田中義一内閣の退陣

2015年04月30日 | 歴史を尋ねる
 1928年(昭和3)の春から夏、昭和金融恐慌の最中、蒋介石の第二次北伐、済南事件、張作霖爆死に至る情勢の激変の時期に、ケロッグ・ブリアン条約と呼ばれるパリ不戦条約が提案され、日本もこれに署名した。この不戦条約は、国際紛争解決のための戦争を非とし、手段としての戦争を放棄することを各国の人民の名に於いて宣言するものであり、現日本国憲法第九条の「武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という表現の源(第一條 締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス )をなすものだという。そしてもう一つ忘れてならないのは、東京裁判(極東国際軍事裁判)に於いて、キーナン首席検察官は、裁判の劈頭陳述で、ケロッグ・ブリアン条約によって締結国は国際紛議解決のため戦争に訴えることを非難し、戦争を国策遂行の具とすることを否認している。国策遂行の具としての戦争を排撃することによって締結国は侵略戦争の方法が違法であると明確に考え、従って日本の行為(太平洋戦争及びそれに先行する満州事変、日支事変)を、パリ不戦条約によって侵略戦争と認定した。

 発端は当時の時流である平和主義であり、パワーポリティックスの否定からきているという。キッシンジャーによれば当時フランスが渇望したのは英米との同盟であったが、それに代わって押し付けられたのは英、仏、独、伊の四カ国条約であり、それに東欧諸国などを加えたロカルノ条約体制であった。日本が日英同盟を切られて、ほとんどなんの役にも立たない日、米、英、仏の四カ国条約を与えられたのに似ている。それでもフランスのブリアン外相はケロッグ米国務長官と相談し、米国は多数国間条約にすることを提案した。キッシンジャーによると同盟は仮想敵対して互いに協力して防衛しようとするが、集団安全保障というのは、皆で平和を約束すれば平和になるという考えで、この二つは180度違う概念だという。歴史的事実からは、日本が与えられた四か国条約、ヨーロッパのロカルノ条約は、紛争解決にも、戦争防止にもなんの役にも立たなかった、と。
 この不戦条約は留保が付けられた。自衛権の発動と既存条約上の義務から生じる行動は除外された。英国はそれに加えて、英国にとって特別かつ緊密な利害関係がある場合、その地域の自衛の行動に自由を留保した。日本としても、満州における居留民や権益を守る日本の行動の障害とならないよう、内田康哉全権に各国を歴訪させ説明させた。山東出兵の最中であったが、列国はそうした問題を条約との関連で取り上げることはなかった。日本としては一応手を打っていたが、敗戦国になったとき、米英仏や日本が行った留保などの細かい議論はもはや問題とされず、条約の精神違反を糾弾されることになった。

 田中内閣は不戦条約の「人民の名において」が日本の国体に背くという議論が批准を難航させたものの、そうした個別の問題は政治力で乗り切っていたが、結局張作霖事件が命取りになった。田中は初め事件の真相を知らなかった。宇垣一成の手記によれば、真相を知ったとき宇垣を私邸に呼んで「何たる馬鹿どもだ。親の心子知らずとはこの事だ」と繰り返したという。西園寺は田中に、「断然断罪して軍の綱紀を粛正しなければならない。一時は評判が悪くても、それが国際的信用を維持する所以である」と励ました。12月、田中は天皇に事件の調査が終われば真相を公表して厳重に処分すると言上している。ところが閣内で陸相をはじめ各閣僚はこれに反対し、田中は孤立してしまった。この時点では、青年将校の独走をとめる力がないといった理由ではなく、ただ外に向かって恥ずかしいようなことを態々公表しなくてもよいではないか、という程度のことだったようだと岡崎久彦氏はその著書で云う。うむ、この時大勇を発揮できなかったのが田中の限界か、翌3月、白川陸相は天皇に参上して、関東軍高級参謀河本大作の犯行であることを認め、内容を暴露すれば国家の不利となる恐れがあるので、そうした不利を惹起しないような形で軍紀を正したいと言上した。田中は、この白川の上奏で天皇も納得されたと思っていたが、それが思い違いであった。6月田中が処分案を上奏すると、昭和天皇は、それでは前の話と違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で言った。田中は弁明しようとしたが、弁明は聞く必要がないと拒絶された。誠忠な陸軍軍人として天皇の信任を失った以上、辞職のほかなかった。閣僚は辞職を反対したが、田中は黙れ!と一喝して歩き去ったという。

 岡崎氏はその後の歴史に与えた影響を2点あげている。まず一点は、張作霖爆殺事件。これでもう軍人は、お国の為を思う純粋な気持ちさえあれば何をしてもよいことになってしまった。上司、同僚は必ず庇ってくれる。こうなっては軍紀も何もなくなってしまう。これは幕末以来、志士仁人の哲学であった陽明学の影響を岡崎氏はいう。自分が正しいと思ったことを実行するのに躊躇してはならない。その是非を決めるのは天道に沿っているかどうかだけである。上司の命令より天のほうが上である。身辺が潔白であり、精神が純粋ならば天に恥じるところは何もない。しかしそこには生死栄辱を度外視できる人間でなければならないという厳しい歯止めがあるが、懲罰されないとなるとその歯止めがなくなってしまい、中途半端な思い込み人間の跳梁を許すことになる。しかもその後の昭和史では、事件を起こした当の責任者が出世街道を歩むことになり名誉を得るに至って、あとは功名手柄切り取り勝手次第となってしまった。日本の破滅に導いた軍人の跳梁跋扈は張作霖爆殺事件に兆す、岡崎氏は明快に歴史の歯車が大きく動き出したことを指摘している。
 もう一点は昭和天皇に及ぼした影響である、と。昭和天皇は1926年践祚され、1928年11月にご即位の礼を挙げられるところだった。いよいよ天皇の大権をになうという意気込みもおありだったのであろう、それがこの時のはっきりした意思表示となったのであろう。しかし、その時の言動がかえって反省の種となり、その後の天皇の行動を抑制することになる。軍の綱紀粛正が目的ならば白川陸相に対してハッキリ釘をさしておくべきだった。そうでなければ、のちの田中首相問責と矛盾する。君臨すれども統治せず、日本の皇室が手本と仰いでいた英国憲政の基本にも反する言動が、のちの御反省にもつながり、天皇の大権による軍の暴走の抑止の可能性を狭めてしまった。統帥権の独立により、軍を抑えられるものは天皇の大権しかないという条件の下で、その大権の使用に西園寺が強く反対し、天皇もその判断に従って自制されたのが、昭和史の構造的な悲劇となったと、岡崎久彦氏は結んでいる。

道草 佐々木到一の見た支那兵

2015年04月28日 | 歴史を尋ねる
 佐々木到一は日本陸軍の軍人。陸軍きっての中国通で、蒋介石以下国民党領袖のほとんどと親しく、国民党の革命にもよく理解を示した。人民服(中山装)の考案、デザインを行った事でも有名。孫文の作戦参謀をやり、蒋介石には、軍隊を改造しないかぎり中国は近代国家になれないと直言した。また、毛沢東の著書「湖南省農民運動の視察報告」(1927)の最初の邦訳者で、類まれな支那体験をして生きた人物である。この佐々木は多くの資料と著書を残している。彼の著作、手記などから田中秀雄氏は著書「日本はいかにして中国との戦争に引きずる込まれたか」を書いている。この著書を参考に、当時の支那兵の実態を垣間見ておきたい。

 佐々木の知る支那兵はみなひどかった。陸軍大学校を卒業後の1918年、佐々木は青島の守備隊に配属された。その時兵要地誌作成のため、青島から北京を経由して、袁世凱の故郷である河南省の彰徳、それから省境の山を越えて、山西省の省都太原まで行った。山西を支配する閻錫山とも会った。ロバに荷物を積んでの大旅行で、治安が悪いためにパスポートには行先の官憲の保護を請う旨が書かれている。すると保護と称して巡警が、あるいは兵隊がついてくる。最初に約束した賃金にほかに酒手を法外に要求し、飯を勝手放題に食って、その勘定をこちらに突き付けてくる。彼はシベリア出兵では満州やウラジオストックに滞在した。ソ連国境に日本軍と東三省の軍隊が共同して配置されていた。一中隊全部がしばしば武器を持ったまま逃亡する。上官を殺し、そのまま馬賊に豹変する。
 孫文が革命のために使おうとしていた軍隊も同じだ。孫文が広東に復帰してきた時、すでに雲南や広西の軍閥が競って地盤を設定し、金蔓にありついていた。見入りのいいのは賭博場や阿片館だった。孫文の政府は財政上の実権が殆どなかった。しかし戦争なら金を出せと彼らは云う。困り抜いて財政統一会を作った。軍閥の私有する財産を政府に戻させ、改めて交付し直そうとした。しかし政府の手に返還してきたのはほんの少しであった。この傭兵軍隊に何度となく軍人精神講話を聴かせた。佐々木も立ち会ったが、咳ひとつせずに聞かせるほど孫文の威令は大きかった。その時はかの三民主義に目覚めたかのような軍閥の親分が、すぐに元の木阿弥になって、略奪、虐殺の本領を発揮する。
 広東市内の映画館に兵隊が只で入ろうとした。それを番人が止めた。兵隊は一応引っ込んだが、しばらくすると将校の指揮する一隊が現れて、映画館のあるデパートの窓ガラスを片っ端から叩き割り、商品を残らず強奪した。デパート側が折れ、その軍隊は映画館の入場料の一割を付加税として召し上げることができるようになった。佐々木の住まいの前が運河だった。その入口に雲南軍が徴発した船を設置し、往来する貨物船から税金を取り始めた。佐々木は毎日観察した。一か月一船一元というシステムだったが、領収書は同じでも取立料が三日目から二元となって五日目から二・五元となった。値上げ分は役得として現場の役人が懐にねじ込んだ。

 平時は日本の兵隊の様に練兵などなく、ただほったらかしにされる。賭博が彼らの最も好むところだ。これを上官が奨励する。当然負けが込む者が大勢出てくる。不満だ。この憤怒を戦争に駆り立てる切っ掛けとする。元々一般社会からの脱落者が多く、性格上、彼らは自暴自棄の心理状態になりやすい。戦時は意外に逃亡兵が少ないという。行軍がある。馬に乗った指揮官は慰労などしない。強度の疲労は怒気をはらむ。戦場での逃亡は処刑である。後退すれば、自らに銃を向けた督戦隊が待ち構えている。前を向いても後ろを向いても地獄だ。指揮官はこの自暴自棄の心理をうまく利用して、敵に向かわせる。こうして運よく生き延びた老兵は、出動の命令が来ると、歓喜の表情を表す。勝利の後の掠奪という恍惚的体験が忘れられぬからだ。
 支那の軍隊が町に入ると、第一日目は銭を奪い、二日目は女を漁る、三日目から賭場を開く。四日目以降に指揮官が指揮官らしいことを始める。騒擾を禁ずるなどの布告が出るのは騒擾が終わった後のことだ、と。支那軍に軍紀は存在しない。これは服従を基本とする。しかし支那軍では直属の将校とその護兵(従卒)を除けば、その他の上級者に敬礼しない。将校は部下の意を迎えなばならない。そうして聯隊の単位から腐敗悪事が拡散し、広まることになれば、これを阻止することは難しい。軍隊が一省を支配するとなれば、腐敗は省全体に拡大することになる。兵卒は土匪から農村・農民を守らねばならぬ。しかし彼らは匪賊と結託する。大商人は身の安全のために軍閥の長に上納する。
 以上は朱執信という国民党員の本「兵的改造與其心理」で、支那兵の心理と軍隊構造を理解するうえで佐々木は非常に参考になったと云っている。朱は「化兵為工」、兵隊を人並みの労働者に教育し直す。まず悪事を知り尽くした老兵を聯隊規模から追放する。練兵と職業訓練を同時に行う。兵役が終わったときには兵隊は見事な職能者となって社会に旅立つ。佐々木はこれは理想論だという。結局、徴兵制度が確立された統一国家が出来なければ軍隊の改造は無理だということだった。

