嵐の中の協和外交

2016年09月25日 | 歴史を尋ねる
 当時の事情を「蒋介石秘録 日中関係八十年の証言」を参考にしたい。前にも触れたこの秘録はサンケイ新聞社が蒋介石の日記、回想、中華民国政府公文書、中国国民党の公式記録に準拠して連載されたものである。
 満州国を帝政化し、天羽声明で中国侵略を公言(これが蒋介石の理解だとは思えないが、欧米からはこう見られたか?)した日本の斎藤実内閣は、疑獄事件(帝人事件:帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。)によって瓦解し、昭和9年(1934)7月、海軍大将・岡田啓介を首班とする内閣が成立した。岡田はどちらかというと穏健派に属し、外相には広田弘毅がそのまま留任した。広田外交に協調的な糸口が見えたのは、明けて1935年1月の議会演説からであった。「中国の政局は近来平静で、甚だ喜ばしい。両国間の懸案は漸次解決し、中国の国民も次第に日本の真意を了解する傾向にある。今後もますますこの傾向を促進したい」と、日中関係の改善を示唆した。

 国際裁判所判事になっていた王寵恵が、ハーグに戻るとき、私人の資格で日本に立ち寄り、外相・広田弘毅と直接面談して、日本側の真意を打診した。汪寵恵は速やかに東北(満州)問題を解決する必要があることを強調し、二大原則を日本政府と国民が実行することを要求した。1、日中両国は完全に平等な立場に立ち、互いに独立を尊重する。そのためにも日本は、率先して中国に対する一切の不平等条約、中でも領事裁判権を取り消す。2、日中両国は真に友好を維持するため、相手方の統一を破壊したり、治安を攪乱するような行動を慎む。更に日中間の外交交渉を軌道に乗せるため、平和的手段以外の威嚇や暴力は慎むべき、と。これに対して広田弘毅は、二大原則並びに外交交渉を軌道に乗せることには同意したが、「中国はしばらく満州問題を提案しないでほしい。もし満州問題解決が先決条件であるならば、好転した両国関係はかえって逆転する」と。
 王寵恵は次いで岡田首相、林銑十郎陸相、大角岑生海相、重光葵外務次官らと会談を続け、再度広田弘毅外相と会談、日本の政府当局者は東北問題について以前からの頑迷な姿勢をまったく変えなかったが、一連の会談は平和的雰囲気のうちに進められ、急速に日中の接近は進むかに見えた。十年来の懸案であった日中両国の公使を大使に昇格させる問題も話し合いがつき、両国政府が同時に発表した。

 こうした日中の接近を妨害したのは、ソ連、共産分子、日本の軍部であった。ソ連は3月、中国の反対を無視して、東北の中東鉄路を満州国に売り渡した。中国は1931年12月、ソ連と国交を回復しており、これは中国に対する背信行為であった。関東軍も広田外交に不満で、武力発動を正当化するための口実づくりに取り掛かった。
 1935年5月、天津の日本租界で、二人の親日派の中国人新聞社長が暗殺された(天津日本租界事件:1935年5月2日深夜から3日未明にかけて、天津日本租界で親日満の新聞社社長2人が立て続けに暗殺された事件。1件目は、国権報社長・胡恩溥が夫人とともに日本租界寿街北洋飯店16号室に投宿していたところ、2日午後11時5分、「1063」ナンバーの自動車で乗りつけた2人組みが押し入り、ピストルを発射、4発の銃弾を受けた胡恩溥社長が間もなく死亡。2件目は、振報社長・白逾桓が、日本租界須磨街の自宅寝室で就寝中の3日午前4時頃、同じく2人組みが押し入り、ピストルを発射、3発が白逾桓社長に命中し、即死した)。 第二次大戦後、日本軍の仕組んだ謀略であったと、されているようだ。関東軍もここまではバカではないだろう、そこまでのメリットがない。
 日本はこの事件を中国側の責任にしようとし、軍事委員会北平分会代理委員長・何応欽に対し、一晩のうちに二人が暗殺されたのは計画的であり、国家組織か有力団体の仕業だ。河北省政府や天津市政府は事情を知っていて取り締まろうとしないのではないか、と迫った。同時に天津の日本軍は装甲車を出動させ河北政府の門前に布陣、山海関の日本軍を増強して天津方面へ威嚇した。
 国民政府は不測の事態を避けるため、河北省政府を天津から保定に移すことを決定、省主席と天津市長を更迭、さらに日本軍の要求を入れ、河北省の国民党部を閉鎖、中央軍を河北省から移動した。この時、何応欽が日本軍の支那駐屯軍司令官・梅津美治郎に送った通知が、のちに日本軍によって「何応欽・梅津協定」と名付けられ宣伝された。この直後に結ばれた「秦徳純・土肥原協定」も同じような経過をたどった。日本軍はこの協定で、さらにチャハル省からも中国軍を撤退させた。これら日本軍の策謀は、わずかに見えた日中関係改善の動きを吹き飛ばすものであった。6月30日、掃共戦指揮のため滞在した成都で、蒋介石は怒りと慨嘆の言葉を書き留めている。しかし日本軍の挑発を牽制するためにも、外交交渉を強化しなければならない。駐日大使・蒋作賓は9月、広田外相を訪問、日中国交を根本的に調整する三大原則を提起した。1、中日両国は国際法上における完全なる独立を尊重すること。日本は中国に対する不平等条約、例えば租借地、居留地、領事裁判権などをすべて廃止する。軍隊、軍艦などは許可なく相手国の領地、領水に停泊、駐屯あるいは通過しない。2、中日両国は今後真の友好を維持する。例えば統一の破壊、治安の攪乱、相手国に対する中傷あるいは破壊その他の行為をしない。3、中日国交を、今後正規の軌道に回復する。今後中日両国間の一切の事件や問題は、すべて平和的外交手段で解決につとめ、外交機関以外のものが行動を起したり、圧迫手段をとったりすることを即時停止する。もし日本が三項目の基本原則を承認し、さらに上海停戦協定、塘沽協定、その他華北に係る軍関係の約定を破棄、満州問題を除いて、九・一八以前の状態に復元するならば、中国側は、①排日および日本品ボイコットを停止させる。②中国側からは満州問題を提起しない。③平等互恵、貿易均衡の原則の下で、中日両国の経済提携を話し合う。④もし経済提携が成果をあげれば、両国国民の猜疑心もなくなり、軍事関係についても協議する、などと表明した。中国としては最大限の好意的提案であった。広田は即答を避けたものの、積極的姿勢をみせ、再会談の際には、中国政府の希望にすべて応えたい。ただ、どのように実行するかについて、現在軍側と検討していると漏らしたそうだ。

