大日本主義の幻想

2015年10月31日 | 歴史を尋ねる
 「朝鮮台湾樺太も捨てる覚悟をしろ、支那やシベリアに対する干渉は、勿論やめろ、これは対太平洋会議(ワシントン軍縮会議)の根本だという持論(石橋)に反対する人の意見は、①日本がこの場所を抑えておかねば、経済的に、国防的に自立することができない。②列強は海外に広大な植民地を有している。また米国の場合、その国自らが広大である。日本が独り海外の領土又は勢力範囲を捨てよというのは不公平である。これらに対し次のように答える。第一点は幻想である、第二点は小欲に囚われ、大欲を遂げる途を知らないものであると。
 まず第一点、・・・経済上の利益はどうか。日本にどれ程の経済的利益を与えているか、貿易の数字で調べるのが、一番の早道である。試みに大正9年の貿易を見ると移出+移入の合計額でみると朝鮮312百万円、台湾292百万円、関東州310百万円、この三地を合わせて九億余円の商売をしたに過ぎない。同年、米国に対して輸出入合計14億円、インド5.9億円、英国3.3億円の商売をした。・・・米国に対する商売に至っては、朝鮮、台湾、関東州の三地に対する商売を合わせたよりなお5億円余多い。貿易上の数字で見る限り、米国は、朝鮮台湾関東州を合わせたよりも、日本に対して、一層大なる経済的利益関係を有し、インド、英国は、それぞれの地区に匹敵する経済的利益関係を、日本と結んでいる。もし経済的自律をというのであれば、米国こそ、インドこそ、英国こそ、日本の経済的自立に欠くべからざる国と云わねばならない」と。 石橋は各国との経済的利害関係を、明確な数値(貿易額)でもって説明している。これは大変重要なことだ。そこで初めて明確な両国間の軽重・主従関係が分かる。高橋亀吉が緻密な経済データ・分析で当時の経済界に大きな信頼を得ていたことにも通ずる。

 「貿易の総額は少ないが、その土地の産物が日本の工業或は国民生活上欠くべからざるもので、特殊の経済的利益があるということもある。しかし、この点でも朝鮮、台湾、関東州にかくの如きものはない。もっとも重要なコメは、もっぱら仏領インド、シャム等から来る。石炭、石油、鉄、羊毛にしろ、朝鮮台湾関東州に専ら仰ぎ得るものは一つもない。例えば鉄を昨年関東州から3.4万トン輸入したが、同年の日本の輸入総量は123万トンを越えた。米にしても、朝鮮、台湾を合わせて移入し得る量はようやく2,3百万石とわずかである。このくらいのもののために、何故日本は朝鮮台湾関東州に執着するのか。・・・支那及びシベリアに対する干渉政策が経済上から見て、非情な不利益を与えていることは、疑う余地がない。支那国民及び露国民の日本に対する反感、これはこれらの土地に対する日本の経済的発展を妨げる大障害である。この反感は日本これ等の土地に対する干渉政策をやめない限り、除くを得ない。・・・種々の干渉をした結果、全体として日本の支那に対する貿易はどれ程の発展を遂げたか、過去十年間において、同年間における米国に対する貿易の増加額の約三分の一にしか当たらない。・・・世人はしばしば支那の鉄、支那の石炭と、大騒ぎするが、僅かばかりを輸入しているに過ぎない。・・・朝鮮、台湾、樺太を領有し、関東州を租借し、支那、シベリアに干渉することが、日本の経済的自立に欠くべからざる要件だなどという説が、全く取るに足らざるは、以上に述べた如くである。日本に対する、これらの土地の経済的関係は、量、質ともに、むしろ米国や英国に対する経済関係以下である。これ等の土地を抑えて、えらい利益を得ているが如く考えるのは、事実を明白に見ぬために起こった幻想に過ぎない。然らばこれらの土地が、軍事的に日本に必要だという点はどうか。
 
 軍備について、色々の説が流布されるが結局、①他国を侵略するか、②他国から侵略される虞があるかの二つの場合の外はない。・・・然らば日本は、何れの場合を予想して軍備を整えているのか。政治家も軍人も、新聞記者も異口同音に、日本の軍備は他国を侵略する目的ではないという。・・・とすれば他国から侵略される虞がない限り、日本は軍備を整える必要はない筈、一体何国から侵略される虞があるというのか、前には露国であり、今は米国にしているらしい。・・・日本が支那又はシベリアを自由にしようとする、米国がこれを妨げようとする。ここに戦争が起こる可能性がある。・・・さればもし日本が支那又はシベリアを我が縄張りとしようとする野心を捨てるならば、戦争は絶対に起らない。従って日本が他国から侵されるということもない。論者は、これらの土地を我が領土とし、もしくは我が勢力範囲として置くことが、国防上必要だと言うが、これらの土地をかくしておき、もしくはかくせんとすればこそ、国防の必要が起る。それらは軍備を必要とする原因であって、軍備の必要から起こった結果ではない。しかるに世人は、この原因と結果を取り違えている。思うに、台湾、支那、朝鮮、シベリア、樺太は、我が国防の垣根であるというが、その垣根こそ最も危険な燃草である。我が国はこの垣根を守るために、せっせといわゆる消極的国防を整えつつある。自分(石橋)の説く如く、その垣根を捨てるならば、国防の用もない。・・・いかなる国といえども、支那人から支那を、露国人からシベリアを奪うことは、断じて出来ない。・・・日本に武力あり、極東を我が物顔に振る舞い、支那に対して野心を包蔵するらしく見えるので、列強も負けてはいられないと、しきりに支那ないし極東を窺うのである」

 石橋のこの見解は今この時点の世界の情勢判断から説き起こしたものなのだろう。今や世界の列強は第一次大戦で疲弊し、帝国主義的侵略を避けつつある、むしろ独立運動が芽生えつつある、民族主義に裏打ちされた国民国家が誕生しつつある世界の流れがあると、石橋は世界を俯瞰したのだろう。明治の政府、軍部が抱いていたような帝国主義、植民地主義の時代が通り過ぎようとしている、経済活動を前面に打ち出した国際協調を想定しているのかもしれない。第一次大戦終結後の平和主義と国際連盟誕生などの大きなうねりをいち早くキャッチした石橋の論説なのだろう。

社説「一切を棄てるの覚悟」

2015年10月26日 | 歴史を尋ねる
 大正10年〈1921〉『東洋時論』7月23日号で、石橋は標題の社説を掲載した。1月24日号の社説「日米衝突の危険」の最後尾に「世界が戦後の平和を願うとき、軍備縮小の声、ようやく大ならんとしつつある時、我が政府が新年度予算に、軍備大拡張費を計上するを見て、更に悪化せぬかを恐れる」と記した後、半年後にかなり激烈な見解を発表している。
 「昨日までも、今日までも、実際政治問題にあらずと云って振り向きもされなかった軍備縮小会議が、遂に公然米国から提議された。おまけに、太平洋及び極東問題もこの会議において討議されるという。政府も国民も愕然色を失い、なすところ知らざるの観がある。欧州戦争中から、必ずこの事あるべきを繰り返し戒告し、政府に国民に、その政策を改めるべきを勧めて来た。これを聴かず、事態を今日に推し詰めさせて、周章狼狽す、笑止というも愚かである。・・・我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ、今の世界において独り日本に、欲なかれとは注文せぬ。幾多の大思想家も無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。・・・我が国民には、その大欲がない。朝鮮や台湾、支那、満州、又はシベリア、樺太等の、少しばかりの土地や財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としている。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。将棋の王より飛車を可愛がるヘボ商議だ。結果は王も雪隠詰めに会う。いわゆる太平洋及び極東会議は、まさにこの状況に我が国の落ちんとする形勢を現したものである。」 ここでいう周章狼狽することとは、軍備縮小の問題と共に、パリの講和会議で決着したとした山東問題等が再び二国間を越えて国際的に取り上げられることを指しているのだろう。

 「過去の繰り言は栓なきも、この際の対策を立てるためには、十分に過去の過ちを吟味しておく必要がある。せめてこの春、尾崎氏が軍備縮小問題を引提げて起った時、これを議会が取り上げて、我が国から進んでこの会議の招集を、英米に提議することにしたかった。・・・我から提議するなら、自分の好きな場所、時、問題の範囲等を選び得た。今更問題の範囲を米国に照会し、とかくの批評を世界から受けるが如くぶざまを演ずる要はなかった。・・・我が国が主導者になって、この会議を開いたなら、ずいぶん実現し得たことであった。・・・英米から発動し来ない限り、実際政治問題に非ずとして、他人の事の如く澄ましていた日本は、今更どうすることも出来ぬ。・・・裏面の魂胆は、世人の言う如く日本いじめの会議であるにせよ、表面の旗は軍備縮小であり、太平洋の平和である。この会議に列することを拒む日本が、世界に向って窮状に陥ることは明らか。・・・会議の主導者の地位を奪われた今は、そこの飛び込み、浮かぶ瀬を見出すより外はない。この点について、我が政府が思い切りも悪く、躊躇を示したことを遺憾に思う。これを当然の措置と如く承認する我が世論の低劣なる。彼らには、何もかも捨てて掛れば、奪われる物はないということに気づかぬのだ。」

