早瀬利之の石原莞爾

2017年03月26日 | 歴史を尋ねる
 ただ一つ戦略らしきものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部戦争指導課の考え方であった、と、岡崎久彦氏の言説があったので、その内実を早瀬利之氏の著書「参謀本部作戦部長 石原莞爾(国家百年の計に立ち上がった男)」によって追ってみることとした。
 石原は昭和8年8月の定期異動で、仙台の第二師団歩兵第四連隊長に着任した。ここは満州事変で活躍した多門二郎師団長の属する東北の精鋭師団であった。満州事変では、石原が作戦参謀で、多門師団長は奉天から吉林へと進み、無血・講和した。しかも連隊本部は、石原が郷里・鶴岡市の篤志家から奨学金を借りて学んだ仙台幼年学校の前であった。しかし、昭和10年8月の定期異動で、参謀本部作戦課長に起用された。明治維新では幕府側の庄内藩出の石原が、いくら陸大を軍刀組二番で卒業しても中央に迎えられる要因がない。ところが、今回の異動で佐官級、なかでも参謀本部の佐官級がごっそり入れ替わった。
 陸軍内は大正11年山県有朋が生涯を閉じ、昭和4年田中義一が急死すると、長州閥勢力の幕が閉じた、新たに荒木貞夫、真崎甚三郎を中心とする皇道派、林銑十郎、南次郎、杉山元など統制派の二大派閥が生まれた。満州事変をきっかけに、二大派閥は陸軍省、参謀本部のポストを争った。犬養内閣の陸相に荒木が就任すると、陸軍の首脳部を皇道派で固め、三宅坂(参謀本部)は皇道派一色となった。前任者たちは地方にとばすという容赦ない人事だった。しかし、昭和9年荒木が病気で陸相を退き、後任に林銑十郎陸相になると今度は統制派が盛り返した。外に目を向けると、極東の情勢は大きく変化した。昭和8年から始まったソ連の第二次経済五カ年計画は成功し、極東軍事力は強化され、昭和7年に五分五分だった軍事力は、たった三年で関東軍の三倍強になっていた。ソ満国境の紛争事件は避けられない状況にあり、国防を担当する関東軍は軍事力の充実に迫られた。その一方、8年3月の連盟脱退で、世界の列強の監視から解放された日本は、長城以南に非武装地帯をつくる塘沽協定を、10年5月には国民党の何応欽との間に中国軍の北平からの撤退を申し合わせた梅津・何応欽協定を結んだ。しかし、中国内では、張学良が国民党と対立して、若者を集めて新国家青年党を結成し、共産党寄りに走っていた。何よりも満州国を苦しめたのは、英国人リース・ロスによる中国の貨幣制度の改革であった。これまでの金から、銀本位の貨幣制に切り替えたため、大混乱を来たし、英国の金融支配に入りつつあった。石原に期待したのは、陸軍省軍務局長の永田鉄山だった。

 永田が軍務局長になって最初に考えたのは、陸軍は海軍に比べて世間に疎い。どうやったら陸軍将校の社会性を高められるかだった。海軍の士官は遠洋航海に出て世界を見てくる。陸軍はそれが出来ない、結論は、陸軍の将校たちを官民の会に参加させて、いろいろな人と知りあい、そこから世界を見、見識を広めさせることだった。中堅将校を、東京倶楽部や交詢社に入会させ、交友を広める、そうして、世界の動き、欧州やアメリカの政治、経済、軍事を学ばせる方法をとった。また、満州政策では、石原と同じ考えだった。昭和6年満州を視察した時、石原と満州の事情と政策を語った。当時の石原は武力で占有するほかない、この国の指導者は満州を治めきれない、との考えで永田も同意見であった。満州事変後、于沖漢など文民の中に指導力のある者が現れてくると、石原は満州人による満州経営に変わっていく。永田も、満州にいる日本の軍人は、国防面についてのみ指導的立場をとり、政治はすべて満州人にやらせることが肝要。朝鮮についても、独立を要求して騒ぐ前に自治を与え、同盟関係を持つべきだ、との考えだった。いずれも、対ソ連に対処した日朝満同盟関係の強化が、根底にあった。派閥にこだわる皇道派軍人とは、視野の違いがはっきりしていた。永田は佐官級による日露戦争の戦後派による国造りを描いた。しかし、石原は参謀本部にはじめて登庁した8月12日、挨拶回りを予定していた永田鉄山が相沢三郎の凶刃に倒れた。