 10月あらためて蒋作賓を招いて広田弘毅は「中国が提出した三大原則をその通り実行することは可能である。それには中国側にまず同意してもらうことがある。1、中国は今後、夷(外国)をもって夷を制する政策を放棄し、欧米勢力を借りて日本を牽制するようなことをしない。2、日本・中国・満州三国の関係を常に円満に保持することを、日中親善の根本前提とすること。中国にが満州国を正式承認すれば、日本は初めて中国に誠意があると認める。あるいは即時承認出来ない事情があるかもしれないが、とにかく中国は満州国存在の事実を尊重しなければならない。3、中国は赤化防止のための有効な方法を、日本と協議すること。中国を赤化する運動の源は、某国(ソ連)にあって、北から南に進展するから、中国北辺一帯の境界地方で赤化防止に関して日本と協議する必要がある。これが所謂「広田三原則」である。蒋介石が報告を受けたのは、掃共戦の指揮や宋哲元、閻錫山ら地方指導者との会談のため、陝西、河南、山西などを飛行機で駆け巡っている最中であった。わずかな時間を利用して、対日外交の直接責任者である行政院長・汪兆銘に打電・意見を伝えた。「大使の原文を受け取っていないが、日本の要求が夷をもって夷を制する外交の放棄、ニセ満州国の尊重、防共連盟という三カ条であるとすれば、形式は比較的軽いようでも、その意義は深刻、重大である。日本の要求は、中国が国際連盟を脱退し、ニセ満州国を承認し、連盟してソ連に対することをもって、要求実施の第一歩とするものにほかならない。慎重に考慮しなければならない。私(蒋介石)の考えでは、中国側はこれに対案を用意し、何ごとを実行するにも、必ず中国の主権を尊重し、中国の統一を妨害せず、まず両国民の疑惑を除去し、感情を好転させるように求めることを、根本的な方針とするべきだと思う。まず、日本側が外交の常道に立ち返るべきで、特に華北の戦闘状態を何よりも先に取り除き、両国間の信義を確立する必要がある。そうしてこそはじめて話し合いが出来る」

 蒋介石の考えは実に説得力がある。いま日本で中国に対して法の支配を主張するが、まさにその逆さまが当時の状況だった。蒋介石の国家の主権の尊重は当時であっても十分理解が出来る主張である。まさしく覇権主義の批判は当時の日本にピッタリだったのだろう。政治が軍部をどう説得させるかが、問われた時だったのだろう。広田外相ではなく岡田首相がリーダシップを発揮する時だったが、文面の行間では、外務省と軍部の協議で進められていたようだ。

広田弘毅という漢

2016年09月20日 | 歴史を尋ねる
 広田弘毅とはどういう人物だったのかと云って、岡崎久彦氏は広田を語り始める。広田は東京裁判で、軍人以外としてはただ一人絞首刑となった。斉藤、岡田啓介両内閣の外相(1933~36年)、広田内閣(1936~37年)の首相、第一次近衛文麿内閣(1937~39年)の外相として、日本が戦争に入っていく重要な時期に枢要な地位にいた責任を問われたものであった。判決理由は、広田が共同謀議に参加したということであった。共同謀議というのは、日本がアジアを侵略する計画をつくりこれを実行する陰謀団があったというほどの意味だと岡崎氏。軍の出先の独走を、外務省はおろか軍自身さえ押え切れなかった実態や、何の戦略も長期的見通しもなく、ずるずると中国大陸に深入りして行った歴史の事実を見るだけでも、判決の論旨が乱暴、粗放なことが分かる、と。東京裁判の判事の中でも意見は分かれ、特に広田については無罪とする意見も少なくなく、死刑判決は一票差の多数決だったと伝えられる。それだけ広田に対する同情論は強かった。