 軍縮会議開催の発端は、ジュネーブの国際連盟総会で決定された軍縮規約に求められる。しかし軍縮が提唱されたのは、大正9年(1920)12月、米国上院外交委員会において決議案が提出された。この決議案が提出されると、ニューヨーク・ワールド紙が一大キャンペーンを展開、次期大統領ハーディングをはじめ、英、仏、伊、独など各国首脳の軍隊に対する意見を連載して、世界的に大きな反響を呼んだ。朝日のニューヨーク特派員美土路昌一はこれらを詳報した。それによると、当時の米国の世論には一種の対日恐怖感はあって、ニューヨーク・トリビューン紙は「米海軍を速やかに太平洋に集中すべし」と叫び、アメリカン紙は「平和を保たんとするの手段は、常に備えるにあり」として海軍の大拡張案を支持、下院陸軍委員会委員長のカーンも軍備充実の必要を論ずるなど、海軍の拡張に対する支持熱が極めて高かったと伝えている。当時、米海軍当局は、戦艦3隻、巡洋艦1隻、軽巡洋艦30隻、駆逐艦18隻、潜水艦6隻、飛行機母艦4隻など合わせて80隻を三カ年で建造し、ハワイを太平洋の拠点として、一千隻を収容する根拠地を建設するという拡張計画を立てていた。さすがに米国内にも反対が起り、こうした軍拡賛成と反対の議論がたたかわされている最中、二つの決議案が上院に提出された。こうしたなかで日本では憲政会から除名された尾崎行雄が、大正10年2月、軍縮決議案を衆議院に提出した。しかし除名運動が絡んで大差で否決された。東朝はさっそく取り上げ、吾々にもう少し軍備制限論の世界的意義の了解があり、同時に国際平和の為に貢献する誠意があったなら、尾崎氏の提案に対し、もう少し真面目に、事柄の得失は別として、世界的大問題が余りに軽薄に余りに無造作に取扱われたのは残念だと論じた。このような経緯が石橋の論説の背景にあった。

 「何もかも捨てて掛るのだ。これが一番の、而して唯一の道である。しかし今の我が政府や国民の考え方では、この道は取れそうにもない。その結果はどうなるか。対支借款団交渉の際の満蒙除外運動の結末がそれだ。しきりに小欲の目的物を維持しようと務めるだろうが、結局は維持し得ない。そして日本は帝国主義だ、我利我利だという悪名だけが残る。今度の会議の結末もそうなることが明白だ。・・・これに反してもし我が政府と国民に、何もかも捨てて掛るの覚悟、小欲を去って、大欲に就くの聡明があったならば、我が国から進んで軍備縮小会議を提議し得た筈だ。・・・仮に会議の主導者には成り得なくとも、もし政府と国民に総てを捨てて掛るの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。例えば満州を捨てる、山東を捨てる、その他支那が我が国から受けつつあると考える一切の圧迫を捨てる。その結果はどうなるか。例えば朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非情の苦境に陥るだろう。・・・その時には、支那を始め、世界の弱小国は一斉に我が国に向って信頼の頭を下げるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に、日本の台湾朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ立つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底から九天の上にのぼせ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。・・・遅しといえども、今この覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、これがその唯一の道である。しかるにこの唯一の道は、同時に、我が国際的地位を、従来の守勢から一転して攻勢に出でしめるの道である。以上の説に対して、空想呼ばわりし、納得し得ぬ人々のために、次号に決して思い煩う必要なきことを、具体的に述べる。」 ふーむ、石橋の説は世界史の流れを先取りする考え方だ。時代を大きく動かす発想は、同時に政府、軍部、国民の理解を得るのに、どれ程のエネルギーが必要か、論説の世界だけでは世の中は簡単には動かない。ともあれ、石橋の具体的根拠を聞いてみたい。
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社説「大日本主義の幻想」の背景

2015年10月24日 | 歴史を尋ねる
 石橋は大正10年(1921)7月23日号の社説「一切を棄つるの覚悟 太平洋会議に対する我が態度」、7月30日、8月6、13日号の連続社説「大日本主義の幻想」を掲げた。この社説を読んだだけでは唐突感があり、納得性に乏しいので、当時の日本と世界の情勢を前もって整理しておこう。先ず大正7年(1918)11月ドイツが降伏し、翌8年1月18日、第一次大戦の終結を告げるパリ講和会議(参加27カ国)が開かれた。講和に際して基本原則として、米国大統領ウイルソンから世界平和のための十四か条が提唱された。それは戦争再発を防ぐための領土の無併合、無賠償、植民地や弱小民族の解放をめざした民族自決、新しい国際平和機構の設置などであった。しかし、利益を分かち合おうとする戦勝国の主張のまえに、無賠償、無併合は実現せず、ウイルソンの理想主義は大幅な後退を余儀なくされた。ただ、平和維持機構「国際連盟」が条約に組み入れられ、参加23か国の批准を経て、大正9年1月発足するが、その国際連盟草案がウイルソンによって提唱され、各国代表の賛成演説ののち、満場一致で可決、しかし交錯した国家間の利害の前に会議の前途は多難であった。日本に関する問題は、1、赤道以北旧ドイツ領南洋諸島の割譲を日本は求めたが、米国の強い反対で、結局国際連盟からの委任統治という形で、日本が実質的に支配。2、国際連盟創設を機会に人種差別による不利を排除したいという意図で、人種差別撤廃案を提出、紛糾を続けたが否決された。3、中国山東省における旧ドイツ権益の日本への無条件譲渡を日本は主張、これに対し中国は対独宣戦により中・独間の一切の条約は消滅したという立場から中国に戻ったと主張して日本の要求を拒否、両国政府の応酬に、英、仏の日本支持に加え、日本脱退による国際連盟不成立を恐れたウイルソンによって、中国の要求はしりぞけられた。
 中国の要求が無視されると、憤激した北京の学生たちを先頭に反帝国主義運動が中国全土をおおった。これが五・四運動だが、日本では隣国の民族意識の高揚を正当に理解する世論はまだ熟していなかった。当時の朝日新聞の論評も中国を責めるに急であった、と。

 大正8年(1919)3月3日、朝鮮の京城では、1月に病没した朝鮮最後の国王李太王の国葬が行われた。実は葬儀の前々日、京城バゴダ公園を中心に「三・一六独立運動」「万歳事件」と呼ばれる大衆による朝鮮独立運動が起っていた。朝日は七日紙上ではじめて、「朝鮮の暴動」と題し、一日の京城の騒乱が平壌、宣川、義州などへ波及している有様を伝え、総督府による厳重な報道管制が行われていることを明らかにした。パリ講和会議における米大統領の民族自決の提唱や、ロシア革命の成功などが世界各地の独立解放運動を強く刺激し、東京在日の朝鮮人留学生たちの間でも、すでにこの年の2月、朝鮮独立大会が開かれていたが、三・一運動の直接のきっかけとなったのは李太王の急死であり、その死をめぐって「王世子殿下の御婚儀を悦ばれざる結果の自刃で、痛恨の原因ことごとく日本にあり」という風説が流れる一方で、民衆の間に、日本による謀殺といった疑惑が深まっていた。独立運動の指導者である天道教、キリスト教、仏教各派の代表は、独立宣言を用意し、李太王国葬参加のため人々が京城へ集まるのを機会に、旗揚げを決行した。宣言文が発表されると、熱狂した学生、労働者、市民たち四、五十万人は「朝鮮独立万歳」を叫び市中へのデモを開始した。日本軍隊による激しい弾圧が始まると、示威運動も暴動化し、日本領事館、駐在所などが襲撃された。騒乱はたちまち全土に波及、三月末から四月にかけて最高潮に達した。運動に参加した民衆は二百万、このうち八千にちかい死者を出し、逮捕された者も五万人を超えた。だが新聞報道は厳重な検閲を受けて、不十分な報道に留まり、論評も少なかった。
 朝鮮総督府・陸軍大将長谷川好道は事件が一段落と共に責めを負って辞任し、原内閣は朝鮮及び台湾総督府官制改革案を提出、総督は陸海軍人に限るという資格制限が解かれた。新官制実施にあたって原首相は談話を発表、「諸般の改革を断行し、将来は教育、産業或は官吏任用など漸次内地と同じ地位に達せしめるを期し、憲兵制度を廃止して警察官に替える」と声明した。新総裁齋藤実ら一行が列車で京城南大門駅に到着、出迎えの馬車が動き出そうとしたとき、爆弾が投げ込まれ、群衆で埋まった駅前広場は大混乱になった。総督夫妻は無事であったが取材中の記者ら十数人が重軽傷を負った。

 大正8年5月4日、北京大学学生をはじめ千余名の学生が安定門に集まり、国賊曹汝霖、売国奴陸宗輿、章宗祥、山東を返せ等の旗を押し立て示威運動を行った。その一部は巡査と衝突、一部は曹汝霖邸を襲って焼打ちを行う。これが反帝国主義のナショナリズム運動、五・四運動の口火だった。パリ講和会議で中国の主張がことごとく認められそうもないことが分かると、中国民衆は自国の軍閥政権、親日的官僚への不信を募らせ、日本に対して激しい反感を示した。留日学生の多くが急いで帰国し、上海、北京で学生数千人が起ちあがった。曹汝霖は二十一か条条約の調印責任者、章宗祥はたまたま帰国中の駐日公使だった。中国政府が首謀学生多数を逮捕すると、北京の全学生はストライキでこれに対抗、抵抗運動の波は全国に拡がり、各地で学生と軍警の衝突が繰り返された。運動はシダイニ商人、労働者、一般市民を巻き込む全民族的な革新運動の色合いを濃くしながら、講和条約の拒否、売国奴の処罰などを求めて各地でストライキを繰り返し、日貨排斥運動を行なった。この事態に、中国政府は対独講和条約調印の拒否、親日官僚の罷免などを決めたものの、この運動の中から中国共産党が生まれた。以後の中国革新の動きは、はじめて広範な大衆参加の、反封建、反帝国主義的自覚をはっきりさせていった(朝日新聞社史から)。ふーむ、共産党が運動をかなり後押ししたことを踏まえて、反封建、反帝国主義と社史はコメントしているのだろう。この時朝日の記者は、亡命先の日本から帰国後、広東軍政府をつくって、大正7年上海で中華革命党を再建、のちの中国国民党への改組や全国統一の準備を進めていた孫文と会見、孫文の考えを引き出している。「今回の運動が突然にして、民党が運動するの暇なし、要するに国民一般に依りたるもので、山東問題に対する支那国民の期待に反せるだけ、排日感情旺盛にして恐らく百年を経るも忘れないだろう」 更に「中国の日本に対する所懐を述べる」と題して、中国軍閥政権の援助に狂奔し、民党勢力抑圧に立ちまわる日本帝国主義の野心をつき、「東隣志士果たして同文同種の誼あらば宜しく日本政府を促し、早日猛省して、日本の対外方針を変易シ、中国方面に向かって侵略を為さざらしむべし」と結んだ。ふむ、この東隣志士に応じたのが、石橋湛山だったのか。
 大正9年にはいっても、排日運動は激化する一方で、各地で抗日事件が続出した。懸案の山東還付問題は、中国側が対独講和条約未調印と民衆の憤激を理由に交渉に移ろうとしなかったが、当の中国政局そのものが政権争奪をめぐって混迷を繰返した。

