴史を尋ねる
 奉天事件発生以来、日本政府の連盟に対する基本政策は、紛争を連盟の問題とならざる様に努めることであった。日本は日中両国政府が直接交渉により事態の収拾にあたることを主張し、連盟が視察団を現地調査のため満州へ派遣するというような提案は断固拒否する態度をとった。19日早朝、日中の衝突が伝えられると、在上海公使重光葵は直ちに国民政府財政部長宋子文を訪れ、今回の事件に関し日中両国が協力して解決にあたるべきことを申入れ、宋子文は責任を持って事態の処理にあたるため満州へ重光と同行することを提案した。国民政府は満州全土をその統治下に回復することを外交目標としていたが、満州事変勃発時においてはいまだ日本との交渉に応じる意思があったと思られると、緒方氏。21日、日本は宋子文のう申出を受け入れ、重光に対し宋と交渉に入るよう訓令した。同時に政府は、連盟理事会の日本代表芳沢謙吉に中国側の意図を伝え、日本は連盟の介入を受けることなく中国との直接交渉により紛争の解決にあたる方針である旨を通報した。しかし同日、中国政府は正式に連盟に対し規約第十一条に基づいて事件を理事会に提訴し、同時に米国に援助を求めた。また日本に対しては、直接交渉の提案を撤回する旨を通達したが、それは軍事行動がすでに満州全域に広まっており、日本政府はもはや軍部を統制し得ないとの判断に立ちものであった。

 国際連盟理事会は22日開催された。日本代表芳沢謙吉は、世界の新聞が日本軍の計画的侵略と報じていたにも関わらず、この事変を中国軍の挑発による偶発的事件であるとし、国際連盟の干渉に反対した。この日の理事会は現状を悪化し、または平和的解決を害するおそれのある一切の行為をしないよう、中国および日本政府に緊急通告を送ることを全会一致で決議、議長名で両国に伝えた。緊急通告に対し日本政府は24日政府声明を発表、理事会に回答した。「事件発生当初より、日本の軍隊の行動は、居留民の安全、鉄道の保護、軍隊自体の安全確保のためと、限定されている。日本政府はあくまでも事態拡大を防ぐ方針であり、日中両国間の交渉で一日も早く平和的に解決することを願っている。日本軍は現在、ほとんど南満州鉄道付属地内に復帰した。吉林、奉天など付属地外に残る若干の軍隊は、在留邦人の安全と鉄道保護のためのものであって、今後、事態が改善されれば撤兵する。日本政府の誠意ある態度を信頼してほしい」 うーむ、その場限りの随分きれいごとを云ったのだ、もう少し寝技的な言い回しは出来なかったか、政府と軍部との疎隔が原因と思うが。
 翌25日の理事会で、中国代表施肇基は、日中両国の交渉は日本軍の撤兵が第一条件であることを力説し、東北における日本軍の暴状を伝える電文を示して、理事会から日本に対し、即時かつ完全に撤兵するように勧告を出し、もし日本が実行しなかったら、連盟は即時、現地に調査員を派遣、調査に当たらせてほしいと強調した。

