三国軍事同盟の締結1 松岡洋右外相

2017年05月26日 | 歴史を尋ねる
 第二次近衛内閣の松岡外相就任について、重光は「昭和の動乱」の中で、次のように評した。「近衛内閣の異彩は、何といっても松岡君であった。長州萩の産で、藩閥の空気に親しんだ人であるが、米国西海岸のオレゴン大学に学んだ、米国仕込みの政治家であって、彼の英語は、座談でも演説でも、日本語と同様に流暢、その米国仕込みの思想は、決して極端に右傾でもなく、左傾でもなく、日本的愛国者であって、満州問題について強硬意見を表示したが、支那問題については、自由主義的穏健政策の持ち主で、第一次上海事件の時、日支の停戦交渉成立を援助して活動した、ことからも明らかである。彼は、外相就任後間もなく、支那及び東亜問題について、無賠償、無併合及び主権尊重の政策を公表したくらいで、重光等は、欧州の一角から、今度こそ、自由主義を解する近衛、松岡の連携によって、軍部の力を押さえ、日本を正道に引き戻すのではないかと、一時はひそかに期待した。松岡君は、外務省で重要な経験を経た後、政党政治家としても、大陸における実業家としても、長き責任を持っていたので、識者において期待は少なくなかった。しかしこの期待の実現は許されなかった。・・・彼は功を急いだ。そのために軍部の政策の先頭を走り、軍部の傀儡というより軍部を駆使する形となり、さすがに近衛公よりも、松岡外相の姿が大きく浮かび出た有様だった」と。

 松岡の締結した三国同盟の歴史的審判は出ているが、先に開戦時のエピソードを引いた斉藤良衛著「欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面」により、「松岡は何を判断ミスしたのか。どうしてそのようなミスジャッジをしたのか」を追ってみたい。先ずは、著者の斉藤良衛について。彼は外交官試験に合格後外務省に入省、外務省通産局長を経て満鉄理事を歴任。松岡が外相就任の少し前、外務省顧問に誘われた。一旦は断ったが当時宮内大臣の松平恒雄(学生時代から面倒を見てもらった)に相談、松平は「松岡は気違いでどんなことを仕出かすかわからない。白鳥が顧問で大橋が次官の噂があるが、こうした同型の人物が外務省の上層部にいたのでは不安この上ない。誰かがブレーキをかけねば、日本が戦争に飛び込まないものでもない。君が外務省顧問を引き受けて、これら外務上層部の戦争突入のブレーキ役を務めてくれまいか」と受諾を勧め、斉藤は意を決して松岡の誘いを受けた。
 斉藤が北京の二等書記官時代に松岡と知りあい、当時から松岡はドイツに好感を持ったことはなく、外相就任当時も、ドイツ人ほど信用のおけぬ人種はないと極論していた。平沼内閣時代、日独攻守同盟を執拗に押し付けようとしながら、日本側の了解も取らず、突如独ソ不可侵を締結、当時存在した日独防共協定をほごにしたこと、ドイツは他国を利用して我欲をほしいままにする、これと手を握った国は、例外なしに火中に栗を拾わされたと、ビスマルクを罵り、カイゼルを貶し、ヒットラーの政策の欺瞞性を言って、失われた植民地回復、中国門戸開放の要求を警戒すべき、中国軍のドイツ式訓練に熱中しているドイツ軍事顧問団に対し憤りを持っていた。このことは、彼の親米主義を反映したものであった。彼は幼い頃からアメリカで育ち、小中学校から大学を卒業しただけに、同国に対して親近感を持ち、第二の故郷、第二のマザータングだといっていた。更にアメリカの極東政策、対中国政策の公正さを賞讃し、アメリカが居なければ西欧諸国と帝政ロシアは中国を分割し、日本の独立さえ危うくしたかもしれない、またワシントン会議におけるアメリカの態度にも、全幅の好感を寄せていた。にもかかわらず、松岡が後に至って、何故アメリカを向うに回す三国同盟を結んだのか、その理由を記述する、と。

 松岡は親米と三国同盟とが少しも矛盾しない、と考えた。この同盟はアメリカを向こうに回して、抗争するものでない。アメリカを欧州戦争に参加させないようにすることによって、太平洋で日米間の平和を保ち、ひいて世界の大動乱を予防するのが同盟の目的である、と。
 「同盟を結べばアメリカの朝野に、激しい反日感情が沸騰するに違いないが、日本の真意が分かってくればアメリカ人の心機は、一転するであろう。アメリカ人はそうした気分の持ち主である。万一日本がアメリカと戦う羽目になった場合、日本が勝てる望みはない。物資の戦争、工業力の戦争である今日の戦争に、アメリカを向こうに回して勝てるはずがない。しかし外交関係には理屈だけで説明できぬ出来事が突発することが少なくない。日本の外交は太平洋沿岸諸国間の平和保持に主眼を置くべきであることには反対はないだろうが、問題は平和維持の方法である。これには日米中三国の協調を中心とすること以外に途はない。しかし日中両国の関係は、日露戦争が終わった頃から今日まで良くなった例がなく、今日両国は北部及び中部中国で武力抗争を続け、中国側の逃避、ゲリラ戦術に引っかかって、日本軍は深田にはまった形となっている。こうなって来ては、日本軍閥が中國から全面的に撤兵を決心すること以外、徹底的な解決方法はない。しかし軍にはそんな気が毛頭ないし、政府側から強硬に押したとしても、同意を得られる軍部ではない。そうして見ると、不甲斐ないようだが、第三国の力で、日中関係を調整してもらい、それに応じた新体制に順応させることによって、軍部の侵略主義を是正させることが考えられる。この第三国は、アメリカ以外にあり得ない。この国は、ソ連やドイツと違って、日本や極東各地を侵略する恐れがないと見てよい。人は僕を親米主義者だというが、僕は国を愛するが故に、アメリカとの親善を説いているのだ。日独伊三国を結んだが故に、僕を親独主義者と見るのは勝手であるが、それは大きな誤りだ。私の親米主義者であることには、同盟締結後もいささかも変わらない。同盟が世界平和の維持、アメリカの英独戦争への参加を防止することによって、第二次世界大戦の勃発を予防すること、その他同盟の平和的性格について、国会でも、演説会その他あらゆる機会に説明して置いたところである。ドイツを同盟の相手方としたのは、日ソ国交調整の手段とし、日本の威力を増大して、アメリカに参戦を思いとどまらせるための外交上の一時の便法に過ぎない、一旦この目的が達せられたとなると、三国同盟は存続の必要を失うであろう」と松岡はいった。