 大正9年3月15日夕刊「市況」欄に株式大崩落、綿糸急落、市場大混戦といった見出しで紙面をうずめた。「20年大不況」の到来である。第一次大戦の休戦で、海外需要の減少、物価の下落などで、設備投資が急増した後の戦争特需の急減で、企業収益は急減した。いわゆる反動恐慌であった。しかし19年3月に底をついて経済は再び熱狂的ブームとなり、地価、株価、商品相場などが異常に高騰した。この為一攫千金を夢見て株の売買を競ったが、この背景にはアメリカ経済の好況、ヨーロッパ戦後復興需要などに加え、政友会原敬内閣(高橋蔵相)の財政拡大、金融緩和などによるインフレ政策が景気を一層拡大、戦後ブームが生じた。この高橋蔵相の積極的な経済政策は、大戦後のバブルを生みだし、インフレを激しくし、国際競争力の低下をもたらした。輸入が増える一方、輸出が減少し、貿易収支は赤字に転じ、外貨が減少して通貨供給量が縮小、3月15日の大転換が起った。生糸、綿花の価格は大正9年前半の数カ月で三分の一、米価は二分の一と、つるべ落としの下落を示した。企業倒産が続出し、信用不安が激しくなった。輸出が大きく減少したから、産業界の打撃は大きかった。長い経済停滞が始まった。物価の下落、株価の下落の大きさから云うと、「二十年大不況」は「三十年恐慌」よりもより深刻で、典型的なバブルの崩壊といった側面が強かった。ところが当時の政府は、企業のこうした苦境は投機的な経済行為が収束する合理的なプロセスだと考えていたから、本格的な救済処置を取らなかったばかりか、対策もその場限りのものが中心であった。当時井上日銀総裁は、不況下で経営不振の企業の整理が行われれば経済は再び健全なプロセスに戻るはずと考えていたから、日銀が一時的な救済融資を行えばそれで十分だと考えていた。日本経済は20年のマイナス成長に続いて、22年、23年とマイナス成長が続いた。大正から昭和にかけては、ケインズ理論はまだ知られていず、古典的な理論がまかり通っていたから、政策当局も景気に及ぼす政府の役割について消極的な見方しかできなかった。このため、景気の本格的な回復は遅れ、経済は20年代いっぱい低成長から脱却できなかった、という。この項は、鈴木正俊氏による「昭和恐慌史に学ぶ」による。

 以上石橋湛山が社説を書いた当時の日本内外の政治経済の動きを概観した。その上で石橋の考えを紐解いてみたい。

日米衝突の危険

2015年10月21日 | 歴史を尋ねる
 大正9年(1920)1月24日号「東洋時論 社説」に石橋の「日米衝突の危険」が掲載された。時は原政友会内閣、国際連盟に正式加入し、常任理事国になったときである。前年は第一次大戦後のヴェルサイユ条約が締結され、中国では五四運動が起った時代である。
 「思慮ある人に向って、日米間に戦火を巻き起こす危険ありやと問えば、大抵一笑に付して問題にせぬであろう。しかしながら、この問題が、日米両国民の感情を一般に刺激しつつあることもまた、争うべからざる事実である。両国に限って見れば、米国は、日本の生糸、羽二重、雑貨の大顧客であり、日本は、米国の綿花、鉄等の買手であって、強い利害の紐に結ばれている。けれどもひとたび、両国の間に支那を取り入れて見る時は、両国の関係は、すこぶる色彩を改めて来る。欧州の諸強国は、最近の五年にわたる戦争で疲れ、如何なる事情があっても、当分戦争する気はない。しかし戦争をし足りないものが二つある。米国と日本だ。しかもこの両国は資本主義の真っ盛り期に属し、ことに戦争中、両国の政治を支配する資本家階級は、経済上の意外なる幸運に接して、数十年でも達するのが難しいと思われる程の大発達を数年で成就し、今日は得意驕慢の絶頂に立って踊っている。戦争をし足らない両国民が、驕れる気分をもって、外に向って帝国主義的の発展を、盛んに試みつつある。両国の活動が、支那という一つの舞台に落ち合って、衝突し、火花を散らしつつある。一朝誤って日支間に火が付けば、その火は直ちに米国に延焼すべきや、ほとんど疑いを容れない。」 石橋湛山は当時政府に特に関わって特別の情報を持っていた訳ではない。従って当時を俯瞰的に観察していた一般の人にも、石橋と同様に考えた人は読者を含めてそれなりに居ただろう。

 「日支間の関係はどうかと見れば、支那国民は日本に対して憎悪の念に漲っている、燃えている。日本をなぐりつけたいという感情が渦を巻いている。もし力さえあれば、支那は今が今、日本と開戦するを躊躇せぬであろう。パリの講和会議で支那委員が、山東問題で、日支協約を反古なりと云って、日本に食って懸かったアノ態度は、遣り方は、アレが人類永久の平和を建設せんとする講和会議の席でなかったならば、どうしても、国交断絶の宣言と見るほかはなかろう。支那委員は、二度となき機会を捉えて、捨て身の覚悟で、日本を世界の代表者のまえで、叩きつけに懸かったのである。背後にある支那国民はこれを見て、狂喜して歓呼喝采した。この一事に徴して、日本に対する支那の反感が、いかに猛烈で突き詰めているか、善くわかる」と。国家間の関係は単に法律、ロジックの関係だけではないことは理解できる。石橋はその点で感情面での程度を人間関係に置きなおして表現している。理解し易い。
 「なぜ我が国はこんなに支那から憎悪されるのか、排斥されるのか。我が国は、過去五年の欧乱中、帝国主義的経営を支那に対してすこぶる露骨に行った。支那の軍閥と結んで、無数の借款に応じ、満蒙を中心とする種々の利権を獲得した。ことに欧乱に乗じて青島を攻め陥し、ドイツに代って我が国が一時その地方を占領したことは、山東に第二の満州を作るものだ、支那本土の胸腹に虎狼の日本を引き入れるものである、ということで、痛く支那の上下を激動させた。以上は、講和会議で捨て身の覚悟をもって、我が国を叩きつけに懸かり、近来ますます排日運動を猛烈にさせた、直接の理由である。しかしその奥に横たわる根本原因は、我が国が徳川幕府を倒して王政に統一した維新前に、盛んに排外攘夷の運動が行われたのと同じものだと思う。民族独立の運動は、まず対外の形をとって現れる。故に、その根抵は極めて深固強大と云わねばならぬ。・・・支那の独立統一運動は、まず地理上隣にいる脅威に対抗して、その圧迫を払いのけることが、一大要件だ」

 「そこへ米国が入ってくる。均しく支那において、経済的に帝国主義的野心を逞しくせんと多年狙っていた米国が、支那の統一運動の味方として、援助者となって、参加してくる。米国にとって、日本排斥運動を援け、日本を叩くことは、米国の支那における経済的発展上、好都合なことは無いからである。もし一朝、日支の間に、いよいよ火蓋が切られるときは、米国は日本を第二のドイツとなし、人類の平和を攪乱する極東の軍国主義を打ち倒さねばならぬと、公然宣言して、日本討伐軍を起し来たりはせぬか」 この石橋の記述を読むと、時代の錯覚に陥る程、20年後を正確に予測している。この時はまだ、第一次大戦が終わって間もなくだ。当然日本の外務省も含めてそうならないよう努めたはずだ。それが幣原外交だったのか。最後に石橋は次のように記述して、この社説を締めくくっている。

 「我が軍閥はこの形勢をいかに見ておるか。吾輩は、世界が戦後の平和を願って、軍備縮小の声、ようやく大ならんとしつつある時、我が政府が、新年度の予算に、軍備の大拡張費を計上せるを見て、更に形勢の悪化せぬかを恐れる。」

石橋湛山、大日本主義との闘争

2015年10月20日 | 歴史を尋ねる
 鴨武彦氏は石橋湛山著作集3の解説で、次のように語っている。「石橋湛山は、二十世紀日本の言論界における真のリベラリズム(自由主義)の代表的旗手の一人であったと云ってよい。しかも、石橋のリベラリズムは観念的空想的なものでは全くなく、現状分析に透徹した力を絶えずみせる骨太のリアリズム(現実主義)と強く結びつくものであった。そして石橋のリベラリズムとリアリズムは、日本の健全な議会政治の下に日本の健全な自己主張を国際社会に打ち出していこうとする日本ナショナリズムとも結びついていた。石橋の政治思想、政治哲学は、リベラリズム、リアリズム、日本ナショナリズムが見事に融合している点で、稀有な価値を今(1996年)なお日本社会で持つ」と記す。鴨氏はここでリベラリズム(自由主義)と記しているが、このリベラリズムの意味内容は西欧やアメリカに始まる資本主義と議会制民主主義を前提にした思想をさしているのだろう。
 「石橋は明治末期の1910年代頃から、日本が第一次大戦後の国際政治を契機に朝鮮・満州と中国を標的に植民地主義、帝国主義の外交を進めていくことに軍部の反発を恐れずに徹頭徹尾反対した。当時の日本の政治外交は、後進国家の日本が欧米列強の外交の思想と行動を模倣するもの、と石橋には映り、それは『大日本主義の幻想』であるとした。日本はその幻想に代って、『小日本主義』を日本の政治外交のあるべき指針に据えて、日本のアジアへの対外膨張主義政策を次々と批判していった」