 佐々木の「支那陸軍改造論」を見てみたい。支那の軍隊は傭兵制度である。支那の兵は社会の落伍者を集めたものである。一般社会で飯にありつく見込みのなくなった者が隊伍に入るのである。一般人の最賎業視する職業である。しかも貧窮者を収容して徒食させる一種の社会政策実施機関というべきものである。軍閥が兵を養うことは、一面猛獣を飼うものであるが、この猛獣が一度野に放たれて民を残害するに至れば、民は最早軍閥と没交渉という訳にはいかなくなる。軍閥が銀行・商会等の資産家の団体に賦課金を命じ、これに応じることは掠奪との惨害を免れる手段となる。支那の軍閥は辛亥革命の遺物である。今日支那不統一の最大原因は軍閥の無自覚と我欲とであるから、彼らが自己の頭脳を改造し私兵的軍隊を改造して、国軍の完成に向って努力すれば、統一の曙光もそこから認められる。第四革命の必要と強力なる革命軍の編成に思いをめぐらす者がいる。革命の機運は刻々醞醸しつつある。武力は依然革命遂行に当たって重要なる役割を勤めるだろう。こうして佐々木は広東にできた黄埔軍官学校に注目する。佐々木が支那軍の改造を可能なりと信ずるは、この事実に基づいて主張するのである。

 1928年1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可され4月、北伐が再開され北伐軍と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそうになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の山東出兵で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突(済南事件)。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵と暴民にリンチされる。蒋介石の使いに何とか救出されたが、佐々木の中国観に大きな変化が起こったとされる。状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記事に捏造された新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯者、売国奴あつかいをされた。このため転地療養を命じられるが、田代皖一郎支那課長から戻って欲しいと要請を受け南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。

田中義一内閣 後

2015年04月26日 | 歴史を尋ねる
 北伐を志す孫文は1923年8月に蒋介石をソ連に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた。1924年1月広州おいて国民党は第一回全国代表大会を開くと「連ソ容共政策」が具体的になり、政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(黄埔軍官学校)を創設した。5月には蒋介石が校長、廖仲が軍校駐在の国民党代表、李済深が教練部主任、王柏齢が教授部主任、戴季陶が政治部主任、共産党員の中からも葉剣英が教授部副主任、周恩来が政治部副主任に就任した。 毛沢東も、面接の試験官であった。この学校を卒業した者はのちに国民革命軍の中核となっていき、また在学生や卒業生が国民政府の統治に大きく貢献したので、蒋介石は急速に影響力を増した。また国民党の幹部だけでなく共産党の指揮官になった林彪、彭徳懐、陶鋳などもこの学校の出身者である。国民党が独自の軍隊を組織できるようになったことで、従来までのように地方軍閥に依存することなく、国民革命を推進できるようになった。
 黄埔軍官学校出身者を中心とした国民政府軍は、他の軍閥と比べて近代軍隊であり、その優劣の差は明らか、ただ前回の北伐は国民党内の権力争いのため、中途半端になったが、1928年2月から始まった北伐は今までと異なって大兵力を集中して行われ、4月には早くも山東省の境に達した。田中内閣としては、従来表明した政策から言えば、自動的に現地保護方針に従って出兵すること仁る。しかし陸軍部内でも両論に分かれた。もうその頃は、蒋介石軍が北方軍を圧倒して北京に入るのは時間の問題であった。ならば、蒋介石を信頼して最小限の邦人保護措置を取ればよいとの考えが出てきた。一方で、蒋介石は信頼できても、南京事件の例もあり、それで安心してよいというものではない。現地保護主義は貫くべきだ。結局出兵することとなるが、当時の中国の軍隊では居留民との小さい摩擦は不可避であり、いったん衝突が始まるとエスカレートし、両軍の全面衝突となって、日本は師団を増派して山東を制圧してしまった。ふーむ、幣原管見の中で語られる国民政府軍へ外務省の情報収集は機能しなかったのか、上に立つ森恪が情報を詰まらせたのか、南京事件に際しての世論が怖かったのか。

 1928年の済南事件は日中関係の大きな転機となった。南京政府の知日派で温厚な黄郛外交部長は退き、英米派でやり手の王正廷に変わり、その後の日中間の話し合いよりも国際連盟や欧米のマスコミに向って日本を非難し、日本を孤立させる政策をとった。特に日本軍の行動は張作霖政権を応援するために、意図的に南軍の北進を妨げたものであるという推測も行われ、中国の国民感情をますます刺激した。それまでは中国の排外運動といえば英国が主たる目標だったが、一転して日本が最大の敵となり、それが日本の敗戦まで続くことになった。
 他方、日本の新聞はこぞって中国兵の暴虐ぶりを報じて非難した。「時事新報」は出兵がかえって邦人の被害を大きくしたことを指摘して今後の出兵の自制を説いたものもあったが、それも、中国兵の無規律、暴虐は許し難く、蒋介石軍の反省を促すという全体の文脈の一部に過ぎなかった。
 1929年幣原(貴族院議員として活動)は貴族院における質問で、「南京事件では特に出兵もせず、日本人には一人の死者もなかった。しかるに済南事件では出兵したがためにかえって多くに死傷者を出したのは皮肉である。田中内閣の山東出兵により対支外交は完全に失敗し、その結果、多年築かれた日支両国間の親善関係は根底から破壊してしまった。じつに国家のために痛恨に堪えない」と嘆いた。中国の統一は、20世紀のアジアの歴史における大事件であった。その大事件に直面した日本外交が、外交に信念のある幣原外交ではなく、国権主義の国民的潮流に抵抗しない田中外交だったことは、その後の日本の運命を大きく左右したと岡崎氏はいう。

 昭和初年頃の日本外交の右傾化の原因の一つには、ナショナリスティックな立場に迎合して民政党の政策を非難攻撃することによって政友会の立場を有利にしようという内政上の党利党略があったことは否定できない。二大政党制というものは、政党政治の一つの理想の形と考えられる一方、二大政党の競争のなかにデモクラシーそのものを破壊する潜在的要因を含まれている。そして岡崎氏は次のように思いを致す。「そう思うと、原敬時代の政友会絶対多数支配の方がよかったことにもなり、原敬死後の政友会分裂が惜しまれるし、また戦後長きにわたって自民党一党支配の再評価にもつながろう。超党派外交が機能できる政治とならないかぎりは、この辺りはデモクラシーの永遠のディレンマの一つなのだろう」 岡崎久彦氏がライフワークとして取り組んだ明治維新以降の日本外交史から見えてきた率直な感想なのだろう。

 済南事件ののち、蒋介石軍は済南を迂回して北上を続けた。5月16日閣議での白川義則陸相の報告でも、張作霖軍は形勢を盛り返すことは困難と思われ、北京、天津地区では、すでに南軍の便衣隊(一般市民の服装をしている工作員)がしきりに活動し、各国とも居留民の保護のために警備についていた。5月17日田中は英米等の大使を招致して日本の態度を説明し、18日張、蒋の双方に対して「戦乱が満州に及ばんとする場合、満州の治安維持のために有効な措置を取らざるを得ない」と公式の覚書で警告した。並行して芳澤公使を通じて張作霖に対して、戦わずに満州に引き上げて満州防衛に専念するよう説得したが、張は云うことを聞かなかった。現地関東軍としては長城を越える軍隊はいずれの軍であっても武装解除する必要があり、奉天に軍を終結させ、必要に応じて長城近くの錦州方面に出動する待機態勢を取らせていた。そうなれば満州の治安は事実上日本軍の責任の下に置かれ、何らかの形で満州を本土から分離する計画を実施する機会として大いに期するところがあった。ここに田中首相と現地軍の思惑違いが生じる。田中は張を平和裏に満州に撤退させ、軌道に乗っている満州諸鉄道などの日本の利権を張に守らせることであった。説得に応じた張作霖は、軍楽隊に見送られて北京を発ったが、6月4日未明、奉天駅の近くまで来たとき列車が爆破され、重傷を負ってやがて死亡した。一応は無頼の中国人の仕業であるような隠蔽工作を行っており、内心誰もが日本軍が背後にいると疑ってはいたものの、真相が明らかになるのはずっとのちのことであった。白川陸相は閣議で北京ー奉天線沿いの地域に出動する権限を関東軍に与えようと提案したが、田中首相以下多くの閣僚が反対し、ここに関東軍の計画は完全に挫折した。
 結局、田中内閣は息子の張学良を立てて従来張作霖に対してとったのと同じ政策を取ろうとした。他の選択肢もあったがあえて張学良とした。重光葵は後日、日本の指導者は中国のナショナリズムを認識せず、支那は支那なりといつまでも十八史略的支那を頭に描いていたと評している。

田中義一内閣 中

2015年04月25日 | 歴史を尋ねる
 情勢が危機をはらんでいたことは田中にもわかっていた。就任早々内外に闡明した田中内閣の対中国政策は過激なものではない。中国国民の正当な願望を入れる気持ちのあることを明らかにし、そして諸外国と中国の間に険悪な事態を醸成することなくその願望を達成する途が存在することを信じると述べ、ただ共産党の活動については、日本人は無関心でいられない旨を表明している。森恪に言わせれば、揚子江流域の日本権益は国家や軍の力に頼ってできたものではなく、日本人の営々たる努力の結果であり、これまで通りやっていけばよいと思っていたが、最近はそうもいかない、何か新しい事態が発生している、それはコミンテルンの活動の影響だと考えた。実際は、その脅威は中国のナショナリズムであったが、当時、それを共産主義の脅威と説明できる十分な理由があったし、多くの日本人はそう信じた。

 田中は中国問題について徹底的に分析し議論する為に関係者の会議を開いた。これがいわゆる「東方会議」である。会議は6月27日から11日間に亘って行われた。田中首相兼外相と森外務政務次官が議長を務め、外務、陸、海、大蔵の各省高官と現地からは吉沢健吉駐支公使、中国在勤の各総領事、関東庁長官、関東軍司令官が参加し、大蔵、鉄道、文部、内務、逓信の各大臣もオブザーバーとして出席した大会議であった。当時奉天総領事であった吉田茂は、張作霖だけに頼って満州を護ろうとせず、満州経営は日本自らの国力と政策とをもってしなければならないと主張、出席者の中では急進派に属した。東方会議に於いて森と吉田は気脈を通じ、二人が会議の黒幕だった。しかし森の意図に反して東方会議の結論は、従来と比べてそれほど抜本的な政策転換を提案したものではなかった。「対支政策要綱」が田中首相兼外相から提示されたが幣原外交とほとんど同じで、違う所は非公表の第七項に「満州における親日的な指導者はこれを支持する」、第八項に「万一動乱が満蒙に波及し、治安が乱れて、満蒙のわが特殊の地位や権益が侵害される恐れがある場合には、その脅威がどの方面からくるかは問わず防護する」と宣言している。幣原としても、満蒙の利権を守る点で異なるところはない。
 ただ東方会議は、その内容よりも、それが与えたイメージが大きかった。当時の日本は不況に沈淪し、国民の世直しを待望していたところであり、森恪が、今こそ政友会内閣は新しいアジア政策を打ち出すのだと大いに宣伝したので、一部国民はこれに鼓舞され、期待し、また中国をはじめ諸外国からは日本の帝国主義的新政策として猜疑の目で見られた。いわゆる「田中上奏文」も、東方会議の直後に、日本の今後の国策を田中首相がひそかに天皇に上奏したものとなっている。「田中上奏文」は、そもそも日本語の原文がなく、中国紙に掲載された中国語の翻訳しかない怪文書で、それが偽作であることは研究者の間で定説となっている。しかし、日本の野望を暴き、日本の脅威を説くためには格好の文書であり、中国をはじめ世界中に広く引用された。

田中の対中政策は、そんな大戦略あるいは誇大妄想的なものではなく、もっと実務的なものだった。7月19日、田中は山本条太郎を満鉄総裁に任命し、副総裁に松岡洋右を配した。山本は政友会幹事長を務めた閣僚クラスの大物であったが、これを口説き落とした。高橋是清の蔵相と山本の満鉄総裁は、本人としては役不足であったが、それを説得したのは田中の名人事といわれる。田中の構想は、満州の現実に即して、日本が多年馬賊から育て上げた張作霖に満州を守らせ、日本の利権を保護させるという現実的な政策であった。山本は、森恪や吉田の言動が張作霖の反感を買っていることを察知して、田中に彼らの言動を抑える様頼み、自分は張作霖の側近と通じて周到な根回しをして、10月に北京に赴き、4日間に三回張作霖と会談して満蒙地域に五つの鉄道を敷設する協定を結んだ。その上に、ソ連の支配下にある東支鉄道を将来買収して日華共同経営とする計画を打ち合わせた。多年の懸案の解決をここまで持っていった山本の手腕は見事であり、田中の対満州政策は着々と進行していたが、この努力は一年たたないうちに張作霖の爆死で水泡に帰することになった。張作霖の爆死を聞いて田中は「わが事終わんぬ」といい、山本は「もうやめて日本に帰る」といったと伝えられている。