 当時世界は二年目に始まった世界恐慌のさなかにあり、ジュネーブに集まった各国の代表の関心が、アジアの一角に過ぎない東北より、自国に直接の影響のある欧米の経済問題に向けられていた。21にニューヨーク・タイムズでもトップ記事は英国の金支払い停止であり、中国の国連提訴は二番目であった。英国代表は芳沢の言い分を採用し、日本側の回答によって、事態が緩和されたことが判明した。理事会の任務である平和の確保は尽くされたと日本側の発言推した。この発言が理事会の空気を作り、連盟としては日本の声明を了承し、日本の善処を待つこととした決議をして散会した。日本は当時の国際情勢にも大いに助けられた。英国は挙国一致内閣が成立後一か月にもならず、経済問題に謀殺されていた。英国世論は日本の行動を決して正当化されえないものではないと好意的であった。過去のおける中国の混乱と日本の満州開発の業績とにかんがみ、日本の行為を以て、基本的には正義とし満州が中国軍閥によって破壊されるよりも日本の手で善政が施された方が良いと考えていた。従って英国が介入する理由は見いだせなかったが、連盟を通じて戦闘の拡大防止を実現するために尽力し、連盟の立場を強化することを目的に米国の協力を得て、調査団派遣計画を推し進めることを急いだ。
 米国は満州事変勃発後の2~3週間は紛争解決に何ら積極的な役割を果たそうとはせず、英国の調査団派遣の提案を承諾しなかった。米国政府は満州事変により米国の利益が侵されることはないと考え、また満州における日本軍は、東京の許可なく進撃しているので日本政府を不戦条約違反の廉で非難することは出来ないと見ていた。スチムソン国務長官は連盟が彼にうるさく小言を云うのに秘かに憤慨さえしていた。国務長官は、日本は若槻ー幣原グループと狂暴な軍部との二陣営に明白に分かれており、米国は日本人に米国が注目していることを知らせ、同時に正義の側にある幣原を援助し、国家主義的な扇動者の利益にならないような方法で正義が行われるよう見守っていた。スチムソンは特に幣原に対する信頼と配慮から、英国案に反対の態度をとった。
 日本が介入を恐れていたソ連も、満州事変の勃発に挑発されることなく、終始慎重な態度を示した。これは事態の重大性を看過していたからではなく、むしろ国内およびヨーロッパでより緊急な問題に直面していた。外務人民委員リトビノフは、明白な不戦条約違反と非難しつつも、ソ連領土に対する日本軍の直接攻撃さえなければ、ソ連は干渉することを慎もうとしていた。
 諸大国が関東軍の膨張計画を阻止しようとせず、消極的な態度をとったことは果して日本政府を援助する結果となったであろうかと緒方氏は自問する。大国が柔軟な態度をとったことは、かえって関東軍指導者を政府に反抗してますます過激な手段を取っても大戦争の危機はないと判断させ、結果的には彼らの慢心を強め、独走を促進したと解釈すべきであろうと緒方氏は云う。当時の政府に外圧を利用して軍部を抑えようとした考えがあったか。政府声明にそのような思惑があったなら緒方氏の言うのも理解できるが、どうだろうか。芳沢代表が緒方氏の母方の祖父であったから、何とも言えないが。

計画および準備

2016年01月06日 | 歴史を尋ねる
 満州における軍事行動を予測した最初の重要文書は、参謀本部作戦部長建川美次が第二部長当時委員長として作成した「満蒙問題解決方策」であった。参謀総長、参謀次長、陸軍大臣、陸軍次官等を含む陸軍上層部により採用された。
1、張学良政権の排日方針の緩和について、外務当局と緊密に連絡の上、その実現に努め、関東軍の行動を慎重ならしめるよう、陸軍中央部として指導に努める。
2、右の努力にも拘らず排日行動の発展を見るならば、遂に軍事行動の已むなきに到ることがあるだろう。
3、満州問題の解決には、内外の理解を得ることが絶対に必要である。陸軍大臣は閣議を通じ、現地の状況を各大臣に知悉せしめるよう努力する。
4、全国民特にメディアに満州の実情を知らしめる担当は軍務局とし、情報部も協力する。
5、軍務局・情報部は外務省と連絡の上、関係列国に満州で行われている排日行動の実際を承知させ、万一軍事行動の事態に入ったとき日本の決意を諒とし、不当な反対圧迫に出でしめないよう工作案を立て、実行を順調ならしめる。
6、関東軍首脳部に、中央の方針意図を熟知させ、来る一年間は隠忍自重の上、排日行動から生ずる紛争に巻き込まれることを避け、万一に紛争が生じたときは、局部的に処置することに留め、範囲を拡大させないよう努める。
 軍の上層部は満州における行動の可能性を正式に認めたが、国際的影響を考慮し慎重な立案だった。永田鉄山軍務課長、今村均作戦課長はこの方策に基づき、それぞれ政治的・軍事的計画の細目を準備するよう指令された。第2部重藤千秋支那課長は早期の軍事行動を画策、5月に入ると陰謀的手段を用いることを決定、関東軍幕僚と緊密に連絡を保つようになった。昭和6年初夏に関東軍と軍中央部との間で2回の会合が開かれた。この会合でこの秋に満州において行動を開始したいとの関東軍の強い要望が伝えられた。賛否は分かれたが軍中央部の間で賛同するものもあった。