 「しかし、第一次大戦後の国際政治は、軍事と外交を統合しようとする欧米のパワー・ポリティクスの厳しい壁にぶつかっていた。日本の政党、軍部も、このパワー・ポリティクスをアジアを中心に実践しようとしていた。石橋はパワー・ポリティクスの陥穽に日本が落ち込まないために、日本の帝国主義政策、植民地主義政策に一環して反対し警告を発していた」と。鴨氏の解説は第二次大戦後の学術用語で解説しているので、もう一つ事実関係が理解しずらいが、先ずパワー・ポリティクスをウキペディアで見ると、「主権国家同士が軍事・経済・政治的手段を用いて互いに牽制しあうことで自らの利益を保持しようとする国際関係の状態を指す。諸国家は世界の資源を巡って争い、他国や国際社会全体の利益よりも自国の利益を優先する。その手段は、核兵器の開発・保有、先制攻撃、恫喝外交、国境地帯への軍隊の配備、関税障壁や経済制裁など多岐にわたる。」と解説されている。
 更に世界大百科事典に依ると、「この言葉がとりわけ国際政治に関連させて用いられるのは,国際社会固有の構造,すなわち共通の価値観と紛争解決の制度や手続を保証する中枢権力とを欠き,そのため諸国家はそのパワーの行使によってのみ国家目標を達成することができるという,いわばアナーキーな状態が支配的なためである」と。つまり石橋は、当時の国際、東アジア国家関係をいち早く以上のように理解していたと云うのだろう。そしてパワー・ポリティクスの陥穽とは戦争を意味しているのだろう。リアリズムに徹して、先が見えたということだ。先見的な主義主張からではなかった。鴨氏が言っているように「石橋の政治思想、政治哲学は、1945年以降の第二次大戦後も揺るぎなく続いた。戦後は言論活動のみならず実際の政治活動に深くかかわった戦後、第一次吉田内閣の大蔵大臣となるが、GHQ政策との衝突に遭い公職追放の辛酸をなめた」

 日本が実際に選択し辿った道は、石橋の主張した小日本主義ではなかった。石橋の言論は、リベラリズム、リアリズム、日本ナショナリズムの三者が混合し、更に政治的公平さ、正義を持ち込もうとする迫力を備えていた。それ故、彼の言論は、第二次大戦前は実際にとられた日本の選択との壮絶な戦いであったと、鴨武彦氏は解説する。ではその石橋のリアリズムを論説から追ってみたい。

社説「満蒙問題解決の根本方針如何」石橋湛山

2015年10月15日 | 歴史を尋ねる
 鴨武彦氏が政治・外交編として、石橋湛山の言説を取り纏めている。古くは明治45年から昭和36年に至る論説の収集である。この論説は同時代の言葉で書かれているので、当時をよみがえらせるには最適だ。ズバリ、満州事変勃発時の彼の発言を見てみたい。昭和6年9月26日、10月10日の「社説:満蒙問題解決の根本方針如何」から。
 「支那は、我が国にとっては、最も旧い修好国であり、かつては我が国の文化を開いてくれた先輩国でもある。過去千数百年間の日支は類例少ない親睦の歴史を示した。この親睦は、将来もまた永久に継続することが、両国の利益であり、必要であることも疑いない。しかるに最近十数年の両国の関係は、残念ながら大いに親睦とは言い得ない。・・・何故両国の争いの根本は、主としていわゆる満蒙問題にある。故にこの際この満蒙問題を一掃的に解決することは、日支両国の修好を元に戻す所以で、両国のため、また世界の平和のため、誠に喜ばしい企てである」「もし我が国民が真に満蒙問題の根本的解決を希望するならば、まず十分の覚悟をもって臨まねばならない。従来通り、満蒙における支那の主権を制限し、日本のいわゆる特殊権益を保持する方針をとる限り、いかに我が国から満蒙問題の根本的解決を望むも、その目的は到底達し得ぬことは明白だからだ。我が国としては、満蒙における特殊権益を確立し、再び支那にとやかく言わせぬ状況を作り得れば、それにて問題は根本的解決を遂げたりと満足するかも知れぬ。しかしそれでは支那の政府と国民とは納得しないに極まっている。或いは一時は力に屈して、渋々承諾する形を取っても、いつかはまた必ず問題を起こし来ることは、かの大正四年の二十一か条要求がその後如何なる結末を示したか見れば判る。いわんや今日、大正四年当時と異なり、力をもって、渋々なりと支那を屈することさえ、恐らくは出来難い。この問題の解決が困難なるは、畢竟満蒙が支那の領土であるからだ。支那国民が、日本の満蒙に対する政治的進出を肯(がえ)んぜず、しきりに排日行動に出づるに対して、我が国人は過去の歴史や条約やあるいは支那に対する日本の功績やらを理由として、彼らを非難し、その不道理を説くけれども、そんな抗議はこの問題の解決には無益である。かの国人が、彼らの領土と信ずる満蒙に、日本の主権の拡張を嫌うのは理屈ではなく、感情である。・・・いかに善政を布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受けるを快とせざるが如く、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。しかるに我が国の満蒙問題を論ずる者は、往々にして右の感情の存在を支那人に向って否定せんとする。明治維新以来世界のいずれの国にも勝って愛国心を鼓吹し来れる我が国民の、これはあまりにも自己反省を欠ける態度ではないか」と。

 ふーむ、実に明快な論旨で、満州事変の最中に思いついた考え方ではなく、石橋なりに歴史にリアリステックに向いあってきた後の主張であろう。当時もこんな考えを持っている人は少なくなかったかもしれないし、満州放棄論などがその表れだろう。ただ国論を変えるとなると大変なエネルギーがいっただろう、ここまで来てしまって。続いて10月10日の社説に進む。
 「戦の要道は、敵を知り、我を識るにあると言われる。これは平和の交際に於いても同様だ。しかるに我が国民の支那に対するや、彼を知らず、我をも識らず、ただ妄動している。それでは支那と戦うとしても、和するにしてもうまく行きよう筈がない。我が国民がいかに支那を知らざるかは、排日読本に対する我が国民の認識不足によって見ても判る。読本中の排日記事は、その国民統一を図るため、国民の国民意識を強烈にするための教材として選択されtものに過ぎぬ。我が国も明治維新以来、今日の統一国家を作るためには、盛んに用い、今もなお用いつつある方法である。更に言い換えれば、支那は今これらの点において、全く明治維新以来の我が国の真似をしているに過ぎぬのだ。日本人から見れば、排日読本ははなはだ迷惑、はなはだ不快にも感ぜられぬことはないが、支那とすれば、それは全く已むに已まれぬ要求から出ているのである。もし我が国民が、排日読本をやめさせようと思うなら、支那の国民統一運動ーその要求を止めさせるより外はない。が、そんなことは出来ぬのは、我が国民自らが今まで何をして来たかを反省すれば、容易に判ることである」
 「我が国民が満蒙問題を根本的に解決する第一の要件は、支那の統一国家建設の要求を真っ直ぐに認識することだ。この認識が正しく出来て、初めて問題解決の手段は発見せられる。・・・支那の統一国家建設運動が成功する場合、我が国にとって不利な事柄だとするも、支那国民のその要求は、他国民の到底これを如何ともすべからざるものとするならば、我は潔く彼の要求を容認し、口先ばかりの日支親善でなくして、彼の志を援け、我は別に我が安全と繁栄をはかる工夫をすることだ。果たしてそんな工夫が見出し得るかということだ。言い換えれば我が国は満蒙の政治的権利を放棄して能く独立が保てるや、国民生活の向上がはかれるやという問題だ。・・・記者(石橋)の意見は、満蒙なくば我が国滅ぶという人々とは全く違う。それらの人々は、我が国は人口多く、土地が狭いから、是非そのはけ口を支那大陸に求めねばならぬと説くのだが、しかし人口問題は、領土を広げたからとて解決は出来ぬ。明治27、8年の戦役以来、台湾、朝鮮、樺太を領土に加え、関東州、南洋諸島を勢力下に置き、満州の経営にまた少なからず努力を払ったが、その結果は全く人口問題の解決に役立っていない。将来とても恐らくは同様だ。」「わが国には鉄、石炭等の原料が乏しいから、満蒙の地を、その供給地として我が国に確保することが、国民経済上必要欠くべからざる用意だと称える。これも現在までの事実においては、全く違う。が、仮に右の説が正しいとしても、もしただそれだけの事ならば、あえて満蒙に我が政治的権力を加えるに及ばず。」
 「またある者は、満蒙が無ければ我が国防危うしと説く。満蒙を国防の第一線にせねばならぬと言うのである。がこれはあたかも英国が、その国防を全くするには、対岸の欧州大陸に領土を持たねばならぬと説くに等しい。記者はこの事を信じ得ない。我がアジア大陸に対する国防線は、日本海にて十分だ。」

 満蒙は、云うまでもなく、無償では我が国の欲する如くにはならない。少なくとも感情的に支那国民を敵に廻し、引いて世界列強を敵に廻し、なお我が国はこの取引に利益があろうか、と石橋湛山は読者に疑問を投げかける。石橋がこうした結論に辿り着いたのは、東洋経済社における経済分析、論説活動の結果だ。もう少し至った経緯を追ってみたい。