 広田が裁判を通じて、全責任を負うといって、自らは一言も証人台で弁明せず従容として死に着いた心事の潔さは事実によって証明されている、と。自分のしたことを弁明しない。また、自分の利益になることを自らは計らわない。これは武士の心情だ、と。証人台に立って自らを弁護すべきだという友人の忠告に対して、私はいままでいっさい自分で計らわずにきた。総理、外相になったのも、自分では辞退したかったが止むを得ずなった。その他のことも大概は自分で計らうことなしに今日まできた。この期になって今さら自ら計らう気はないと答えたという。
 広田は福岡の石屋に生まれ、小学校の時から働いて家計を助けつつ勉学した。石屋の修行をしてあとを継ぐ筈であったが、成績優秀なので中学に進学し、そこでも抜群の成績で学資を援助しようという篤志家も現れて、一高、東大を経て、明治39年の外交官試験に合格した。広田の特殊な背景としては中学校以来の玄洋社とのつきあいであった。玄洋社は戦前に日本で最も実力のある国粋主義、アジア主義団体であった。広田は玄洋社の人士から、漢詩、漢学などを本格的に学び、特に王陽明の「伝習録」の購読から深い影響を受けた。しかし、広田は玄洋社の社員になっていない。広田の和協外交の内実は、政友会の芦田均が政府の情勢認識は甘すぎると批判したのに対して、「言忠信にして行篤敬なれば蛮貊(ばんぱく)の国といえども行われん」と、正義の観念に基づく外交を行う信念を披歴、さらに貴族院の芳沢健吉の質問に、「世界に対する日本の信用を高めることがいちばん大事だ。信用を高めるには、先ず自ら信用するに足るだけの良心をもっていなければ人は信用しない。国家もまさにそうだと私は思う。国民自らが、いつも衆人公座の前、世界各国の前に、少しも恥じることがない、自ら省みて疚しからざる態度を持していることが何より必要だと思う」と答えた。修身、斉家、治国、平天下の儒教思想を知行合一をもって現実の政治に実践しようという。陽明学の精神だった。

 岡崎氏はさらにいう。陽明学の落し穴は、自らの言行に恥じるところさえなければよいという自己満足で、無策に陥ることである。裁判は広田個人の生命の問題であるから、それでよいかもしれない。しかし国家の政策はそれではいけない。国内では権謀術策を弄する勢力があり、国際的には国権の回復しようとする中国があらゆる外交術策を弄して、日英、日米の離間を策し、中国共産党は国民政府の安内攘外を妨害して日本と対決させようとしている。こんな時に誠意さえあれば通じると信ずるばかりで、対抗する術策を持たないのでは、国家を危険に晒す。総理、外相としての広田の業績にいま一つ物足りないものがある一因はここにあるのではない課と岡崎氏。
 明治以来軍部と政党政治とのあいだの死活的な争点であった軍部大臣現役制の復活をあっさり認めたのは広田内閣の時で、東京裁判で最も引用される「国策大綱」という軍部の意向を大幅に取り入れた作文をそのまま通したのも広田であった。また盧溝橋事件に際して、陸軍の三個師団動員案を、否決する手筈が整っていたにも関わらず、通してしまったのも広田だった。通す方にもそれなりの口実はあるが、広田はその口実にあえて異を唱えず、指導力をまったく発揮していない。それは玄洋社の流れを汲んだ訳でもない。皆がそうと言うならそうしましょうといって受け入れる。それはその後の時代の滔々たる軍国主義、国権主義的風潮の中では、軍の圧力には全く抵抗せず無定見な大勢順応主義と同じになってしまった、と岡崎氏は嘆く。

 広田にとって大事なのは政策内容よりも、一言「よい」といった以上、その政策には自分が全責任を負うという覚悟であった。中央から引退したあとの西郷隆盛の進退もそうだった、と。部下が起ったと聞いて、「しまった」と一言云った後は、一切批判がましいことも言わず、指揮も部下に任せて、従容として運命を共にした。まったく無益の戦を起し、将兵を無意味に死なせてもなお、天に恥じず死したのは、その言動に何ら天道にもとるところがなかったと信じていたから。周囲が常識的ならば、その大勢に逆らわず、自らの行動に全責任をとる用意のある篤実な政治家であるが、そうでない場合は、ただ時流に流されて敢えて指導力を発揮しない危険を伴っている、と。

満州事変収拾の気運

2016年09月19日 | 歴史を尋ねる
 満州事変の勃発は世界をおどかせたが、日本人をも驚かせた。日本はどうなるかと国民は心配し、政府は懸命にその善後策を講じたが、関東軍の幕僚は既定計画に従って突進した。国際連盟は、ついに日本を侵略国と判定するに至って、日本は断乎として連盟を脱退し、独自路線を選んで満州国の建設へと進んだ。主張を堅持し、世界を相手に屈せざるその姿は、節度がこれに伴ったならば、極めて雄々しきものであった、と重光葵は記す。満州事変は支那側の極端なる排日運動に端を発するもので、国際連盟も外国側も、日本の言い分に、多分の理を認めざるを得なかった。国際連盟が会議を繰り返している間に、立派な満州国の建設が出来上がった。日本が、その行動を満州だけに止めたならば、列国もこれを黙認する、という見込みはないではなかった、と。また、東亜や国際連盟を牛耳っていた英国は、当時なお、日英同盟時代の感情を持っている有力者が少なくなく、支那問題の破綻を防ぎたいと考えは、日本だけではなく英国側にも少なからずあった。英国はリットン委員会調査後、私的であるが、有力なるバーンビー使節団を日本に派遣したり、支那財政の救済のため英国はリースロスを派遣したが、その際にも日本をまず訪問して、日本の協力を取り付けようとした。

 支那は日本の毅然たる態度を見て、驚異の眼を見張った。日本の冒険は、直ちに国家の破産を招くであろうといった列国の予言に対して、日本は益々強大となる底力を示した。革命支那は、この威力ある日本を研究し、見習わなければならぬ、という気持ちになった、と重光氏。その気持ちは、日清戦争後の支那識者の心理に酷似した。このため、支那から多くの留学生や見学者が、続々と日本に渡来し、政治家、外交家の日本渡来も急に増加した。この機運を捉えれば、あるいは、日支の関係は禍を転じて福となし得るかも知れぬ、と重光には思われた。このためには、日本側に忍耐と寛大と統制とが無ければならぬ。特別に、大智の運用が必要であった、と。