 1927年夏の会戦で敗退した蒋介石は総司令の職を辞した。そして蒋介石は9月、来日した。目的は、孫文の未亡人宋慶齢の妹宋美齢との結婚について神戸在住の宋美齢の母親の許しを得るためであった。その目的を達した後、蒋介石は11月5日に田中首相と会談した。日本側の記録は先方が同意したようになっているが、「蒋介石秘録」ではこの会談に失望している。田中は蒋介石に対して、北伐を焦ることなく、まず南方一帯の統一に専念すべきだといった。これに対して蒋介石は、南方を固めるのは当然だが、現在の中国の状況は中国人として堪えがたい。奮起して統一を達成すべき義務がある。その上で排日運動があるのは日本が張作霖を助けているからで、日本が軍閥援助をやめて革命達成を助ければ満蒙問題は容易に解決すると述べた。両者の違いは歴然としている。張作霖中心で満蒙利権を守ろうとしている田中としては、張を捨てて革命軍を助けるなど到底できない。現に蒋介石は北方軍に惨敗して身一つで日本に逃れてきている。その蒋がわずか半年後に捲土重来して北京から張作霖を駆逐して統一を達成するなどとは誰も予想できない状況だった。蒋介石自身、訪日の時、五年ほど欧米に留学するつもりだった。しかし、田中・蒋介石会談の時、すでに蒋は汪兆銘から即時帰国して総司令に復帰せよとの電報を受け取っていた。そして、すぐに帰国して第二次北伐を準備した。

田中義一内閣 前

2015年04月24日 | 歴史を尋ねる
 三月の南京事件の翌四月、若槻内閣が倒れ政友会の田中義一内閣が誕生した。田中内閣について戦後史観の評価は高くない。日本を破滅させた昭和軍閥の独走は田中内閣時代に端を発するという歴史的解釈は結果から見ると正しいが、田中の政策の結果というよりも、むしろ田中の意図に反して、そうなってしまったといった方が正しい状況だったと岡崎久彦氏。軍人出身の内閣だからということもあるかもしれない。そして中国からも極めて厳しい目で見られた。いったい歴史の歯車がどう動きだしたのか、調べておきたい。

蒋介石軍の南京入城の十日前、片岡直温蔵相はうっかり渡辺銀行の破綻に言及したのがきっかけとなり、経営破たんの噂のある中小銀行の取付騒ぎが起った。そして四月には鈴木商店、台湾銀行にも及んだことは既述済である。政府は台湾銀行救済のための緊急勅令を枢密院に提出したが、枢密院の討議はほとんど南京事件を中心とする対支外交批判ばかりに集中した。枢密顧問官伊藤巳代治は、幣原外交を罵倒し、無抵抗主義は日本帝国の威信を傷つけ、軍の士気を沮喪させ、中国人における日本人の生命財産を危うくする。国民党の革命運動は北支に及ぶ勢いであるが、その背後には第三インターナショナルの共産勢力がある。これに対する政府の認識は甘いというものであった。幣原は若槻の了承を得て、陛下の前で虚言を以て中傷されるとはどういうことかと難詰したが、結果的には緊急勅令は否決され若槻は総辞職した。
 昭和金融恐慌の収拾は結局若槻内閣の救済策を上回る政府資金が投入され、事態は一応鎮静化した。これを見てもわかるように、若槻内閣が倒れた主な原因は幣原外交批判というその時流にあった。当時はまだ大正デモクラシーの時代であって国民一般の思考は平和主義・国際協調主義が強く、幣原外交批判も必ずしも国民一般の帝国主義的、拡張主義的な欲求から来たものではなかった。むしろ幣原外交批判は、自分たちの生活が直接脅かされていると感じていた中国在留邦人とに日中ビジネス界から来た。日華実業協会と大阪紡績連合協議会は単独出兵すべきとの声明を出した。南京事件後上海の日本商業会議所は陸軍派兵要望の強硬な建議を行った。こうした声は民意の共感を得た。ここで成立した田中義一内閣は、従来幣原の軟弱外交を批判してきた背景からも当然の流れとして、幣原外交の不干渉主義を離れ、在留邦人の「現地保護主義」を標榜したと、岡崎氏はこの時代の日本の空気を精緻に分析している。若槻後継には憲政の常道に従って野党政友会の総裁田中義一に大命が降下した。田中は当初外相として幣原外交批判の急先鋒である本多熊太郎を考えたが、外務省内が本多ではまとまりそうにないので、自ら外務大臣を兼任し、政友会から森恪を外務政務次官に起用した。

 森恪は中国大陸を志して三井物産に入り、七年間上海に勤務した。長沙滞在の経験に基づく論文が中央公論に載り、寺内正毅陸軍大臣の目に留まった。三井物産の総帥益田孝に連絡し褒めると、益田は森を一時帰国させ、大臣と対支政策を論じたという。一時ニューヨークに勤務するがすぐに上海に帰り、折からの辛亥革命時、革命派援助に奔走、独断で十五万円を革命派に手渡した。益田が森の越権を責めると、森は臆することもなく、将来革命成功の暁には揚子江一帯の利権が三井、ひいては帝国の手に収める国家永遠の策だといった。のちに益田はどえらい奴だといって、自ら中国利権獲得の主唱者となり、満州買収計画まで立てたそうだ。森は36歳の時政友会に入党し1920年総選挙で衆議院に当選した。田中内閣の政策を新しい軍国主義の方向に引っ張っていったのは、外務政務次官森恪だったと岡崎氏はコメントする。

 済南事件に際して、当初陸軍も出兵を躊躇する雰囲気があり、田中首相自身もその処置に迷ったが、森は「もし田中が肯かなければ、政友会総裁を引退させる」といって、強引に出兵を閣議決定させた。
 しかしその森も原のあとを継ぐ政友会党員であり、大正デモクラシーの子であって、彼自身が拓いたのちの軍国主義時代の人間とは違って現実的であった、と岡崎久彦氏いう。ワシントン軍縮については、「米国を相手に軍備拡張競争など出来るものではない。米国と対立すると生糸が売れなくなり、原綿の供給も止まってしまう。その結果は慄然たるものだ。幸い原敬のような達眼の政治家がおり、協調を保ったのでその後日本は軍備を節約し財政を整理できた」と、ビジネスマン上がりの背景を窺わせる良識ある判断を下している、と。又、対中国政策についての領土保全・門戸開放・機会均等を森も支持しているが、中国が領土保全をするには、中国自体が豊かにならねばならず、中国人だけでは達成できないので、より文明の進んだ国の資本技術を導入することが必要と説いて、中国ビジネス経験に裏打ちされた議論をしている。
 森は外務政務次官に就任する前に山本条太郎、松岡洋右と共に中国情勢を視察した。帰国後視察報告講演を行っているが、「ロシアの支援を得ているコミンテルンが中国革命運動の背後にあることを指摘して、現状のままに放置すると、数年のうちに、中国の統一は日本の助けではなく、コミンテルンの助けによって行われる」と警告していた。更に付け加えて、「最近二十年来揚子江沿岸に日本人が扶植した勢力が根底から滅ばされつつあって、在留邦人は生活していくことが出来ない。これは経済的政治的革命の問題であり、ある一部の支那人が計画的に滅ぼさんとしているためだ。隠忍すべしといわれているが、現実に苦しんでいる人に、いつまでといわず隠忍しろとは実に無残なことだ」と語っている。幣原外交は生粋の外交官上がりの思考方法であったが、森の場合はビジネスマン上がりの出自が前面に出ている。

 田中内閣の成立とほぼ時を同じくして、南京に国民政府が樹立され、革命軍が北上を開始し、北京を窺う形勢となった。当時北京に1,600名、天津に6,700名の日本人がおり、北上の通路となる山東省には青島に14,000名、済南に2,000名の日本人がいて、この地方の日本人の投資総額は二億円にのぼっていた。田中内閣は現地保護主義を適用することになるが、高橋蔵相は出兵の経費に難色を示し、旅順から2,000名を青島に派遣に待機させることとした。これに対して、北京、南京、武漢の三政府から厳しく抗議を受け、各地で日貨排斥運動が起こり、対日経済断交を要求する動きも出てきた。この時の革命軍は北方軍の反撃により失敗し、日本軍もやがて撤兵するがもうこの時点で、日本側の居留民現地保護主義と中国のナショナリズムとの衝突が不可避であることは明らかになった。出兵宣言だけでもこの反発であるのだから、もし流血事件でも起これば、中国のナショナリズムが燃え上がることは火を見るより明らか、岡崎氏は冷静に当時を跡付ける。
 
 

立読み 幣原喜重郎講演「外交管見」

2015年04月22日 | 歴史を尋ねる
 服部龍二氏は総合政策研究第13号で、1928年(昭和3)10月、慶應義塾大学で外交管見と題する講演を行った幣原喜重郎のその記録を紹介している。当時の内閣は、政友会の田中義一内閣であった。壇上の幣原は外交の本質をはじめ、南京事件の経緯や田中内閣の批判に至るまで率直に語っているとの事、折角なので立ち読みしたい。参考までに管見とは自分の知識・見解・意見をへりくだっていう語の様だ。幣原の人間性がにじむ。

 先ず外交の本質は権謀術数ではない、と。就任記者会見で述べた持論から入る。歴史に徴すれば、従来外交が権謀術数に動かされた実例は枚挙に遑ない、しかもその終局の結末はどうであったか。目前の成功は国民の喝采を博すが、一時の功もいつかはその国の為に重大なる禍を来すことがあると覚悟しなければならない。仏教の説く因果応報の理は国際関係に於いても行われる。極東における権謀外交の実例を挙げる。明治28年の下関条約によって支那は遼東半島を永遠に日本に割譲した。しかし支那は条約に調印しながら密かに列国政府に懇請し、所謂三国干渉事件となった。三国干渉は外交上の陰謀であり国際的罪悪である。真っ先に因果応報の苦しみを受けたのは支那自身。翌年支那とロシアが条約を結び、東支鉄道の敷設権をロシアに与えた。さらに膠州湾の租借権をドイツに許し、更に旅順大連の租借権、東支鉄道南部支線の敷設権をロシアに与えた。三国干渉によって得た利益は奪われたのみならず、遂に満州及び山東省の全部をも、露独両国の侵略政策のなすがままになった。次に露独両国はどうか。臥薪嘗胆の日本に露国は南満州より駆逐されドイツは山東省より掃討された。国際関係も果報の車は常に廻っている。権謀術数は国家百年の長計ではない、と。うーむ、その後日本にも廻ってきたか。

 南京事件にも触れる。この事件を軟弱外交の産物といい、甚だしきは当時の日本政府が支那に於いて一切無抵抗主義を取りたる結果であるという、全く見当違いの臆説が今尚流布されている。しかも現政府当局者自らこのような臆説を公然宣伝するに至っては驚かざるを得ない。外交政策は冷静なる利害の判断に基づいて決定されるもので、一国の外交が妄りに軟弱といい強硬というが如き空漠なる感情論に支配されては国家の前途を誤る所以だ。当時の政府がとった政策を軟弱と攻撃するなら、別に代るべき具体的案があるのか、この疑問に対する的確な答えを聞いたことがない。南京事件の起こった事情を申し述べたい。一昨年の夏、国民革命軍が着々北伐計画を遂行して漢口に進出して以来、蒋介石他国民党領袖数名は漸く共産党排斥の旗幟を鮮明にした。ここで共産党はこの危機を除くため蒋介石らの国内的並びに国際的地位が固まる前にこれを倒さなければならない。これを倒すには国民革命軍の地方で重大な国際事件を起こすことが捷径である。共産党は列国間で認められていないので、支那軍隊が引き起こした国際事件は、たとえ軍隊内の共産系分子が軍司令官の意思に反して策動しても、列国は総司令官である蒋介石を責任者として罪を問わざるを得ない。蒋介石がその責任を回避するならば、列国は圧力を加える。蒋介石が屈従しても、いずれ倒壊の運命を免れない。蒋介石の倒壊は共産党にとって危機より脱する方策である。この結果を予想して共産党員は南京事件を画策した。従ってこの事件は排外運動でもなく、反日運動でもない。外国人に危害を加えることは共産党が他の目的を達する一手段に過ぎない。彼らが倒そうとしたのは蒋介石他数名の国民党領袖であった。事実、英米人数名の死傷者を出したが、日本居留民に一名の死傷者もなく、支那軍隊の指揮官が現場に到着すると、直ちに日本領事を訪問し部下兵員の暴行を陳謝し、自動車を供給して日本人を帝国軍艦内に避難する便宜を図った。田中内閣の先般の済南事件は大に違って、済南に於いて支那兵暴行の標的は主として日本人であった。なぜ南京事件と済南事件との間に支那側の日本人に対する態度に大きな違いが生じたのか、一つの注意すべき現象です。ふーむ、日本の外務省は当時ここまで情報を持っていたのか、なぜそれが次の政権につながらないのか。
 