 更に「しかしこの同盟の日本に与える危険は、現に戦われている欧州戦争の一方の当事国との同盟である。しかもイギリスはアメリカとは親密以上の間柄である。たとえそれが親米のための僕の外交上の一時的駆け引きであっても、これがその通り世間に受け取られることは当分不可能である。現に日本は、ドイツを助けてイギリスを叩き、次いでアメリカを攻撃する手段とするのが、同盟の目的だと解釈するアメリカの有力新聞があるくらいだ。満州事件以来日本のすること、なすこと、ことごとく侵略手段だと取られている今日、ドイツとの握手もまた侵略のためと考えるのは、やむを得ないが、同盟によって日本が戦争へ引っ張り込まれることはあくまで防止せねばならぬ。そこで僕は条約にいくつかの戦争予防線を張っておいた。同盟を防御同盟にしたこと、第三国からの攻撃の有無及び同盟援助の時期・方法の決定権を当該国独自の判断に任せたこと、同盟が日本を戦争に引き入れる恐れがあると認めた時、日本は同盟を脱退できるとのドイツの了解を取り付けなどは、いずれもこの戦争予防線である。しかしながら他方、アメリカの参戦防止という目的があり、これがためドイツ、イタリア及びソ連と固く握手し、アメリカをうかつに参戦できないと思わせるために結ばれたのだから、これを威嚇するくらいの覚悟がなければ、同盟を結んだ甲斐がなくなり、アメリカの参戦を早めないとは断言できない、相当程度の外交技術が必要である。・・・しかしながら、日独伊同盟成立の暁、アメリカの対日反感を危険の点まで持って行かぬとも限らない。そこで僕は三国同盟が成立し、日ソ国交調整に乗り出してから、適当な機会を見計らって自分でアメリカに渡り、ローズヴェルト大統領やハル国務長官との直接談判によって、日米関係を改善し、アメリカの参戦を防止し、世界恒久平和の樹立に全力を尽くすであろう」と。

 斉藤はコメントする。三国同盟の平和的性格を説明すると共に、日中紛争に対するアメリカの斡旋を依頼するためであった。アメリカの民論は、松岡に対する反感も甚だしく、彼を軍閥の侵略主義の事実上の指導者であるかの如く考えていた有力者が少なくなかった。松岡は知っていたが、自分の持つアメリカへの好印象にも期待し、不評判もアメリカに行けばアメリカが変わると楽観的に言っていた。松岡の外交の真の姿が日独伊三国同盟の締結という外見上武断的に見える雲に隠されて、対アメリカ外交の最も重視した部門がまったく陰に隠れたことは、彼にとって不幸であったばかりでなく、日本にとっても不幸なことであった、と。

軍事同盟への道4(米内内閣)

2017年05月20日 | 歴史を尋ねる
 米内内閣が国内軍部勢力の対応に忙殺されている間、欧州の戦勢に一大変化が起こった。ドイツはポーランドの占領が終わった後東方の戦線を堅め、ソ連の出方を見たあと、冬期を通じて不気味な沈黙を続けた。英仏共同の戦闘準備は整い、ヒットラーは西方への攻撃の機会を逃したとチェンバレンは議会報告をした。しかし、1940年4月、ドイツはデンマークを占領、更にノルウェーを攻略、引き続きベルギー、オランダを5月に占領、ドイツの大攻勢は、仏英に政治上の激動を呼び起こした。英国はチェンバレン内閣を退けて、保守系左派を率いるチャーチルが挙国内閣を組織、労働党も自由党も協力した。難攻不落と称せられたマジノ線をヒットラーは攻撃開始、優秀な空軍を有するドイツ軍はフランス軍を撃破、英仏軍をダンケルクに追い詰めた。ペタン元帥はパリを救うため降伏、レノー首相は米国大統領及び国民にラジオを通じて援助を要望、米国は援助を誓い、同情を表し激励をした。ローズベルト大統領は、英仏は米国の安全を保障する前哨であると信じ、自己の有する権限の最大限を運用して、仏英に対して救援を約した。
 チャーチル新総理は第一回の戦況報告演説で、北仏における敗戦を少しも虚飾もなく経緯を詳細に報告、ドイツ軍の戦術と成功を説き、連合軍が惨敗、英軍はダンケルクにおける勇敢なる軍隊の救出状況を報告、仏軍は力尽きたことを明らかにした。英国は単独で戦わなければならぬ、歴史始まって以来の最大危機、自分は三軍の首脳部に専門家の意見を徴した、彼らは未だ勝利可能の見込みを捨てぬ、英国人の戦意が、ドイツの優越を乗り越えられるというのである。英国人は独裁専制の敵に屈するよりも、最後の一人まで戦う決意を持っている。英国がついに最終の勝利に到達することを今日なお確信している。「今や英国の戦いが始まった。人類文明の安危は、この戦いに懸かっている。四自治領は我々の戦争継続を全面的に支持している。勝利か、死か、我々はその一つを選ばんとしている。もし英帝国が千年に亘って続くならば、彼らの最も光輝ある時であったと、後世の人をして賛美させようではないか」 チャーチルが演説を終えたあと、議場は沸き返った。重光駐英大使は本国政府に、この歴史的議会を参観した後「史上の偉観」であったと報告した。

 ドイツの大勝利は、ドイツにとって絶好の宣伝材料であった。ドイツ陸軍は英国の対岸に立っており、英本土の占領は時間の問題であり、英帝国の崩壊は目前に迫っていると宣伝された。この宣伝は日本に対し最も効果的で、軍部をはじめ、政府部内においても、深く研究することなしに、ドイツの目覚ましい勝利に目がくらんだ。日本側では、ドイツが勝利すれば、東洋における英国の植民地はどうなるのか、オランダ、フランスの植民地がドイツの占領するところとなった時、日本はいったいどうなるのか等の議論も出て来た。彼らは支那問題の解決という根本問題を置き去りにして、新しい南方について、空論を弄んだ。彼らは、日本が大国としての国防国家を建設するためには、資源獲得が必要であると共に、大国としての生活圏が必要、その為には、武力を用いて、一方的処置によってその目的を達することはやむを得ぬと主張した。日本は戦争勝敗の決せざる時、ドイツと協定して戦後の世界勢力範囲を定めて置かねば安心できない。恐るべきドイツ勢力の東亜における拡張は、今のうちに食い止めて置かねば悔いを千載に残すことになる。このためには、機を見て参戦し、ドイツと共に戦うことを辞すべきでない。バスに乗り遅れるやもしれぬと憂慮した。冷静なる現実的判断を離れて、日本は誰も彼も、ドイツの勝利を信じ、ドイツの勝利に対して対策を講ずるようになった。ドイツの宣伝の好対象となっている軍部ならば兎に角、日本の指導者層の大部分が、この傾向を持つに至ったことは、日本の恥辱である、と重光。多分、当時の報道も同様だろう。

 ドイツの勝利を盲信する軍部は、ドイツの勝利後に対処するために独伊との連繋を急ぐのみであった。軍部の頭には、もはや支那問題を解決するためにも、将来日本の地位を確保するためにも、ドイツとの連携が必要だった。三国同盟の交渉を打ち切る原因となった、独ソ不可侵条約の締結は、陸軍が海軍とともに南進態勢を執ってから、却って日ソの関係にも好影響を及ぼし、北方の危険を減少したものとして、むしろ歓迎すべきものとすら考えられるに至った。三国同盟交渉再開に対して、何等の障害も無いよう考えられ、ドイツとの勝利の分け前を考える軍部の態度は、次第に傲岸不遜、眼中人なき者になった、と。軍部はまた、支那占領は完了し、汪政権も樹立されたにも拘らず、蒋介石の重慶政権がますます反抗の決意を固めているのは、英米仏等の外部からの援助があるからである。これらの諸国の蒋介石援助は、支那問題の解決を不可能にし、日本軍に対する侮辱的行為である、と論断した。