 軍中央部は満州の緊迫した状況を宣伝して世論の支持が得られるよう工作し、民政党内閣が計画中の行政整理ならびに翌年2月の世界軍縮会議に備えての軍事予算削減を阻止しようとした。師団長会議の演説で、陸軍大臣は軍備縮小に関する政府の権限を正面から非難して一大センセーションを巻き起こし、さらに満州における緊迫した戦争の危険に対して準備を怠ってはならないことも強調した。満州出兵の噂は昭和6年8月~9月にかけて次第に広まり、総理大臣および外務大臣は満州における戦争の時期をしばしば新聞記者に問われる状態であった、と。ここに新聞記者が出て来たので、「朝日新聞社史 大正・昭和戦前編」で当時を見てみたい。「光彩を放つ東西の社説」との項目に師団長会議当時を振り返っている。
 8月3日朝刊:陸軍の司令官・師団長会議の予告記事を掲載「陸軍側、事毎に、反抗的態度に出づ 政府の施策を快しとせず 関係いよいよ悪化」という見出し。
 8月4日、南次郎陸相は会議の席上、満蒙問題で強硬論を演説
     夕刊:「満蒙問題に対し政府の無責任痛撃 今日の軍司令官師団長会議に 強硬異見続出す」の見出しで報道
 8月5日東朝社説:「近時満蒙方面の情勢が帝国にとりて甚だ好ましからざる傾向を辿り寧ろ事態の重大化を思わしむるものあるは真に遺憾とする所であるが、その重大化の原因は、隣邦の排外的国権回復思想及び新興経済力の同方面における発展にありとし、重大化が決して一時的現象に非ずして永続的現象なりと断じ、一転語して、この時に当り職を軍務に奉ずる者の熱と誠をを要求している。語勢に愁霜烈日の碍があるだけに、黙過出来ない立言であると思う。ただ内外の情勢に鑑みて軍人はしっかりやらねばならないというような従来のきまり文句ではない。・・・満蒙情勢の重大化が、永続的現象なりと断じて、殊更に軍人に向って熱と誠とを要求する陸相の訓示には、多大の暗示、見方によっては危険極まる暗示を包蔵しないか。それは例の、満蒙外交を軍人一流の考え通りに引きずっていこうと焦る意図の現れだと解されても、まさに弁解の辞はないではないか。・・・強硬意見があるなら、それは立憲の常道に基いて堂々主張され、検討さるべきであり、この上満州問題が軍人の横車に引きずられて行くことを許さぬ。政党政治から治外法権の地位にある軍人たる陸相が、帝国外交に重大関係をもつ時局の観察とその処理方針の暗示に関し、師団長会議に臨んで一種の政談演説をなしたのは明らかに権限を越えたものであり、これを黙ってなすに任せた政府は無気力であると思う」
 8月8日大朝社説:「軍部対政府の関係が、最近険悪になって来たことは、国民の看過し能わざるところである。国民の負担がその能力を越えるに至りたるが故に、その軽減の財源を、従来つねに偏重である軍費にこれを求めることは極めて自然なるに拘わらず、軍部はその威容を傷つくるものなりとして、絶対反対を表明している。少なくとも国民の納得するような戦争の脅威がどこからも迫っている訳でもないのに、軍部はいまにも戦争が始まるかのような必要を越えた宣伝に努めている。なるほど満蒙問題は決して穏やかではないが、しかしその権益を保護するに、武力が一体どの程度に役立つかを、考え直して見る必要があろう。・・・現内閣は国民多数の支持するところだ。殊に軍備縮小の旗印が、国民の支持するところであることは、疑いを容れる事の出来ぬ事実である。しかも軍部はこの国民の世論を無視して、政府に盾つかんとしているように見受けられる。軍部内の陸相訓示を門外に発表して、軍縮論者に対し一戦を交える態度を示し、また満蒙問題に対しては、政府の弱腰を叱咤するが如き風を見せている。政府はこの分限を越えた軍部の行動にいかに処するか、これが国民にとりての大問題である。軍部は国民の多数が現内閣の政策を支持していることを承知で、これに挑戦している。・・・国民の多数がついていて、多数党内閣が、民望によってその所信を断行することが出来なければ、立憲政治も何もあったものではない。今日の政府対軍部の関係は、まことに立憲政治、議会中心政治の試金石だといってよい。」
 うーっむ。東朝の社説は結局、政府を非難しているのか。大朝の社説は立論はいいが、切迫感がない。記者が戦争の開始時期を聞いているときに、試金石だといっている。そして満州で起こっている事態にもう少し言及してもよかったのではないか。現状認識のすれ違いは、論談にもならない。社史では光彩を放つとしているが、社史の中でしか通用しない言葉だろう。
 