 そのあと、東三省問題に触れる。東三省とは清代中国の東北地方に、奉天省、吉林省、黒竜江省の三省がおかれていたので、まとめて東三省といわれた。かつては清朝を建国した女真(満州人)の拠点であった。清朝末期から中華民国初期に、この地に奉天軍閥が生まれ、張作霖がその支配者として台頭し、北京の軍閥政権と抗争した。また、日本は日露戦争以来、この地に侵出し、南満州鉄道の権益を守るために関東軍を置き、軍閥間の抗争に介入しながら地歩を築こうとしていた。ここで幣原は対支外交の根本を語る。
 日本は、日支両国間に友好的協力の関係を増進することが対支外交の根本義とするが、日本の正当かつ重大なる権利利益が侵害されることを忍ぶということではない。支那の内争に干渉しない方針と日本の権利利益を擁護する方針とは、互いに相反する性質のものではなく、両々並び行われるべきものであって、これを並び行うことが日本外交の主眼でなければならぬことは、帝国議会に於いて再三説明したところである。特に東三省方面における日本の権利利益は歴史上の深き因縁に基づき、又事実上主として条約の保障の下に国民の多大な犠牲と努力とによって築き上げられたもので、国家的生存とも密接なる関係を有している、と。うーむ、幣原がこの時代、このように述べていることは、彼の考え方が欧米にも了解されていたということだろう。幣原は法の支配をいい、一方で法の支配に挑戦する中国という構図があったということだ。
 苟も東三省方面における日本の正当な権利利益を覆さんとする要求をなすものがあるならば、日本は確乎たる決心を以て静かに不同意を答えるべきのみ、もし支那が一方的意思を以て妄りに条約を破棄し、日本国民の犠牲、努力を無視して国家的存在をも脅かすが如き行動に出るなら、国民のこれに対する覚悟は挙国一致、自ら定まって居る。国民政府は果たして懸かる侵略的、破壊的の行動を執る意向は、公然にも暗黙にも示したことがない。寧ろ国民政府の当局者はこうした意向がないことを非公式ながら言明している、と。平和主義者といわれる幣原も、ここまでの言説を述べている。この辺の中国に対する現状認識が甘いと岡崎氏から指摘されるところだろう。寧ろ中国側が侵略的と指摘する幣原にびっくりする。

 最後に、済南出兵問題に言及し政府の出兵措置とその時の衝突事案に批判的検討を加えている。居留民現地保護の方針をとった結果、国庫の負担は六、七千万に達し、将卒の死傷者数百名を下らない、しかも居留民の財貨を略奪されたもの随所に続出し、虐殺凌辱に遭ったもの少なからざる惨状を呈した。このような犠牲を供することなく、一層有効に居留民を保護し得る方策が考えらえなかったか、少なくとも支那側の申出のように、北伐軍の済南に入るに先立ち、支那側の協力を利用して同地の居留民を青島その他安全地点に避難する方法を何故とらなかったか、政府は帝国議会に於いてこの質問に満足のいく説明ができていない。今回の済南方面で執りたる行動は国際的には外国より抗議されるものでないが、国内的には国民より政府の責を問うべき十分の理由がある。更にすすめ両国間の経済的重要案件が目前に迫って解決を待っている。局面の好転機運が伝えられているが、一度交渉の暁には的確な事実が現れる様切に国家の為に祈るものであると結んでいる。うーむ、見ては居れない、黙って居られない気持ちが迸り出る講演である。

幣原外交

2015年04月19日 | 歴史を尋ねる
 帝国主義は時代の要請であり、原敬も犬養毅も帝国主義者であって、遼東半島の返還など誰も考えていなかった。しかし帝国主義政策の進め方もおのずから節度があり、友好関係が大きく損なわないこともできた。当時の議会における原敬の大隈内閣弾劾演説は、二十一か条要求問題を次のように云っている。「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。このときに日本が野心を逞しくして何かをするのではないかということはどこの国でも考えることである。今回の拙劣かつ威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また、中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を蠢動させずとも、日支親善の道を尽くせば談笑のうちにもできたことである。世間はこの外交の失態を甚だ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた」 見事な演説である。同じ議会で犬養毅も政府批判を行った。面子を重んじる中国人に最後通牒とはもってのほかだ、というのであった。ちょっと脇道にそれるが、東洋経済新報の石橋湛山は、この時「南満州の権益だけならば支那側も既成事実として喧しく言わなかったであろうに、結局はなんの役にも立たない、そのほかの十九の要求を並べ立てて、本来問題にならないはずの遼東半島、南満州鉄道までも改めて議論の的にしてしまった」と。やがて石橋は満州、朝鮮を手放す小日本主義を唱えるようになった。

 日本と中国との友好関係を挽回する可能性は二十一か条要求以後もまだまだ残っていた、と。孫文は死ぬまで日本に期待していた。1924年、三民主義を信奉する馮玉祥が北京を制したことがある。孫文は広東から北京に行くとき、どうしても日本に立ち寄って日本の友人に会いたいといって、神戸を訪問した。講演会場は大盛況であったが、孫文は演説の中で、大アジア主義を説き、今日以後、西方覇道の手先になるか、東方王道を守る干城となるか、日本国民の皆様は慎重に考えて選択していただきたいと述べた。孫文はその足で北京に赴き熱狂的な歓迎を受けるが、その時すでに肝臓がんの末期で、日本での講演は日本人に対する最後の呼びかけとなり、孫文の日本に対する遺言となった。いろいろな解釈がされているが、記者会見で語った訪日の目的は不平等条約撤廃について日本の援助を求めることであると云っていた。孫文は政権を掌握すればまず不平等条約の撤廃が最優先課題と考えていた。孫文が日本に求めたのは、それについての日本の協力であったと岡崎久彦氏は解説する。しかし当時、日本の最優先政策は日英同盟の堅持であり、英国の貿易上の利害に関することを日本が一方的に行うことは不可能であったともいう。日本の国際協調派は英国との協調を優先的に考え、急進論者は大陸における帝国主義的発展ばかり考え、孫文に代表される中国ナショナリスト、知日派の期待に応じる準備はなかった、と。

 1924年6月、加藤高明に大命が降下した日、加藤は幣原喜重郎を自宅に呼んで外相就任を求めた。就任早々の記者会見で、幣原は「いまや権謀術数的の政略や侵略的政略の時代はまったく去り、外交は正義平和の大道をふむしかなく、日本はヴェルサイユ条約、ワシントン会議の諸条約の崇高な精神を遵守、拡充すべきだ」と述べた。そして議会で歴史的な外交演説を行った。①帝国の外交はわが正当なる権利利益を擁護するとともに列国の正当なる権利利益はこれを尊重し、アジアの平和、世界の平和を維持することを根本とする。②一国の政府が公然外国に交えた約束は、政府又は内閣の更迭があっても、変更すべきでない。ワシントン会議では、幣原は二十一か条要求で満蒙権益以外は大幅に譲歩して、中国が満足すべき所まで内容を修正している。会議後、中国側の王寵恵全権は幣原に歩み寄り「日本を誤解していた。今度の会議で日本を理解したのが私の大きな収穫だ」といったほどであったという。演説の中で幣原は「支那の内政に我々は関与しない。日本は支那の合理的な立場を無視する行動はしない。と同時に、支那も日本の合理的な立場を無視するが如きなんらの行動をとらないことを信ず」と述べた。たしかに個人的に接触する中国代表に対して納得させる力を持っていたが、国内が分裂抗争し、競い合う勢力が互いに沸騰するナショナリズムの中で、中国側の自制を求めることは容易でない。中国ナショナリズムにとって、ワシントン体制は打破すべき過去の不平等関係の固定化であった。そしてワシントン体制を推進した当のアメリカがやがて中国のナショナリズムの要求の方に同情的となっていく過程が、後年の幣原外交の挫折の悲劇につながっていくと、岡崎氏は解説する。

 幣原の協調外交への風当たりは初めから強かった。どの国も対外強硬策の方が国民に受けがよい。日本に於いてペリー来航から第二次大戦後の現在に至るまで、ほとんど例外ない政治原則であった。しかし幣原は、軟弱外交といわれようと、毅然として自分の信念を貫いた。ときに大正デモクラシーの最盛期であり、国際的にも国際協調主義が主流だった。幣原の外相就任後間もなく中国の内戦が激化し第二次奉直戦争では満州にも戦火が広がりそうであったが、幣原は内政不干渉政策を貫いた。さらに中国の関税自主権回復にも中国側を支持して採択された。中国の対日感情は一変した。治外法権の撤廃についてこれも幣原がイニシアチブをとった。1927年蒋介石の軍隊により南京事件が起こった。この軍隊はにわか仕立ての兵隊や共産分子もいて、南京に着くなり、外国人と見ると盛んに暴行、略奪をやった。日本居留民は殺害は免れたが、徹底的な略奪にあった。その時南京江岸には、日英米各一隻の砲艦がいた。英米の砲艦は自国民が殺されたというので蒋介石軍の根拠地を砲撃したが、ひとり日本の砲艦は発砲に加わらなかった。領事館に赴いた日本の海軍大尉が居留民とともに暴行を受け、その時は艦長の指示を守って抵抗しないで耐えたが、帰館後、帝国軍人として屈辱に耐えないと割腹した事件もあり、世論は激昂した。
 

日本の満州進出

2015年04月18日 | 歴史を尋ねる
 日中の緊張関係が高まる中、中国側の状況を蒋介石秘録(サンケイ新聞社刊)で振り返ってみることとするが、その前に日本側の対中国政策の変遷を整理しておきたい。
 新興日本に中国の将来の夢を託して日清戦争後多くの中国人・留学生が亡命又は来日してきた。1897年、亡命してきた孫文は宮崎滔天にあってたちまち意気投合し、ここから日本を策源地として孫文の革命活動が始まった。百日維新に失敗した康有為・梁啓超、当時中国一の大学者と言われた章炳麟、辛亥革命の時陸軍総長になった黄興、議会民主主義推進の中心人物となった宋教仁、孫文の片腕となった汪兆銘も皆、仲間であった。1905年7月、「中国革命同盟会」の結成準備会が宮崎滔天・内田良平(黒龍会)も参加して東京で開かれ、孫文の興中会、黄興の華興会、章炳麟らの光復会を中心として、革命勢力の統一戦線が結成された。
 日露戦争後、民族意識が高揚して、清国内では日清戦争後に失った列強の利権を回復しようという運動が起こり、清国が頼りにしたのはアメリカであった。伊藤博文はその危険を予想していた。暗殺される2年前、林董(ただす)外相宛の書簡で「満州で日本が利己的な政策を行うと、清国人の反抗を招くだけではなく第三者に扇動の機会を与え、再び同人種である日清間に戦争を招く恐れもあり、そうなると世界の排日論者が喜ぶだけである。世界の大勢は日本を孤立させずにおかない方向に進んでいる。もし行動を誤ればたちまちに災禍が来るであろう。日本帝国の前途を深く憂えざるを得ない」と云っているという。「満州問題に関する協議会」に於ける伊藤の児玉源太郎総参謀長に対する叱責の内容共々、国際関係の理解とその先を見通す力には敬服する。しかし、伊藤博文の死後、軍、外務省を含めて日本の満州政策は、積極的進出一色となった。

 伊藤の予言は30年後、満州事変で的中するが、この時点では、そうではなかった。中国の利権回復運動が列強の帝国主義的進出に反抗するものである以上、米国を除く列強は日本と同じ立場であり、この過程で孤立したのはむしろ米国であった。満州鉄道中立化案の挫折、六か国借款団から米国の離脱など極東国際政治の実態が反映する結果となり、満州は日露の特殊な利益範囲という地固めが進んでいた状況だった。ただ一つ、誰もが気になっている問題、日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年には切れてしまうことであった。日本は英国の香港のように、遼東半島を整備しつつあり、その返還などは誰も考えていなかった。当時の文献で「満州問題の根本解決」というのは主として、この租借の延長を意味した。こうした状況の中で辛亥革命が起った。日本の大陸進出派は色めき立ったと岡崎久彦氏は解説する。満州は明末以来満州族の土地であった。満州帝国である清帝国が滅んだからと云って、満州が漢民族の支配に服する理由はない。現に、清帝国の支配下にあったモンゴルは、辛亥革命が起ると早速独立を宣言し、その後曲折を経たがソ連の支持を得て、独立のモンゴル共和国となっている。大陸浪人川島浪速はもともと清朝の王族と親しく、辛亥革命に際して粛親王を満州に擁立し、また、内蒙古東部のカラチン王に挙兵させ満蒙王国を建設しようとした。これが第一次満蒙独立運動であった。時の陸軍の政策担当者はいずれも満州進出の積極論を唱え、山県も同調し満州二個師団出兵を主張した。モスクワでは本野一郎大使が、この際日露で満州を南北に二分する案を推進しようとしていた。