 石原が参謀本部作戦課長になった直後の考えを自ら語った応答録がある。この中で、「陸軍中央部入って非常に驚いたのは、日本の兵力、特に在満兵力の真に不充分なことであった。日本の輸送力とシベリア鉄道の輸送力との優劣が初め某機関はソビエトより有利に兵力を集中できるだろうと考えていたが、それが非常に考え違いで、満州事変後二、三年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまった。前任の課長が在満兵力を二師団から三師団に増加したが、これでは不充分で、直ちに急速な軍備拡張をやる気持ちになった」と。バイカル湖以東の極東ソ連軍の八割の在満鮮兵力を常時持つことの必要性を感じた石原は、杉山参謀次長に八個師団の常設と北満の生活向上の急務を提案している。そして、昭和維新は日支満のアジア同盟国構想の下に、米英、ソ連、フランス等ヨーロッパ列強国とのバランスをとるのが根幹にあり、理想の姿は、アジア同盟を結び、蒋介石の中国に満州国を承認してもらい、その代わり、蒋介石には共同で国防するほか、経済協議会を共同で設置し、同志的精神で経済の進展を図る「経済一体」、中国における既得政治権益を撤回して満州と中国両国の独立を完成させる「政治の独立」、そして文化面で交流する「文化の講通」の四つの条件を考えていた。
 昭和9年10月、ロンドンで軍縮会議の予備会議に入った。日本は海軍比率に不満で、日米英三か国平等か、または破棄に迫られていた。しかしアメリカは海軍比率を平等にすると極東における発言権を抑えられるため、真っ向から反対した。日本はすでにワシントン海軍条約を年内に廃棄し、各国共通の総トン数を制限することを決めていて、日米非公式会議でも譲らなかった。結局、予備会議は無期休会となり、山本五十六はロンドンを引き揚げてくる。それから間もなくの12月9日、日本は関係国に、太平洋四か国条約、九か国条約、中国に関する決議などを含むワシントン条約廃棄を通告した。ロンドン軍縮会議は翌10年12月9日開催されたが、日米が折り合えず、翌11年1月、日本代表はロンドン軍縮会議から脱退して帰国の途についた。この時を以て日米関係は急転し、互いに軍備拡張競争に入っていった。交渉国の一行がロンドンを発った頃、石原は国家百年の計の構想に入ったと、早瀬氏。

 宮崎正義は石原莞爾の四歳下、語学研修が終わると、モスクワ大、ペテルスブルグ大で足掛け6年留学、ロシアが崩壊した二月革命に遭遇、レーニンがソビエト政府を組織する十月革命前にロシアを離れ、満鉄に入社してソ連関係の調査に従事、その後のスターリンの政敵一掃と独裁ぶりを調査・分析し、やがて極東アジア、中でも対満州攻略が着々と進んでいることを知り、満州は経済統制で開発しなければならないと立案した。石原の要請を受けて日満財政研究会のスタッフ案を持参、東畑精一東大経済学部教授、横浜高商岡野鑑記教授、泉山三六三三井銀行次長、日銀副総裁津島寿一、土方正美東大教授、日産自動車浅原源七・矢部美章、満鉄経済調査会酒家彦太郎、長谷孝之の委員承諾を報告、宮崎機関として作業を開始、別名M機関といった。石原は、民間にも政府にも、日本経済を総合的に判断する調査が行われていないばかりか、調査機関さえないことを知って愕然としたが、陸軍が中心となって立ち上げた日満財政経済調査会はすぐに行動を起こし、内閣を解体する意見まで出された。あくまでも宮崎正義を主事とする参謀本部の私的調査機関だが、兵備充実が狙いで、その基礎となるものが生産力の拡充計画だった。石原は国家予算がたったの24億円では、極東シベリアで兵備を強めているソ連への対策は何もできていないだけに、宮崎機関の研究案を説明させた。
1、現行内閣制度を廃止し、国務院を以て行政府とする。国務院には総務庁が直属し、企画局、予算局、考査局、公務局、資源局が設置され、計画及び考査を担当する。内閣組織も、産業統制省、組合省、金融省、航空省、社会省を新たに設置する。
2、国防費は軍事力強化のために徹底的合理的に使用する。
3、国防産業の飛躍的増強と輸出事業を図ることで、兵器産業を輸出産業として育成する。
4、国家管理を強化するため、経済の国家統制、官民の協力が不可欠。電力、航空機、兵器産業は国営形態に、石油石炭、鉄鋼、自動車、化学は特殊大合同形態に、企業を組合組織にして行政指導する。経済の各部門は統制経済下に置き、産業統制省が監督する。
5、農山漁村における減税及び負担の軽減など、国民生活の安定を講じる。
 
