当時の事情を「蒋介石秘録 日中関係八十年の証言」を参考にしたい。前にも触れたこの秘録はサンケイ新聞社が蒋介石の日記、回想、中華民国政府公文書、中国国民党の公式記録に準拠して連載されたものである。
満州国を帝政化し、天羽声明で中国侵略を公言(これが蒋介石の理解だとは思えないが、欧米からはこう見られたか?)した日本の斎藤実内閣は、疑獄事件(帝人事件:帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。)によって瓦解し、昭和9年(1934)7月、海軍大将・岡田啓介を首班とする内閣が成立した。岡田はどちらかというと穏健派に属し、外相には広田弘毅がそのまま留任した。広田外交に協調的な糸口が見えたのは、明けて1935年1月の議会演説からであった。「中国の政局は近来平静で、甚だ喜ばしい。両国間の懸案は漸次解決し、中国の国民も次第に日本の真意を了解する傾向にある。今後もますますこの傾向を促進したい」と、日中関係の改善を示唆した。
国際裁判所判事になっていた王寵恵が、ハーグに戻るとき、私人の資格で日本に立ち寄り、外相・広田弘毅と直接面談して、日本側の真意を打診した。汪寵恵は速やかに東北(満州)問題を解決する必要があることを強調し、二大原則を日本政府と国民が実行することを要求した。1、日中両国は完全に平等な立場に立ち、互いに独立を尊重する。そのためにも日本は、率先して中国に対する一切の不平等条約、中でも領事裁判権を取り消す。2、日中両国は真に友好を維持するため、相手方の統一を破壊したり、治安を攪乱するような行動を慎む。更に日中間の外交交渉を軌道に乗せるため、平和的手段以外の威嚇や暴力は慎むべき、と。これに対して広田弘毅は、二大原則並びに外交交渉を軌道に乗せることには同意したが、「中国はしばらく満州問題を提案しないでほしい。もし満州問題解決が先決条件であるならば、好転した両国関係はかえって逆転する」と。
王寵恵は次いで岡田首相、林銑十郎陸相、大角岑生海相、重光葵外務次官らと会談を続け、再度広田弘毅外相と会談、日本の政府当局者は東北問題について以前からの頑迷な姿勢をまったく変えなかったが、一連の会談は平和的雰囲気のうちに進められ、急速に日中の接近は進むかに見えた。十年来の懸案であった日中両国の公使を大使に昇格させる問題も話し合いがつき、両国政府が同時に発表した。
こうした日中の接近を妨害したのは、ソ連、共産分子、日本の軍部であった。ソ連は3月、中国の反対を無視して、東北の中東鉄路を満州国に売り渡した。中国は1931年12月、ソ連と国交を回復しており、これは中国に対する背信行為であった。関東軍も広田外交に不満で、武力発動を正当化するための口実づくりに取り掛かった。
1935年5月、天津の日本租界で、二人の親日派の中国人新聞社長が暗殺された(天津日本租界事件:1935年5月2日深夜から3日未明にかけて、天津日本租界で親日満の新聞社社長2人が立て続けに暗殺された事件。1件目は、国権報社長・胡恩溥が夫人とともに日本租界寿街北洋飯店16号室に投宿していたところ、2日午後11時5分、「1063」ナンバーの自動車で乗りつけた2人組みが押し入り、ピストルを発射、4発の銃弾を受けた胡恩溥社長が間もなく死亡。2件目は、振報社長・白逾桓が、日本租界須磨街の自宅寝室で就寝中の3日午前4時頃、同じく2人組みが押し入り、ピストルを発射、3発が白逾桓社長に命中し、即死した)。 第二次大戦後、日本軍の仕組んだ謀略であったと、されているようだ。関東軍もここまではバカではないだろう、そこまでのメリットがない。
日本はこの事件を中国側の責任にしようとし、軍事委員会北平分会代理委員長・何応欽に対し、一晩のうちに二人が暗殺されたのは計画的であり、国家組織か有力団体の仕業だ。河北省政府や天津市政府は事情を知っていて取り締まろうとしないのではないか、と迫った。同時に天津の日本軍は装甲車を出動させ河北政府の門前に布陣、山海関の日本軍を増強して天津方面へ威嚇した。