 しかし、第二次西園寺内閣は出兵を拒否した。一つには海軍、とくに山本権兵衛の反対があった。山本は日露戦争の直前でも「韓国の如きは失うも可なり。帝国は固有の領土を防衛すれば足る」と言っていたほどで、日本という島帝国は、海軍で防衛すればそれでよいという海主陸従論者であった。山本の意見は、日本はロシアとの合意で行動してはならず、万事英国と同調すべきであり、外交はあまりテキパキし過ぎて損をしないようにすべきだということであった。七つの海を支配している英国とさえ協力していれば、日本は危ういことは何もないというアングロサクソン協調の国家戦略論であった。死ぬまで英米協調主義者であった西園寺首相にとって、我が意を得た、ということであったと岡崎氏。他方、陸軍や外務省の急進論者からみて辛亥革命という絶好のチャンスを逃したことに対する不満が、のちに二十一箇条要求というかたちにあらわれる事ともなり、また海軍の意見を重視する西園寺内閣に対する陸軍の反発がその後の大正政変につながったという。うーむ、当時の国家戦略を合意形成する仕組みがなかったということか、属人的な戦略判断が、あちこちに影響を及ぼした事例にもなるのだろう。
 次に1915年、もう一度満蒙独立運動があった。この時も川島らは粛親王を満州に擁し、内蒙古の蒙古騎兵隊とともに挙兵を図った。日本政府は末期の袁政権を見限り満州の反袁活動を暗に支持していた時期なので、この独立運動を黙認した。しかし袁の急逝で日本政府の方針が変わって、すでに東南方に進撃を始めていた蒙古騎兵を始めとする現地の運動家たちを説得して、行動を中止させた。これが第二次満蒙独立運動であった。こうして繰り返された挫折感が、その後の満州事変の伏線となった。この時の内閣は大隈首相で、外務加藤高明、大蔵若槻礼次郎、陸軍岡市之助、海軍八代六郎らであった。

 1914年第一次世界大戦が勃発、欧州列強は極東を顧みるいとまがなくなり、山県有朋は袁世凱が策略に富むといえども、その手段に窮するとみて、日本がその対支政策を確立し、従来の怠慢と誤りを正して、政策を一新する好機であった。そして陸軍から具体的な要求項目が提出され、外務省の小池張造政務局長が中心となって、二十一か条要求を作成した。加藤高明外相はシナ問題に詳しくなかったので陸軍との関係がよく陸軍と調整に便利な小池を重用した。外務省の中でも広田弘毅などの反対はあったが通らず、結局陸軍の要求と、これを受け入れた外務事務当局の案がそのまま要求となった。従来の外交政策立案と異なり、軍、官僚の中堅クラスの作業が中心となり、またそれが、元老を排する外交を外務省へをモットーにする加藤の考えと一致した。権限争いが大戦略を曇らせてしまったと岡崎氏はコメントする。要求内容は既述済なので省略するが、問題は、中国を半植民地化するという天下の非難を浴びるに決まっている重大な条項を、中途半端なかたちで要求して、国際的の孤立し、中国民心の憤激を買い、後々まで国恥記念日として記憶される愚行を犯したことである。その責任は総理であった大隈と外相の加藤にあろう。伊藤、陸奥、幣原ならば、軍を抑えて第五号要求は持ち出させなかっただろう。小村ならば事の重大性を認識させ、問題を初めから再考させただろうと岡崎氏は推量する。大隈の性格は大風呂敷で何でも引き受けるが、いざとなると言辞でごまかし実行が伴わない。陸軍の要求はとても通りそうもないが、せっかく軍が言ってきているから希望条項として顔だけ立てようというような外務当局の妥協を容認して国を誤った。岡崎氏は手厳しい。

政党政治の終焉 犬養毅内閣

2015年04月13日 | 歴史を尋ねる
 1932年(昭和6)2月23日、白川義則大将を軍司令官とする上海派遣軍司令部が編成され、第11・14師団の上海派遣が決定された。2月25日、天皇は白川大将の親補式(武官の場合は文官と違い、官(階級)と職が分かたれていたため、親任官となるのはあくまで陸海軍大将のみである。代わりに、親任官相当の職として宮中において親補式を以て補職される「親補職」というものが設けられていた)に際し、「条約尊重、列国協調、速やかに事変解決」を指示したが、これはまた陸軍一部の天皇周辺批判の根拠にもなった。
 2月29日、国際連盟のリットン調査団が東京に到着、翌3月1日、犬養首相が認めないままに満州建国が宣言された。3月3日、上海事件はようやく停戦となった。天皇が後に爆弾テロで死去した白川大将の遺族に「をとめらのひなまつる日にいくさをば とどめしいさをおもいてにけり」という歌を贈ったという。3月9日、溥儀が満州国執政に就任したが、3月12日の閣議で「満蒙問題処理方針要項」決定し、独立国家建設の方向が許容された。しかし、犬養首相は西園寺と相談後、天皇に満州国承認は容易に行わざることを決意表明している。犬養首相ははこの頃満州国独立阻止の最後の手段として閑院宮総長の了解を得た上で、天皇の勅語で陸軍を押さえることを考慮していたと言われ、これが伝わったことが5・15事件の近因となった(牧野日記)とも言われた。また、関東軍に協力的であった森内閣書記官長もこの頃には「かくの如く軍に引きずられては到底やりきれない」という視点から天皇直属の委員会により「軍の統制を立て直す」ことを企図したようだ。3月29日、上海の天長節記念式典に朝鮮人テロリストの爆弾が投下された。白川大将・野村中将・重光葵公使らが襲われ、白川は死去、重光は右足切断となった。しかし5月5日、上海停戦協定は調印され、上海事変は終息した。

 昭和5年秋、十月事件が未発に終わった後、陸軍青年将校グループは犬養内閣の陸相になった荒木中将の手腕に期待して、非合法活動を避ける方向に向ったが、海軍・民間グループは突出を続けた。6年1月7日、井上日召らと海軍青年将校が会合し、紀元節を期し政財界特権階級の暗殺を決行することが決められた。上海事変が起き、井上の民間側でまずテロ活動を行い、続いて海軍青年将校が蹶起するという二段階の計画に変更された。2月9日、前蔵相井上準之助が選挙応援のため訪れた本郷駒本小学校前で、血盟団員小沼正に暗殺された。3月5日、三井合名理事長団琢磨が、血盟団員菱沼五郎に、三井銀行前で暗殺された。3月11日、井上日召が警視庁に自首し、大規模な集団連続テロ計画が発覚した。しかし海軍青年将校が蹶起するという計画との連続性までは明らかにされず、5・15事件を阻止することはできなかった。裁判は昭和8年から始まるが、世界恐慌下金解禁を実施し大不況を招いた責任者と見られていた井上準之助と、ドル買いで巨万の富を得たと見られていた三井財閥の代表者団琢磨が撃たれたことは、実行者たちを一種の英雄視するような風潮を生みだした。

 5月8日、政友会関東大会で犬養は議会政治擁護運動を行った。「近来一部階級に間に議会否認論の行われる傾向がある・・・現在の政党が飽くまで政策の争いを以て対立し、互いに政策の決定したるものは万難を排して着々これを行い以て議院政治の真面目を国民に向って指示した乱には、極左といい極右といい現行の政治組織を否認せんとするものの大部分は緩和同化せらるるものと確信する」 議会政治・政党政治への信念を語った堂々たる内容だが、これも政党政治への反省がないとして批判材料になったと、筒井氏はコメントする。ふーむ、不思議だ。世界大恐慌をいち早く脱した日本という経済史上語られる政権にあって、その政権が盛んに批判される、まだ内閣発足6カ月もたたないのに。5月10日、民政党は「議会の威信確立に関する宣言」を発表した。左右両翼の議会政治否定傾向への対抗のためであった。5月12日、民政党の永井幹事長は秋田議長に、院内の秩序維持と品位向上に関する具体策の協議を申し入れた。二大政党人から初めて、議会内の品位向上の動きが始まった。しかしその三日後、政党政治の息の根を止める暗殺事件が持ち構えていた。5月15日、海軍青年将校・陸軍士官学校生徒・愛郷塾塾生らが犬養首相を暗殺し、牧野内大臣邸・政友会本部・警視庁・日本銀行・三菱銀行・変電所等を襲撃した5・15事件であった。首相を失った犬養内閣は総辞職する。

 5月17日、議員総会が開かれ政友会総裁に鈴木喜三郎が選出された。こうして政友会は鈴木政権誕生を待つことになった。宮中では木戸幸一内大臣秘書官長が牧野内大臣に、挙国一致内閣を作り首相には斉藤実子爵のような立場の公平なる人格者を据えることを進言した。近衛・木戸・原田は陸軍省軍事課支那班長鈴木貞一中佐、永田鉄山参謀本部第二部長の話を聞いているが、政党内閣では第二第三の事件を繰返すに至る、政党内閣では陸軍大臣に就任するものは恐らく無かるべく、結局、組閣難に陥るべしというものであった。5月19日、西園寺が上京。西園寺に鈴木侍従長が、人格の立派なる者、ファッショに近いものは絶対不可、憲法擁護、』外交は国際平和を基礎等の天皇の意向を伝達。22日、西園寺は齋藤実を後継首相として推薦、ここに政党内閣は潰えた。
 筒井清忠氏は政党政治の崩壊の理由を5つ挙げている。
 ①犬養首相(政友会総裁)の統治力の構造的難点:犬養が「養子」総裁であることは、リーダシップ発揮上の最大の障害で、田中義一の時から問題視されたが、決定的時点で問題点が露呈した。しかも現在の官房長官に相当する書記官長森恪が対外強硬派で、犬養の対中国政策の実行は難しかった。
 ②政党人の政党政治の信用失墜に対する危機意識の欠如:政友会は政党内閣の危機にあってなおポスト争奪の権力抗争が激しかった。「清浦内閣が出現したとき、政党はいかに団結一致して、倒閣の鉾先を揃えたか・・・これに取って代わった政党者は以来7年、何を以て国民の信頼を酬いたか、どれ程国民の福祉を増進させたか、収賄事件・買収事件・利権に絡まる醜怪事件は、連年枚挙に暇がない。殊に金輸出再禁止直前、財閥が猛烈なるドル買いを行い、わが国貨幣制度を危機に陥れて、驚くべき巨利を博せる策動の裏面にも、政党の動きありと見らるるにいたった。今回の政変はこれらの事件が根本原因となって、起こった。今日、打倒斉藤内閣を絶叫したところで、国民の共鳴を得る見込みが何処にあろう。その結果は、憲政のために、一層危険なる、ファッショ政治の台頭を促すに過ぎないのではないか」 これは片岡直温の言葉である。
 ③元老西園寺らの「宮中」擁護第一主義の弊:「財政や外交」以上に、「政党の腐敗」以上に、宮中を守ろうとしたと、西園寺の秘書原田熊雄はその日記に記述する。「財政や外交」に失敗して守られる「宮中」というものがあると思ったのであろうか、こうした宮中側近の態度こそ、政党政治はおろか天皇・宮中それ自身をも危機に追い込んだと、筒井氏は厳しく問う。
 ④陸軍の脅威と議会制デモクラシー体制:5・15事件後の事態は、陸軍の威嚇とテロの脅威への屈服の典型的事例、近衛らは陸軍省参謀本部の高官要職者の意見を聞いて回り、それが結局天皇・宮中の意向を左右することになった。暴力的事件を起こした集団による再度の暴力を恐れて、その言うことを聞いた。議会制デモクラシーは軍人を適切に取扱い得ることによってはじめて、優れたデモクラシー体制たり得る。
 ⑤「戦争とテロ」という新しい劇場型政治と「昭和維新」運動への国民的人気への背景への無理解:満州事変後、国民の目は拡大する占領地と飛び火する戦場に釘づけとなった。そこへ耳目をそばだてるテロ事件が頻発した。事件後「5・15音頭」が作られ、獄中で作詞された「青年日本の歌(昭和維新の歌)」は青年層の間で一種流行歌となり、「志士」の故郷探訪記が雑誌の特集記事となり、未婚の首謀者海軍青年将校には花嫁志望者が殺到、減刑嘆願書は100万通を超した。新しい劇場型政治が開始された。こうして、元老・重臣・財閥・特権階級の打破と平等主義の実現を訴える主張は多くの支持者を獲得していくことになるが、政党人はこれに十分対応することができなかった、と筒井氏は結ぶ。筒井氏の労作に感謝したい。
 