 朝日新聞社史は次のように伝える。この大朝の社説は強く陸軍首脳部を刺激し、参謀次長をはじめ、参謀本部部長らが高原編集局長に対して強硬な反論や抗議を突き付けた。一方、森恪を団長とする政友会の満鮮視察団は満蒙はある意味では事実上交戦直前の状態と断じて、国力の発動に俟たねばならぬと確信すると発表し、これに伴って右翼団体も動き出し、在郷軍人による大朝非買運動と大毎による大朝攻撃の宣伝は一段と激しくなった。
 しかし歴史の歯車は音を立てて動きつつあった。第九師団は9月7,8日「醒めよ!我が同胞よ」と大書した宣伝ビラを多数(福井、金沢、富山、松本)上空より撒布した。宣伝ビラは赤青の二色刷りで満州の地図の上に日章旗をひるがえし、その旗の中に「ああ我が特殊権益」とうたい、日露戦争で二十億円、投下した資本十七億円、我同胞の尊き鮮血二十万人、と図示した、挑発的なものであった。
 事態を憂慮した元老西園寺公望は、牧野伸顕を通じて天皇に進言し、天皇は9月9日に安保清種海相、11日南次郎陸相を召して軍紀に関し注意を与えようとされたが、南は先手を打って様々な言辞を述べて退出した。すでに関東軍による開戦準備は進捗し、東京兵器廠から奉天の独立守備隊に送られた24センチ榴弾砲は、いつでも目標に向けて発射できるようになっていた。最後の榴弾砲経緯の事実関係は少々違うが、世に起っていることは、「満蒙問題解決方策」にほぼ沿っている。

 満州事変の切っ掛けとなった奉天事件は、関東軍の首脳部が謀略により機会を作製し軍事行動を起こしたことは事実で、軍中央部が同意したものではなかったが、中央部が一致して好意的な取計らいを行う十分な用意があった。南陸相は戦局を憂慮する若槻首相に対して朝鮮から兵を出す、或いはすでに出しららしいと述べ、若槻が政府の命令なしに挑戦から出兵したことを詰問したところ、田中内閣の時に、御裁可なしに出兵した事実があり、この先例に従って処置を行った旨答えたと原田日記は伝えている。この会談は19日夜以前に行われたと記されているが、陸軍大臣は、朝鮮軍と関東軍の暴走を阻止することが出来ないと感じたか、或いは事態の緊迫を政府に告げて軍事行動の拡大に対する政府の承認を取り付けようと務めたものと緒方氏は推測する。
 