国民政府は不測の事態を避けるため、河北省政府を天津から保定に移すことを決定、省主席と天津市長を更迭、さらに日本軍の要求を入れ、河北省の国民党部を閉鎖、中央軍を河北省から移動した。この時、何応欽が日本軍の支那駐屯軍司令官・梅津美治郎に送った通知が、のちに日本軍によって「何応欽・梅津協定」と名付けられ宣伝された。この直後に結ばれた「秦徳純・土肥原協定」も同じような経過をたどった。日本軍はこの協定で、さらにチャハル省からも中国軍を撤退させた。これら日本軍の策謀は、わずかに見えた日中関係改善の動きを吹き飛ばすものであった。6月30日、掃共戦指揮のため滞在した成都で、蒋介石は怒りと慨嘆の言葉を書き留めている。しかし日本軍の挑発を牽制するためにも、外交交渉を強化しなければならない。駐日大使・蒋作賓は9月、広田外相を訪問、日中国交を根本的に調整する三大原則を提起した。1、中日両国は国際法上における完全なる独立を尊重すること。日本は中国に対する不平等条約、例えば租借地、居留地、領事裁判権などをすべて廃止する。軍隊、軍艦などは許可なく相手国の領地、領水に停泊、駐屯あるいは通過しない。2、中日両国は今後真の友好を維持する。例えば統一の破壊、治安の攪乱、相手国に対する中傷あるいは破壊その他の行為をしない。3、中日国交を、今後正規の軌道に回復する。今後中日両国間の一切の事件や問題は、すべて平和的外交手段で解決につとめ、外交機関以外のものが行動を起したり、圧迫手段をとったりすることを即時停止する。もし日本が三項目の基本原則を承認し、さらに上海停戦協定、塘沽協定、その他華北に係る軍関係の約定を破棄、満州問題を除いて、九・一八以前の状態に復元するならば、中国側は、①排日および日本品ボイコットを停止させる。②中国側からは満州問題を提起しない。③平等互恵、貿易均衡の原則の下で、中日両国の経済提携を話し合う。④もし経済提携が成果をあげれば、両国国民の猜疑心もなくなり、軍事関係についても協議する、などと表明した。中国としては最大限の好意的提案であった。広田は即答を避けたものの、積極的姿勢をみせ、再会談の際には、中国政府の希望にすべて応えたい。ただ、どのように実行するかについて、現在軍側と検討していると漏らしたそうだ。
10月あらためて蒋作賓を招いて広田弘毅は「中国が提出した三大原則をその通り実行することは可能である。それには中国側にまず同意してもらうことがある。1、中国は今後、夷(外国)をもって夷を制する政策を放棄し、欧米勢力を借りて日本を牽制するようなことをしない。2、日本・中国・満州三国の関係を常に円満に保持することを、日中親善の根本前提とすること。中国にが満州国を正式承認すれば、日本は初めて中国に誠意があると認める。あるいは即時承認出来ない事情があるかもしれないが、とにかく中国は満州国存在の事実を尊重しなければならない。3、中国は赤化防止のための有効な方法を、日本と協議すること。中国を赤化する運動の源は、某国(ソ連)にあって、北から南に進展するから、中国北辺一帯の境界地方で赤化防止に関して日本と協議する必要がある。これが所謂「広田三原則」である。蒋介石が報告を受けたのは、掃共戦の指揮や宋哲元、閻錫山ら地方指導者との会談のため、陝西、河南、山西などを飛行機で駆け巡っている最中であった。わずかな時間を利用して、対日外交の直接責任者である行政院長・汪兆銘に打電・意見を伝えた。「大使の原文を受け取っていないが、日本の要求が夷をもって夷を制する外交の放棄、ニセ満州国の尊重、防共連盟という三カ条であるとすれば、形式は比較的軽いようでも、その意義は深刻、重大である。日本の要求は、中国が国際連盟を脱退し、ニセ満州国を承認し、連盟してソ連に対することをもって、要求実施の第一歩とするものにほかならない。慎重に考慮しなければならない。私(蒋介石)の考えでは、中国側はこれに対案を用意し、何ごとを実行するにも、必ず中国の主権を尊重し、中国の統一を妨害せず、まず両国民の疑惑を除去し、感情を好転させるように求めることを、根本的な方針とするべきだと思う。まず、日本側が外交の常道に立ち返るべきで、特に華北の戦闘状態を何よりも先に取り除き、両国間の信義を確立する必要がある。そうしてこそはじめて話し合いが出来る」
蒋介石の考えは実に説得力がある。いま日本で中国に対して法の支配を主張するが、まさにその逆さまが当時の状況だった。蒋介石の国家の主権の尊重は当時であっても十分理解が出来る主張である。まさしく覇権主義の批判は当時の日本にピッタリだったのだろう。政治が軍部をどう説得させるかが、問われた時だったのだろう。広田外相ではなく岡田首相がリーダシップを発揮する時だったが、文面の行間では、外務省と軍部の協議で進められていたようだ。
