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田中・蒋介石会談(1927年11月5日)

2015年07月02日 | 歴史を尋ねる
 機を見るに敏な蒋介石は北伐の最中であったが、戦線を離脱し、いったん郷里の奉化に隠棲した。しかし、間もなく上海から船で長崎に上陸した(秘録ではこの後アメリカ他の国々をめぐり見聞を広める為)。伴なうもの参謀長の張群、秘書の陳方之らわずか五名、長崎から有馬温泉によって、宋美齢との結婚を当地で療養中の彼女の母に承諾を貰うためでもあった。そのあと奈良、箱根、熱海を経て東京の帝国ホテルに旅装を解いた。頭山満、内田良平、渋澤栄一、山本条太郎ら、古くからの友人、政財界人と会い、外務省からも宴に招待された。しかしもっとも重要だったのは首相・田中義一との会談であった。草柳の著書によると、会談場所は箱根の富士屋ホテル、サンケイ新聞社刊「蒋介石秘録」によると東京青山の私邸となっている。また会談後陪席した佐藤安之助少将の会談録として詳細な一問一答があるが、中国側の記録とかなりニュアンスが異なっているという。ここではまず、秘録に掲載されている会談直後の蒋介石の日記を紹介したい。

 「今日の田中との会談の結果を総合すると、彼にはいささかも誠意がないと断言することができる。中日間にはまず合作の可能性はあり得ないし、同時に、日本は我々の革命の成功を許さず、今後、必ずやわが革命軍の北伐の行動を妨害し、中国の統一を阻止するであろうことは、火を見るより明らかであることを知った。日本は今北洋軍閥を相手としているが、満清時代、甲午戦争以来ずっと、日本との交渉に携わっている者は、すべて腐敗した利己的な徒でしかない。これが日本人をして中国人を軽侮させることとなり、この積み重ねが、一層この傾向を助長させた。私のこの度の訪問も、結果としてこうした理由のため、失敗に帰したといえよう。田中は昔日の軍閥官僚に対するのと同じような態度で、私に接した。一貫して、私をあしらい、丸め込もうとし、誠意は見られなかった。私は、中国侵略という日本の伝統的な政策を転換させることは出来なかった。しかし、その政策のあらましを垣間見ることができたことは、私にとって、全く無駄ではなかったことができる」
 訪日以来、中国に残る同志から盛んに帰国を促す電報が来た。同行していた張群や宋子文にも、ひざ詰めで復職を迫られた。汪兆銘からも帰国の要請があった。帰国を決断したのは11月7日であった。

 上記の日記の内容が当時そのままだったか、少し修飾されかは不明であるが、これまで歴史的経緯を追ってきた者としては、蒋介石はある可能性を模索し、その結果、彼は一定の方向を決断したと思わざるを得ない。その可能性とは、彼も触れているように、日中合作、日中で提携して革命(北伐)の成就、そして共産党組織を排除する事の可能性を探ったのではないか、或は、少しでも蒋介石が進めている方向に日本の協力が得られないか、と探ったのではないか。そして田中とのやり取りにそれに触れるような少しの気配も感じられなかったというのが、この日記から垣間見えてくる蒋介石の心情である。これを、中華民国総統府に保存されている公文書で追ってみたい。

 蒋介石「中日両国の関係の将来は、東亜の前途の禍福を決定するものである。閣下(田中)は、どうお考えか。
 田中「先に閣下(蒋介石)の来日の抱負から聞かせて頂きたい。
 「私の考えは三つある。第一は、中日は誠意を以て合作し、真の平等を基礎にすることによって、はじめて共存共栄が出来る。これには日本の対華政策の改善が必要である。日本は、腐敗した軍閥を再び相手とせず、自由・平等を求める国民党を相手とすべきである。愛国の志ある者を友として選ぶべきであって、そうなってはじめて中日は真の提携と合作が出来る。 第二に、中国の国民革命軍は、今後必ず北伐を継続し、革命、統一というその使命を完成させるであろうが、日本政府はこれに干渉を加えず、助力することを希望したい。 第三に、日本の対中政策は、武力を放棄し、経済を提携の大本とすることがどうしても必要である。私がこのたび貴国を訪問したのは、中日両国の政策について閣下と意見を交換し、何らかの結論を得るためである。閣下の意見をはっきりとご教授いただきたい。」
 田中「閣下は、北伐の目標を南京におき、長江以南の統一を宗旨とすべきだ。なぜそのようにしないで、北伐を急ごうとするのか。」
 「中国革命の目指すところは全国の統一にある。北伐は出来るだけ速やかに完成させなけばならないし、中国がもし統一できなければ、東亜は安定を得られない。これはもとより中国の大禍であるだけでなく、日本の福でもない。」
 「中国革命の目指すところは全国の統一にある」と述べた時、田中はさっと顔色を変えた。中国分断の野心を抱いていた田中は、中国統一に触れられて不快さをあらわした。彼の言葉や態度は、日本軍閥が以後、中国統一阻止に狂奔するであろうことを十分窺わせた、と。

 草柳の著書によると、「田中・蒋会談」に到る経緯はこうだ。蒋介石は田中義一に会いたがった。張群が陸軍省に鈴木貞一を訪れ蒋の意思を伝える。鈴木が参謀本部の松井石根に取り次ぎ、松井が森恪に打診、「ああ、おらあ、いつでもあうよ」田中は気軽に引き受けた、と。田中は蒋介石が日本に滞在していることはとっくに知っていた筈だ。蒋介石が何のためにこうも長期に日本に滞在しているか、考えを巡らさなかったのか。彼の意図を事前に承知しておくのが、当時の首相、或は外務省の務めであり、その対応を練って置くのが必須であった。草柳の云う気軽に引き受けたと記述する、当時の日中間はそんな能天気な状態であったか。
 岡崎久彦氏は蒋介石秘録を読んだ感想を次のように記している。田中としては、山本が北京で張作霖と満州の鉄道について合意したばかりの時であり、北京政権の安定を脅かしてほしくない。そこで田中は蒋に対して、北伐を焦ることはなく、南方統一に専念すべきだといった、と。両者の違いは歴然としており、張作霖中心で満蒙利権を守ろうとしている田中としては、張を捨てて革命軍を助けるなど到底できるはずがない。現に蒋介石は、北方軍に惨敗して身一つで日本に逃れているではないか。その蒋介石がわずか半年後に捲土重来して北京から張作霖を駆逐して統一を達成することなど誰も予想できない状況だった、と。
 日本側記録では、蒋介石が張作霖の名をあげ、「中国に排日運動が起こっているのは、日本が張作霖を助けていると中国国民が思っているからだ」と主張したのに対し、田中は「日本は張作霖に対し、なんの援助もしていない」と断言したという。ならば、蒋介石が言うように北伐が成就した時、日本の満蒙利権はどう処理するのか、日中合作の内実をもっと率直に、質問をしてもよかったのではないか。蒋介石が相当率直に自らの考えを述べているのに、田中にはその大胆さを窺えない。幣原は、田中外交を見守るばかりであったが、その間の私信で、田中の満蒙政策は驚くべきものであり、田中が遠謀深慮を欠くのはいまに始まったことではないが、これ程非常識とは思わなかったと洩らしている。そして、中国統一は、20世紀アジアの大事件であった。その大事件に直面した日本外交が、その後の日本の運命を大きく左右した。「これは畢竟、内政上の都合によって外交を左右し、党利党略のために外交を軽視した結果であると信じる」と幣原は述べている。党利党略は別として、もう少し巨視的な視点(戦略)があってもよかった。
 

 

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