外交当局たる外務省は、直ちにこの機運を活かして、満州問題の解決に向かおうとした。そのためには、その基礎を作らねばならない。1、日本は連盟脱退時の方針に則り、満州以外の支那本土に対して何ら野心のないことを示し、米国の重んずる門戸開放策に特別の注意を払う。2、列国が無責任に支那の排日を扇動し、武器または財政上の援助を与え、日支間の争闘を激化するようなことを無いようにする。3、日支両国は攪乱をも目的とする共産党の共同災禍に直面していることを自覚すべき、という方針であった。満州は元来支那にとっては辺境の植民地であって、常に半独立の状態にあり、未だ嘗て支那の完全なる部分ではなかった。この問題は、パリ会議でも、ワシントン会議でも、支那とは何かという形で提起された問題であった。しかし、満州国を支那が直ちに承認することは困難だから、日本側は、その建国の成り行きを見つつ、満州国の承認要請は他日に譲るが、満州国はもともと支那人を主体としたものであるから、この上支那と満州との関係を悪化するような政策は、支那側も差し控え、今後の自然の発展に任せ、時を以て解決するとの案であった。ふーむ、ちょっとムシのいい話か。
 しかし、当時(1933~34)列強は、日本を除外して支那に軍事的借款を与え、武器を供給し、軍事顧問または教官を派遣し、飛行場を建設するなど、反日抗日運動の気勢を煽るところがあったので、日支関係は害され、東亜の平和は攪乱される虞があった。そこで1934年4月、天羽外務省情報部長は日本人記者団との定期会見で、質問に応える形で方針を語ったのが所謂天羽声明と云われるものであった。当局の非公式談話として翌日の新聞に掲載されたが、海外には意識的または無意識的に拡大誤報され、悪意ある宣伝に利用された、と重光。内容は方針2に係るものであったが、支那に権益を持つ欧米列強には、支那に対する欧米の不干渉を要求したもの、モンロー主義の焼き直しだとして非常な反響、特に英米に強い反響を招いた。これによって国民政府内の対日協調派の汪兆銘外交部長などの立場が困難になったとの訴えもあった。外務省内でも、この時期に無用なこととの批判もあり、天羽は広田外相に叱責されたという。広田外相は、英米支には日本の真意を説明し、各国も一応それを諒として事態は収まった。

 1933年9月、内田康哉は老齢を理由に外相を辞職し、後任に広田弘毅が就任した。広田の外交は、前任の「焦土外交」に対して「和協外交」と呼ばれた。広田は二つの原則を斉藤実首相の確認を得てから就任した。一つは外交を外務省主導とすること、、もう一つは、連盟脱退の詔書「いよいよ信を篤くし、大義を宇内に顕揚する」に即して外交をする事であった。軍の独走を排し、国際的信義に基づく外交をするということであった。タイミングが良かったと岡崎氏はいう。その年の5月に塘沽停戦協定が出来て、極東の緊張は緩和した。外務省も白鳥敏夫など革新勢力が生まれて、有田八郎次官などに盾ついて省内に分裂があったのを、白鳥の海外転出、有田の辞職という形で修復したばかりであった、と。広田は次官に重光葵、欧米局長に東郷茂徳を擁した。駐米大使には名大使として米国の信用を得て、病没に際して米国は軍艦でその遺体を日本に護送する異例の措置を取った斉藤博を任命した。
 和協外交は、満州建国と連盟脱退を既成事実としたうえで、その前提で米英支ソとの関係を調整しようということであった。広田入閣後、首相、外相、陸海相、蔵相をメンバーとする五相会議が開かれた。事務方の東郷の記述によれば、満州事変後、対外強硬派が急速に台頭してきて、予算の編成にも困難を来してきたので、国策の円満な調整のためにこの会議が開かれた。そして大筋、蔵相、外相の穏和論が勝ち、軍部の強硬意見はついに成立しなかった、と。

 東郷は、広田の外相就任前から欧米局長であったが、国際連盟脱退時の4月、今後の対米英ソ外交について長文の意見書を草している。その中で、日米関係が悪くなっているのは、未だかつてない。日米戦争の可能性まで言及し、これを解決する策としては、満州国については経済面で機会均等、門戸開放政策を守り、満州国以外の地には何ら領土的政治的野心を持たないことを明らかにすべき、と説いた。その後の日米関係は、ほぼ東郷の考え方に沿って調整された。当時、世界の最大の課題は、大不況後の世界経済をいかに立て直すかであり、米国は世界経済会議の予備会議をワシントンで開くよう主要国に呼びかけた。日本にも、連盟脱退後わずか二週間で招請が来た。やはり日本は無視しえない大国であり、極東の安定勢力であった。政府はこの機会を捉えて石井菊次郎を全権として米国との意思の疎通を図った。就任したばかりのF・ローズベルト大統領は石井との会談において、「満州の事件は時の解決を待つほかなく、自ずから打開の道があるであろう、満州問題はその正しい範囲を越えなければ障碍にならないと述べた。時を待つとは、今すぐ米国の態度をひっこめようもないが、既成事実はすぐに変えようもないことを認めた意味であり、早くも満州事変は日米間で実質的に落着した、と岡崎氏は語る。塘沽協定も成立し、それまで日本の行動を激昂していたグルー米駐日大使も「最近日本の態度には顕著な改善がみられる」と報告していた。
 広田は就任早々、新任の斎藤大使にハル国務長官宛てに個人的メッセージを託し、ハルもそれに応えて、その中で互いに、両国間には友好的解決が根本的に困難な問題はないという点で合意した。その後、斉藤大使がピットマン上院議長とあった時、ピットマンは日本が満州と支那の門戸を開放し、長城以南に進出しなければ米国は満足し、その他の問題にはもはやかれこれ言わないだろうといったという。
 しかし日本はその後の支那事変によって、時間が自ずから問題を解決するとした機会を自ら封じてしまった、と。
 