 1940年7月、英国外務大臣が重光駐英大使に、至急会見を申し込んで来た。ハリファックス外相はクレーギー駐日大使より急電に接し、日本の参謀本部第二部長は香港を通ずる重慶援助中止を要求して、「英国は既に敗北し、英帝国は将に瓦解に瀕している。それにも拘らず、英国はなお重慶に援助を与えて、日本に反抗せしめんとしている。日本軍は香港の対岸に放列を敷き、命令一下香港を攻撃しようとしている。英国は重慶援助を止め、香港よりの密輸を厳重に取り締まるべきである。日本において、今日実権を有するものは日本軍部である。英国の当てにする外務省の如きは、無力にして信頼するに足らぬ。英国は日本軍部の要求を容れるべし」云々と、クレーギー大使の電文を読み上げた。この非常識な言動は、重光は信じられなかった。外相はこの申し入れが何を意味するか詰め寄った。重光は、軍部に態度はここまできたかと、内心暗澹たるものがあった、と。先に、軍部の態度を「傲岸不遜、眼中人なき者」と評していた重光の言葉が突き刺さる。
 参謀本部第二部長の脅迫がブラフであっても、英国の如き大国に何ら効果のあるものでないことは明らかである。この軍部の態度によって貴重なる国交を破綻に導くことは残念至極だった。重光は、これに対して、日本でこのような問題を取扱い得るものは、東京では外務大臣、ロンドンでは日本大使自分である。参謀本部員の暴言は遺憾至極であるが、責任なきものの暴言で公のものでないと反駁、日本政府の政策は、責任者の言明通り、日英国交の維持である。参謀本部員の暴言は取り上げるものではないと答えると、外務大臣の態度は冷静になり懇談的になった、と。その後、英国は外相を更迭してイーデンとなり、同氏が地中海戦争処理で近東方面に出張している間、重光はしばしばチャーチル首相と直接折衝して、遂に香港よりの密輸出の取締りも、ビルマ・ルートの雨期三ヵ月の閉鎖も、日支両国の和解を希望する英国の方針も明らかにするに至った。そして重光は、日本政府に繰り返し進言し警告した。しかし、日本の実情は、英国側の指し伸ばした手も、重光の努力も共に無駄であった。

 軍部は速やかに独伊と結ぶことを決意し、米内内閣に迫った。軍の日独伊三国同盟交渉の要求が急であっただけでなく、ナチ・ドイツに倣う一国一党の制度を確立するため、既成政党の解散を主張する声は高く、国内改造の圧力が高まった。米内内閣は、この国内改造の任に適当ではないという理由で、陸相は辞表を提出、その後任を推薦せず、内閣は総辞職するに至った。近衛文麿はこれより前に枢密院議長を辞任し、既成政党を解散して、自ら一大政党を樹立すべしとの決意を公表して、軍部の人気を一身に集めていた。

軍事同盟への道 3(阿部・米内内閣)

2017年05月19日 | 歴史を尋ねる
 欧州戦争が開始され、帝国主義的勢力が東亜から退潮するに従って、東亜の指導的地位に空白が生じ、日本がこれを満たしていくことは自然の流れでなければならぬと重光。そこで重光は次のように紙面で提案する。
 日本が真に東亜の指導者となるには、列強のこれまでの帝国政策を踏襲した遣り方では不可能である。覚醒してきた東亜人を敵としては、指導権は取れないからである。日本が東亜諸国の信頼する友人となってこそ、これらの諸国は、日本を先進国として仰ぐのである。アジアが、欧州の植民地として取り扱われるべき時代はもはや去った。民族主義はアジアにも実行されねばならぬ。今次大戦はその機会である。日本がアジアの先頭に立って、東亜各民族の要望である独立解放を主張し、実行してこそ、東亜人は日本を指導者とするであろう。もし日本が誤って欧州の帝国主義政策を採って東亜の民族に臨んだら、これらの民族は地理的に近いだけに、日本を侵略者として、欧米諸国に対するより憎悪の念をもって見ることが必至。日本は絶対にこの過失を犯してはならなかった。この根本義は、単に国際上の倫理とか道徳とか、または人権上の感情とかの抽象的問題ではなく、現実の利害関係の問題としてもかくあるべきである。根底においてこの善隣友好の観念がなくて、誰が日本を信頼して資源を開き貿易を助長し、日本の生産品を歓迎する気持ちになるだろうか、と。うーむ、日本の産業立国政策を志向したものである。

 更に重光の主張は続く。この根本政策から見ても、支那問題は速やかに円満に解決を計らねばならなかった。日本が国際間で孤立感を深めているのは、日支関係を調整し得ない点から来る。英米の圧迫を感じなくなった日本は、支那と妥協するために必要な譲歩が出来る余裕ある地位になった筈である。支那問題について、支那は勿論、英米その他の国も納得し得る解決策を案出することは、孤立を解消する唯一の方法である。この方策は、満州問題を解決して、多年の難局を打開する鍵となるものであった。日本はこれまでの国策を清算してこれを正常に復し、列強との不必要な摩擦を排し、親善関係を恢復して、国家の安全感を取り戻すべきであった。以上は欧州戦争の帰趨如何に拘らず、日本の取るべき万全の豊作であった。
 欧州戦争の帰趨について、当時の情勢から一応の判定をしてみても、ドイツは陸軍が優勢、英国は海上が絶対優勢、空軍が優劣つかない場合、戦争は長期になる。長期戦において米国は必ず英国側に参戦するのは第一次大戦で経験済み。そうすれば欧州戦の終局の帰趨も明瞭、以上は国際的常識による判断で、珍奇な説でもなく、重光もロンドンから繰り返し指摘していた、という。日本は欧州戦争が東亜に波及することを絶対に防ぎ、自らは、東亜諸民族に対する善隣友好の親善政策を打ち立て、大きく世界の大国として、生きる道を発見すべきであった、と。

 以上のような重光の国際情勢の見方からすれば、当時の日本は軍部の希望的観測に基づく一方的判断によって立てられた企画に、馬車馬のように突っ走ることしかできない国情になっていた。日本の指導者は、欧州の危機に際して行われた、平沼内閣総辞職の大局的理由について、深く考慮する暇もなく、ひたすら目前の国内政治を糊塗するに汲々として、内閣の更迭を日常の事務として処理した、と嘆ずる。この重大な時期に、平沼内閣退陣後の後継は、阿部陸軍大将を首班に、外相は野村海軍大将が就任、穏健なる人格の持ち主である陸海両大将を中心とする内閣は、無為と混雑の中に貴重な時間を失い、約半年後に倒れてしまった。失われた機会は再び帰っては来ない。支那事変も南進政策も、今まで回転している機械の動きの続きで、世界の大変動には無頓着のまま陸海軍によって続けられていった。むしろ、英米勢力の退潮に乗じて、これまでの極端政策を、更に強力に遂行する機会が来たものと逆に考えて、ますます深みに落ち込んだ。結局指名される内閣の首班は、単にブレーキをかけるための陸海軍部内の穏健分子に止まり、陸海軍勢力の上に立って、国家の方向を左右する地位にはいなかった。湯浅内府は、阿部陸軍内閣の後継として米内海軍大将を推した。陸相には穏和派の畑前侍従武官長が留任した。国際的に最も重大な時期に出来た米内内閣は、陸海軍勢力の均衡と穏健な政策の実行とを目的として作られたものに過ぎなかった、と手厳しい。1940年1月に出来た米内内閣も、ただ軍部の行動に対応するのみで、積極的政策を樹立する暇もなく、国内情勢に押し流されて、同年7月に倒れた。