満州国を帝政化し、天羽声明で中国侵略を公言(これが蒋介石の理解だとは思えないが、欧米からはこう見られたか?)した日本の斎藤実内閣は、疑獄事件(帝人事件:帝人社長や台湾銀行頭取、番町会の永野護、大蔵省の次官・銀行局長ら全16人が起訴された。斎藤実内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。検察による強引な取調べと起訴が批判され、「検察ファシズム」といわれた。)によって瓦解し、昭和9年(1934)7月、海軍大将・岡田啓介を首班とする内閣が成立した。岡田はどちらかというと穏健派に属し、外相には広田弘毅がそのまま留任した。広田外交に協調的な糸口が見えたのは、明けて1935年1月の議会演説からであった。「中国の政局は近来平静で、甚だ喜ばしい。両国間の懸案は漸次解決し、中国の国民も次第に日本の真意を了解する傾向にある。今後もますますこの傾向を促進したい」と、日中関係の改善を示唆した。
国際裁判所判事になっていた王寵恵が、ハーグに戻るとき、私人の資格で日本に立ち寄り、外相・広田弘毅と直接面談して、日本側の真意を打診した。汪寵恵は速やかに東北(満州)問題を解決する必要があることを強調し、二大原則を日本政府と国民が実行することを要求した。1、日中両国は完全に平等な立場に立ち、互いに独立を尊重する。そのためにも日本は、率先して中国に対する一切の不平等条約、中でも領事裁判権を取り消す。2、日中両国は真に友好を維持するため、相手方の統一を破壊したり、治安を攪乱するような行動を慎む。更に日中間の外交交渉を軌道に乗せるため、平和的手段以外の威嚇や暴力は慎むべき、と。これに対して広田弘毅は、二大原則並びに外交交渉を軌道に乗せることには同意したが、「中国はしばらく満州問題を提案しないでほしい。もし満州問題解決が先決条件であるならば、好転した両国関係はかえって逆転する」と。
王寵恵は次いで岡田首相、林銑十郎陸相、大角岑生海相、重光葵外務次官らと会談を続け、再度広田弘毅外相と会談、日本の政府当局者は東北問題について以前からの頑迷な姿勢をまったく変えなかったが、一連の会談は平和的雰囲気のうちに進められ、急速に日中の接近は進むかに見えた。十年来の懸案であった日中両国の公使を大使に昇格させる問題も話し合いがつき、両国政府が同時に発表した。
こうした日中の接近を妨害したのは、ソ連、共産分子、日本の軍部であった。ソ連は3月、中国の反対を無視して、東北の中東鉄路を満州国に売り渡した。中国は1931年12月、ソ連と国交を回復しており、これは中国に対する背信行為であった。関東軍も広田外交に不満で、武力発動を正当化するための口実づくりに取り掛かった。
1935年5月、天津の日本租界で、二人の親日派の中国人新聞社長が暗殺された(天津日本租界事件:1935年5月2日深夜から3日未明にかけて、天津日本租界で親日満の新聞社社長2人が立て続けに暗殺された事件。1件目は、国権報社長・胡恩溥が夫人とともに日本租界寿街北洋飯店16号室に投宿していたところ、2日午後11時5分、「1063」ナンバーの自動車で乗りつけた2人組みが押し入り、ピストルを発射、4発の銃弾を受けた胡恩溥社長が間もなく死亡。2件目は、振報社長・白逾桓が、日本租界須磨街の自宅寝室で就寝中の3日午前4時頃、同じく2人組みが押し入り、ピストルを発射、3発が白逾桓社長に命中し、即死した)。 第二次大戦後、日本軍の仕組んだ謀略であったと、されているようだ。関東軍もここまではバカではないだろう、そこまでのメリットがない。
日本はこの事件を中国側の責任にしようとし、軍事委員会北平分会代理委員長・何応欽に対し、一晩のうちに二人が暗殺されたのは計画的であり、国家組織か有力団体の仕業だ。河北省政府や天津市政府は事情を知っていて取り締まろうとしないのではないか、と迫った。同時に天津の日本軍は装甲車を出動させ河北政府の門前に布陣、山海関の日本軍を増強して天津方面へ威嚇した。