外交戦

2016年09月13日 | 歴史を尋ねる
 1933年(昭和8年)1月13日斎藤内閣は、熱河限定での作戦を閣議で了承した。連盟は和協案を作成中であったが、領域内の軍事行動は問題ないと考えられていた。参謀本部が32年3月に作成した「熱河省兵要地誌」によれば、熱河を獲得するメリットは、西と北に隣接する中国とソ連から、満州国を隔離する緩衝地帯とすることが出来る、北京と天津領有に際して、東からの作戦が可能となることだった。33年2月23日、日本軍が熱河に本格的な攻撃を開始すると、中国軍は一部を除いて退却した。北京大学教授で、汪兆銘や蒋介石の信頼が厚かった胡適は、中国軍の敗退ぶりを批判した。中国がなぜここまで駄目になったか。自らの国家を整頓せず、空言を以て一切の強敵を打倒しようとしたり、先進国の文化と武装を軽蔑したり、近代化の努力をせず、自由平等の地位を勝ち取ろうと空想したりした。いずれも亡国の兆候であった。得た教訓は、我が国の置かれた地位を深く認識し、真の復興の途を着実に歩まなければならない、と。胡適は急進化した国民世論を批判する一方、国民党内の対日強硬派路線を批判し、蒋・汪の堅実な路線に期待をかけた。4月23日、汪は胡に宛てた書簡で、国際社会で日本は道義面で孤立したものの、軍事や経済面では無道であるが跋扈できる実力を有している、中国は道義の面では同情を得たとはいえ、軍事や経済の面では列国からの援助も得られなかったため、同じく孤立している。こうした中国と日本が長く対抗を続けられるものではない、として、汪は日本との停戦への道を選択していった、と加藤陽子氏は著書「満州事変から日中戦争へ」でいう。

 5月31日、斌関東軍参謀副長・岡村寧次と中国軍代表北平分会・熊斌の間で塘沽停戦協定が結ばれた。中国側は関東軍を東北地方の地方当局軍と見做し、自らも北平政務整理委員会と軍事委員会北平分会を設置した。満州地域の地方当局軍である関東軍と、中国の地方当局軍である北平分会との停戦という妥協形式を編み出した。しかし中国側の接収範囲に長城線は含まれず、日本側は警備上の都合を理由に、非武装地帯内の自軍の駐留を強引に認めさせた。政整会の代表となったのは黄郛で知日派で日本にも亡命経験があった。対日強硬派と見られた羅文幹外交部長、宋子文財政部長兼行政院副院長は、それぞれ更迭され、汪行政院長が外交部長を兼任し、汪の下で日本留学経験のある唐有壬が外交部次長に就任した。しかし塘沽停戦協定は、必ずしも国民政府による全面的な対日妥協を意味しなかった。蒋介石は停戦協定の翌日、熱河作戦の教訓を総括し、華北の今後の国防計画を立案する軍部会議の開催を指示し、国民政府指導部も、1、忍耐:10年以内の雪辱を目指し、国家建設を確実に進める。2、韜晦(とうかい):対日融和を外交の援護とし、外交を以て軍事の掩護とする。3、持久、非刺激を今後の方針とした。

 日本の国際連盟脱退と中国の熱河敗退により、世界の関心は連盟から離れていった。32年11月、民主党のローズベルトが大統領に当選すると、アメリカは連盟と距離をとった孤立主義的な色彩を強め、恐慌克服のための保護主義的な産業貿易政策を展開していく。アメリカの恐慌は深刻で、33年の国民総生産は29年の三分の一となり、四人に一人が失業者といわれた。世論も変化した。33年2月のニューヨークタイムズは、中国は連盟規約が想定している国家の定義に当てはまらないのではないか、との疑念を表明するようになった。アメリカは、連盟総会の対日勧告決定後、ソ連とともに日中紛争を処理する連盟諮問委員会への参加を要請されるが、オブザーバーの以上の干与を頑なに拒み、ソ連も委員会への参加を断ったのみならず、33年5月、中東鉄路の北支線を、満州国に売却することを許可した。

 31年12月、犬養内閣の蔵相に就任した高橋是清は、即日金本位制を停止し、金輸出再禁止令を出した。高橋はこれ以降、斉藤、岡田内閣において蔵相を務める。日本経済回復のための処方箋は三つ、1、為替相場を実勢に任せ、輸出拡大、国際収支の黒字化を図った、2、低金利政策をとり、企業資金を得やすく、公債の発行を容易にした、3、赤字国債の日銀引受発行制度により、軍事費などの財政支出を拡大した、併せて農村対策費として時局匡救事業費を初めて計上、また農村に対する低金利資金を貸し出し、金詰りの打開を目指した。折からの満州国建国は、基礎的な産業や道路建設など多くの建設資材を必要とし、満州投資を呼び込んだ。満州では当初、関東軍による反資本主義的な姿勢が強く、満鉄中心、主要産業の一業一社主義を掲げたが、次第に日産などの新興財閥をはじめ、官僚などの専門家による満州経営がなされるようになった。日本は、財政支出の拡大と輸出の拡大によって、諸産業も生産量を拡大し始め、軍需産業と貿易関連産業を主導力として、日本は恐慌からの脱出に成功する。そして財政出動も抑制に向かい、軍事費抑制が必要と判断し、軍部に対して高橋は強い態度で臨むようになった。2・26事件で高橋が殺害された遠因はここに胚胎されたと原朗氏。