 石原が宮崎に、「昭和12年度以降5年間の歳入と歳出計画、及び緊急に実施すべき国策大綱」作業を命じたそのうちの緊急実施国策が以上のものであった。ソ連の五カ年計画が第二次計画に入り、日ソの軍事力が逆転していた実情が、計画案に反映された。


 
 

ボルシェビキの冷徹な外交

2017年03月14日 | 歴史を尋ねる
 ボリシェヴィキは、ロシア社会民主労働党が分裂して形成された、ウラジーミル・レーニンが率いた左派の一派。1917年の十月革命以前から活動していた者は特にオールド・ボリシェヴィキと呼ばれた。ボリシェヴィキは社会革命党に比べ少数派であったが、人事と要職を握ったので「多数派」を名乗った。暴力革命を主張し、徹底した中央集権による組織統制が特徴でだった。その特徴は、そのまま後身であるソビエト連邦共産党へと引き継がれた、とウキペディアにある。
 革命後のソ連は、一党独裁の専制体制によって極端な秘密主義を守ったので、チャーチルはソ連を「謎に包まれた謎の中の謎」と呼び、近衛内閣のあとの平沼騏一郎内閣は独ソ不可侵条約を結んでとき、「複雑怪奇」と呼んで退陣した。ソ連の行動の謎を解こうとする努力は、冷戦後クレムノロジーの名の学名がついて、専門家を輩出した。しかし、今になって見ると、単純明快なものであった、と岡崎氏。スターリンの究極の悪夢は、ソ連邦を攻撃する全資本主義国の同盟であり、ボルシェビキの義務とは、資本主義国同士を争わせ、ソ連邦が彼らの戦争の犠牲になることを回避することであった。更に、国境は一センチでも遠い方がよく、自分の領土と思うものは一歩を譲らないロシアの伝統的な領土意識であり、この二原則だけで、第二次大戦に至る時期のソ連の行動は全部説明できる、と。
 より具体的にソ連の政策動向を解くカギは、ソ連側の情勢判断を知ることである、と。ソ連の政策は、あらゆる甘さを一切排した冷血な計算に基づいている。共産主義者は、自分たちは外交政策において優位であると思っていた。彼らは相手が自分を理解する以上によく相手を理解していると考えたからだった。冷徹な情勢判断のうえに立って行動し、決して無理をしない。政策は秘密であるが、情勢判断はこう評される。従って、その情勢判断を見れば、政策は自ずからわかってくる、と。

 満州事変後の情勢判断は、1932年の日本共産党テーゼとコミンテルン12回執行委員会の反戦決議から知ることが出来る、と。それによれば、満州事変は日本帝国主義によって火ぶたを切られた強盗戦争であり、国際連盟において英仏が日本の行動をかばったことは、連盟が英仏帝国主義の道具となっている。米国は満州占領に反対しつつも極東における勢力範囲の公平な分け前を要求し、太平洋における地位強化のため、日本とソ連の両方が弱まることを欲して、日ソ戦争を挑発しようとしている。まさに、ソ連に対する戦争のために帝国主義列強の統一戦線をつくろうとする意図が強化されている、というのであった。1932年はヒットラーが権力を握る前年で、ソ連として最も恐れたのは、英仏の帝国主義と日本の帝国主義による包囲だった。特に全満州を制圧した日本と、長大な国境線に接するようになったことは脅威を感じた。
 1928年、スターリンが権力闘争を勝ってトロッキーを追放し、ソ連邦の命運をかけて、重工業の建設と農業の集団化を達成するための五カ年計画を始めた。満州事変が起こったのはその3年目で、内外の状況から、これに対応する態勢になかった。当時撲滅富農政策がすすめられ、シベリアの地で一千万人の犠牲者を出した。当時のソ連の政策は、極東の軍備増強と、その増強が達成されるまで、対日融和策、さらに日本が南進して、国民党、米英と衝突するのを期待していた。満州事変後、ソ連は機会を捉えて日本側に不侵略条約を提議、1933年、日本が希望するならば、日本と不侵略条約を結ぶとともに、満州国と同様な条約を結んでも差し支えないといってきた。他方、急速に極東の軍備増強を始めた。年々、狙撃師団数、航空機を増強、在満日本軍の戦力が相対的に劣っり、且つ国境紛争も絶えなかった。