関東軍、在満日本人の満州問題解決策 2

2016年01月04日 | 歴史を尋ねる
 戦略上の目標をソ連邦とみた板垣征四郎・石原莞爾は、事実はアメリカ合衆国が日本の大陸発展を阻害する最大の挑戦者であるとした。米国は近来経済力を増強し、極東に対する関心もとみに高まり、石原は日米戦争の到来を想定し、将来起こるべき日米戦争は、日本の満州への進出を契機とすると断じた。板垣は昭和6年3月、士官学校教官に講話し、ワシントン会議以降の極東外交を観察すると、日米の衝突は将来中国問題をめぐって起り、日本の満州進出を阻止するのは米国以外無いと述べた、と緒方氏。ふむ、板垣、石原共に当時外交音痴ではなかった、状況を把握していた、しかし、当時としては大胆な思考であったが、今思うと、米国の本当のパワー、中国の戦略戦術の理解が不十分だったのだろう。

 板垣および石原は満州を戦略上の拠点のみならず、日本の将来にわたる大陸発展・対外戦争に備えるための資源供給地としても高く評価していた。昭和4年、関東軍は調査班を設けて満州が占領された場合の行政研究に当たらせたが、満州資源の有効な利用方法を検討することであった。この研究は、広大な地域を対象としているにも関わらず、行政費は僅少で済む、在来の中国行政の「貪官汚吏による苛斂誅求」を排除して「課税の軽減」を実現する、日本の占領費は恐慌下にあっても占領地において徴収される課税と徴発される物資や武器により賄い得るとされた。
 板垣および石原が日本国内の改革の必要を是認していたが、満州は戦略上重要のみならず、日本の国民大衆の生存にとっても貴重な役割を果たすと考えた。現下の恐慌が世界的な不況に因るものと認めつつも板垣は、工業の基礎が薄弱な日本は国内的な手段のみではこれを打開できない、領土も資源も貧弱であるにもかかわらず、急速に増加する人口を抱えた日本は、現在の低い経済水準を維持することすら困難である、満州を領有してはじめて日本は資源の供給地と製品の市場とを確保し、工業国としての発展を期待することが出来ると述べた。更に日本の無産階級にとっても国内の富の平均を図るため満州の開発が必要とし、日本の人民大衆の福祉と対外発展を結びつけて主張し、この事は国家社会主義者の主張する帝国主義思想と相通じるところがあった、と。そして関東軍首脳部が日本人民の福祉の増強と在満人民の征服を意味する満州領有計画とをどう調和させたか、緒方氏は分析する。

 彼らは青年連盟と同様、満州の三千万人民を軍閥の圧政に苦しむ大衆と見ることに答えを見出そうとした。満州人民は「天恵の土地に居住しながら文化の恵沢に浴する」ことの出来ない哀れな人々であり、張学良政権下において戦争、インフレーション、重税等に苦しみ、危機に瀕した毎日を過ごしている。在満日本人もまた張学良政権の排日教育および排日政策の結果甚だしく困難な状態に置かれていた。こうした情勢分析から関東軍は張学良政権を以て日本人を含む全満人民の敵とみなし、板垣および石原は、張政権打倒を日本人の使命であると主張した。「満州占領地行政の研究」は占領ならびに統治が直ちに在満人民の幸福をもたらし、日本がこれにあたれば、治安確保・居住往来の安全・公正な善政・産業の発展などで満蒙の天恵遺憾なくその価値を発揮、民衆の福利を増進して保境安民を実現し得る、一時的戦禍は将来享受する福利に比すればとるに足らないと、述べている。
 関東軍の満州領有案と満州青年連盟の独立案とは一見相反するものであったが、両案の基礎となっている政治的、社会的、人種的観点については多くの共通点があった。このような考え方は、日本国内の現状を不満とする革新思想の反映で、在満人民大衆の民族的、経済的状況が改善されなければ、中国ナショナリズムとソビエト共産主義の侵入を阻止し難いとの観点から、強く信奉されるに至った、と緒方氏。国家の主権の在り様を別にすれば、その主張するところは理解できる。そういう意味では、どこかであまりにも深入りし過ぎたのかもしれない。伊藤博文の主張した「児玉参謀総長は満州に於ける日本の地位を根本的に誤解している。満州に於ける日本の権利は講和条約に依って露国から譲り受けたもの以外に何もない。満州経営という言葉は戦時中から我が国の人が口にしていた所で、今日では官吏や商人もしきりに満州経営を説くが、満州は決して我が国の属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我が主権の行われる道理は無いし、従って拓務省のようなものを新設して事務を取扱う必要もない。満州行政の責任はこれを清国に負担させねばならない」という言葉とのギャップに、その事実関係を並べてみると改めて驚かされる。
http://blog.goo.ne.jp/tatu55bb/e/ad8689ef5922102980d5713a9e6be7b6