 

政権交代による政策転換 

2015年04月12日 | 歴史を尋ねる
 1931年12月12日、元老西園寺は天皇からの招請で上京した。西園寺は拝謁前に、牧野伸顕内大臣・一木喜徳郎宮内大臣・鈴木貫太郎侍従長と相談。結局犬養奏請に決定、政友会総裁犬養毅を後継首相として推挙した。その際天皇から、「軍部の不統制、並びに横暴」について注意しておくようにという言葉もあり、西園寺は犬養を呼び出した。西園寺は、外務・大蔵両省の人選を慎重にすること及び協力の精神に基づき組閣するよう伝えた。犬養は前者は同意して外相には政党人以外を迎えることを明言し、後者は却って不統一の因をなすので不利なりと応答した。こうして13日、犬養内閣が成立した。犬養は新聞記者としてデビュー、27歳で大隈重信の立憲改進党結成に参画。小政党にいたことが長いが、大正期の二度にわたる憲政擁護運動で先頭に立った功績は大きい。第二次山本内閣で入閣したが「普選一本槍」で普通選挙実現に奔走した。また孫文らの中国革命を支援し続け、中国から感謝されたことも名高い。近代日本を代表する政党政治家であった。

 「産業立国」をスローガンとした犬養内閣は、政綱として「産業五か年政策」「国民所得の増進と大衆生活の安定」「国税地方税の軽減」等を掲げた。政調会長山本条太郎の立案にかかわるものであった。フム、随分現代的な政策が並んでいる。入超から産業奨励による自給率向上・輸出増進へ、と謳っており、民政党政権の決めた拓務省廃止・商工省貿易局廃止を取りやめ、港湾修築費の国家直営復活、貿易振興のための為替管理、中小商工業金融制度の確立、等を期していた。農業政策としては、米穀専売による価格安定、米価基準価格引き上げ、原蚕種の国営統制等を挙げている。面白い、今の自民党政権の政策の原点みたいなものが並ぶ。
 また、40万人(実数100万人以上)余の失業者対策は景気回復による、ということを主張し、「失業救済事業」は「産業開発事業」と名前を変え、前内閣の土木関係事業予算を増額して、積極策を取っている。そのため、内国税及び関税の増徴という若槻内閣の財政政策とは反対に公債発行を実施することになるが、これは新聞から賛意を以て迎えられた。不景気克服のために産業立国のような積極政策が望まれていた。
 しかし最大の政策は、金輸出再禁止の実施であった。井上準之助前蔵相の金解禁政策を不況の元凶とした政友会としては当然の政策であったが、為替差益で三井財閥らが暴利を得、物価騰貴を招いたとして、大きな批判を招くことになり、超国家主義陣営の政党・財閥批判が激化する元となった。自由主義経済の仕組みを国民が理解するには、それなりの年月がいるのかな。

 12月23日、第60通常議会が招集された。民政党249、政友会171で、正副議長、常任委員長もすべて民政党が独占した。翌1月21日、衆議院は解散された。選挙中に、上海事変・ハルビン占領・血盟団事件が起こり、国民の関心が他の割かれる選挙戦となった。投票結果は、政友会301、民政党149、無産党5、そのほか14となった。民政党の金解禁・緊縮政策の失敗の後を受けて、政友会に対する期待が高まり、300議席を超える圧勝につながった。ふーむ、最近の選挙で出会った事象に酷似しているな。
 1月8日、陸軍官観兵式からの帰途の天皇の御用車に朝鮮人李奉昌(上海の大韓民国臨時政府のテロ工作組織愛国団メンバー)が手榴弾を投擲。一木宮内大臣の車付近で炸裂し、近衛兵が負傷したが、天皇に異常は無かった。犬養首相は辞表を提出した。西園寺に相談した天皇は、犬養首相に留任を言渡し、優諚を拝したので留任となった。犬養はあっさり留任すると、政党人も民衆も余りの意外さに騒然となった。そこに「臣節問題」が唱えられるに至った。1月19日、民政党は党大会を開き、「犬養内閣の成るや、卒然として金輸出再禁止を敢行し、二年有余にわたる国民努力の結晶をして一朝にして雲散霧消に帰せしむ。少数の大資本を擁する者は一面に於いて巨富を獲ると雖も、国民大衆は遽然として窮乏に陥れらる。この悪政による円価惨落の結果、経済の実務に伴わざる不自然の物価高を結果して、大衆生活を圧迫するのみならず、他方歳出増加を惹起して公債の洪水を誘発し、・・・実に国家の前途寒心に堪えず、彼の大逆事件に至りては国中の臣子挙げて恐懼する所・・・優諚を拝するや、たちまち君命に籍口して責を免れ、恬として恥ずる所を知らざるなり」 野党はいつの時代もこうなのか、歴史の鏡を通すと、恬として恥ずる所は民政党ではないかとの思いもあるが、当時の時代人としては、なるほどと思わせたのだろう、この臣節問題は超国家主義陣営を刺激した。

 この時期は実に色々な問題が噴出している。対中国関係の事態の進展を整理したい。組閣直後、犬養首相は旧知の萱野長知を特使として南京に送った。内容は、満州に対する中国の宗主権は認めた上で、日中合作の新政権を作るというものであった。しかし、これは陸軍と森書記官長とによって妨害され失敗している。12月23日、金谷参謀総長が退任し、閑院宮が参謀総長に就任、続いて1月9日、真崎勘三郎が参謀次長に就任したので、荒木貞夫陸相と相まち陸軍は皇道派時代に入った。皇族関係が軍のトップに就く。この事も非常に問題があるが、この件に触れた言説は少ない。
 1月3日、関東軍は錦州を占領したが、1月7日、米国のスチムソン国務長官はスチムソンドクトリンを発表、日本の満州に対する行動は九カ国条約違反だとする強硬な態度を表明した。1月18日上海で日本人僧侶が中国人に襲撃され、28日、海軍陸戦隊が中国第一九路軍と交戦、上海事変が始まった。2月2日、第九師団・混成旅団の上海派遣が決定され、海軍は上海に野村吉三郎司令長官の第三艦隊を編成した。一方、2月5日、関東軍は白系ロシア人の多い町として知られた北満のチチハルを占領した。2月9日、高橋是清蔵相は上海事件の戦費調達の困難を奏上した。続いて18日、原田は西園寺に高橋蔵相の進言を伝達した。その内容は、軍部は外相・蔵相の意見を聞くようにせよという言葉を、天皇から軍部に出してもらいたいというものであった。西園寺は首相から天皇に申し上げるようにするのが筋道と回答し、21日、内大臣にと相談して決めることにした。ところが2月19日、近衛貴族院副議長が、天皇に依拠した犬養総裁の軍部抑圧の志向が軍の反感を買う基と原田に話し、西園寺はあっさり止めてしまった。重大な時点で、高橋のような民間出身者は天皇による軍部のコントロールという方策を考えることができたが、天皇・宮中の安泰を第一に考える西園寺らはそれができなかったと筒井氏はコメントする。西園寺は首相経験者でありながら、逡巡している所を見ると、国家の経綸を預かる身でなかったと云えそうだ。

迫る政党政治の危機

2015年04月11日 | 歴史を尋ねる
 満州事変は秋が深まるにつれさらに拡大し、関東軍は北満の要衝へと戦線を拡げていった。11月4日、関東軍はノンコウ戦で苦戦したが、第二師団主力を派遣、馬占山軍を破った。11月19日チチハルを占領。一方11月8日、天津で日中両軍が衝突した。10日、宣統帝溥儀は天津を脱出し、大連へ向かった。こうした中、11月28日に起きたのがスチムソン談話事件だった。11月23日、南陸相と金谷参謀総長は幣原外相に、軍は錦州攻撃の意図はなく関東軍司令官にも通達してあることを伝えた。幣原はこれをフォーブス駐日大使に「内密」として伝えた。ところがフォーブスはこれをスチムソン国務長官に「機密」にせずに伝えたため、スチムソンは記者会見で発表した。このため参謀総長の命令は米国務長官との確約であるかのごとく喧伝され、「軍機漏洩・統帥権干犯」として攻撃されることになった。以後、南・金谷・幣原の政治的威信は急速に低下した。

 国内政局に眼を向けると、10月16日、犬養政友会総裁は、原田熊雄秘書官長に「陸軍の根本組織から変えてかからなければならないが、そうなると政友会一手では出来ない。どうしても連立していかなければ駄目だと思う」と伝えた。さらに19日の政友会緊急在京代議士会で、犬養は「未曾有の国難に臨んでは、朝野の別なく、文武の別なく、同心一体を以て」という演説をした。一方、与党民政党も、10月28日、安達謙藏内相が一党で行くことは困難、この際英国流に犬養を首班にして、協力内閣(連立)でこの難局を押し切ったらどうか」として協力内閣構想を若槻首相に説き、若槻は賛意を示した。しかし、実行しようとすると「待ってくれ」と止める。同じころ、井上蔵相・幣原外相は、財政政策・外交政策の観点から協力内閣に反対を伝えたので、若槻は、工作中止を安達に伝達した。
 11月1日、若槻は西園寺に辞意を表明した。翌2日今度は安達が西園寺に挙国一致内閣を進言したところ、西園寺は往年の加藤高明内閣ぐらいには行くだろうかと言った。若槻はこれを聞いて、犬養との交渉を依頼。11月4日、政友会の森恪は原田秘書官に政友会単独内閣論を説いており、10日、政友会議員総会で、満州事変支援・国連脱退・金輸出再禁止が満場一致で可決荒れた。また、犬養はこの頃連立内閣をあきらめたようだと筒井氏。しかし、天皇が九州大演習のための行幸に出発した11月8日頃から、各種連立内閣運動はむしろ活発化していった。11月21日、安達内相は、政友会・民政党の協力内閣が必要だとする声明を発表した。翌22日、帰京した安達は若槻から呼び出されて難詰され、運動中止を勧告された。ふーむ、事実関係だけを追いかけると、この辺の事情は中々理解しがたい、難しい。この間のやり取りは省略し、12月11日、安達が反対するなか若槻首相は参内し、閣員一同の辞表を提出、あっけなく第二次若槻内閣は総辞職した。そして協力内閣構想は、政党が陸軍を抑える機会を失ったということであれば惜しまれるが、井上が言ったように、そもそも陸軍を抑える積りなのか押し立てる積りなのかさえもはっきりしなかったのが協力内閣運動の実態であった、と筒井氏は結ぶ。

 第二次若槻内閣に関して、筒井氏は次の4点を指摘している。①行財政整理を課題とした内閣なので、軍制改革(軍縮)は急務であり新聞世論と相まって、この時期陸軍を追い詰めていった。しかし、満蒙問題の切迫で、対外事変の勃発とともに、軍制改革は忘れられていった。②戦争とメディアによる大々的報道という最大の「劇場型政治」が展開され、世論は急速にその支持に傾いていった。政党人はほとんどそれを追認するばかりで、適切に対処することができなかった。「対外危機」は大衆デモクラシー状況におけるポピュリスト最大の武器である。また、幣原外交が国民の不満を蓄積させていたことも事実であった。これは今日的課題でもあると筒井氏は云う。③陸軍のコントロール・処分の失敗という点も大きい。まず、8月時点での不穏な気配に対する政府の情報探索が不十分であった。対外危機に触発されやすい軍の中堅幕僚・青年将校の動きに、憲兵隊・内務省両方から情報を収集し、分析するセクションを設定すべきであった。事変勃発後の林朝鮮軍司令官の越境に対する処置が蔑ろにされているし、十月クーデターに対する処分も全く不十分であった。また背後に、軍縮期の軍人に対する待遇・処置の失敗があった。④協力内閣には実現化する可能性は低かったが、二大政党か連立内閣かという岐路での若槻の姿は、この時期の政党政治を象徴している。政党政治は一人でやる仕事ではない。人の脳力・適正に応じたポジションに配置しながら、リーダーにふさわしい人を選び出す組織としての政党というものの重要性を浮かび上がらせた。

 残念ながら、首相のパーソナリティで国家の運命が左右される姿には、政党(政治)の成熟度、官僚組織の有効度がまだまだだったのだろう。首相の言葉から、国家全体を動かしているという気概が中々伝わってこない。急速に欧米流の近代国家に成長した日本が、当時の複雑な国際政治・経済関係に対処していくには、リーダーを支えるための、国家戦略を考える有効な組織とその蓄積がまだまだ充分でなかったということか。もう少し静かに当時を振り返ってみたい。