国民政府は不測の事態を避けるため、河北省政府を天津から保定に移すことを決定、省主席と天津市長を更迭、さらに日本軍の要求を入れ、河北省の国民党部を閉鎖、中央軍を河北省から移動した。この時、何応欽が日本軍の支那駐屯軍司令官・梅津美治郎に送った通知が、のちに日本軍によって「何応欽・梅津協定」と名付けられ宣伝された。この直後に結ばれた「秦徳純・土肥原協定」も同じような経過をたどった。日本軍はこの協定で、さらにチャハル省からも中国軍を撤退させた。これら日本軍の策謀は、わずかに見えた日中関係改善の動きを吹き飛ばすものであった。6月30日、掃共戦指揮のため滞在した成都で、蒋介石は怒りと慨嘆の言葉を書き留めている。しかし日本軍の挑発を牽制するためにも、外交交渉を強化しなければならない。駐日大使・蒋作賓は9月、広田外相を訪問、日中国交を根本的に調整する三大原則を提起した。1、中日両国は国際法上における完全なる独立を尊重すること。日本は中国に対する不平等条約、例えば租借地、居留地、領事裁判権などをすべて廃止する。軍隊、軍艦などは許可なく相手国の領地、領水に停泊、駐屯あるいは通過しない。2、中日両国は今後真の友好を維持する。例えば統一の破壊、治安の攪乱、相手国に対する中傷あるいは破壊その他の行為をしない。3、中日国交を、今後正規の軌道に回復する。今後中日両国間の一切の事件や問題は、すべて平和的外交手段で解決につとめ、外交機関以外のものが行動を起したり、圧迫手段をとったりすることを即時停止する。もし日本が三項目の基本原則を承認し、さらに上海停戦協定、塘沽協定、その他華北に係る軍関係の約定を破棄、満州問題を除いて、九・一八以前の状態に復元するならば、中国側は、①排日および日本品ボイコットを停止させる。②中国側からは満州問題を提起しない。③平等互恵、貿易均衡の原則の下で、中日両国の経済提携を話し合う。④もし経済提携が成果をあげれば、両国国民の猜疑心もなくなり、軍事関係についても協議する、などと表明した。中国としては最大限の好意的提案であった。広田は即答を避けたものの、積極的姿勢をみせ、再会談の際には、中国政府の希望にすべて応えたい。ただ、どのように実行するかについて、現在軍側と検討していると漏らしたそうだ。
10月あらためて蒋作賓を招いて広田弘毅は「中国が提出した三大原則をその通り実行することは可能である。それには中国側にまず同意してもらうことがある。1、中国は今後、夷(外国)をもって夷を制する政策を放棄し、欧米勢力を借りて日本を牽制するようなことをしない。2、日本・中国・満州三国の関係を常に円満に保持することを、日中親善の根本前提とすること。中国にが満州国を正式承認すれば、日本は初めて中国に誠意があると認める。あるいは即時承認出来ない事情があるかもしれないが、とにかく中国は満州国存在の事実を尊重しなければならない。3、中国は赤化防止のための有効な方法を、日本と協議すること。中国を赤化する運動の源は、某国(ソ連)にあって、北から南に進展するから、中国北辺一帯の境界地方で赤化防止に関して日本と協議する必要がある。これが所謂「広田三原則」である。蒋介石が報告を受けたのは、掃共戦の指揮や宋哲元、閻錫山ら地方指導者との会談のため、陝西、河南、山西などを飛行機で駆け巡っている最中であった。わずかな時間を利用して、対日外交の直接責任者である行政院長・汪兆銘に打電・意見を伝えた。「大使の原文を受け取っていないが、日本の要求が夷をもって夷を制する外交の放棄、ニセ満州国の尊重、防共連盟という三カ条であるとすれば、形式は比較的軽いようでも、その意義は深刻、重大である。日本の要求は、中国が国際連盟を脱退し、ニセ満州国を承認し、連盟してソ連に対することをもって、要求実施の第一歩とするものにほかならない。慎重に考慮しなければならない。私(蒋介石)の考えでは、中国側はこれに対案を用意し、何ごとを実行するにも、必ず中国の主権を尊重し、中国の統一を妨害せず、まず両国民の疑惑を除去し、感情を好転させるように求めることを、根本的な方針とするべきだと思う。まず、日本側が外交の常道に立ち返るべきで、特に華北の戦闘状態を何よりも先に取り除き、両国間の信義を確立する必要がある。そうしてこそはじめて話し合いが出来る」
蒋介石の考えは実に説得力がある。いま日本で中国に対して法の支配を主張するが、まさにその逆さまが当時の状況だった。蒋介石の国家の主権の尊重は当時であっても十分理解が出来る主張である。まさしく覇権主義の批判は当時の日本にピッタリだったのだろう。政治が軍部をどう説得させるかが、問われた時だったのだろう。広田外相ではなく岡田首相がリーダシップを発揮する時だったが、文面の行間では、外務省と軍部の協議で進められていたようだ。