ただ一つ戦略らしきものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部戦争指導課の考え方であった、と、岡崎久彦氏の言説があったので、その内実を早瀬利之氏の著書「参謀本部作戦部長 石原莞爾(国家百年の計に立ち上がった男)」によって追ってみることとした。
石原は昭和8年8月の定期異動で、仙台の第二師団歩兵第四連隊長に着任した。ここは満州事変で活躍した多門二郎師団長の属する東北の精鋭師団であった。満州事変では、石原が作戦参謀で、多門師団長は奉天から吉林へと進み、無血・講和した。しかも連隊本部は、石原が郷里・鶴岡市の篤志家から奨学金を借りて学んだ仙台幼年学校の前であった。しかし、昭和10年8月の定期異動で、参謀本部作戦課長に起用された。明治維新では幕府側の庄内藩出の石原が、いくら陸大を軍刀組二番で卒業しても中央に迎えられる要因がない。ところが、今回の異動で佐官級、なかでも参謀本部の佐官級がごっそり入れ替わった。
陸軍内は大正11年山県有朋が生涯を閉じ、昭和4年田中義一が急死すると、長州閥勢力の幕が閉じた、新たに荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派、林銑十郎、南次郎、杉山元など統制派の二大派閥が生まれた。満州事変をきっかけに、二大派閥は陸軍省、参謀本部のポストを争った。犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、陸軍の首脳部を皇道派で固め、三宅坂(参謀本部)は皇道派一色となった。前任者たちは地方にとばすという容赦ない人事だった。しかし、昭和9年荒木が病気で陸相を退き、後任に林銑十郎陸相になると今度は統制派が盛り返した。外に目を向けると、極東の情勢は大きく変化した。昭和8年から始まったソ連の第二次経済五カ年計画は成功し、極東軍事力は強化され、昭和7年に五分五分だった軍事力は、たった三年で関東軍の三倍強になっていた。ソ満国境の紛争事件は避けられない状況にあり、国防を担当する関東軍は軍事力の充実に迫られた。その一方、8年3月の連盟脱退で、世界の列強の監視から解放された日本は、長城以南に非武装地帯をつくる塘沽協定を、10年5月には国民党の何応欽との間に中国軍の北平からの撤退を申し合わせた梅津・何応欽協定を結んだ。しかし、中国内では、張学良が国民党と対立して、若者を集めて新国家青年党を結成し、共産党寄りに走っていた。何よりも満州国を苦しめたのは、英国人リース・ロスによる中国の貨幣制度の改革であった。これまでの金から、銀本位の貨幣制に切り替えたため、大混乱を来たし、英国の金融支配に入りつつあった。石原に期待したのは、陸軍省軍務局長の永田鉄山だった。
永田が軍務局長になって最初に考えたのは、陸軍は海軍に比べて世間に疎い。どうやったら陸軍将校の社会性を高められるかだった。海軍の士官は遠洋航海に出て世界を見てくる。陸軍はそれが出来ない、結論は、陸軍の将校たちを官民の会に参加させて、いろいろな人と知りあい、そこから世界を見、見識を広めさせることだった。中堅将校を、東京倶楽部や交詢社に入会させ、交友を広める、そうして、世界の動き、欧州やアメリカの政治、経済、軍事を学ばせる方法をとった。また、満州政策では、石原と同じ考えだった。昭和6年満州を視察した時、石原と満州の事情と政策を語った。当時の石原は武力で占有するほかない、この国の指導者は満州を治めきれない、との考えで永田も同意見であった。満州事変後、于沖漢など文民の中に指導力のある者が現れてくると、石原は満州人による満州経営に変わっていく。永田も、満州にいる日本の軍人は、国防面についてのみ指導的立場をとり、政治はすべて満州人にやらせることが肝要。朝鮮についても、独立を要求して騒ぐ前に自治を与え、同盟関係を持つべきだ、との考えだった。いずれも、対ソ連に対処した日朝満同盟関係の強化が、根底にあった。派閥にこだわる皇道派軍人とは、視野の違いがはっきりしていた。永田は佐官級による日露戦争の戦後派による国造りを描いた。しかし、石原は参謀本部にはじめて登庁した8月12日、挨拶回りを予定していた永田鉄山が相沢三郎の凶刃に倒れた。