 当時、重光駐英大使は、本国政府と英国政府との調和に全力を尽くしていた。欧州戦争勃発の機を逸せず、日英の疎通を計り、支那問題の解決へ向けて、東亜に戦禍の及ぶことを避けて、東亜に日本の地位を確保することが、日本の向かうべき唯一の道と信じた。チェンバレン内閣は、日本との関係調整に異存がなく、日本の態度如何によっては、むしろこれを切望していた。日本の政策の合理的転換如何に懸かっていた。日本軍が英仏租界を封鎖した天津事件、東京湾での英艦臨検捜索してドイツ人を逮捕した浅間丸事件、日本の英国に対する注文品、ドイツに対する軍需注文品の積み出し問題についても、英国は妥協に応じた。この対日政策は、在野時代日本を非難していたチャーチルも、首相になった時代に引き継がれた。重慶支那政府援助のためのビルマ・ルートを一時閉鎖して、日支間に妥協の道を発見することを希望するまでになった。米国と日本との、物質的国力の余りに大きい差異に鑑み、また日本がシンガポールを攻撃して、戦争に参加する無謀な国でないことを信ずると述べた。ビルマ・ルートの閉鎖は、当時の世界情勢から見て重大な出来事で、英国は勿論、支那及び米国においても、多大の反響があった。在英支那大使は、猛烈に抗議した。ただ何らの反応を示さなかったのは、日本政府だけであった。米内内閣はこの機会を捉えて大勢を挽回する気力もなく、もはや軍部の圧迫および策動の対応に追われ、国際的な根本問題に努力する余裕のない存在に過ぎなかった、と重光は回想する。日本においては、仏国の敗戦後、英国の実力は過小評価され、ドイツの成功は過大評価され、冷静なる世界形勢の判断には眼を蔽って、軍部の施策は無軌道に狂奔する有様だった、と。

 平沼内閣の辞職による日本の政策立て直しの機会が、逸し去られた一年余の時間は貴重であった。清算された筈のドイツとの関係は、いつの間にか軍部を中心に復旧し、ドイツの主張と宣伝は、無制限に受け入れられる態勢が日本に出来て来た。ドイツは英米は到底日本の味方であり得ないことを説得するに務めると共に、ドイツこそ日本の友人であることを現実に示した。孤独を感ずる日本軍部は、援助者を欲しがった。目的は、満州国の国防だけでなく、日本の東亜における全地位防護の問題であった。ここで軍は三国同盟の交渉を蒸し返してきた。米内内閣は、参戦を余儀なくされる三国同盟の交渉を強く反対した。ためにまた軍の倒閣運動が起こった。当時、欧州戦争の帰趨について、二つの見方があった。一つは、ベルリン及びローマにおける陸軍武官を中心とするもので、ドイツの陸軍・空軍の威力が功を奏し、短期日でドイツが勝利、特にイタリアが参戦すれば英国の地位は直ちに崩壊する。日本は大東亜共栄圏を確立し、自給自足できる国づくりの絶好に機会である、というものであった。他はロンドン駐箚大使館を中心とするもので、ドイツ空軍は英国の空を制圧するのは不足で、潜水艦隊の英国封鎖も不充分である。従って戦争は長期に及び、米国の戦争介入も必至で、包囲されたドイツは敗北の外はない。日本は一時の戦争に迷わされることなく、欧州戦争中に、英米との妥協の道を発見し、支那問題を片付け、戦禍が及ばないよう東亜を非戦闘地域に指定する等あらゆる手段を講ずべきである。米内内閣(有田外相)は後者を重んじ、あくまで戦争不介入の政策を支持した。

 

軍事同盟への道2(平沼内閣)

2017年05月13日 | 歴史を尋ねる
 しつこく三国同盟締結までの経緯をその振り出しから追いかけているのは、松岡洋右外相の素早い条約締結がその後の日本の破局に導いたと云われる真意を知りたいと思ったからである。そして本人も「僕一生の不覚だったことを、今更ながら痛感する。僕の外交が世界平和の樹立を目標としたことは、君も知っている通りであるが、世間から僕は侵略の片棒かつぎと誤解されている。僕の不徳の致すところとはいいながら、誠に遺憾だ。特に三国同盟は、アメリカの参戦防止によって、世界戦争の再起を予防し、世界の平和を回復し、国家を泰山の安きに置くことを目的としたのだが、事ことごとく志とちがい、今度のような不祥事件の遠因と考えられるに至った。これを思うと死んでも死にきれない」と。果てはいくどかすすり泣いた。「おれが、おれが」で押し通してきた松岡から、こうした悲壮な懺悔話を聞いた私も、ともどもに泣いた。
 これは1941年12月8日、米英両国と戦争状態に入れりという大本営発表に驚いた私、斉藤良衛(東京帝国大学政治学科卒業、外交官試験合格、外務省通産局長、満鉄理事、松岡洋右外相時代の外務省外交顧問、松岡の側近として、その裏面史を書き残している)は、外務大臣を退き、病気療養中の私邸に駆け付けた時の、松岡の言であった。斉藤の紹介するエピソードで興味深いのは、敗戦時ではなく、真珠湾攻撃があったその日の出来事だった。松岡の本音がいずこにあったかを伝える話であるが、同時にいったい松岡は何を判断ミスしたのか。どうしてそのようなミスジャッジをしたのか、こうした問題を頭の片隅において、更に前回の続きを追ってみたい。

 近衛内閣より引き継いだ平沼内閣は、三国同盟の交渉に終始した。三国同盟反対の中心である、有田外相の外務省は、白鳥大使等軍部に共鳴する一部を除いて、枢軸外交に反対で、三国同盟にも反対であった。防共協定強化ならば、目標を共産ソ連に限るべきで、その他に及ぼすべきでない、もしその目標に英米を加える場合、自然に英米を敵視するようになって、日本の国際的地位を危殆ならしめる、英米とのこの上の悪化は、日本にとって危険であり、これを避けねばならない。国際関係に従事するものや、一般国際常識を有するものには、極めて見易き事柄で、外務省の機関も挙って、この意見であった。海軍は、石油その他の必要物資の入手には熱心で、全体としては南進政策を決定しているが、直ちに英米と戦争を誘発する政策は好まず、当時の米内海相、山本次官及び海軍の先輩穏健派は、三国同盟に反対した。これは、海軍が一致して支持している南進政策とは、矛盾している。南進政策は極端論者に引きずられた形であったが、三国同盟の締結は日本海軍の実力及び日本自身の国力に顧み、第二次近衛内閣が出来るまで反対を続けた。

 三国同盟の交渉は、軍を中心に、内外にわたって揉みぬいた。平沼内閣は、遂に1939年5月の五相会議で根本国策を審議し、ドイツとの関係を更に緊密化するための交渉を始めることを決定した。しかし具体案に至っては、無条件に三国同盟を支持する軍部派の意見と、同盟の目的を対ソ問題に限定しようとする外務省側の意見は調和しなかった。しかし出先大使(駐独、駐伊)の活動は東京外務省の考えと食い違い、越軌の行動といわれた。軍部と連絡しながらの行動と見られ、天皇は板垣陸相に対して、天皇の憲法上の外交大権は、軍の干渉すべきでないと叱責した。しかし国内での三国同盟の締結運動は露骨で、その余勢に反英示威運動となり、治安を乱すようになるかもしれないと、木戸内相は平沼首相に注意喚起した。
 五相会議は開かれる毎に、同様の議論を繰り返し、新聞の多くは、宣伝入りの刺激的記事、論評を載せ、軍部に迎合した。満州事変以来、識者は漸次姿を隠し、新聞雑誌は、どれも軍部の意向を迎え、軍に対する反抗気勢は弾圧を恐れ、何処にも表面には現れなかった、と重光は当時を振り返る。五相会議が七十回以上も続けられ、親独運動が劇列になると共に政府の態度は軍に押されがちで、欧州の形勢も切迫してきた。日本国内の意見が纏まらない間に、欧州の形勢は急転、ドイツはミュンヘン会議後間もなくチェコを合併、三国盟交渉の主たる対象国であるソ連との間に、不可侵条約を締結してしまった。ポーランド侵攻により英仏はドイツに宣戦、ここにおいて日独伊三国同盟の交渉は空中分解してしまった。そして欧州政情は複雑怪奇であると声明し、ドイツの不可侵条約締結は防共協定に違反すると抗議して退陣するに至った。