 板垣および石原が満州出勤の期限を昭和11年(1936)と定めたのは、国際関係の機微を考慮した結果であった。ソ連は革命後の再建に忙しく極東に軍を集結させることは出来なかったが、経済復興五カ年計画の進捗に伴い、極東方面に積極的な行動に出ることが可能となることは、軍事力の増強状況からも予測できた。米国は不況後の国内問題に没頭していたが、ロンドン海軍軍縮条約の有効期限が昭和11年とされていたから、その後海軍の大拡張計画に乗り出すことも可能であった。ただ英国は満州問題に関し日本に対抗するものではないと見られていた。従って、日本の満州に対する軍事行動は、ソ連の復興と米国の海軍拡張が実現する昭和11年までに開始されなければならなかった。
 昭和6年8月、関東軍の「情況判断に関する意見」は同年の参謀本部の情況判断を批判し、「満蒙問題解決国策遂行は急速を要す」と主張した。参謀本部は満州問題の解決方策を三段階に分け、第一段階:外交交渉による日本権益の確保、第二段階:親日政権の樹立、第三段階:満州の軍事占領、であるが、当時いまだ張政権を相手とした外交交渉段階であると判断していた。関東軍は参謀本部が断固たる決意に欠けるとしてこれを非難した。
 昭和6年盛夏、関東軍は出勤準備を整え、一挙に満州を占領しようと待機していた。一方中国国民党はすでに革命外交の目標を公表し、日本の管轄下にある旅順・大連・満鉄の回収を宣言した。日中間の種々の衝突は次第に数を増していった。満州青年連盟はすでに第一次遊説隊を内地に派遣、切迫した状況をひろく訴え、張政権打倒のため日本軍がひとたび出撃するや、八千万同胞の支持を得るよう、世論の喚起に努めた。在満日本人は、軍人であると民間人であるとを問わず、軍事行動の開始を切望していた。

関東軍、在満日本人の満州問題解決策 1

2016年01月03日 | 歴史を尋ねる
 張学良政権による組織的な経済的・政治的排日策は、満州における日本の権利・利益のみならず、日本人の存在そのものをも脅かすものであると考えられ、在満日本人は団結を計ると共の日本政府に対し対満「強硬政策」の採択を迫った。これら日本人の多くは、日露戦争後20年も過ぎた今日、社会的経済的本拠を満州に置くに至っており、故国にあった田畑財産をすでに手放しているような場合が多かった。広大な大陸に馴れた彼らには日本は余りに狭く、魅力のないものになっていた。日本政府が昭和製鋼所の設営地を朝鮮に設置したことは、満州設置を望んでいた在満日本人を失望させた。これを見て彼らは政府の処置は在満日本人を継子扱いするとみなして、彼らの間にはいつしか「満州日本人」としての意識を発達させた。
 こうした中で、在満日本人は切迫した満州の危機を内地に訴える遊説隊を内地に派遣し、世論の喚起に努めた。同時に彼らの抱いた絶望感は種々の思想・政策主張を生み、後の満州建国に重大な影響を与えた。特に満州青年連盟は昭和3年11月に組織されたが、青年会員が共通して抱いていたのは在満日本人先輩のリーダーシップに対する不満であり、日本における政党指導者に対する不信であった。今日の行詰まりから復活し、強固な満蒙対策を樹立させるためには、古い世代の指導者に事態を任せて置くことは出来ないと考えるに至った。彼らの考え方は本国の革新論者と相通ずるものがあったが、彼らは日々優勢になりつつある中国ナショナリズムの挑戦にも応じなければならなかった。