 他方、ソ連側は戦闘を拡大する意図はまったくなかった。日本との戦争は不可避である、しかしその不可避な戦争を、資本主義国同士が戦うまで遅らせるが肝要とされた。日本における北進論(対ソ連)を抑え、南進論(中国本土、南洋)を奨励するのがその政策であった。日本と蒋介石との戦争、日本とアメリカとの戦争が起こるようにさせ、それまではソ連は日本と平和的関係を保って、日本が弱ったところで一撃を加える、歴史的には計算通りになった。ソ連はそのために情報工作を行った。近衛文麿のブレーンだった尾崎秀美は、支那事変勃発当時は、最高の中国問題専門家としての名声を利用して、朝日新聞・中央公論などに、事変拡大のためのキャンペーンを行った。
 尾崎は、南京政府は一種の軍閥政治であると、その後の蒋介石を対手にせず声明の伏線となる議論を展開し、「局地的解決も不拡大方針も全く意味をなさない」「日本国民が与えられている唯一の道は戦いに勝つことでけ・・・そのほかに絶対に行く道がないのは間違いない」といい、戦争を拡大するよう、早期に止めないよう、扇動している。ふーむ、これが報道の自由の実体か。

 西安事件では、ソ連は中国共産党に対して、蒋介石を釈放するよう圧力をかけた。そして国共統一戦線を結成させ、盧溝橋事件の翌8月、中ソ不可侵条約を結んで、中国に対する武器援助を開始、昭和12年~16年までに、ソ連は中国に航空機一千機、砲一千門、機関銃一万挺を含む軍事援助を与えた。こうしたソ連の戦略が分かっていれば、それだけで、支那事変、張鼔峰事件、ノモンハン事件、日ソ中立条約、中立条約侵犯のすべての背後にあるソ連の考え方が簡単に理解できる、と岡崎氏は解説する。
 日本にはボルシェビキの戦略と比較できるような国家戦略はなかった。日本は独裁国家でなく責任内閣制であって総理大臣が次々に代わるから、すべての内閣が一貫した政策の下に行動することはありえない。東京裁判では、指導者の間に共同謀議があったことになっているが、そんなものは実在しないし、ありえない。日本の政策が一貫して侵略的であった証拠として広田内閣の国策の基準(昭和11年)にしても、各省の妥協による作文でしかない。ただ一つ戦略らしきものがあったとすれば、それは石原莞爾の国家戦略論であり、その衣鉢を継ぐ参謀本部の戦争指導課の考え方であった。

 支那事変前年の昭和12年8月の対ソ戦計画大綱では、「ソ連のみを敵とすることに全幅の努力を払い」「英米の中立を維持せしめるためにも支那との開戦を避けることきわめて緊要」としていた。そして、盧溝橋事件は事件の不拡大に務め、その後昭和13年6月に至る三次の戦争要綱では、戦争規模をなるべく縮小して国力の消耗を防ぎ、速やかに和平を締結することを主張した。ソ連の戦略とガッチリと四つに組んで対抗できる戦略であった、と。