陸軍の台頭とメディアの大旋回

2015年04月10日 | 歴史を尋ねる
 1931年(昭和6)9月18日、奉天郊外の満鉄線爆破の上、関東軍の軍事行動が開始された。19日、奉天占領。閣議で、幣原外相は出先軍部の策謀によるが如き報告をなした。若槻首相は不拡大を軍に訓令したこと等を天皇に上奏した。21日、関東軍は吉林に出兵。林銑十郎朝鮮軍司令官は朝鮮軍の満州国境突破を命令した。西園寺は秘書原田に、天皇はこれを許してはならない、「後に何らかの処置」をするようにと伝達した。原田はこれを、木戸幸一内大臣秘書官長に伝達。木戸は、牧野内大臣に伝達したが、牧野は何もアクションを起こさなかった。
 22日、小磯軍務局長が若槻首相に、朝鮮軍の出兵は統帥権干犯ではないという見解について了解を求めたところ、若槻は「既に出勤せる以上致し方なきにあらずや」という意見を漏らした。閣議でも越境した事実を認め、必要な経費支出を認めた。10月8日、関東軍飛行隊は錦州を爆撃した。

 こうして事変を拡大していった関東軍の論理は、満州が中国領であれば、その支配者は必ず中国中央政治にも支配者たらんとして臨み介入していくことになるが、満州が独立国となれば、その統治者は中国から分離独立し、満州の情勢は初めて安定化する、と。
 これに対し、代表的な満州事変批判者としての石橋湛山の論理は、中国の統一国家建設運動を力で破壊しても、再び悪い形で運動が起きるだけであり、力で叩くというのでは旧ドイツ帝国の二の舞ではないか。満蒙を放棄したからといってわが国が滅ぶわけではない。人口増は領土の拡大では解決しないし、鉄・石炭の原料供給基地の確保は平和貿易で目的が達せられる。満蒙を生命線とする主張は、英国が対岸の大陸に領土を求めると同じ誤りであり、日本海で十分である、と。(東洋経済新報、9.29、10.10)

 ここまでの事実関係を知ると、何故という疑問が次々出てくるが、それらはひとまず措いて、政党政治に対する筒井氏の考察を追いかけたい。この事態で後々まで問題になったのは、政府が朝鮮軍の越境を認め経費を支出することにしたことであった。また、事態落着後、昭和天皇による林朝鮮軍司令官の処分を行うべきであった。牧野内大臣が西園寺からの忠告に耳を貸さなかったことの真相は不明のままであったと筒井氏はコメントする。

 次に若槻内閣が直面したのは陸軍のクーデター未遂事件であった。時期が遡るが8月26日、青山の日本青年会館で郷詩会という会合が開かれた。これは秋に関東軍が満州でことを起こすのと同時に国内で、腐敗堕落した政党政治を打倒するクーデターを起こすことを企図していた橋本欣五郎ら陸軍桜会の幕僚グループと行動を共にする予定の人々の会合であった。井上日召ら後の血盟団事件の農村・下町青年たち、橘孝三郎ら愛郷型グループ、海軍青年将校、北・西田税等々の陸軍青年将校ら、血盟団、5・15、2・26各事件の中心人物が一堂に会した。桜会が結成されたのは1930年秋で、この年の3月には三月事件が起きていた。この十月事件は、動員する部隊の予定や新政府の閣僚名簿まで出来上がっていた。これは石原莞爾の考え方に沿って、まず、対外事変を起こしてから国内変革を起こそうとし、とにかく現状打破ということでこの企てに加わっていた。
 国内変革としてのクーデターは、10月17日、参謀本部の橋本欣五郎中佐らが拘禁されたことにより頓挫した。十月事件である。拘禁された軍人たちへの処分は極めて甘いものであった。若槻は南陸相からこの事件を知らされ、続いて警視総監から報告を受けた。「他人のことなら聞きただすが、私に関することを根掘り葉掘り聞くのは、私自身好まんので、ただそうかといっただけで、それ以上は聞かなかった」「それがその後どうなったか、私は知らない」 危機に及んで軍人に対する厳しいコントロールが必要なことの理解が欠けていたことは若槻のみならず当時の政党政治家の大きな欠陥であったと筒井氏は云う。時代の大きな流れを読み取ることが職業の政治家であっても、当時としては難しかったのか。
 
 満州事変後、メディア(新聞)世論は事変前と変わって大旋回した。筒井氏は当時の朝日新聞と毎日新聞(東京日日新聞)を詳細に検証している。朝日新聞社は1932年1月25日から「東西朝日満州事変新聞展」を催し、自社の満州事変報道を誇らしげに掲げている。事変勃発以来、事変関係「社説」は54回、特電は普通、月50~100通であるが年末計3,785通。中国16カ所で60人の特派員が打電していた。号外は1月10日までに131回発行、特派員の報告演説会は東日本だけで70回、観客数約60万人、ニュース映画上映会も多数にのぼり、観客約1千万人という。社説の標題に「自衛権の行使」「満州に独立国の生れ出ることについて歓迎こそすれ、反対すべき理由はない」(大阪朝日、高原操) この満州独立国肯定論は、「征夷大将軍」を持ち出して陸軍批判を行った高橋操の手によるものであり、筒井氏はこれを大旋回と呼んでいる。
 毎日新聞は満州事変に関しては「関東軍主催、毎日新聞後援、満州事変」という言い方で、その協力ぶりがよく知られている。「関東軍の行為に満腔の謝意」「政府の不拡大方針に日本は被害者と抗議」「政府の国際連盟からの申し出拒否を最も適当なる処置と擁護」「中国の言い分は盗人猛々しい」「守れ満蒙、帝国の生命線」
 こうした新聞の協力ぶりに、事変が一段落ついた翌年春、各新聞は荒木貞夫陸相から感謝された「新聞人の芳勲偉功は特筆に値する」と。しかしこれはタテマエであり、戦争報道により部数が伸びたことが本質である。朝日新聞の場合、満州事変で27%増え、その後は減らずに日中戦争から太平洋戦争まで増え続けた。戦争という「劇場」の魅力に当時最も強い影響力を誇ったメディア(新聞)は抗しえなかった、と。
 

追いつめられていた陸軍

2015年04月07日 | 歴史を尋ねる
 1931年(昭和6)4月、再入院した浜口首相は辞職を決意し、江木翼鉄相と桜内幸夫総務に告げた。当時民政党内では、選挙の神様と言われた党人安達謙藏内相派と民政党の知恵袋と言われた江木翼鉄相派とが対立していた。江木と桜内は、機先を制し若槻擁立を決定、若槻は容易に引き受けなかったが、病床の浜口が若槻を直接説得、江木派の思惑通り若槻の方向となったが、安達派との間にしこりを残した。重臣らも、当時財政経済の点が何よりも考慮に措くべく、現内閣の方針に近き政策を施行し得べき人選が適当として若槻が奏薦された。第二次若槻内閣の顔ぶれは、ほとんどが留任であった。この内閣の時、日中関係が沸騰点に達して満州事変が起り、軍部がクーデターを企図する10月事件が発生した。

 当時昭和恐慌真っただ中で税収が減少したため、1932年度の予算編成は困難を極め、そこから官吏減俸案が浮上した。浜口内閣の時も企図されたが、頓挫したことは前回触れた。減俸率を首相は20%、最低の判任官は3%、それ以下の下級者は非減俸等の緩和措置を講じて閣議決定、天皇裁可、6月公布された。行財政整理の第二弾は陸軍の整理、軍制改革が課題となった。この問題を理解するには大正期からの軍縮と軍縮下の軍人の立場をよく理解しておく必要があるとして、筒井氏は当時の軍人の声を収録している。
 二次にわたる山梨軍縮(1922.8、1923.4)に引続き、宇垣軍縮(1925.4)では陸軍では21個師団中4個師団が廃止、陸軍幼年学校二校も廃止され、将校約1200名、准下士官以下33,000名が解雇された。山梨軍縮と合わせると計約96,400名(内将校3,400名)の陸軍軍人が解雇された。この解雇された将校約3,400名の再就職が社会問題化すると共の、軍学校の志願者が激減するなど軍人の社会的地位は、この時大幅に低下した。「今や軍縮の声は陸海軍人を脅かし、不安のドン底に陥れているが、他方軍人に対する国民の眼は近時憎悪から侮蔑へと大きく変わった」「殊に軍縮問題が喧しくなってから、軍人の影がいよいよ薄くなって、若い青年将校が結婚の約束をしていたのが、どしどし嫁の方から破断してくる」「顧みて、日清戦争の際の国民の緊張、日露戦争下で旅順攻防戦の際国民が軍隊に寄せた絶大な信頼と期待を思い起こすとき、・・・われわれは国民の健忘症に愕然たらざるを得ない」「年々に夏来る度に思うかな、己がつなぎし首は如何にと。これ現今に於ける壮年将校の大部分の心理状態である。佐官級にあるこれ等壮年将校は一にも首、二にも首、今年の夏は首かと暇さえあれば定年名簿や官報を手にビクビクしつつ執務しておるものが多い」

 大正期の軍縮で、軍人たちは完全に追い込まれていた。こうした中で襲ってきたのが陸軍軍政改革という名の軍縮であり、行財政整理であった。昭和6年5月15日、朝日新聞は各方面の権威を招いて帝国ホテルで「行財政整理座談会」を開いた。出席者は貴族院議員有吉忠一、大蔵大臣井上準之助、東京商大教授上田貞次郎、政友会幹事長久原房之助、元興銀総裁志立鉄次郎、文部大臣田中隆三、貴族院議員藤原銀次郎、政友会顧問前田米蔵、民政党顧問松田源治、政友会顧問三土忠造、東京帝国大学教授美濃部達吉、国民同志会会長武藤山治、民政党幹事長山道襄一、政友会政務調査会長山本条太郎、会計検査院長湯浅倉平、貴族院議員湯川寛吉(五十音順)で、テーマは行政組織の改革、陸海軍軍制改革、恩給法の改正および減俸・減員の是非、官業の整理、補助金等の財政整理であった。朝日側は緒方編集局長他各部長らが出席した。座談会は緒方局長の司会で進められ、五時間に及んでも終わらず、さらに第二回の座談会を開催し、この内容が前後22回にわたって連載され読者の好評を博した。しかし座談会は軍制改革を取り上げ、出席者が率直な発言をしていたので、その部分は陸軍内部に強い刺激を与えた。ふーむ、現在では考えられない出席メンバーだ。軍関係者からは欠席裁判だという批判が挙がったが、朝日の緒方編集局長の狙いは何で、どんな国家的役割を果たそうとしたのだろうか。また、出席した人はどんな目的を持っていたのか。その辺について筒井氏はあまり触れていないが、まだこの頃、当時新聞の立場がいかに強く、行財政整理を受けることになった陸軍が追い込まれていたことを窺わせる出来事だった。

 7月2日、満州で朝鮮人が中国人から暴行を受けたとされる万宝山事件が起き、4日朝鮮各地で中国人襲撃事件が頻発、満州をめぐる日中関係は険悪化してきた。8月4日、南次郎陸相は、軍司令官・師団長会議で軍備縮小批判と満蒙問題の積極的開闊について訓示したが、これが軍の政治関与として問題化した。南陸相は「門外無責任の位置にあるものが、軍部が国家の現況に盲目にして不当の要求を敢えてするが如く観測し、妄りに軍備の縮小を鼓吹し、国家国軍に不利なる言論宣伝を敢てす」といった。しかしメディアから激しい反発を招いた。「今日の軍部はとかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでいるかのように疑われる。軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするのはまるで征夷大将軍の勢力を今日に於いて得んとするものではないか」(社説「軍部と政治」、大阪朝日) 「世上往々伝えられる説がある。軍縮に関する世論の台頭をけん制するため、満蒙問題を殊更重大化せしめて、国民の注意を寧ろ軍拡の必要にまで引きつけんとする計画に帰する観察である。陸相がかくも熱心に満蒙論を強調するのは、いわゆる語るに落ちるものであって、陸軍のために深く惜しまざるを得ない」(朝日社説)しかし、8月17日、中村大尉事件が公表された。中村は現役の参謀本部の将校であり、パスポートを示したのに満州で拘束され裁判もなく殺害され、金品も奪われていたので、国内世論は沸騰した。事態は外交交渉に委ねられたが、中国側が事実関係を概ね認めたのが9月18日、この間関東軍の将校らの間では、外交交渉では激しい嵐は切り抜けないとする強硬論がいっそう強くなった。軍制改革による圧迫と満蒙問題の急迫という天秤の上に陸軍は乗っかっていたのだが、ギリギリのところで、はかりは後者に傾きつつあったと筒井氏はコメントする。尚、軍制改革問題は9月陸相の再度上奏、1932年2月三長官会議での一年延期決定、1933年中止と決まる。満州事変以後の対外関係緊張によって、軍はむしろ肥大化した。