 33年11月17日、米ソ国交回復は、日本との戦争の場合を考え、ソ連がアメリカに歩み寄った結果でもあった。中国において、蒋・汪路線に反対する人々にとって、米ソ国交回復の報は期待を抱かせた。これらの人々は国民政府周辺の知識人や対日強硬派であり、胡適、孫科、宋子文などがいた。一時汪兆銘に期待を寄せた胡適であったが、塘沽停戦協定以降は汪と離れ、対ソ連携強化の活路を見出そうとした。立法院長の孫科も、日本を牽制するために米ソとの連携に期待するようになり、日本が無道を行えるのはソ連が新しい五カ年計画がまだ完成していない、米国の海軍がまだ補強を終えていないからで、あと数年たつと日本が劣勢になるので、日本は対ソ、対米戦争に打って出るに相違ない、その時を待てば中国にもチャンスが訪れる、との見方を持っていた。孫科、宋子文らは米ソと連携をしつつ日本と対抗するという考えであった。
 しかし汪兆銘と黄郛は、こうした議論に与しなかった。汪は次のような判断であった。米ソと日本の関係が良好であれば、日中間に何事も起こらないが、有事の場合、日本は必ず先に中国を征服する。中国に漁夫の利を許すわけがない。英米ソと日本との戦いでは英米ソが勝つのは明白である。しかし英米ソは勝利するが、勝利するまでに中国は必ず破壊される。中国はソビエトとなるか、領地が分割されるか、国際共同管理を選択するしか道はなくなる。従って国を荒野にする前に日本との交渉が必要だとした。
 蒋介石は基本的には汪と同じスタンスだったが、対ソ政策については汪と異なった。蒋介石に日記に、対ソ協調は意味がある。なぜなら日本が中ソ連携を忌避するから。敵が恐れるものは、我々が最も歓迎すべきものであり、敵が急ぎたいものは、我々が遅延すべきものである(34年1月4日)、と。
 国民政府の外交は、日本陸軍の華北分離工作が本格化する35年までは、汪に代表される対日交渉路線を主流とし、水面下に、孫科に代表される連外抗日路線があった、と鹿錫俊氏。

脱退を日本人は大喜びした

2016年09月06日 | 歴史を尋ねる
 1933年2月15日、連盟の最終総会に先立って、連盟から日本に勧告案が出された。その内容は、満州国の否認、日本軍の徹底、国連指導の下における満州の共同管理、というものであった。24日の連盟総会で、加盟国によるこの案の採決の結果がどうなるか、誰の目にも明らかだった。日本国内の世論は激昂した。各地で国民総決起大会が開かれ、新聞・マスコミは「連盟即時脱退!」を絶叫した。国連脱退の世論は、もはや押しとどめる事の出来ぬ潮流として、日本全土をおおった。この国内世論のあおりを受けて、日本政府は閣議で脱退を決議し、20日松岡に訓令を打電した。24日の採決の後、連盟脱退宣言をし、席を蹴って退場した。

 松岡一行は直ちにジュネーブを引き揚げ、パリに数日滞在して、その後英国を経由して米国に渡り、帰国する予定だった。ロンドンでは日本に対して概ね好意的な反応だった。まだかっての日英同盟の名残がまだあったからだろう、混乱の続いた満州の地域に、日本が平和建設を進めるのはすばらしい目標だ、不幸にして連盟総会では日本の意図が理解できず、間違った怒りと批判が横行した、大体このような反応だったと、福井雄三著「よみがえる松岡洋右」で解説する。米国に上陸した松岡は日系人の熱烈な歓迎を受けつつ、アメリカの新聞王ロイ・ハワードの助力で、米国各地で精力的に講演をこなした。「日本は東亜で深刻な問題に直面している。しかしこの問題で、日本が最も必要としているにはアメリカの理解である。日本と中国はいま険悪な仲で、日本はその修復に努力しているが、問題解決には長い時間がかかる。アメリカはこれを理解したうえで、東亜を長い目で根気よく見守ってほしい」 大体このような論調だった。米国はこの時大恐慌の真っ最中で、失業者は巷に溢れ、パンを求める物乞いの行列が並び、荒廃と混乱の中にあった、と。
 ワシントンで松岡は、就任直後のルーズベルト大統領を訪問した。松岡がかつて日本大使館にいた頃からの旧知の中であった。彼は喜んで会ってくれた。思い出話からジュネーブでの顛末まで、和やかに会話が弾み、松岡が、もし日米間に不和が生じた場合、解決に向けてお互い協力し合おうともべると、喜んでそうしたいと大統領から返事が返った、という。

 帰国に向け、松岡の心は沈み、鬱々として楽しまなかったが、横浜港の埠頭には空前の大群衆が詰めかけ、日の丸の小旗を振りながら「万歳!」「万歳!」の歓呼を繰り返していた。山本丈太郎をはじめとする各界の名士、小中学校の生徒、青年団、在郷軍人団体、これらの大群衆で立錐の余地もない、横浜駅から東京駅まで鉄道省が特別に仕立てた「全権列車」が用意され、東京駅のホームには全閣僚と陸軍・海軍・政友会の代表者が出迎え、車で宮城に向かう遠藤の両側には在郷軍人と学生が整列し、万歳の歓呼をあげていた。松岡はまるで凱旋将軍になったような錯覚に陥った、と。
 松岡が11月にジュネーブに到着してから2月に引き上げるまでの三カ月間、彼の活動は新聞で逐一報道され、国民は固唾を飲んで彼の一挙手一投足を見守っていた。「十字架上の日本」の演説に国民は拍手喝采し、溜飲が下がる思いだった。言いたいことを松岡が歯に衣着せず世界に訴えてくれている。とりわけ2月15日に勧告案直後、日本国民の連盟に対する憤激は頂点に達し、24日の松岡が脱退宣言をして席を蹴って退場したニュース映像が日本に報道されるや、国民は「殿中松の廊下」のように興奮し、熱狂した。その意味で松岡は、大衆の心理に見事に溶け込める大衆政治家であった、と福井氏は記述する。