和平派・汪兆銘

2017年03月10日 | 歴史を尋ねる
 日本側の和平工作は、軍部の抵抗によって挫折の繰り返しであったが、国民政府のなかにも依然として強い和平派があった。汪兆銘をはじめ、周仏海(京大で河上肇教授に私淑し、共産党を設立、帰国して共産党に入ったが、転向して蔣介石の側近として日本関係の情報を担当)、高宗武(九大出身、外交部アジア局長)、董道寧(京大出身、日本課長)も強い和平論者であった。日本関係事務当局者が皆、和平派だったということは、国民政府内が抗日で固まっていた訳ではなく、司々でそれぞれの部局を代表して、現実的に中国外交の将来を考える組織が機能していたことを示していた、と。
 高の命令で1938年2月、秘かに日本に赴いた董は、知人の伝手で、参謀本部に新設された謀略課長の影佐禎昭大佐にあった。影佐は、陸軍士官学校時代の友人である張群、何応欽に手紙を託した。その手紙は蒋介石まで達し、蔣介石はこのチャネルで和平工作を行うことを許可した。この時の蔣介石の絶対的な条件は、長城以南は中国に返還することだった。裏から云えば、満州、蒙古という長城以北はネゴシアブル(交渉次第)ということだった、と岡崎氏。日本政府は前年(1937)12月14日の会議で、和平条件の中に華北の特殊地域化を追加した。これは明らかな戦略的誤りで、満州建国後の日中関係は、長城線を超えるかどうかにすべてがかかっていた、岡崎氏はこう洞察する。当時はトラウトマン和平工作が進行している時で、12月13日は南京占領、翌年1月15日政府は「爾後蒋介石を対手とせず」の声明を出し、日本中が舞い上がっていた時であった。
 この和平工作は、当初、蒋介石も期待した中で始まったが、それがやがて、蒋介石と汪兆銘の決別、汪の脱出分離に繋がっていった。すこし、汪の思想を追っておきたい。

 1926年北伐開始に際し、蒋介石は共産党との関係を切った。第一次国共合作の終わりであった。しかし国民党左派は武漢に拠って、共産党と共に反蒋介石政府をつくり、フランスに亡命中だった汪を迎えて指導的地位に選出した。他方、蒋介石も汪兆銘ならば自分を理解してくれると考えて帰国を促し、汪の調整に期待した。当初、汪は共産党と決別せよという蒋介石の強い要請にもかかわらず、国共協調に努力していたが、ふとしたことからコミンテルンの秘密訓令を見て驚愕した。「私は共産党員が国民政府を脱退しながら、なお国民党内に残留しようという意思がなんであるかについて、はじめは十分に判らなかったが、この秘密電によって、それは内部において国民党の破壊工作をするのに便利だからであることが分かった」と。
 この秘密訓令は、国民党内の領袖を駆除し、湖南・湖北の革命軍を共産党に代替させ、革命が成功すればコミンテルンの命令に従って党を改組することを指令していた。当時の汪兆銘にとって初めて知る共産党の手の内だった。ここで、蒋介石の南京政府と、武漢の汪兆銘とは合体した。共産党に幻想を持たなくなった人ほど反共の信念が強くなるのは世界の共通の現象だった。汪兆銘も、かって共産党員だった周仏海も徹底した反共主義者となった。蔣と汪のあいだに越え難い溝ができてくるのは西安事変以降であった。西安事件で蔣介石がいかなる妥協をしたかは永遠の謎であるが、蔣が1、孫文の容共連ソの政策を実現して対日戦を行うこと、2、国民政府に共産党を含めること、3、抗日に同情するすべての外国と協力すること、あるいはそれ以上の秘密の約束をしたであろうと汪兆銘は自伝で推測している。その時蒋介石を救い出した宋美齢の後の回想として、「西安事件は中国国家を猛烈な勢いで破壊し、西安は死の罠だった」と自伝は伝えている。ということは、宋美齢は西安事件以降の国共合作が中国を支那事変の泥沼に引きずり込んだ原因だと思っていたということのなる、と岡崎氏。