石原が参謀本部作戦課長になった直後の考えを自ら語った応答録がある。この中で、「陸軍中央部入って非常に驚いたのは、日本の兵力、特に在満兵力の真に不充分なことであった。日本の輸送力とシベリア鉄道の輸送力との優劣が初め某機関はソビエトより有利に兵力を集中できるだろうと考えていたが、それが非常に考え違いで、満州事変後二、三年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。前任の課長が在満兵力を二師団から三師団に増加したが、これでは不充分で、直ちに急速な軍備拡張をやる気持ちになった」と。バイカル湖以東の極東ソ連軍の八割の在満鮮兵力を常時持つことの必要性を感じた石原は、杉山参謀次長に八個師団の常設と北満の生活向上の急務を提案している。そして、昭和維新は日支満のアジア同盟国構想の下に、米英、ソ連、フランス等ヨーロッパ列強国とのバランスをとるのが根幹にあり、理想の姿は、アジア同盟を結び、蒋介石の中国に満州国を承認してもらい、その代わり、蒋介石には共同で国防するほか、経済協議会を共同で設置し、同志的精神で経済の進展を図る「経済一体」、中国における既得政治権益を撤回して満州と中国両国の独立を完成させる「政治の独立」、そして文化面で交流する「文化の講通」の四つの条件を考えていた。
昭和9年10月、ロンドンで軍縮会議の予備会議に入った。日本は海軍比率に不満で、日米英三か国平等か、または破棄に迫られていた。しかしアメリカは海軍比率を平等にすると極東における発言権を抑えられるため、真っ向から反対した。日本はすでにワシントン海軍条約を年内に廃棄し、各国共通の総トン数を制限することを決めていて、日米非公式会議でも譲らなかった。結局、予備会議は無期休会となり、山本五十六はロンドンを引き揚げてくる。それから間もなくの12月9日、日本は関係国に、太平洋四か国条約、九か国条約、中国に関する決議などを含むワシントン条約廃棄を通告した。ロンドン軍縮会議は翌10年12月9日開催されたが、日米が折り合えず、翌11年1月、日本代表はロンドン軍縮会議から脱退して帰国の途についた。この時を以て日米関係は急転し、互いに軍備拡張競争に入っていった。交渉国の一行がロンドンを発った頃、石原は国家百年の計の構想に入ったと、早瀬氏。
宮崎正義は石原莞爾の四歳下、語学研修が終わると、モスクワ大、ペテルスブルグ大で足掛け6年留学、ロシアが崩壊した二月革命に遭遇、レーニンがソビエト政府を組織する十月革命前にロシアを離れ、満鉄に入社してソ連関係の調査に従事、その後のスターリンの政敵一掃と独裁ぶりを調査・分析し、やがて極東アジア、中でも対満州攻略が着々と進んでいることを知り、満州は経済統制で開発しなければならないと立案した。石原の要請を受けて日満財政研究会のスタッフ案を持参、東畑精一東大経済学部教授、横浜高商岡野鑑記教授、泉山三六三三井銀行次長、日銀副総裁津島寿一、土方正美東大教授、日産自動車浅原源七・矢部美章、満鉄経済調査会酒家彦太郎、長谷孝之の委員承諾を報告、宮崎機関として作業を開始、別名M機関といった。石原は、民間にも政府にも、日本経済を総合的に判断する調査が行われていないばかりか、調査機関さえないことを知って愕然としたが、陸軍が中心となって立ち上げた日満財政経済調査会はすぐに行動を起こし、内閣を解体する意見まで出された。あくまでも宮崎正義を主事とする参謀本部の私的調査機関だが、兵備充実が狙いで、その基礎となるものが生産力の拡充計画だった。石原は国家予算がたったの24億円では、極東シベリアで兵備を強めているソ連への対策は何もできていないだけに、宮崎機関の研究案を説明させた。
1、現行内閣制度を廃止し、国務院を以て行政府とする。国務院には総務庁が直属し、企画局、予算局、考査局、公務局、資源局が設置され、計画及び考査を担当する。内閣組織も、産業統制省、組合省、金融省、航空省、社会省を新たに設置する。
2、国防費は軍事力強化のために徹底的合理的に使用する。
3、国防産業の飛躍的増強と輸出事業を図ることで、兵器産業を輸出産業として育成する。
4、国家管理を強化するため、経済の国家統制、官民の協力が不可欠。電力、航空機、兵器産業は国営形態に、石油石炭、鉄鋼、自動車、化学は特殊大合同形態に、企業を組合組織にして行政指導する。経済の各部門は統制経済下に置き、産業統制省が監督する。
5、農山漁村における減税及び負担の軽減など、国民生活の安定を講じる。