 それに加えて、当時の国際連盟の力の限界もあった。米国もソ連も加盟しておらず、制裁決議をしてもその効力はほとんど期待できず、強制力に欠けていた。この年10月にドイツも連盟から脱退したが、ドイツにとって痛くも痒くもなかった。その後イタリアがエチオピアを侵略した時、連盟はイタリアに対する経済制裁を決議したが、足並みがそろわず、なんの効果も生じなかった。あの当時の日本国民が連盟に留まる意義をほとんど見いだせず、脱退することに抵抗を感じなかったこともあった、と。

内田康哉という漢

2016年09月03日 | 歴史を尋ねる
 東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館勤務、清国北京公使館勤務中に一時、臨時代理公使・オーストリア公使兼スイス公使・アメリカ大使・ロシア大使などを歴任し、第4次伊藤内閣の外務次官を務めた。第2次西園寺内閣、原内閣、高橋内閣、加藤友三郎内閣に於いて外務大臣を務める。特に原内閣以降、パリ講和会議やワシントン会議の時期の外相として、ヴェルサイユ体制、ワシントン体制の構築に関与し、1928年の不戦条約成立にも関係するなど、第一次世界大戦後の国際協調体制を創設した一人であった。

 1930年(昭和5年)に貴族院議員、1931年(昭和6年)に南満州鉄道総裁に就任。同年9月の満州事変には不拡大方針で臨んだが、満鉄首脳で事変拡大派の十河信二の斡旋によって関東軍司令官・本庄繁と面会したのを機に、急進的な拡大派に転向する。斎藤内閣では再び外務大臣を務め、満州国建設を承認、1932年(昭和7年)8月25日、衆議院で「国を焦土にしても満州国の権益を譲らない」と答弁(焦土演説)。質問者の森恪は武断外交の推進者として知られるが、さしもの森も仰天し答弁を修正する意思がないか問うが内田は応じなかった。1920年代の国際協調の時代を代表する外政家である内田の急転向は、焦土外交として物議を醸した。当時の外交評論家清沢洌は「国が焦土となるのを避けるのが外交であろう」と批判した。1936年(昭和11年)3月12日、二・二六事件の15日後に死去。70歳没。その生涯について、岡崎久彦氏は「彼についての記録から彼の思想信念を知ることは難しい。おそらく特に哲学のない単なる有能な事務官僚だったのだろう。したがってその行動も時流とともに変わっていく。その意味で内田の意見は、時の国民意識の変化を代表しているといえる」と評している。戦前の日本を代表する外政家だが、その外交姿勢は時期によって揺れがあり、単純ではない、と。外相在職期間通算7年5か月は、現在に至るまで最長である。

 日本側は中国を批判する際、統治が全域に及ばず、共産軍も跋扈していると述べることが多かったが、1932年5月、リットン調査委員会は3月に会見したばかりの犬養首相が海軍青年士官に官邸で暗殺された報を聞くことになった。軍部を抑えられない日本は、安定した政府と言えるのかと反問されれば、返す言葉のない社会不安のただ中に日本はあった。天皇は後継首班奏薦に当たる西園寺に希望を伝えた。①人格の立派なもの、②政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛出来る人格者であること、③協力内閣・単独内閣は問わず、④ファッショに近きものは絶対に不可、⑤憲法擁護、の五点であった。西園寺は斉藤実(前朝鮮総督、海軍大将)を奏薦、5月25日斎藤内閣成立、外相は内田康哉。この時期、議会は対外的に強硬な姿勢を見せた。6月14日、衆議院本会議で、政友・民政共同提案の満州国承認決議は全会一致で可決された。満鉄総裁時代から関東軍の行動に協力的であった内田外相は、早くから満州国独立・満州国承認論を論じていた。所謂焦土演説(国を焦土としても満州国を承認する)は8月25日の議会において。9月25日、日本政府は日満議定書を調印し満州国を承認した。内田は、日本の行動は自衛であり不戦条約には違反しない、また満州国の成立は中国内部の分離運動の結果であるから九か国条約に違反しないと述べた。軍の論理とまったく同じことを内田は言っている。リットン報告書の公表直前、満州国を単独承認した。挑発的ともいえる日本のやり方は、連盟の日本代表部のほか、朝鮮総督の宇垣一成などからも批判があった。しかし、日本軍を駐屯させ、交通機関を掌握し続けるためには、満州国を承認し、同国と条約を締結しなければならないという主張が、次第に説得力を増した、と。もはや後戻りできないところまで来てしまったということか。
 日満議定書は、①満州国は、これまで日支間に締結された条約、協定などによって日本国や日本人が有する権利利益を確認し尊重する、②日満両国の共同防衛のため日本国軍は満州国内に駐屯する、の二点からなっている、と。これまで頭痛の種であった、併行線禁止条項の是非に終止符を打ち、条約2条で認められていた商租権を初めて可能とするものだった。と言って、議員たちに、満州国承認、連盟脱退のストーリーまで考えていた訳ではなかった、と加藤陽子氏はいう。外交官から衆議院議員に転じた芦田均は、満州国承認は当然としても、日本は勧告に応じないと毅然としていれば良い、と。東京帝国大学教授で宮内省や外務省の法律顧問であった国際法学者の立作太郎は、制裁の可能性を避けるため脱退すべきと説く者が多い中で、報告書に依って勧告を受けたとしても、勧告そのものに法律上の義務違反となることはない、よって日本は受諾しないとの立場を取ればよい、と。ただし、新しい戦争を始めたら、制裁が適用される、と。この論点は、熱河作戦に際して大問題となった。