五・一五事件と朝日新聞

2015年10月11日 | 歴史を尋ねる
 手元に朝日新聞社史 大正・昭和戦前編があるので、五・一五事件近辺の世相をどう伝えていたか、見ておきたい。
 満州事変以降、国内の言論統制は強化され、朝日が出版した美土路昌一編著「明治大正史・言論編」が、発売禁止を迫られ絶版に追い込まれた。政界では、社会民衆党の右旋回が鮮明になり、民政党を脱党した中野正剛らによる国家社会主義新党樹立運動も活発になった。そうした情勢の中で7年2月、井上準之助前蔵相が暗殺され、3月三井合名理事長団琢磨が射殺された。中心人物である井上日召が同月起訴された。この様な状況のもとで、東朝は7年4月、社説「ファッショ化に先立ち」をのせた。これはファシズムの問題を取り上げた最初の社説だった。「・・・この際改めて運動者にも国民にも質問したいのは、議会政治の現状に対する不満は直ちに議会政治打倒の結論に導く必至関係を持っているかどうかであり、改善修正に一指も染めず直ぐ打倒に急ぐ一部憂国者の性急短慮を惜しむのである。・・・しかし結局日毎に増加する穏健善良なる現状不満者を、ファッショを謳歌せしむるの悲劇を招来すると否とは、主として現在政党人の自省能力の有無によって決せられる」と述べた。
 また同月の東朝通信会議の席上、緒方編集局長はファッショの問題について、次のように語った。「今日ファッショ運動は非常に盛んになって来た。社会民衆党はそれがために分裂した。その間には多分にデマゴギーがある。我々としては事の起こる前にそれに対し正当な理解が必要だ。例えば、政友会内閣が倒れた場合、果たして批判していた政党に政権がゆくかどうかも疑惑が起っている。政変が起った場合、新聞社としてはどういう方針をもって進むべきか慎重に考えて、その結果によって世論を指導してゆかねばならぬ。非常に重大な時期があるいは遠くない機会に来はしないかということを考えている。・・・議会政治とファッショのやり方とを比べると、議会政治は国民に責任を負ってゆくのが中心であるが、ファッショはそうゆう形式を装うにしても決して本気にその責任をとらない。そこが分れ道だ。私は少数の人々がただ自分らの誠心誠意を信ぜよ、ということは賛成することができない。新聞としてはどこまでも正しいと信ずるところを主張してゆかねばならぬ。この社の方針は今日でもかって変わるところはない」と。

 7年5月7日東朝夕刊は、一面トップに「何を語る? 政界の無風 政治、諸党派みな不安 頻りに動くファッショ勢力 注目される臨時国会」をのせた。この記事は「政界の現状はあたかも無風状態の如く見えるが、政界の惑星、平沼騏一郎等は軍部および政界の一部の策士と相呼応してファッショ的政治への動向を策謀し、この機会に乗じて政界の主流に乗出さんとするの情勢を示している」と書き、更に「軍部と政府の意思の疎隔は今後どう発展するかも測り難くこの不気味な政情がこのまま進むにおいては・・・何等かの展開を見ずにはすむまいと見られる」と述べている。緒方が憂え、東朝政治部が書いた不吉な予測は現実となった。昭和7年5月15日を迎えた。海軍士官、陸軍士官学校生徒、民間右翼・学生ら四十数人からなるグループが、「国家改造」を叫んで、首相官邸、内大臣官邸、警視庁、政友会本部などを襲撃した。
 その日は日曜日だった。政友会本部に爆弾の第一報が入り、次いで内大臣官邸襲われるとの電話が入り、東西朝日は直ちに号外を発行すると共に、東朝は社会部、政治部の総動員体制をとった。首相官邸が襲撃された、犬養首相がやられたらしいとの連絡が入って記者が駆けつけたが、官邸周辺は憲兵と警察官とに取り囲まれ、記者はカン詰になった。号外発行の準備が出来たが、内務省は事件の掲載禁止を命じて来た。緒方、美土路を中心に東朝編集局幹部は在京各社を糾合して、戒厳令反対、事件真相即時発表を当局に迫った。内務省も、事件の一部が世間に伝わっている以上、一切の報道を禁止することは無理だと軍部に反論し、掲載禁止は間もなく解除された。号外は首相従容として 壮漢をたしなむの項で、冷静な態度で対応する78歳の老首相に兇徒が銃弾を発射する場面を活写した。

 大朝はこの暴挙を演じた軍部を痛烈に批判した社説を事件当夜執筆し、同時に犬養首相の死を悼む第二社説を書いて、5月16日の朝刊に掲載した。その峻烈な軍部批判と兇徒非難とは、時代の制約の下にあってひときわ光彩を放った、と社史は解説する。筆者は高原操であった。「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」 「5月15日午後5時、しかも台風の如く突如として帝都の数カ所に未だ曾てなき大暴行がまき起こされた。」といって始まり「その暴行は予め計画した団体行動らしく、しかも陸海軍の軍服を着したるものの暴行なりというに至りては、言語道断、その乱暴狂態は、我が固有の道徳律に照らしても、また軍律に照らしても、立憲治下における極重悪行為を断じなければならむ」「本年は明治天皇の軍人に賜った勅諭50周年にあたる。勅諭は・・・新制陸海軍の心得を最も懇ろに諭したまえる不磨の聖勅である。・・・軍服を着せるものが政権の移動などにつきて容喙しても構わぬと言うが如きことは断じてない。否、政治問題などには一切関与してはならない旨を、罰則を設けて入念に軍律をもって禁じられている。」「近時、政党者の堕落から、ひいては議会否認論が台頭し、ファッショ気分の底流は、極左派と極右派とがある種の理論指導者をもって任ずる人物によって、軍人の間にも信者をつくれるやに伝えてはいるが、よもやそんな不心得ものは団体的に策動するようなことはあるまいと思っていた。もっとも頭の固まらざる青年学生の輩が、外国の流行を模倣して国礎を危うくするの思想にかぶれ、行為に現れ検挙されるもの数年来多きを加えた。本年一、二月頃の井上氏、団氏暗殺事件前後にも、また昨秋頃にも一部の青年学生等には単純なる動機からテロリズムの実行をもって政治の革新、国礎の破壊まで企図するものありしやに聞いた。。これらは若者の無分別、思慮不足のためで、素因は教育の欠陥にあると云えるが、政党の堕落、議会の腐敗は眼前に展開されている事実である。感激性の強き青年子弟をして直接行動の暴挙に出でしめる原因は、その大半を政党政治家が負わねばならぬことは言うまでもない」

 うーむ、政党政治家が襲撃されているのに、政党政治家がその責めを負わねばならぬ、この考え方になにか矛盾はないか。政党政治が危機に立っているのに、政党政治が批判される。政党政治が大事ならば、盛り立てねばならない。どうも世論(メディア)が無いものねだりをしてミスリードしているように見える。続いて高原は次のようにいう。
 「しかしながら、陸海軍の軍籍に身を置くものが、政治上の目的を以て暴力団体的の直接行動にいづるは、弁護の余地なき言語道断の振舞いといはねばならない。その動機に於いて今の世を慨し、今の政党に愛想をつかし、今の財閥に憤ったからだと云っても、立憲政治の今日、これを革新すべきの途は合法的に存在する。短慮にも暴力革命を起こすべく直接行動にいづることは、その手段において断じて許すべきでない。特に陸海軍の制服を着して直接行動にいでし暴挙は、仮令その動機に如何なるものが含まれるも国家擁護の上からその行動はこれを厳罰に処し、再び繰返さざるよう国民一般に戒慎しなければならぬ、と同時に吾人はこの際政党の猛省を促して置く」
 東朝は16日は休載、17日は社説「速やかに帝都の不安を除け」をのせて、暴挙行動の厳に弾圧することを望み、政府が挙措を誤らんことを忠告する、と。ふむ、確かに眼前の事態に対し糾弾はしているが、満州事変が起り、国際連盟がその収拾策に動いている重要な時期で、かつ世界恐慌から経済的な混乱が続いている最中の事態だけに、もう少し広い視野でこの事件の糾弾をすべきではなかったか。この時こそメディアは世論をもっとリードすべきだった。
 
 

朝日新聞社史と満州事変 2 (社論転換)

2015年10月09日 | 歴史を尋ねる
 大朝(大阪朝日新聞)は、6年10月12日、上野精一会長、村山長挙取締役、小西専務などが集まって協議を行い、次いで下村副社長、高原編集局長、原田編集総務、編集関係各部長を集めた会議を開いた。この席で下村は東京の政局を説明し、列席していた東朝の野村、永川がそれを補足した。そのあと会議は社論を統一して国論をつくる大方針を協議した。そしてその方針は翌13日大朝編集局部長会で、高原編集局長から伝えられた。この部長会には上野会長以下各役員と編集局各部の全次長も特に出席した。席上高原編集局長が述べた言葉は残っていないが、満州事変は今までの山東、シベリア等の出兵とは全然性質を異にする、わが国の生存上に非常に重大な問題であるので、政府の対策を積極的に支持する方針を定めたと、24日東朝通信会議の席上、緒方東朝編集局長の挨拶と同趣旨のものであった。
 大朝幹部は、この後整理部員、支那部員を集めて同様な説明を行った。大朝幹部が予想した湯に、この席で中堅記者たちの不満が噴出した。それでは朝日新聞は軍部のシリを押すのかと質問、高原編集局長がそれは質問ではない、議論であると逆襲するなどのやり取りが行われた。事変で英米を刺激し、ひいては世界戦争に拡大するのではないか、このまま軍部の独走を許すようなことをすると、日本の破滅をみるようになりはしないかといった質問が出て、説明会は夜九時に及んだ。しかし、大朝整理部の反発は収まらず、他紙に比べて事変関係の扱いが小さく、不買運動や右翼による嫌がらせが続いた。