石原が宮崎に、「昭和12年度以降5年間の歳入と歳出計画、及び緊急に実施すべき国策大綱」作業を命じたそのうちの緊急実施国策が以上のものであった。ソ連の五カ年計画が第二次計画に入り、日ソの軍事力が逆転していた実情が、計画案に反映された。
石原は昭和8年8月の定期異動で、仙台の第二師団歩兵第四連隊長に着任した。ここは満州事変で活躍した多門二郎師団長の属する東北の精鋭師団であった。満州事変では、石原が作戦参謀で、多門師団長は奉天から吉林へと進み、無血・講和した。しかも連隊本部は、石原が郷里・鶴岡市の篤志家から奨学金を借りて学んだ仙台幼年学校の前であった。しかし、昭和10年8月の定期異動で、参謀本部作戦課長に起用された。明治維新では幕府側の庄内藩出の石原が、いくら陸大を軍刀組二番で卒業しても中央に迎えられる要因がない。ところが、今回の異動で佐官級、なかでも参謀本部の佐官級がごっそり入れ替わった。
陸軍内は大正11年山県有朋が生涯を閉じ、昭和4年田中義一が急死すると、長州閥勢力の幕が閉じた、新たに荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派、林銑十郎、南次郎、杉山元など統制派の二大派閥が生まれた。満州事変をきっかけに、二大派閥は陸軍省、参謀本部のポストを争った。犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、陸軍の首脳部を皇道派で固め、三宅坂(参謀本部)は皇道派一色となった。前任者たちは地方にとばすという容赦ない人事だった。しかし、昭和9年荒木が病気で陸相を退き、後任に林銑十郎陸相になると今度は統制派が盛り返した。外に目を向けると、極東の情勢は大きく変化した。昭和8年から始まったソ連の第二次経済五カ年計画は成功し、極東軍事力は強化され、昭和7年に五分五分だった軍事力は、たった三年で関東軍の三倍強になっていた。ソ満国境の紛争事件は避けられない状況にあり、国防を担当する関東軍は軍事力の充実に迫られた。その一方、8年3月の連盟脱退で、世界の列強の監視から解放された日本は、長城以南に非武装地帯をつくる塘沽協定を、10年5月には国民党の何応欽との間に中国軍の北平からの撤退を申し合わせた梅津・何応欽協定を結んだ。しかし、中国内では、張学良が国民党と対立して、若者を集めて新国家青年党を結成し、共産党寄りに走っていた。何よりも満州国を苦しめたのは、英国人リース・ロスによる中国の貨幣制度の改革であった。これまでの金から、銀本位の貨幣制に切り替えたため、大混乱を来たし、英国の金融支配に入りつつあった。石原に期待したのは、陸軍省軍務局長の永田鉄山だった。
永田が軍務局長になって最初に考えたのは、陸軍は海軍に比べて世間に疎い。どうやったら陸軍将校の社会性を高められるかだった。海軍の士官は遠洋航海に出て世界を見てくる。陸軍はそれが出来ない、結論は、陸軍の将校たちを官民の会に参加させて、いろいろな人と知りあい、そこから世界を見、見識を広めさせることだった。中堅将校を、東京倶楽部や交詢社に入会させ、交友を広める、そうして、世界の動き、欧州やアメリカの政治、経済、軍事を学ばせる方法をとった。また、満州政策では、石原と同じ考えだった。昭和6年満州を視察した時、石原と満州の事情と政策を語った。当時の石原は武力で占有するほかない、この国の指導者は満州を治めきれない、との考えで永田も同意見であった。満州事変後、于沖漢など文民の中に指導力のある者が現れてくると、石原は満州人による満州経営に変わっていく。永田も、満州にいる日本の軍人は、国防面についてのみ指導的立場をとり、政治はすべて満州人にやらせることが肝要。朝鮮についても、独立を要求して騒ぐ前に自治を与え、同盟関係を持つべきだ、との考えだった。いずれも、対ソ連に対処した日朝満同盟関係の強化が、根底にあった。派閥にこだわる皇道派軍人とは、視野の違いがはっきりしていた。永田は佐官級による日露戦争の戦後派による国造りを描いた。しかし、石原は参謀本部にはじめて登庁した8月12日、挨拶回りを予定していた永田鉄山が相沢三郎の凶刃に倒れた。