 加藤陽子氏は当時の内田康哉外相の真意を次のように推察する。内田の対満政策は強硬だったが、対中政策全体は強硬であったことを意味しない。内田は中国内部の権力対立を注視していた、と。32年4月、先に行政院長であり立法院長であった孫科は「抗日救国綱領」を発し、連米、連ソを唱えていた。5月、汪兆銘が行政院長を務める行政院は、国民党中央政治会議に、即時対ソ復交を求めた。しかし国民党中央政治会議は、当面不可侵条約だけをソ連と締結し、ソ連の対中宣伝を阻止する案を決定し、行政院の案を退けた。更に蒋介石は6月中旬、政・軍首脳部を秘密裏に集めた会議で、「攘外必先安内(共産軍を打倒した後、日本にあたる)」方針を決定し、帰任する蒋作實駐日公使を呼び、「日本に対しては提携主義を採る」との方針を日本側に伝えさせていた。6月、蒋介石は第四次剿共戦を再開した。8月24日、蒋介石は蒋作實に対して「もし日本当局に方針を多少変更し中日間の親善を改めて図る転機があるなら、中国は直ちに交渉を開始することにする。(略)私は責任を持ってこのことに当たる」との極秘電報を送った。内田はこうした蒋介石の意向を知ったうえで、焦土演説をした、と加藤氏。内田は、ソ連に融和的な孫科などの勢力を排し、蒋・汪合作政権が満州国を事実上認める線での日中直接交渉へと誘導されるのを期待していた。また、中国側が連盟の頼りにならないことを承知しつつも、国民の手前を繕う必要がなくなるよう、中国側を日中直接交渉に誘導すべく、連盟の日本代表に指示を与えていた、と。松岡洋右が首席全権としてジュネーブに到着以前の経緯であった。松岡は事前に承知していなかっただろう。

 連盟特別総会は32年12月に開かれた経緯は前回触れた。12月9日の総会討議を踏まえて、早い解決案を提出するよう十九人委員会に求めた。15日、委員会は決議案の草案を書き上げた。連盟の日本代表が、米ソを加えた和協委員会案での解決を政府に具申したが、内田は一カ月以上も反対し続けた。内田にしてみれば、米国が出てくれば、せっかくの国民政府内の直接交渉気運が吹き飛ばされると、懸念した。内田の一月の電文は、支那側の他力主義を刺激する、米露招請は愚策と決めつけた。陸軍代表の建川美次さえ賛成した妥協案を内田が葬った瞬間であった、と。内田は脱退せずに済ます自信があった。天皇にそのように奏上した。天皇は信用しなかったが。連盟事務局による妥協案や英国外相サイモンによる最後の妥協案も日本の反対にあい、2月6日、十九人委員会の採択を経た第15条の勧告は和協案よりも厳しいものになった。中国のボイコットに対して、満州事変以降のボイコットは「復仇行為」として認定、中国側に一切責任はなかったとした。
 政党も内田外相も、連盟脱退は考えていなかった。松岡も連盟との妥協を追及していた。専門外交官の中に、脱退論が早くから見られた。小国の意向に拘束される連盟を離れ、事態の鎮静化するのを待って、満州問題の解決は大国間の協議で進めるのが良い、と。歴史の事実は、各国がすぐさま満州のことを忘れた。戦債支払いをめぐる英仏の対立、ヴェルサイユ体制へのドイツの異議申立て、軍縮をめぐる英仏の対立など、問題は山積していた。もう一つの脱退論は、国際法学者立作太郎の第16条制裁問題であった。第15条の和解や勧告を無視して新しい戦争に訴えた場合にだけ、16条の適用が始まる。問題は関東軍が満州国を完成させるため、彼らの認識において満州国の領域に入ると見做してた熱河省で戦闘を始めたらどうなるか。中国は勿論英米列国もまた、熱河省での戦闘は新しい戦闘と見做すだろう。そうなると制裁や除名の恐れが出てくる、このように考えた斎藤内閣の内側から、脱退論が急速に高まった。

 33年1月13日の閣議で、斉藤内閣は熱河限定での作戦を了承した。内田外相も熱河問題は純然たる満州国内部の問題であるとの見解を帝国議会で述べている。既定の計画内であるとの感覚は、参謀総長と天皇の間にも共有されていた。参謀総長の上奏に対して、天皇が許可を与えた。事態は2月8日に動いた。連盟の手続きが和協案から勧告案へと移行したことが内閣に伝えられると、斉藤首相は、熱河攻撃は連盟の関係上実行し難いので、内閣として同意できない、午後の閣議で相談すると、天皇に伝えた。斉藤の奏上に驚いた天皇は、取り消しを命じようとした。侍従武官長の奈良は決定が間違ったならば、内閣が天皇に頼ろうとするのは筋違い、閣議決定を修正すればよいと答えている。熱河作戦は撤回できない。第16条の適用もありうるかもしれない。ならば速やかに脱退すべきだとの方針を内閣は取った。2月20日の閣議は、連盟総会が勧告を採択した場合の脱退を決定した。22日、日本軍は熱河侵攻を開始、24日、総会出の勧告案採決は、賛成42、反対1、棄権1。3月4日、熱河省の省都・承徳を陥落させた。