 6年12月、若槻内閣が倒れ犬養政友会内閣にかわった。最初の議会で衆議院と貴族院は「在満将士感謝決議」を行った。それに対して大角海相と荒木陸相が謝辞を述べたが、大朝整理部は東京から送られてきたその記事のうち、荒木陸相謝辞全文を削除、反陸軍の旗色を鮮明にした。これをきっかけに、整理部員の配置転換が行われた。この時東西両者の人事交流の先例がつくられた。
 満州事変支持の社論を決定する以前から、報道機関としての朝日は、次々と特派員を大陸に送った。事変直後に8特派員に次いで23日には7特派員の増派、更に増派を重ね年末には総数38人にのぼった。一方社論が事変支持に決して、10月16日朝刊に「在満将士慰問金募集」の社告を出し、取締役を慰問使として派遣した後も、部隊によっては相変わらず朝日を半軍と見る将校がいた。馬占山軍との戦闘に従軍しようと奉天駅へ行った東朝荒垣秀雄は、軍用貨物列車の戸を叩いて「朝日の従軍記者です。お願いします」と言ったとたんに、国賊新聞とどなられ、靴で蹴飛ばされた。ようやく荒垣は別の貨物に声をかけて乗車させてもらったものの、こうした事実は本社幹部の深い心痛のタネだった。従軍記者が部隊に忌避されることは、その記者の命にかかわる問題であった。

 関東軍の作戦が錦州攻略に向った12月30日、朝日の連絡員とサイドカーの運転手が待伏せに遭い殉職した。報道関係者の最初の犠牲であった。殉職者を出した満州事変の報道戦は、日本の新聞界が過去に経験したことのない激烈なものであった。事変勃発とともに東西両社は連日のように号外を発行したが、6年11月にはチチハル攻略、天津事件、国際連盟理事会などの大ニュースがあって、この月の号外発行は大朝50回、東朝46回という新記録をつくった。
 朝日はまた、奉天で号外発行権を得て、「大阪朝日新聞満州号外」を編集、現地で印刷して発行した。発行部数は最高で一万部、約200回発行した。更に台湾で「大阪朝日新聞台湾号外」を発行した。それまで台湾では、地元紙以外は号外の発行が許されなかったが、許可を台湾総督に求め、運動した結果、認められた。当初一万二千部を台北市内に配ったが昭和12年頃は全島で約五万部を発行した。

 大陸の戦火はニュースに対する国民の関心をかきたてた。事変発生と共に朝日新聞の部数は増え続け、7年2月末には、事変以来東朝20万、大朝27万余部増加と記録されている。しかし大量の人員、器材、航空機を動員しての報道戦の展開は、会社の経理を圧迫し、7年4月期決算では支出が大幅に伸び計上利益は昭和になって最低の金額に留まり、株式配当は減額して従業員の賞与を維持した、と朝日新聞社史では記録されている。

朝日新聞社史と満州事変

2015年10月08日 | 歴史を尋ねる
 第一報は両軍衝突から三十分後、電通電、次いで聯合通信電となって日本に送られた。電通電は19日午前2時50分に大朝に着いた。大朝では社員に非情呼集を掛け全部長が出社、直ちに特派員、写真班、活動写真班、飛行機の手配と在支特派員への緊急手配が行われた。大朝は電通電によって19日の朝刊をつくり、次いで殺到する駐在に記者からの電報によって19日午前4時半、号外を発行し、市内版以外に京都、神戸その他の近接地に配布した。特電は続々到着、19日だけで162通、済南事件当時の記録54通を大きく上回った。一方東朝は、大朝からの連絡で事件の突発を知った。当夜の整理部責任者は緒方編集局長に電話してどう扱うか指示を求めた。緒方の答えは出先の出来事だから普通に小さく扱って置いたらよいだろうということであった。こうして19日の朝刊が出来上がったが、東朝は二面トップ5段見出しで「奉軍満鉄線を爆破 日支両軍戦端を開く 我鉄道守備隊応戦す」とうたって、「駐在29連隊出勤」の特電も入れ、本文は全文5段通し組みという最大級の扱い。他方、大朝は一面トップ5段見出しであったが、「奉天北方北大営で 日支兵衝突激戦中 我軍支那兵営の一部を占領 奉天城を砲撃開始」として東朝の見出しにあたる「奉軍満鉄線爆破」の字句をさけた。また東朝が奉天城の写真2枚と地図を入れて、記事面第一面の大部分をうめたのに対して、大朝は写真も地図も入れない地味な扱いとした、と社史は解説する。
 ところで東朝の19日の朝刊を見た緒方編集局長は、不満だった。指示した筈の紙面が、戦争一色の、大見出しが躍る新聞になっていたから。出社した緒方は、整理部責任者を呼びつけ、始末書を書かせた。東朝整理部がこの様な紙面をつくったのは、東朝9月8日の社説「対支国策発動」によるところが大きかった。この社説は「支那側の対日態度に鑑みて、外務といわず、軍部といわず、はたまた朝野といわず、国策発動の大局的協力に向って、その機運の促進と到来とをこの際日本のため痛切に希望せざるを得ない」と述べていた。この社説を読んで東朝整理部は、社論は対中強硬論に転換した、と判断したのであったが、満蒙問題に対する朝日新聞の社論はまだ未決定であった。緒方の不満と整理部の沈黙はそれぞれ理由があった、と記述している。ふーむ、社史は巧妙に未決定と云っているが、だからこそ事実に追随することになったのではないか。メディアがどの程度当時の国際情勢を掴んで事前に判断していたか。その場になって右左の判断は出来ないのではないか。それが出来なければ世論を形成するとかリードすると云わない方がいい。

 奉天での事変の発生は、株式市場に衝撃を与えた。東京でも大阪でも19日の株価は暴落、国債も一せい惨落となった。ふむ、こちらの方が正確に情勢を判断したのか。そこへ21日午前9時頃、英国が金本位制を停止したことを報ずる。次いで11時頃、埼玉県小川町付近を震源地とする強震が起り、死傷97名、損壊家屋7百という被害が出た。相次ぐ大ニュースの発生である。大朝は英国の金本位制停止と朝鮮の師団が間島に出勤したことを報ずる号外を発行、次いで北浜市場(大阪)立会停止の号外を発行した。
 陸軍省は19日夕刻までの日本軍の損害を戦死68人、負傷99人と発表し、政府は21日の閣議で、両軍衝突事件は事変と見なすという決定を行った。こうして満州事変は始まった。朝日新聞社幹部のまえには、事実に対する社論をどうするかという、苦悩にみちた問題が突き付けられた。

 東朝の緒方編集局長は9月19日の出社前、陸軍省に小磯国昭軍務局長を訪ねた。しかし、小磯の態度は、現地軍の行動は「向こうまかせ」ということであった。これより先、緒方は7月16日夜、元老西園寺の秘書、男爵原田熊雄名の招待を受けて、会合に出席した。この席には、連合通信専務、大毎主筆高石真五郎も招かれ、原田と木戸幸一が接待役、陸軍省から小磯国昭、林桂、井上三郎、鈴木貞一、外務省から谷亜細亜部長、白鳥情報部長、松岡洋右が列席していた。その席上、小磯軍務局長は突然満州独立論を述べ、緒方と小磯の前述したやり取りとなった。緒方を驚かせたのは、この小磯の主張を高石が指示したことだった。緒方は深く失望し、せめて大毎・東日と提携して軍の暴走をおさえては、と考えていた希望を断念した、と社史には書いている。また、緒方は、9月17日参謀本部支那班長根本博の講演に聞きに行った。そこで根本は満州独立論を述べ立て、それを小磯も谷も黙って聞いていた。それらの光景と、陸軍省での小磯の「すべて現地まかせ」といった態度とを思い浮かべながら、緒方は暗い気持ちで出社した、と。

 東朝は9月20日の社説「権益擁護は厳粛」で、中国側の権益侵犯を批判しながらも、一日も早く外交交渉に移して、これを地方問題として処理することに違算なきを期すべきであると主張、23日の社説「内外に声明するところであれ」では、帝国陸軍が帝国政府と別個の行動を執り得るはずはない・・・政府は軍部大臣によって、当然に軍部をも統制するものでなければならぬと警告した。一方、大朝も9月20日に社説「日支兵の衝突、事態極めて重大」で、事件の局地化を要望し、この際出先軍部に対して必要以上の自由行動をせざる様厳戒すべきであると論じた。大朝高原社説に対する軍部と右翼の攻撃は強くなった、と。
 事変が進展し、9月30日の朝刊が、ハルピン特別区、黒竜江省などが独立を宣言すると、東西の社説はこの問題を取り上げたが、その内容には大きな食い違いが見られた。東朝社説「満州の独立運動」は、日本側に厳格な不干渉主義を求めると共に、独立国家の出来る出来ないということより、何故日本が権益の擁護と懸案の解決に必死にならざるを得ないかの根拠と理由を国際的に認識させることの必要性の方が日本にとって急務であり根本ではないかと主張した。これに対し大朝の社説「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」は、明らかに社論の屈折を示すものであった。10月1日の社説「満州緩衝国論」は大朝社内に動揺を引き起こした。従来の主張、中国ナショナリズムの積極的肯定という理念と東北各省は中国の一部という事実認識の二つを、あわせて捨て去っていたから。

 もともと朝日新聞社は、個性の強い人々の集まりである。大朝社内には、右翼と親交のある人々もいた半面、かってシベリア出兵に反対し、普選と軍縮を推進した伝統を守りたいという社員も多かった。論説委員室でも支那部長は満州事変は悪くすると戦争に引き込まれる恐れがあるから、事変を拡大するような方向に論調をもっていってはならないという意見だった。当時朝日は、大阪にせよ東京にせよ、現職部長が論説を書くのが他紙には見られない特徴だった。従って、それらの部長が、それまでの社説で示した物の見方、考え方によって、後進に影響を与えていたことも当然で、社論の転換を不満とする空気は、幹部も感知した。