 欧州の中原に、第一次大戦以来の大戦争が始まったことは、世界政局に如何なることを意味するのか、それが東亜及び日本に如何なる影響を及ぼすのか、当時の日本の指導者は如何なる国の指導者よりも重大なる関心をもって慎重に考慮し、画策しなければならなかった筈であると、重光葵はその著で厳しく指摘する。
 満州国を建設しつつある日本に、今要求されていることは、国策の整理によって、国の安全を確保することである。欧州における強国間の死闘によって、欧州勢力は東亜より減殺され、米国の力は欧州に向かい、また戦争の前途は複雑で長期にわたる傾向をもっていた。孤立する日本に対する列強の圧迫が、一時的に減退し、日本が満州事変から日支事変へと泥沼に足を踏み入れ、抜き差しならぬようになった苦境から体面を維持しながら、脱出する絶好の機会が来たことを意味する。日本はこの機会に将来日本の生きる唯一の途を選んで、政策を正道に引き戻し、国の進路を安全にする機会に恵まれた、と重光は駐英大使として見ていた。
 三国同盟交渉は、何故に空中分解したのか、平沼内閣は何故に欧州政局を理由として、抗議的に退陣したのか。条約を結んでいる日本との友好をも無視したドイツと、同盟交渉を継続することは無意味であって、また双方は別のことを考え、その向かう利害関係も一致していないことが明らかになった。防共協定は白紙に還元されたと同様で、日本とドイツの関係は清算されて、日本は行動の自由を回復できた。平沼内閣の退陣は、軍部の親独政策の破綻を示したもので、日本の政策を左右している軍部に対する抗議でもあった、と重光はいう。今後の日本の指導は、新たな出発点に立つべく極めて重大な局面に直面した、と。

軍事同盟への道(第一次近衛内閣)

2017年05月09日 | 歴史を尋ねる
 防共協定成立以来、大島武官は軍中央部の意向を体してドイツ側と密接に連絡し、親善関係を深めた。防共協定の趣旨は、表向き共産党の世界攪乱工作に対抗するもので、本当の狙いは、ソ連の脅威を極東だけに向けさせないものであったが、防共の観点から、イタリアもすばやく加わり、日独伊三国を中心とする防共協定になった(1937年11月)。その後ソ連の脅威に曝されている独伊の友国スペインや衛星諸国が漸次加入するに至った。防共に関する限り日独伊三国の結合は出来たが、ソ連に対する軍事上の地位は、日独とイタリアとは根本的に違いがあった。協定付属の秘密取決めは、日独間の問題に止まり、他の加盟国は関知しなかった。今新たに軍事同盟締結の目的をもって、日独間に防共協定強化の交渉を進めるには、欧州の形勢から、その対象を、単にソ連に限定することは、許されなくなった。

 軍事政治関係から見れば、イタリアの対象とするところは英国であった。ムッソリーニは地中海を中心にイタリアの帝国の建設に邁進していた。エチオピアの征服(1936年5月)によって、伊領エリトリアと共に、スエズ運河を超えて、大植民地を建設しようとし、北部アフリカのキレナイカ、トリポリの伊領植民地はすでに開発されつつあった。イタリアはトルコに接近して、ボスポラス海峡の付近の、多数の島嶼を領有していた。バルカン半島は勿論、小アジア、北アフリカなど、地中海沿岸の広大な地域はファッショ・イタリアの野心の対象であった。ローマ帝国の復興を夢想しているムッソリーニの野望は大きい。急速に内外の発展をなしつつあったが、その野望は直ちに、英帝国の利害と衝突することとなった。英国はその地位を擁護するため、ファッショ・イタリアの発展策に反対すると共に、欧州における指導権を維持するためには、ヒトラーの東進政策を黙認する訳にもいかない。仏国も同様であった。独伊の発展政策の進行は、英仏の阻止策と衝突する。また、思想的にもファッショ・ナチと一致するものでなかった。ドイツが東進を策すれば策するほど、英仏に対する背後の手当てが必要となってくるし、イタリアが発展を望めば望むほど、ドイツの援助を必要とする。ドイツとしては、日本との三国同盟を交渉するにあたって、イタリアの対英関係をも考慮に入れるよう、考えた。しかし日本の立場は、独伊の立場と根本的に異なる、ソ連のみならず英仏(米)を相手とする軍事同盟は、日本の進むべき所ではないと、なお意識的に一般に考えられていた、と重光はいう。重光は上海事件の停戦交渉中テロ事件に遭遇し片足を失ったが、その後ソ連公使、英国大使を歴任している。一般的に考えられていたというときは、英国大使の頃か。

 板垣陸相等(第一次近衛内閣)、軍中央部の内訓を帯びてベルリンに帰任した大島武官は、リッペントロップとの間に防共協定強化の交渉を続行した。その趣旨は、ソ連を唯一の対象とするもので、ただこれまでの思想的協定を、三国間の軍事的協定として、日独伊三国の連携強化に重点を置いていた。この交渉は、軍部内に限られ、内閣は、軍の南進計画と同様、これを知らなかった。英米との関係を重んずる日本の伝統的空気は、軍部以外にはなお非常に強く、支那での戦闘が続いても、英米との戦争を真面目に考える者もなく、海軍極端派による故意の宣伝以外に、これを論ずるものはなかった、と重光。この時点は1938年(昭和13)ぐらいだ。しかし、日本の情勢は、軍事同盟を実現しようとする、軍部を中心に次第に変化した、と。
 ドイツの仲介(1938年1月、トラウトマン)が失敗して、支那問題を自力で解決する自信を失った軍部は、支那事変がますます激化拡大するに従って、日支紛争の解決が困難なのは英米の妨害によるもので、これらの諸国が蒋介石を援助し、対日戦の継続を強要する結果である、日本の敵は支那ではなく英米等であるとの宣伝が、次第に効果的になって、日本の世論はますます反英米に傾いていった。
 ここで重光は宣伝といっているが、本気で軍部はそう思っていたのではないか。この時期(1938年10月)、日本軍が武漢三鎮をおとした時、蒋介石はどう考えていたか、既に秘録で見て来た。「日本は戦略上の大きな誤りを犯していることに、まだ気づいていなかった。七大都市占領を以て、中国の死命を制したとするような楽観的議論が盛んであった。中国は屈服してくるだろうと見くびっていた。だが、事実は逆であった。七大都市を占領した日本こそ、苦境に落ち込んでいった。日本が中国を征服しようと全面戦争に踏み切っても、ドロ沼戦争でしかないことは、2年半前の発表論文「敵か?友か}などで警告したとおりである」と。「空間を以て時間に変え、敵前を変じて敵後となす」の長期抗戦戦略であったと、当時の日記や演説で言っている。「敵か?友か」の時にも書いたが、本気で蒋介石の戦略を研究した軍人(一般人も)はいなかったのだろう。表面的な理解にとどまったのではないか。結果的に援助ルートの武力侵攻に突き進み、英米との対決路線に自ら入っていった。