 汪兆銘は明らかにそう判断している、と。「盧溝橋事件において、中日開戦の端緒は開かれたが、その以前すでに西安において容共抗日戦の密約が内定していたのだから、もし日本が不拡大方針などといって躊躇逡巡していたならば、必ずや蒋介石は自ら進んで反噬(はんぜい)的に猛襲したことは明らか。結局は日本に先手を打たれ、自ら遅れたために、侵略国などの悪名を喧伝して、日本を危地に陥れんとした蒋介石の奸計を看破すべきであり、戦意がなかったなどというは、愚もまた甚だしいと知るべきである」。盧溝橋以降の中国軍の兵力集中ぶりは、中国側からの攻撃の意図を窺がわせるものだった。日本側もその当時、いったいどうしてこういうことになったかはっきりした情勢認識を持たないまま戦争をしていたので、戦後は日本による侵略という解釈を受け入れている。しかし、当時の国民党指導層の穏健派のなかには「共産党の術策に乗せられて、しなくてもすんだ戦争を、わざわざ日本を挑発して始めてしまった」という悔恨が存在していたことも歴史的事実である、と。

次に汪兆銘の対日観であるが、汪は日露戦争で有色人種の白人に対する勝利に酔った世代であり、最後まで日本との信頼関係によって中日関係を処理しようという希望を捨てなかった。広田、近衛などの声明ごとに、その中に誠意の意思表示を汲み取ろうとした。それは、日本の軍事力が強大で、抵抗しても勝つ見込みが小さく、国の滅亡をもたらすという認識だった。ドイツとトルコは連合国に敗れて亡びようとしたが、存続し復興もしたのは、これは衰亡の際に各人が滅亡を救って存続させようと決心したからだ、いったん敗北を認めて復興を図ることの重要性を強調していた。どの国家民族も自分の生存に精一杯で、義侠の助太刀は期待できないと指摘していた。日本から先に手を出して対米戦争が起こることは、当時は予想も出来なかった。
 参謀本部謀略課長の影佐禎昭大佐と通じる和平工作はその後も続けられ、高宗武は1938年7月来日、折から宇垣外相の和平工作に対する軍の反発は強く、日本側と和平条件を話し合う糸口がつかめなかった。これ以上和平を進めるためには、汪兆銘を引き出して中国側から和平を提唱させるほかはないと判断した。宇垣外相が失脚し、影佐・高工作が進むにつれて、対中国外交の主導権は参謀本部に移っていた。陸軍は上海において和平交渉をして、11月了解事項に署名した。内容は和平後の中国本土からの日本軍撤兵を中心としたものであった。今回は日本側が軍主導なので、政府内の決定は容易であり、11月30日の御前会議で原案通り可決した。しかし、今度は重慶での汪による蔣の説得が難航した。伊藤正徳の見立ては、日本政治が昭和軍閥の手中に落ちていたが、同じように支那の政治は共産党の掌中に傾きつつあり、共産党を無視する政治は成り立たなかった、と。共産党にとって、対日和平は国民党による共産党掃滅作戦の再開を意味した。汪は漢口陥落の五日後、11月1日夜更けまで蔣の説得につとめ、蔣も汪の意見を聞いてくれたように思ったが、11月13日、蔣介石は国共両軍は山地に退いてよく日本軍の進撃を阻止し、前途はきわめて明るいと、共産党の戦略そのままのラジオ演説を行った。16日二人はついに袂を分かった。汪は和平派を糾合して国を救うしかないと決意、盟友を集めようとしたが、思うに任せなかった。すでに汪の時代は終わり、軍の幹部を掌握した蒋介石、鉄の団結をもつ共産党と紅軍を率いる毛沢東のような組織を握る指導者たちであった。

 12月22日、日本政府は近衛声明により、日本が中国に求めるものは、区々たる領土にあらず、戦費の賠償にもあらず、東アジアの新秩序のハートナーとして行動する最小限の保障を要求するに過ぎないといい、治外法権の撤廃、租界の返還をも考慮していると表明した。ふーむ、日本に何があったのかと、疑うような声明である。汪兆銘は、ここで翻然として、もはや戦争理由は大部分消滅した、ただ日本軍の撤兵が急務だと要求しつつ、これを受け入れた。汪は1939年5月訪日し、各大臣の意向を確認したうえで帰国、和平を説いて、新政権樹立の条件に付いて日本との交渉に入った。汪は東亜二大民族の提携という信念の上に立ち、日本の要求に侵略の片鱗でもあれば新政権の構想を廃棄するという決意で交渉に臨んだ。しかし交渉による協定も蒋介石が共産軍と連合して徹底抗戦を続ける限り、実効性はなく、汪政権の存在は、日本側にプロパガンダ上の利益を与えることでしかなかった。