石原が参謀本部作戦課長になった直後の考えを自ら語った応答録がある。この中で、「陸軍中央部入って非常に驚いたのは、日本の兵力、特に在満兵力の真に不充分なことであった。日本の輸送力とシベリア鉄道の輸送力との優劣が初め某機関はソビエトより有利に兵力を集中できるだろうと考えていたが、それが非常に考え違いで、満州事変後二、三年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。前任の課長が在満兵力を二師団から三師団に増加したが、これでは不充分で、直ちに急速な軍備拡張をやる気持ちになった」と。バイカル湖以東の極東ソ連軍の八割の在満鮮兵力を常時持つことの必要性を感じた石原は、杉山参謀次長に八個師団の常設と北満の生活向上の急務を提案している。そして、昭和維新は日支満のアジア同盟国構想の下に、米英、ソ連、フランス等ヨーロッパ列強国とのバランスをとるのが根幹にあり、理想の姿は、アジア同盟を結び、蒋介石の中国に満州国を承認してもらい、その代わり、蒋介石には共同で国防するほか、経済協議会を共同で設置し、同志的精神で経済の進展を図る「経済一体」、中国における既得政治権益を撤回して満州と中国両国の独立を完成させる「政治の独立」、そして文化面で交流する「文化の講通」の四つの条件を考えていた。
昭和9年10月、ロンドンで軍縮会議の予備会議に入った。日本は海軍比率に不満で、日米英三か国平等か、または破棄に迫られていた。しかしアメリカは海軍比率を平等にすると極東における発言権を抑えられるため、真っ向から反対した。日本はすでにワシントン海軍条約を年内に廃棄し、各国共通の総トン数を制限することを決めていて、日米非公式会議でも譲らなかった。結局、予備会議は無期休会となり、山本五十六はロンドンを引き揚げてくる。それから間もなくの12月9日、日本は関係国に、太平洋四か国条約、九か国条約、中国に関する決議などを含むワシントン条約廃棄を通告した。ロンドン軍縮会議は翌10年12月9日開催されたが、日米が折り合えず、翌11年1月、日本代表はロンドン軍縮会議から脱退して帰国の途についた。この時を以て日米関係は急転し、互いに軍備拡張競争に入っていった。交渉国の一行がロンドンを発った頃、石原は国家百年の計の構想に入ったと、早瀬氏。
宮崎正義は石原莞爾の四歳下、語学研修が終わると、モスクワ大、ペテルスブルグ大で足掛け6年留学、ロシアが崩壊した二月革命に遭遇、レーニンがソビエト政府を組織する十月革命前にロシアを離れ、満鉄に入社してソ連関係の調査に従事、その後のスターリンの政敵一掃と独裁ぶりを調査・分析し、やがて極東アジア、中でも対満州攻略が着々と進んでいることを知り、満州は経済統制で開発しなければならないと立案した。石原の要請を受けて日満財政研究会のスタッフ案を持参、東畑精一東大経済学部教授、横浜高商岡野鑑記教授、泉山三六三三井銀行次長、日銀副総裁津島寿一、土方正美東大教授、日産自動車浅原源七・矢部美章、満鉄経済調査会酒家彦太郎、長谷孝之の委員承諾を報告、宮崎機関として作業を開始、別名M機関といった。石原は、民間にも政府にも、日本経済を総合的に判断する調査が行われていないばかりか、調査機関さえないことを知って愕然としたが、陸軍が中心となって立ち上げた日満財政経済調査会はすぐに行動を起こし、内閣を解体する意見まで出された。あくまでも宮崎正義を主事とする参謀本部の私的調査機関だが、兵備充実が狙いで、その基礎となるものが生産力の拡充計画だった。石原は国家予算がたったの24億円では、極東シベリアで兵備を強めているソ連への対策は何もできていないだけに、宮崎機関の研究案を説明させた。
1、現行内閣制度を廃止し、国務院を以て行政府とする。国務院には総務庁が直属し、企画局、予算局、考査局、公務局、資源局が設置され、計画及び考査を担当する。内閣組織も、産業統制省、組合省、金融省、航空省、社会省を新たに設置する。
2、国防費は軍事力強化のために徹底的合理的に使用する。
3、国防産業の飛躍的増強と輸出事業を図ることで、兵器産業を輸出産業として育成する。
4、国家管理を強化するため、経済の国家統制、官民の協力が不可欠。電力、航空機、兵器産業は国営形態に、石油石炭、鉄鋼、自動車、化学は特殊大合同形態に、企業を組合組織にして行政指導する。経済の各部門は統制経済下に置き、産業統制省が監督する。
5、農山漁村における減税及び負担の軽減など、国民生活の安定を講じる。
石原が宮崎に、「昭和12年度以降5年間の歳入と歳出計画、及び緊急に実施すべき国策大綱」作業を命じたそのうちの緊急実施国策が以上のものであった。ソ連の五カ年計画が第二次計画に入り、日ソの軍事力が逆転していた実情が、計画案に反映された。