 大島武官が、リッペントロップ外相と交渉したところ、ドイツ側の日独伊同盟案は、締結国の一つが他国から挑発しないで攻撃を受けた時は、他の締結国は直ちにこれを援助するという、一般的軍事同盟の趣旨であって、この報告を受けた板垣陸相等軍部首脳部は満足し、直ちに五相会議(近衛首相、宇垣外相、板垣陸相、米内海相、池田蔵相)に諮り、了承を得た。今後の交渉は、これを基礎に、武官の手を離れ、交渉を駐独大使が行うこととなった。しかし、間もなく、大島武官が大使に昇格、東郷大使の後任として、三国同盟の交渉を自ら引き受ける事となった。同盟論者の白鳥公使は、駐伊大使としてローマに移り、大島大使を援助して、欧州の現場から逆に、本国政府を動かさんと努力するに至った。これらの手順は、近衛首相が板垣陸相の要求を容れて取り計らった。1938年末のことで、東郷大使はベルリンよりモスクワに移り、重光公使は吉田大使の後任としてロンドンに転任した。三国同盟の交渉は、間もなく近衛内閣から平沼内閣に持ち越された。

日支和平工作とドイツの仲介

2017年05月07日 | 歴史を尋ねる
 北支問題から日支の全面衝突となり、上海から揚子江一帯にまで戦火が拡大、政府は対支膺懲を宣言して、形勢は悪化の一途を辿ったが、日本政府(当時は第一次近衛内閣)は事変を局地化する方針であったし、再び日支の間に和平を回復したいという意向を持っていた。軍部の中にも石原少将を中心とする参謀本部は、戦火の中支に及ぶことを好まず、速やかに和平の成立を熱望、和平工作を探っていた。軍全体としても条件如何によっては、和平に反対するものでなかった。このような情勢下、軍も出先によって単独に、蒋介石との連絡を試みたが、軍を信用しない支那側は、真面目に受け取らなかった。軍部は、日支の紛争解決を熱心に希望している、ドイツの仲介によって、その目的の達成を計ろうと、政府に持ち出した。近衛首相は組閣当初、杉山陸相によって代表された支那派の勢力に拠っていたが、参謀本部の和平説を聴いてこれに共鳴し、参謀本部の勢力を利用して陸軍省を抑えようと考え、石原莞爾第一部長等の影響力が増大した。

 当時英米両国大使も、広田外相に対して、日支紛争の調停を申出た。英米両国は、自国の支那における貿易及び権益保護の観点からも、紛争拡大の防止の意味からも、仲介に入ることを得策とした。広田外相を首脳とする外務省は、支那問題の解決は英米の力に拠らなければ実現不可能であり、ドイツ単独では支那におけるドイツの権益から見て、到底日支紛争の仲介に成功する地位にはないことも、承知していた。しかし、軍部は、満州事変以来、日本軍の行動に反対し続けた英米とは、感情的に衝突しており、英米に仲介を依頼することは日本の運命を敵に委ねるように思われ、これに反対した。近衛首相は軍の接近しているドイツの仲介に異存はなかった。識者は英米の申出を受けることが、日支紛争を解決し、国際上、日本の地位を将来に向かって開拓する唯一の途であることを理解していたが、日本の実権は軍の掌中にあり、また英米の力に拠ることは、日本の政策を変えることを意味し、軍部の意向に反してこれを強行することは不可能だった、と重光葵。良薬は、口に苦しということか。軍部の危機管理もこの程度だった、歴史を振り返ると簡単に言えるが。

 第一次大戦後、ドイツ人の支那における商業活動は、敗戦によって不平等条約が清算されたため、却って大きな成績を挙げた。支那政府は軍事顧問をドイツより招聘し、他国より得られない武器購入をドイツからした。支那におけるドイツの地盤はヒトラー政権以前に築きあげられたもので、商業上日本と競争の立場にあった。ヒトラーの時代となっても、彼らの立場は変更されなかった。ヒトラ―も日支紛争の継続は、支那をソ連に追いやることになるので、日本軍部に戦闘行為の終息を勧告した。このドイツ側の態度は、日本の参謀本部を中心とする北方派の考えと一致、ドイツを仲介とする日支事変の終息を計ろうとする努力につながった。参謀本部石原部長は馬奈木中佐を通じてドイツ大使館オット武官と連絡し、1936年末より日支間の全面解決に向けて、交渉は行われた。ドイツ側の記録では、支那側は①内蒙古の自治を許し、②満州において支那主権を認め親日政権の樹立を計るという条件で、和平をすることに異議はなかった。
 日支事変が勃発した後、オット武官は馬奈木中佐を同伴して、上海のトラウトマン駐支ドイツ大使と会見して、日支和平斡旋について打ち合わせた。参謀本部は日支和平に熱心で、その意見は政府に取り上げられ、陸軍省も異議がないこととなった。これは先に取り上げたトラウトマン和平斡旋問題だった。結局は支那派の拠る陸軍省によって代表される軍の態度は、和平条件についても強硬で、支那側も北支非武装地帯設置の要求も受け入れないと回答、広田外相はこの交渉の成立見込みなしと判断、蒋介石は相手にせずとの有名な声明に繋がった。

 日本とナチ・ドイツとは、1936年防共協定締結以来、ベルリンにおいて大島・リッペントロップのの連絡を通じ、東京においてはオット武官の日本軍部との接触によって、急速に密接度が加わった。英米については満州事変以来、軍部は極度に悪感情を有し、新興ナチ・ドイツは手本であり協力者だと思われた。ドイツは蒋介石に有力なる軍事顧問を送っており、これを通じて支那側にも圧力を加え、日支和平を実現する力を有するものと軍部は判断した。
 防共協定成立後、欧州における形勢は急に逼迫してきたので、ドイツとしては、ますます日本との関係を重んじ、両国の接近を計って来た。日本を利用するためにも、ドイツは支那問題について、日本側の歓心を迎えることを得策と認め、ヒトラーは旧来の反対分子を押し切って、満州国の承認、支那における軍事顧問の引揚げも断行した。支那におけるドイツ人の経済活動の特別扱いも取り下げた。英米側が支那における日本の行動に反対を続け、援助を進めるに反比例して、ドイツは支那における日本の施策に賛意を示した。

 元々、日本とドイツとの関係は、防共協定締結の経緯によって明らかなように、ソ連を挟む両国に地政学的な地位から来たものであって、対ソ問題を外しては、両国の関係は希薄だった。当初支那問題について、日独の利害は対立的であった。日本において支那問題が進行していくと共に、その解決にドイツの力に依存する考え方が強くなっていくと共に、欧州問題が切迫するに従って、ドイツが軍部を通じて日本との関係に重きを置くようになった。日本が支那問題に深入りし、陸軍が陸上より、海軍は海上より南進を続け、遂にとどまるところを知らぬこととなって、北方ソ連を対象としていた従来の陸軍の考え方は、次第に変化し、漸次英米を対象とするようになっていった。ドイツもすでに、対ソ問題の外に、対英米仏の問題を、イタリアと共に真剣に考えるまでに、欧州の形勢は切迫しつつあった。この一般形勢は、コミンテルンの世界政策上最も歓迎したものであって、共産党の世界的組織は、これに油を注ぐべく最善を尽くした。ゾルゲが尾崎と共に東京において、最も努力した時期もこの時で、当時ゾルゲが、ソ連に対する日本の危険は除かれたと、クレムリンに方向したのは、この形勢を観取したからであった、と重光。支那問題を通じる日独の接近は、日本が対支戦争に深入りするに従って、日本の南進政策を決定的にする基礎を作った、と。
 支那問題は、日本にとっては、英米に対する問題であった。日独の協力の途が開かれたことは、英米仏に対して、共同の動作を取らしめる前提となった。この空気の中で、日本軍部は三国同盟の交渉開始に着手した。