マスメディア(新聞)の大旋回

2015年10月06日 | 歴史を尋ねる
 標題は以前読んだ「昭和戦前期の政党政治」の著者筒井清忠氏の言葉であるが、当時の世論を代表する新聞について、読売新聞社の元記者であった永原実氏のブログの力を借りて追いかけてみたい。
 満州事変は、軍部も国民もこの大成功に酔った。 時代は世界恐慌の真っ只中、空前の不景気で、町には失業者が溢れ、大学を出ても就職口がなかった。 農村は米価暴落で欠食児童、学校へお弁当を持っていけない子供や、娘の身売りが激増していた。 八方塞がりで全く先が見えず、国中が暗澹とした気分になっているところへ、この満州事変の赫々たる戦果であった。 国民には、パッと光が射したように見えた。私(永原氏)が新聞記者になって最初に仙台の支局へ赴任した時、びっくりしたことがあった。昭和二十八年、空襲で丸焼けになった仙台が今みたいにきれいな街並みになっていない時であったが、駅前の大通りが「多門通り」(東北帝国大学の5人の博士が師団長の功績を記念して多門通または多門町を仙台に設けることを市長に提案し、それを知った南町通の住民が改名を希望した。仙台市会がこれを認めて改名を承認し、師団凱旋を迎えた)と云う名前だった。満州事変で先陣を切って活躍したのが、多門二郎中将率いる仙台の第二師団だった。郷土師団が凱旋した時、仙台市民は総出で手に手に日の丸の旗を持って出迎えたが、敗戦後もなお「凱旋道路」として、かつての栄光の象徴である多門師団長の名前が残っていた。

 満州事変の二か月ほど前のこ、陸軍省軍務局長の小磯国昭少将(戦争中東条英機の後を受けて首相になった)が、新聞社の編集幹部との懇談会の席で、満州を独立させる必要性を強調した。 朝日新聞主筆の緒方竹虎(戦後自由党総裁になった)が、「時代錯誤も甚だしい。 そんな荒療治は中国との全面衝突になるし、諸外国を敵にすることにもなる。そんなことに、今の若い者がついていくとは思えない」 こう云って強く反駁すると、小磯は「なあに、日本人は戦争が好きだから、一度鉄砲を撃ってしまったら、後は必ずついてくる」とうそぶいたと云う。
 残念ながら戦争と云うものは、国民の愛国心を掻きたてるし、マスコミも活気づける。満州事変はまさに、小磯の読み通りに展開した。NHKのラジオ放送が始まったのは大正十四年七月だが、臨時ニュース第一号がこの満州事変でった。十九日午前六時半早朝に流れた事変勃発の第一報は国民をびっくりさせたが、同時に新聞社もあわてさせた。 NHKの受信世帯はすでに百万を越えており、しかもニュースが新聞よりも先にどんどん流れてしまう。。新聞社の圧力で通信社がNHKへのニュース配信をストップしたため、NHKは自前でニュースを作らなければならなくなり、放送記者を養成するようになった。十九日の朝刊で事変勃発をただ一社だけ特落ちした都新聞、現在の束京中日新聞は部数が半減してしまった。

 戦争報道は、それほど大きな力を持っていた。上越線が九月一日に開通したばかりで、東京の新聞各社が新潟県進出にしのぎを削っている時だった。満州事変は読者獲得には絶好の材料、各社は満州に続々と特派員を送り込み、事変の速報に力を入れた。私のいた読売新聞は、当時部数二十七万部。 関束中心のちっちゃなブロック紙で、夕刊を出していなかった。 各社の夕刊に載った事変の記事を、朝刊で後追いをするしかないから、部数はみるみる二千、三千と減っていった。社長正力松太郎の決断で夕刊発行に踏み切ったが、経営状態がまだまだ不安定な時だった。社員たちが「自殺行為だ」と云って、夕刊を止めるよう正力に直訴したと云う話が残っているが、部数の方はそれから十万、二十万単位で増えていった。 今日一千万部を超える部数は、まさに満州事変がスタートだった。「新聞が戦争を煽った」と云われるのも、こうした軍部に追随的な新聞社の戦争報道にあったことは否めない。ただ当時の新聞も国民も、「日本の軍隊は正義の軍隊だ」。こう信じ切っていたから、この満州事変も当然、鉄道を爆破され、自衛のための正義の戦いだ。 まさか満鉄爆破が関東軍の謀略だとは、思ってもいなかった、と。

 それでは新聞の主張はどう変わったか。筒井氏の著書によると、朝日新聞社は昭和7年1月「東西朝日新聞事変新聞展」を催しているが、自社の満州事変報道を誇らしげに掲げていた。事変勃発以来、事変関係「社説」54回、特電は普通月、50~100通が来が、この9月360通、11月525通、中国16カ所から60人の特派員が打電。号外は9月11日~1月10日までの間に131回発行、連日・朝夕の日もあった、大部分は1頁大。特派員の報告演説会は東日本だけで70回、観客約60万人、ニュース映画上映会は1501カ所、回数4002回、観客約1000万人という。社説の代表的名なものを拾っている。9・26「朝鮮より数千人の増援隊を派遣、これも条約上の規定守備の兵員補充」(大朝)、9・29{自衛権の行使}(大朝)、10・1「満州に独立国の生れ出ることについては歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」(大朝)。従来陸軍の行動に批判的だった大阪朝日が急激な旋回をした事例に筒井氏は上げる。次に「慰問金」についての報道である。10・16第一面に大社告「満州駐屯軍の労苦は容易ならず」慰問金一万円、慰問袋二万個支出。更に慰問金を一般公募し、30万円超を集める。10・24原田取締役ら訪満、10・27本庄関東軍司令官、村山社長に感謝状。
 続いて、毎日新聞(東京日日新聞)は満州事変に関して、「関東軍主催、毎日新聞後援」と言い方で、その協力ぶりが知られている。おもな記事は、9・20「関東軍の行為に満腔の謝意」、9・23「政府の不拡大方針に日本は被害者と抗議」、9・25政府の国際連盟からの申出拒否を最も適当なる処置と擁護」、9・27「政府の慎重姿勢はなお弱腰として大声疾呼して国民的大努力の発動を力説」、10・1「強硬あるのみ」、10・9「政府の不拡大方針に対して進退を決せよ」、10・15「中国の言い分は盗人猛々しい」、10・24「正義の国、日本」、10・26「守れ満蒙、帝国の生命線」。こうした新聞の協力ぶりに、事変が一段落ついた翌年春、各新聞は荒木貞夫陸相から感謝された。「今次の満州事変を観るに、各新聞が満蒙の重大性を経とし、皇道の精神を緯とし、能く、国民的世論を内に統制し外に顕揚したことは、日露戦争以来、稀に見る壮観であってわが国の新聞人の芳勲偉功は特筆に値する」と。

 これは戦争報道で部数が伸びるのが本質であると筒井氏。朝日新聞の場合、日清戦争で14万部→17万部、日露戦争で20万部→24万部、しかし満州事変143万部→182万部、その後は減らずに日中戦争から太平洋戦争へと増え続けた。戦争という「劇場」の魅力に当時最も強い影響力を誇ったマスメディアであった新聞は抗し得なかったのである、と筒井氏。抗し得なかったというのは、まだ新聞に好意的見方ではないか。そもそも抗する気持ちがあったのか、疑問である。こうしたなかに政党政治の政治家は置かれていた。

満州国承認問題

2015年10月03日 | 歴史を尋ねる
 犬養毅は昭和7年2月の総選挙で、政友会301名の多数を制した。しかし大正9年の総選挙で原敬の政友会が276名の勝利を得た時、政党政治の黄金時代の幕開けを意味したが、犬養の内閣は政党政治の幕を引くことになった。それは数の多寡でも、政策の是非でも、原と犬養の人物の差でもないであろう。つまるところ、時の流れであり、国民の意識の変化である、と岡崎氏は概括する。大勝利後、さっそく党内の派閥抗争が表面化し新聞を賑わした。それが満州事変の危機感に満ち、不況脱出を熱望していた世論には、「また政党政治か」という印象を与えた。それに、三千万円の公債発行による鉄道の国有化は過去の経緯から云って政友会の利権あさりの匂いが避けがたかった。軍縮を強いられてきて、満州事変を機に軍備の強化を優先的に考えていた軍からは、この大事な時にまだそんなことをやっているという反発を買った。こうした政策はどの内閣もやったことだろう、しかし国民世論はもはや政党政治の倦んでいた、と。

 選挙における政友会の大勝利間もない2月頃からすでに、政党政治を見限り、挙国一致内閣を待望する声が強まってきていた。挙国一致といっても、民政党政権末期の民政、政友の連合ではなく、政党内閣を脱却した超然内閣論であり、平沼騏一郎や荒木貞夫陸相が総理に擬せられていた。平沼騏一郎は、司法省出身の枢密院副議長であり、自ら創立した国家主義団体「国本社」の会長として、軍部、官僚、実業界、学者の間に広い支持者をもっていた。その動きには、政友会の森恪も一枚かんでいたというし、軍のクーデターの噂も絶えなかった。その頃西園寺と連絡が密であった近衛文麿も、事態を収拾できるのは平沼か、荒木しかいないという感想を漏らしている。もはや今の内閣のままではだめだから超然内閣を、という話がいたるところで出ているようであり、すでに4月には、近衛と木戸幸一などが集まった場所で齋藤実海軍大将の名が浮上してきていた。
 そこに、犬養暗殺の五・一五事件が起きた。三百議席を擁している政友会は、次期政権を担当するつもりで鈴木喜三郎を後継総裁にして待ち構えたが、もう政党内閣という声はなかった。