 張学良政権の排日政策は満州における反日感情を著しく強めたが、この政策は満州と中国本土とが経済的にも社会的にも、また国民の願望の上でも次第に結びつきが密になり、中国ナショナリズムの趨勢の中で、将来満州で日本人が活躍する余地がなくなるのではないかとの見通しに立った在満日本人は、民族協和に精進し、満州の地で「弱小民族」が共存し得る考え方を模索した。昭和3年5月、大連新聞社主催の第一回満州青年議会で、「民族協和」の原理に基づいた「満蒙自治制」が提案された。そこに在住する三千万の住民が中国軍閥の圧政に苦しんでいるのを救うため、日本人を含めた全住民のために、住民の手による新国家を創設しようとするもので、満州における中国政権に対抗し得る大義名分を産み出したと共に、在住諸民族の協力関係を中国ナショナリズムに代って、和合的な「民族協和」を原理として打ち出した。この時は幾多の議論の後保留になったが、昭和6年6月満州青年連盟は「満州における現住諸民族の協和を期す」ことを正式に決定、南満州全体を占領下においた関東軍司令官に建白書を上申し、満州問題の唯一の恒久解決策として「民族協和」と「人民自治」の原理に基づく「満蒙自由国」の建設を強く主張した。
 「民族協和」、「人民自治」の原理は、ともに中国政治思想のなかに見いだされるもので、満州青年連盟の一部は、王永江、于冲漢を中心とする反張学良グループの文治派の人々と親交を結んでいた。後に満州事変中青年連盟の主張する「満蒙自由国」案の主要部分が関東軍の採用するところとなり、また満州側の文治派指導者が新国家建設に参加することとなった。

 関東軍はしばしば満州政治に介入したが、目的は常に親日政権の樹立を通して満州における日本の権力を確立することであった。張作霖爆死当時の関東軍首脳部は満蒙を中国本土から分離させ、満蒙自治聯省を設立することを考えていた。昭和6年当時関東軍の実権を握っていた参謀板垣征四郎および石原莞爾は満州を日本の支配下に置こうとする関東軍の伝統的信条を踏襲していたが、さらに進んで満州の領有を意図した。彼らは一夕会、鈴木貞一主催の研究会等に参加し、国内の革新運動の機運にも触れていた。その後満州事変中、満州領有論を捨て、青年連盟の提案した独立論を採用するに至るが、その主要な仲立ちとなったのは彼らの抱いていた革新思想であった。
 関東軍の戦略態勢はロシアを目標として樹立されていたが、中国ナショナリズムの台頭、排日運動の満州への波及に応じ、昭和3年には中国をも目標とした計画が新たに準備されることとなった。しかし、基本は満州は依然としてロシアの南下に対する要塞として評価され、ロシアがソ連邦となり、共産主義が中国革命に大きく影響することが明白になるに及んで、満州の対ソ戦略上の価値は益々重要になった。関東軍は、ソ連の勢力が東支鉄道を拠点としている限り、日ソ戦争は北満の平原地帯が想定され、膨大な陸軍を駐屯させなければならないが、一旦ソ連勢力を北方に後退させれば、満州の擁護は容易となり、ソ連の極東方面への拡張は回避することが出来ると考えた。北満の領有によってのみ日本は北方の防衛問題より解放され、国家利益の求めるままに自由に南方に向って発展できると主張した。しかし、北満領有計画は、対満積極政策の推進者を含め、軍中央部の支持するところとならなかった。軍中央部は北方限界を長春と定め、以北の軍事的計略を意図しなかった。ソ連の膨張を阻止するという北満経略の問題は満州事変中関東軍と軍中央部間との論争の主要点となった。
http://www.history.gr.jp/~showa/112.pdf
東支鉄道の地図参照