重光葵の見た欧州戦争の状況

2017年05月05日 | 歴史を尋ねる
 1939年8月独ソ不可侵条約締結時の秘密議定書には、両国の勢力範囲が確定されていた。バルト四国はソ連の勢力範囲、ポーランドは分割、ベッサラビアもソ連勢力範囲、バルカンについてはドイツは経済的利益のみを有し政治的利益は有しないと規定していた。しかしドイツは事実上バルカンを重要視し、到底手放せなかった。1939年3月ドイツがチェコ侵入占領、4月イタリアがアルバニア占領、9月ポーランド分割、ドイツはその後バルト三国等を承認、双方の勢力範囲は、メーメルからポーランドの中央を経て、ルーマニア北方国境に至る線で一旦は確定、更にのち、11月ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、41年3月ブルガリア、ユーゴスラビア及び6月クロアチアはいずれも日独伊三国同盟に相次いで加入、枢軸陣営に参加した。
 中欧及びバルカンはベルリン、バクダッドまたはハムブルヒ、バスラを貫く道の沿道に当たり、ドイツが英植民地を攻撃する通路にもあたった。イタリア半島から北アフリカ、キレナイカを経てエジプトを衝く通路、バルカンを経てクレタ島等を飛んで小アジア方面を衝く線も、英帝国を襲う線路として重要となった。独ソ秘密議定書にかかわらず、英本国の侵入作戦が不首尾に終わった後は、イタリア及びバルカンより地中海を超えて、英帝国の心臓部に打撃を加えるほかに、勝利の方途はなくなった。

 戦争当初のソ連とドイツの勢力範囲決定は、いずれも戦術的になされたもので、戦争の経過如何で次の戦術を生み出すものであった。ソ連はドイツの西欧戦争の間に、バルト海、黒海も事実上ソ連の内海化し、黒海と地中海とを繋ぐダーダネルス及びボスポラス海峡の支配権獲得がロシア伝統の政策だった。このため、バルカンでロシアが長く有していた潜勢力を呼び起こすため、ギリシャ正教を利用して宗教運動を起し、汎スラブ運動を呼びかけた。のみならず、バルカン諸邦が防共協定に参加、三国同盟に加入したことは許す所でなく、ソ連の革命勢力を以て、これに変えようと画策した。
 1940年ドイツが軍事上の成功によって国際的権威が絶頂に達した時、ヒットラーは全般的な問題を話し合うため、モロトフのベルリン訪問を促した。11月ベルリンに到着したモロトフにヒットラーは、かねての考えにより、ソ連の三国同盟加入を勧奨し、今日は英帝国の破壊に進む好機で、ソ連はコーカサスよりイラン、イラク、ペルシャ湾方面に進出すべく、ドイツは協力すると枢軸参加を説いた。モロトフ曰く、ソ連の今日の要請はかかる遠大な理想を実現する前に、卑近な現実問題を解決することにある。ソ連はダーダネルス及びボスポラス海峡において軍事基地設定を欲し、ブルガリアの領土保全を要求した。これらに対してドイツの承認を得たい。また、ルーマニアに領土保全をしたが、これは何処に向けた保障であるか説明を求めた。以上の要望についてヒットラーに回答を迫ったので、ヒットラーは激怒するに至った。会見は再度にわたって行われたが合意は成立せず、モロトフは回答を得ずベルリンを引き上げた。このモロトフのベルリン訪問は歴史的転換点になった。ソ連が枢軸に味方であるか、敵であるか、が明確になった。ヒットラーはソ連のバルカン方面に対する野心を知って、独ソは両立することが出来ぬと意識した。モロトフのベルリン訪問経緯も、相当正確に世界の首都に報道された。独ソの間に容易ならざる新事態が生じつつあることを人々に感じさせた、と重光。

 松岡外相の独訪問当時の欧州戦争の大勢はどうだったか。英帝国の急所は、英本国のほか、地中海方面、ペルシャ、印度方面及び東南アジア方面であった。ソ連を三国同盟に抱き込んでペルシャ、印度方面を衝くことは失敗した後、ドイツは日本を南進に誘引した。英本国を乗っ取れないヒットラーは、たとえ欧州大陸を席捲しても、その戦争態勢は楽観を許さなかった。対英作戦失敗後、ドイツの目標は、大西洋戦争によるイギリスの海上封鎖戦と地中海方面の戦争であった。大西洋戦争は、結局海上勢力の戦争で、初めからドイツに成功の見込みがなく、結局地中海方面の戦争に絞られた。
 イタリア軍はバルカンを目指したが、英国の援助を受けているギリシャ軍に敗退、北アフリカでエジプト目指したイタリア軍はこれまた敗退、イタリア陸軍の精鋭はその影を没した。スペインのフランコ将軍はジブラルタル攻撃をヒットラーから誘われたが、ドイツの勝利を見通すことが出来ず、巧みに遷延策を講じ、その要求を最後まで容れなかった。ドイツはフランス、ヴィシー政権を圧迫して西地中海だけだなく東地中海の制圧を目指したが、ソ独英の三大勢力の間に挟まって最後まで動かなかったトルコの中立維持で、東方は遂に動揺しなかった。当時ドイツは、日本の仏印進入について、日本の依頼によってフランスに圧迫を加えた。英米はドイツのフランス圧迫を以て、すべて枢軸全体の一定の計画の下に関連あるものと判定した。ドイツは地中海戦争に勝利し、エジプト及び小アジア方面に進出し、ここに日本の勢力と手を握り、英帝国の破壊を計ろうとするものと英米は判断、他方、ドイツは米国の目を東亜に引き付けるよう、ヴィシー政府から米国大使に日本の仏印に対する要求を漏らすことを黙認した。北アフリカ戦争は、もはや英国のみの戦争ではなく、米国の安全保障の前線は、北アフリカであり仏印であった、と重光。ふーむ、日本の置かれた立場は、いつの間にかヒトラーの世界戦略に繰り込まれていた、ということか。そして岡崎久彦氏が口を極めて三国同盟成立を図った松岡洋右を批判するのもこのことを指しているのか。

 対英戦争失敗後、ヒトラーは1941年、米国参戦前に、是非とも地中海戦争に勝利し、南進しようとする日本との連携を実現する計画であったに違いない、と。しかし対ソ戦争のため遂に不可能となった。すべて予定通りに行かず、ロンメル遠征軍は英軍の反撃に遭い、イタリア軍の轍を踏み、トリポリ方面に退却した。松岡外相が欧州訪問した1941年3月は、イタリア軍が事実上敗北し、ヒットラーは対ソ戦を決意した時であり、更には米国はすでに実質上参戦に等しき立場をとっていて、戦争の世界的様相は決定的になった一般情勢であった、と。