 天皇は鈴木貫太郎侍従長を通じて、御希望を西園寺に伝えらえた。その第4項は「ファッショに近きものは絶対に不可なり」、第6項は「外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑につとめること」であった。これで平沼、荒木を担ごうとする動きは封じられた。西園寺は二日間にわたり重臣たちの意見を徴した。軍は政党内閣反対の意見を陰に陽に伝えた。政党内閣の場合、軍から閣僚を得ることの困難さは十分予想し得た。そこで西園寺は斉藤実を奏請した。斉藤実は、穏健着実な人柄であり、第一次、第二次西園寺内閣で海相をつとめ、朝鮮総督としては武断政治から文治政治へと統括方針を転換して治績を挙げ、ジュネーブ軍縮会議では全権だった。時勢の流れから見て、天皇の御希望を体しうるギリギリの人選であったが、国内政治、とくに軍の内部に対しては強い政治力を持たなかった。

 斉藤内閣の外相は7月から翌年9月まで内田康哉が務め、あとは広田弘毅に譲った。内田は日露戦争から満州事変に至る大日本帝国の外交に於いて常に要職を歴任し、外相としても最も長い期間務めた人物であるが、彼の記録の中から、内田の思想、信念を知ることは難しい。恐らく自分の哲学はないただの有能な事務官僚であったのだろう。従って、その行動は時流と共に変わっていくと、岡崎氏。なかなか手厳しい。内田は満州事変後は、「こうなった以上、皆が軍部を助けて徹底的解決をやらなければならない。結局は満州国の建設だ」と考えるに至っていた。自分自身の哲学のない人は、周囲の雰囲気に従って、その言動を変えていく。その意味で内田康哉の意見は、時の国民意識の変化を代表していると云えるであろう。うーむ、岡崎氏が見るように、国民意識、言い換えると世論はこの様に周囲の雰囲気によって移ろいやすいということか。
 内田外相就任の直前、会期末の衆議院本会議は、政府は速やかに満州国を承認すべしという決議を全会一致で可決した。これを受けて7月12日、東京を訪問中のリットン調査団に対して、内田外相は満州国がすでに成立してしまった以上、問題の唯一の解決策は満州国の承認にあると明言した。同席したフランス代表は妥協を模索する発言をしたが、内田は中国との間に繋がりを残すと、また将来紛糾の種になるので、唯一の方法は満州国を承認し、中国も満州国を善隣国として認めることであると拒否した。

 この時リットンのコメントの中に、満州国承認問題の核心に触れる部分があると、岡崎氏。リットンは、満州国承認には①中国側からの侵略行為があったこと、②満州国は人民の自決によるものであることの二つの前提条件が必要であると述べている。国際法的な考えでは、中国が挑発して、それに対して日本が戦争して、その結果領土をとったならば、それは妥当な行動である。とうてい戦争原因となりえない杜撰な鉄道爆破を口実としたことが、ここで響いている。のちの東京裁判で日本は、満州事変は自衛行動であったと主張したが、それは満州に於ける反日侮日のため日本の法的に正当な権益が脅かされたことに対する自衛だという意味で、日本の本音であった。しかし自衛の定義の中で誰も反論できないのは、直接武力攻撃を受けた場合であり、とくにどちらが先に手を出した場合である。手を出さざるを得なくされたという説明は第三者を納得させにくい。それは後の真珠湾攻撃も同じである、と。
 8月17日、閣議で日満議定書案を決定
 8月25日、内田外相は、議会で質問に立った森恪の「列国との関係悪化に対して政府の準備があるのか」と質したのに対し、「挙国一致、国を焦土としても一歩も譲らない」と答えた。この発言は森恪に対する低次元の意地の張り合いであったが、焦土外交演説として内外に強い反響を呼んだ。議定書の付属文書で、満州国は国防と治安は日本に委託し、その経費はすべて満州国が負担することを約している。これは日本の中央政府から財政面で干渉されないで、関東軍の主導の下に新しい国をつくろうという意欲が認められる。

 リットン報告書は9月30日に日中両外務当局に手交された。こうして、報告書が国際連盟で審議される前に、日本の満州国承認という既成事実がつくられた。

犬養毅首相の暗殺とリットン報告書の提案

2015年10月01日 | 歴史を尋ねる
 犬養毅は明治15年に大隈重信の立憲改進党に参加して以来の生粋の政党政治家であり、第一次、第二次の護憲運動にも積極的な役割を果たしている。ただ、しばしば術策を弄し、毒舌家であったために不必要に敵をつくり、明治・大正の政界では毀誉褒貶のある人物であった。また政治資金を作る才に乏しかったので、常に小党に所属し、権力の中枢からは遠い存在であった。第二次護憲運動に成功した時、革新倶楽部の党首として護憲三派内閣に参加するが、倶楽部を財政的に支えきれなくなって政友会に合体させ、自ら政界を引退した。しかし選挙区が言うことを聞かず、推薦して当選してしまったので、政友会の最高顧問として残った。この隠居の身の犬養を担ぎ出したのは森恪であった。田中義一の死後、政友会には党内を纏められる人物もなく、再び分裂の危機もはらんでいた。そこで森は各派を説得して犬養を出馬させ、自らは内閣書記官長となった。犬養、数え77歳喜寿の年の暮であった。翌年5月暗殺されるまでの半年間の短い内閣であった。その短い間に、総選挙をして政友会を301名の大勝利、民政党内閣の金解禁と緊縮財政による不景気に対し、積極財政による景気振興などが国民に期待されたことと、幣原外交に対する国民の反発の結果であった。
 ここでちょっと回り道すると、若槻礼次郎内閣が日本の非常時になぜ総辞職したかどうしても理解できないし、犬養首相が暗殺された理由がどうもよくわからない。秦郁彦氏の著書では犬養ではなく、政党政治がターゲットにされたように読み取れるが、今まで追ってきた事象だけでは説明できないのかもしれないと、本ブログでは考えている、当時の世論の動向がカギではないかと。

 政治家としての犬養の特色は、そのアジア主義にあったと岡崎氏はいう。犬養と中国革命との因縁は深い。日本に亡命してきた康有為が設立した大同学院の校長になり、亡命してきた孫文とも深く交わった。孫文が孫中山と号したのは、犬養が牛込に家を借りて住まわせたとき、表札を中山という日本人名をさせたことによる。朝鮮の金玉鈞、ベトナムのファン=ポイ・チヤウ、フィリピン、インドの独立党亡命者など、犬養の庇護を受けない者はないというぐらいだった。その犬養内閣が直面した最大の課題は、まさに進行中の満州事変の解決であった。犬養は組閣早々に、森や陸軍に秘密で特使を上海に送って、中国に犬養の解決案を伝えた。それは中国の宗主権を認めて、経済面では、日中協力の新政権を満州に作ることであった。中国側は国内の反発を考えて躊躇したものの、孫文以来の長い関係を考えて話し合いに応じたが、秘密を知った森がその連絡を中途で握りつぶしたために犬養に通じず、話し合いは進まなかった。
 犬養は自分の政策について軍の支持を得ようとして、軍の実力者上原勇作元帥宛てに手紙を送って、南北諸派の要人に旧交あり、満州は独立国家の形成に進めば九カ国条約と正面衝突をするので、形式は政権の分立に留めて日本の目的を達するよう述べている。軍の若手の暴走を抑え、満州の宗主権は中国に与え、現実的な妥協を図ろうという考え方であった。しかし昭和7年5月15日、犬養は官邸で海軍の若い将校に暗殺される。警官が駆け込んで、暴漢が乱入したから早くお逃げなさい、というのに対して、いや逃げないといった。乱入者が犬養の頭部に向けて銃弾を浴びせ立ち去ったのち、犬養は今の若い者をもう一度読んで来い、話して聞かせてやると云いつつ横になって死んだ。ここで日本と中国の間に、相互の信頼関係で妥協を成立させる可能性は閉ざされた。

 中国に名目上の主権を与えて、実際は日本の影響下に満州を置く・・・これは、当時誰もが現実的な妥協案として考えたことであり、もし犬養が暗殺されず、自己の信ずる政策を実行できたとすれば、リットン報告書を基礎として妥協案をつくる可能性は大いにあったと岡崎氏はいう。リットン調査団の報告書は、犬養の死後四カ月後、昭和7年10月2日に公表された。大事なところは9章の「解決の原則及び条件」10章の「提案」であった。満州のような地域は世界でほかに類例にない地域であり、満州事変は二国間の戦争とか、一国が他国を侵略したとか、そういう簡単な事件ではない。この複雑な条件を考えると、この問題は事変前の状況に回復すればよいという問題ではない。そうしても同じ紛糾を繰返すだけである。他方、満州に現在出来ている政権を維持、承認することは国際的な約束にも反し、中国は決して了解しないだろうから平和の基礎とならない。1931年9月以前の状態への復帰ではなく、現政権を過激なる変更なしに将来の満足すべき政権にさせて行うことは可能だと判断している。そして、中国の領土権、行政権を認めた上で広範な自治を賦与することを提案し、その際、満州事変以来、満州の建国などに参加した者全員の大赦を勧告している。また自治政府は外国人顧問を任命するが、そのうち日本人が十分な割合を占めることを要し、治安は外国人教官の協力を得た特別憲兵によって守られることとしている。また、事件解決後は中国が反日ボイコットを抑制することも提案している。

 この内容ならば、犬養の考え方との間に、話し合いによる妥協は十分可能であったろうと、岡崎は推論する。リットン調査団が6月頃北京を訪問した際、中国側要人は、満州の名目的主権は中国に残すが、広汎な自治を支えるという意向を示し、調査団に好印象を与えた様であるが、その裏には犬養の工作が中国に与えた影響もあったと岡崎氏。犬養が生きていても満州国の承認を求める国民世論や、衆議院満場一致の決議による圧力には抵抗できなかったかもしれない。しかしそのような事態も調査団は予想していた。それでも報告書の趣旨からすれば、日本が満州国を承認するとしないとに関わらず、その新しい満州国政府が、少しづつ、中国も承認できるような形に移っていくという姿勢を示せば良かった、と。