政党外勢力への政党政治の依存の危険性

2015年04月05日 | 歴史を尋ねる
 「2015年4月1日夕、民主党は国会内でオープンフォーラム「近現代史研究会」(座長・藤井裕久顧問、事務局長・古川元久衆院議員)を開催。筒井清忠・帝京大学教授が「満州事変はなぜ起きたのか(1)」と題して講演し、意見交換を行った。冒頭で藤井座長は、民主党が近現代史に関わる歴史観を涵養し、研究・研鑽を深める機会とするための研究会を随時開催してきた旨を報告。昨秋以来しばらく開催されない期間があったが、岡田克也代表の指示のもと研究会を再スタートすることとなったとして、これまで同様に近現代史を掘り下げていくことになると語った。」これは民主党HP「近現代史研究会」の記事である。産経新聞の記事には「再開を主導した岡田克也代表は研究会の議論を踏まえ、安倍晋三首相が夏に出す戦後70年談話に対抗する見解をまとめる考えだ。ただ、党内には首相の歴史認識を攻撃する岡田氏ら幹部への不満もくすぶり、意見集約は容易ではない。」と伝えている。

 この記事に注目したのは、今このブログで取り上げている筒井清忠帝京大学教授を招いて勉強会をしていることである。筒井氏の最近の著書「昭和戦前期の政党政治」のあとがきに次の説明がされている。この著書は二つの研究会における著者の報告を基にして成り立っている。一つは東京財団の昭和史研究会、今一つは民主党の近現代史研究会だ、と。東京財団は現代日本が抱える課題を長期的・歴史的な視点から考察し、その解決策を探ることを目的としている。研究会の基本的視座は、政治機能の不全、経済の低迷等現代日本の抱える数多くの課題は、昭和前期と多く共通性を持っているところにあるという。そしてこの研究会メンバーに、林芳正、福山哲郎、浅尾敬一郎、世耕弘成、松本剛明、高井美穂、斉藤建、小泉新次郎各氏。他方、民主党の近現代史研究会は、現代の政党政治をめぐる危機的状況の当事者としての切実な問題意識に基づいて催されたものである、と。三回にわたって昭和前期の政党政治を中心にして話したという。座長の藤井裕久氏等との縁が深いようだ。本書の叙述に少しでも臨場感が出ているところがあれば、そうした知見を与えてくれた上記の方々のお蔭であると、著者は感謝している。ふーむ、筒井氏の著書内容にリアリティがあるのはこんな理由があったのだ。

 またちょっとわき道にそれるが、中曽根康弘前首相が梅原猛氏との対談本「リーダーの力量」で、明治憲法下の政治・社会体制の問題点を4点指摘している。①憲法の背後にある天皇神権思想が、日本人の自由な思想と生活を圧迫し始めた。②天皇大権に直属する官僚、軍部が、大権に便乗し、専横になり、国家をかさに着て民衆をないがしろにしだした。③元老、重臣、貴族院、枢密院等が、政党政治の障害物として機能した。④政界、官界、軍部、財界における派閥が、私利のため縦横に結合して、日本を動脈硬化に陥らせた。
 明治憲法が日本を興隆させたことは間違いないが、こうした矛盾が拡大し、日本は軍国主義への道を歩んでいった、と。さらに補足し、陸海軍が首相を輔弼する立場を超え、直接天皇に統帥に関わる事項を上奏することを認めた条文を、大正時代に削除しておくべきだった。問題を先送りせず、制度の欠陥を是正し、その適用を確保すべきだった、と。確かに加藤寛治軍令部長が天皇に直接上奏しようとした行為は、現在の組織感覚では考えられない。そして、③の政党政治の障害物論は、今まさに筒井氏が語る非政党勢力の弊害と共通するところがある。ところで、中曽根氏にとってタブーであるメディアについて、筒井氏は積極的に発言する。浜口内閣時のメディアについて詳細に語る。

 大正期から軍縮に好意的であった多くの新聞が、浜口内閣の軍縮政策を積極的に支持した。そうした中、ワシントン会議の際、新聞との意思疎通に失敗したと考えていた海軍は、ロンドン会議が始まる前に緒方竹虎ら新聞社の代表との小会合を持ち、海軍の方針を示し、補助艦艇7割支持を申し入れた。朝日の緒方は、相手があることだし、通らなかった時に新聞社が論調を変えるのは困るといったが、結局軍縮の成功を望みつつ7割確保を主張するという論調となった。しかし日本の7割は通らず引っ込みのつかない事になった。結局豹変してしまった。宇垣陸相は「厳粛且つ真面目であるべき国防関係の軍縮に対する世論の豹変は不可解なり。世間ではジャーナリストが外務甚だしきは米使に買収せられたというものあり。・・・これでは世論尊重の念も薄らがざるを得ない」
 このように回訓後一斉に条約締結に足並みを揃え豹変して世人を驚かせた新聞は、いつどういう方向にまた足並みを揃え豹変するかもしれない。それは、1931年の満州事変の前後に、あるいは1940年のナチスドイツの電撃戦勝利下の近衛新体制・体制翼賛会・日独伊三国同盟への転換として現れる。従って心ある政党人にとって、メディアも頼れるような存在ではなかった、と筒井氏は結ぶ。如何に政党政治を有効に機能させるかは、政党人が常に仕組みの点検・構築に意を注が無ければならない。足の引っ張り合いに終始する政争レベルでは、議会政治は守れないということか。
 
 

天皇・宮中・メディアによって支えられた内閣

2015年04月04日 | 歴史を尋ねる
 1930年(昭和5)4月10日関係国間でロンドン軍縮条約調印は合意され、13日天皇は英駐日大使に異例の祝意表明を行う。16日末次海軍軍令部次長に戒告処分が下された(貴族院昭和倶楽部で行った回訓案批判発言に対し、浜口首相は矢部政務次官を通して処分要請)。これに対し21日、海軍軍令部はロンドン条約案に不同意の覚書を海軍次官山梨勝之進宛てに送付した。山梨次官は受取りを拒否し、加藤軍令部長に撤回を求めたが、加藤が拒否、次官預かりとなる。22日ロンドン軍縮条約は調印され、23日から第58回特別議会が開会され、前回の統帥権干犯問題が生起したことにつながる。
 統帥権の憲法論議の内容は次の通り。憲法11条に「天皇は陸海軍を統帥す」 12条に「天皇は陸海軍の編成及び常備兵学を定む」とあった。美濃部学説では軍の統帥(作戦等)自体は軍に任せられているが、11条の統帥権は12条の編成権に及ばず、軍の編成とは国家の備えるべき兵力を定める権能で国務上の大権なので内閣が輔弼する事項だとされている。これに対し、統帥権干犯論者は、兵力量の決定も11条に含まれると主張した。「統帥権干犯」の初出は4月3日の大阪毎日、4月4日「軍縮国民同志会」だという。北一輝が作った言葉だと言われている。北とコンタクトのあった政友会の森恪幹事長が政府攻撃の中枢で、「直接責任亡き大臣が、直接責任ある軍令部の強硬なる反対意見を知りながら、これを無視して、国防上の重大事件を軽率に決定し去った」と談話を発表している。

 5月13日、特別議会は終了した。この議会も与野党の対立は激しく泥仕合に終始していた。「喧噪乱闘に終始し、低級野蛮な衆議院を国民の前に展開した。もっとも恐れるところは、この弱点が機に臨んで政党政治を覆す原因にもなりうることである。『政党者流頼むに足らず』との標語は、容易にかかる議会の暴状によって常識者に裏付けられるからである」(朝日)。国家主義団体のロンドン条約反対運動が活発化するのはこの頃からであると筒井氏はいう。
 5月19日、財部海相が帰国。天皇に会議について報告したが、天皇は早期批准を督励している。これに対し末次海軍軍令部次長は定例進講で、軍令部の条約批判論を展開し、天皇を不快にした。また加藤寛治海軍軍令部長が西園寺の秘書原田熊雄に、政党内閣は救うべからざるものと攻撃し、「天皇親裁」を説いている。加藤らは天皇は自分と同じ考えだという信仰のようなものを持っていたとしか考えられない。国体論のなせる業であろうと筒井氏はコメントする。更に筆者の見方を付け加えれば、天皇の状況把握力を正しく理解できていないし、吾々こそはという倨傲があったともいえよう。加藤は6月10日、辞表を天皇に提出した。天皇は無言だったので加藤は動揺を見せたという。天皇はこの件を海相に委ねることにした。浜口は手続き違法なりとしている。直ちに海相が参内し、軍令部長の更迭と後任人事を奏薦する。天皇は東郷元帥の同意をとることと後任者の条約観を下問した。6月20日、天皇は全権団を招き慰労の勅語を下した。こうした一連の動きに対して、宮中側近の政府庇護・枢密院誘導行動説が流布され、攻撃を受けることになる。
 6月17日、政友会系の中央新聞は、軍令部の帷幄上奏を鈴木侍従長が専断で遷延させた、続いて23日、時事新報に、政府と宮中が連携策動し、牧野が元帥ではなく海相を呼び出した、など国家主義陣営の怪文書が横行した。3月27日の天皇発言を虚構とするものや、6月20日の勅語も牧野内大臣の陰謀によるものとする説が流布された。

 次の関門は海軍軍事参議官会議で、東郷元帥と伏見宮博恭王の反対論への対応。最後の関門、枢密院に諮詢。枢密院は条約反対派で充満していたが、元老西園寺・牧野内大臣ら宮中グループと民政党系貴族院議員らによる反対派顧問官の切崩しと新聞世論を背に、浜口は強硬姿勢で乗り切った。第一次若槻内閣が無念の総辞職を遂げた経験から、浜口はこの際「憲政発達のため」枢密院の無力化をも視野に入れていた。倉富議長・平沼副議長・伊藤委員長の免官、加藤の軍機漏洩の廉により免官処分も考えて動いていた。浜口は自らこれを「一種のクーデターなるもこの際やむを得ず」と言っていた。浜口の断固たる決心と行動こそ、政党による非議会政治的機関枢密院に対する勝利を意味したが、それはまた一か月半後、浜口首相狙撃事件を引き出した。11月14日、浜口首相は陸軍大演習に向かうため東京駅に来た所を、愛国社の佐郷屋留雄に撃たれ重体になった。佐郷屋はロンドン条約問題だけではなく、金解禁による大恐慌も狙撃理由に挙げていた。翌日、幣原外相が首相臨時代理に就任した。安達派は安達の首相臨時代理を策したが、西園寺の意向で抑制されたと言われている。浜口は病を押して登院したが、結局病状が悪化し、総辞職に追い込まれた。再度若槻の内閣が出来たが、不満を抱き続けた安達派は協力内閣運動という造反を起し、結局第二次若槻内閣は崩壊する。

 以上の経緯より、筒井清忠氏は次の4点を指摘している。①統帥権干犯問題・幣原首相臨時代理失言事件等、天皇シンボルの政治的利用が繰り返され、拡大されて、政党の首を絞めていった。②ロンドン条約で国際協調主義を貫徹した浜口・若槻・幣原の名前は、スチムソン国務大臣ら米国側に強く印象付けられ、日本の国際協調主義・民主主義勢力の存在は、太平洋戦争後の米国の日本占領政策に大きな影響を与えた。彼らが天皇・宮中グループと密接に結びついていることの認識は、天皇の存在自体が日本軍国主義の淵源ではないという認識に結びつき、天皇制廃止を求める過激な米国世論を鎮静化し、天皇制存続を導き出した。③浜口・民政党内閣の対軍部対策に不十分な点があった。民政党は総選挙に大勝を占め、旭日昇天の勢いで、政治家の軍部を軽視する風潮、これに対する軍部の反感がこの騒ぎの基調をなすものとの批判があった。軍人軽視傾向が軍部台頭の真因であった、と。④ロンドン軍縮条約締結は浜口内閣の成果であるが、天皇・宮中グループと回訓後の新聞世論の強力な支援によって最大の試練を乗り切ったという事実は、実は田中義一内閣倒壊の際と、かなりの程度同じ政治構造の裏返しであった。2回に亘る政党外勢力への依存による政党の勝利は、危ないところがあった。国際協調主義の牧野内大臣、齋藤実内大臣は二人とも2・26事件で襲われ、木戸幸一内大臣時代は軍部と妥協的になってしまう。政党にとって最後まで頼りがいのあるものでななかった、と。さらに問題なのは新聞世論であった。新聞世論の豹変が激しかった、と。長くなったので次回に譲りたい。