重光葵の見た東亜(東アジア)の状況

2017年05月04日 | 歴史を尋ねる
 松岡が外相として登場した時代、重光は駐英大使であったが、当時の状況をつぶさに記述しているので、これを見ながら、松岡の外交を見ておきたい。(ウキペディアによると、日英関係が悪化する中での関係好転や、蒋介石政権への援助中止要請などに尽力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っており、その情報は非常に正確なものだった。その重光が欧州戦争に「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにもかかわらず日本政府は聞き入れず、1940年(昭和15年)9月27日、松岡洋右外相(第2次近衛文麿内閣)が日独伊三国同盟を締結し、アメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった、とある)
 
 松岡は日本の国家改造という革新を成就しようと考えたようで、その出発点を日独伊三国同盟に置き、対内外の革新をナチ張りに実行しようとした。三国同盟の締結によって、その政策を下僚に指示した松岡外相は、外務省の首脳部を枢軸政策を支持する者で構成し、従来外交の本流をなしていた主な外交官、特に在外大公使の殆どを罷免する措置を取った。このため日本の在外外交機関の機能が一時停止することも辞せなかった。松岡は軍部の有する国際情報により多く信頼したので、その荒治療を断行した。三国同盟を締結し、日華基本条約(松岡外相のもとで行なわれていた対重慶和平工作の成り行きを見極めたのち、日華基本条約および日満華共同宣言が署名され、南京政府を正式に承認した)によって対支問題を処理した後の松岡外交は、軍の要望によって、直ちに南方に向けられた。松岡外交はドイツの勝利を信じ、その成功を前提に「大東亜共栄圏」を建設し、東アジアにおける日本の地位を積極的に固め様とした。
 仏印(今のベトナム)から雲南鉄道によって送られる援蔣物資は莫大なもので、ハノイは重慶援助の港になっていた。仏印総督ド・クー提督は、表面上ヴィシー政府の命令で動いており、ヴィシー政府はドイツ勢力下の仏国政府であり、重慶政府を援助することは許されざることとし、総督は止むを得ず譲歩したという態度をとった。交渉成立によって平和的に進駐することが出来たが、すでに陸軍は軍事行動をとっていた。天皇はのちに知られて、国を誤るものは陸軍であると歎ぜられた、と。こうして日本と仏印との間に通商経済の広範な取り決めが成立した。

 近世は新大陸の発見や東洋への遠征で、世界は欧州人の植民地、半植民地と見做され欧州各国の縄張りは眠っている間に東洋にも張り巡らされた。日本が自立し反撃し大国になっても、東アジアにおける欧州の植民地からは完全に閉め出されていた。フィリッピン、仏印、ボルネオ、インドネシア及びマレイ、ビルマその他においても、日本人の活動は、入国すら禁止的で、単純な貿易も極めて不自然な差別的待遇を受けていた。これらに地域は、いずれも本国の従属物に過ぎなかった。この時代、到る所、資本主義的帝国主義のカーテンが下ろされていた。もし東アジアの各民族が解放され、各々自由の立場で貿易し活動が出来たならば、地域が発展し、住民の生活水準が向上し、世界の平和に貢献できたか、計り知れなかったと重光は嘆息する。元来、満州事変の発生も、第一次大戦後の世界的封鎖経済の結果、日本を経済的窒息から救わんとする必要を感じたことが、その背景をなしていた、と。
 増加する人口を養い、大国としての地位を確保するためには、先ず生きる道を考えねばならない。世界の動きに暗い日本は、国際連盟の厳格なる現状維持主義と、コミンテルンの攪乱政策の中間に挟まれてなす所を知らなかった。日本は慎重に熟慮して、堂々と東亜における経済的開放を主張し、国際民主主義実現の理想を掲げて、漸進的に米英及び世界の常識に訴えるべきであった。日本はその明敏と忍耐を持ち合わせず、単に目先の切迫する必要のままに、盲進に盲進を続け、遠き過去の欧州の帝国主義の顰(ひそみ)に倣った。日本軍部の力に依拠する行き過ぎた行為に対して、先ず日本の最も苦痛とする経済戦争の開始によって現れた。これは日本を徐々に死地に陥れた。日本は寸前の天地を開くためにまた盲進した。欧米の日本に対する経済制裁が、強化されればされるだけ、日本の生活圏を拡張せざるを得なかった。この経済戦争と誤った軍国思想にもとづく武力進出の悪循環が、遂に日本を第二次世界大戦に突入させた。そこには理想も唱えられ理念も主張された。米英の条約主義に対しては自衛論も唱えられた。また現状維持政策に対して、大東亜共栄圏も主張された。松岡外相の時代には、日本軍はすでに仏印にも入り、この悪循環は全く取返しのつかぬものとなっていた。これが重光が見た当時の一般情勢であった。

 仏国の植民地政策は米英の政策に比較すれば、甚だしく反動的で、極端な搾取政策であった。独立運動には容赦なく弾圧し、住民の政治的自由は奪われ、経済的には仏本国に従属的で、本国以外の外国には全く封鎖され、近くて有利な取引先相手となり得る日本とは、交通も貿易も大きな制限を受けていた。仏印は東亜から全く引き離され、インドネシアのオランダに対する関係も大同小異だった。民族解放の嵐は、東亜もようやく吹き始めた。欧州戦争が起こって本国との交通が遮断され、本国が戦争に没頭し、あるいは敵国に占領され、植民地は孤立するに至って、東亜の諸民族は急に覚醒し立ち上がった。独立運動の志士は海外に逃れて、東京に来るものも少なくなかった。日本の力が南方に延び、その実力を目前に見るに従って、東亜民族の自覚は著しくなり、民族運動が醞醸された。このため植民地の母国は日本に疑惑を注ぎ、日本の経済的要求は常に政治的意義を伴うものと解釈された。元来日本がこれら欧州諸国の植民地において、経済的ハケ口を求めるのは自然の勢いであったにもかかわらず、その門戸が閉ざされていた。そして、日本の経済上の要求は、武力的南方進出と競合した関係上、侵略の一態様と見做され、ますます反抗を受けた。仏印との経済交渉は、日本軍が進駐する前から開始されてようやく成立した。蘭印(インドネシア)に対しては、小林商相、次いで芳沢前外相を派遣して、経済関係の調節を試みたが、日本政府はその成果に満足せず、国内の無責任な強硬論は日本の南進政策に対する国際的政治混乱を起こし、日蘭関係を悪化させた。

 タイと仏印との境界はメコン川に沿っていたが、その地域は久しく争議があり、タイはフランス側が武力で割取したカンボジア地域を回復しようとして、欧州戦争勃発後、遂に衝突が起こって、海上まで戦闘行為が発生した。松岡外相は両者の調停を取ることを申し出、その承認を得た。東京における交渉は一向に進捗しなかったが、松岡外相が調停案を用意して、日本の圧力の下で交渉は成立した。そして新国境は日本委員を長とする国境画定委員によって決定された。松岡外相の外交攻勢は、彼の英米勢力攻撃の言動と共に、陸海軍の武力を背景とするものとして、これら諸国の憎悪を招き、彼らの団結を一層強固なものとした。英国は支那及び東亜諸国については、米国を先頭に立てるようになり、欧州戦争開始後、米国が欧米を代表する形となり、他国は米国に追随して行動するようになった。かくて、米国の指導によるA・B・C・Dの日本包囲網は益々強化されるに至った。
 松岡外相は、タイ、仏印の国境紛争の仲介を終えると共に、独伊訪問のために渡欧の途についた。(1941年3月11日)