防共協定と日本の国防国家建設

2017年04月15日 | 歴史を尋ねる
 ソ連の極東政策牽制のため日本陸軍は大島少将をドイツに送り込んだまでは、記述済みであるが、大島武官はドイツの東進政策に変更がないことを確かめ、ソ連の脅威に対する日独共同防衛の軍事上の必要性も確認して、軍部より広田内閣に日独交渉を提議した。当時コミンテルンは日独両国を侵略国として攻撃し、支那共産党は日本軍を敵として、北支方面を中心にあらゆる策動をしていた。防共は広田三原則にもうたっており、日本としても重大な政策課題であった。政府はこの交渉を大島武官の手から武者小路大使の手に移し、大使を交渉窓口にした。しかし軍部は親独反英米であるが、外務省は親英米であることはドイツ側も承知で、ドイツがすべてのことについて、リッペントロップー大島のラインで取引するようになった。そして大島武官の報告電報は軍部で重きをなし、さらに大島の意見は、軍部の欧州情勢判断の基礎となった。世界情勢に通ぜず、その判定に責任を有しない軍部は、自己の都合から、これを鵜呑みにして、ますますナチ・ドイツに偏り、感情だけでなく政策に至るまで、連繋策応するようになった、と重光は言う。国内政治を動かしている軍部の枢軸外交が、ついに政府を支配し、日本を左右するに至った、と。

 更に、軍部は統帥権の独立を堅持し、その観念を拡張していった。それが一般政治問題のみに止まらず、日常生活上の行動にまで、特権を要求するようになった。軍人優待(恩給制度や宮中の優遇など)を要求し、軍人は一種の治外法権的特殊階級であると考えるようになった。外国政府との交渉についても、軍部は統帥権の独立を盾に、統帥権の範囲に属する事項及び統帥権に関する外国との交渉は、大公使の権限外であるとして、軍部派遣の武官が直接折衝すべきであると主張するようになった。日本には既に、統帥部(参謀本部)と内閣との二個の政府が並立した。そして各々が独立した別個の対外交渉機関を持っていた訳で、国家意思の統一がなく、しかも外部に対する国家意思の発表が二途に分かれる場合、その結果は国家自身の破滅を招来する。満州事変以後軍の政治力が急増し、軍の対外折衝は多岐重要になった。

 ドイツとの防共交渉は、外交機関に移されが、ドイツ側はこれを軍事政治的な協定とすることは好まず、単なる共産党防止という目的に留めたい意向であり、日本外務省の考えも同様であった。交渉は順調に進み、取り決めは単にコミンテルン反対の協定として著名された。しかし軍部は別に日独両国は軍事上ソ連の負担を軽くする措置を取らない、ということを約束して、これを秘密文書にした。日本軍部は、あくまでドイツがソ連を東方に追いやる政策をとることを恐れた為であった。この日独防共協定成立発表に対して、ソ連政府は日ソ漁業条約締結に関する交渉を拒否した。日本外務省は、これは単に共産党破壊運動の防止を目的とする相互援助の約束で、コミンテルンはソ連の公式説明であれば、ソ連政府とは関係ないとのことであるから、ソ連との国交を害するものではないと説明したが、大島・リッペントロップ交渉の経過を探知(スパイ)していたソ連は、ソ連挟撃の日独軍事同盟と解釈し、直ちにその対策に着手した。防共協定成立後、ソ連は国際連盟の常任理事国として、日独を侵略国と断定し、国際連盟を通じて国際的共同戦線を樹立しようと計り、世界の世論を日独に対して動員することに務めた。1936年、民主主義憲法を採用して、盛んにソ連の民主主義を宣伝、国旗を制定して党色を薄め、すべての施策を国防に集中すると共に、国際的には英仏米等デモクラシー諸国の好感を繋ぐことに務めた。ソ連は、コミンテルンと呼応して、日独伊枢軸を破壊すべく、すでに世界的ネットワークを作り上げていた、と重光は語る。

 国家改造の具体案は、軍部幕僚より頻りに放送され、十年計画による国防充実計画も、その前に出来ていた、と当時を重光はいう。先に触れた石原莞爾らの国防計画策定を指すのだろう。二・二六事件以後、一般の軍部に対する反感は急増し、議員の中にはこれを利用して、議会で軍部を攻撃し、その機会に政党の勢力を回復しようと策したが、軍部は左右両翼の思想を取り入れ、国防国家の具体案を作っていった。彼らは、議会を解散して、有力なる政党の上に立つ独裁的政治を起こし、国政を円滑に運用、全体主義的国防国家を建設しようとするものであった。これが新体制運動のはしりであった、と。議会において、政党は広田内閣を攻撃し、特に防共協定を非難した。日独軍事同盟を希望する軍が推進したものでことを知る政党は、間接的に軍への批判を表示し、内閣を苦境に陥れた。寺内陸相は、広田内閣を犠牲とすることも厭わず、議会と衝突した。軍部は一挙に議会を解散することを企図して、広田首相に迫ったが、首相は総辞職を選んだ。
 広田内閣総辞職後、元老は宇垣大将を後任に推した。しかし宇垣大将の推薦は国家改造派に対する打撃であって、彼らはその組閣を妨害した。宇垣は大戦後の民政党内閣陸相として軍縮を断行、政党に迎合し、国防を無視したものと受け取られた。宇垣反対の空気は、遂に宇垣大将組閣反対に決し、慣例となっていた三長官一致による陸相指名を拒絶した。元老はここに至って軍部の希望する林銑十郎大将を推すほかなくなった。当時の情勢から軍人出身者を選ぶ以外に方法はなかった。その代り元老は林大将に内閣に穏健分子を配置することを要望、陸相には杉山、海相には米内、外相には佐藤大使を起用、急進派の板垣中将や末次海軍大将等の入閣を悉く退けた。
 1937年(昭和12)2月、林内閣が成立したが、広田内閣と何ら異なるものがなく、国家改造を主張する参謀本部石原部長は、左翼の闘士浅原健三と共に林大将を訪問、厳重抗議を申し入れた。そして、彼らは頻りにソ連関係は一触即発に危機にあり、国防国家建設を主張、政府のなす所も軍の希望のままで、陸軍の産業五カ年計画は承認され、中央に企画庁が新設された。憂国の情に駆られた石原の長期計画も、重光からは以上の様に観察された。ふーむ、国家の意思決定機関が、片肺飛行乃至停止状態に陥っている。
 更に林新首相の政治は拙劣を極め、世論に副わず、議会とは闘争を重ねた。しかし議会も最後は妥協して政府提出の予算を通過させたが、政府は出し抜けに議会を解散、総選挙を断行した。林首相は軍部の要求を入れ、国家改造に新たな飛躍を試みたが、結果は議会勢力の勝利に帰し、政党は旧勢力のままの形で選出された。林内閣は進退に窮し、成立後わずか数カ月にして総辞職、6月に近衛文麿内閣が成立、7月に盧溝橋事件、と事態が足早に進展していく。

 当時の議会の様子を「議会民主主義の残燈」として岡崎久彦氏は民政党の斎藤隆夫、政友会の浜田国松の議会討論を取り上げている。2・26事件のあと、斉藤隆夫は、反乱を起した青年将校に精神的動機を与えている者が軍の首脳部の中にいるのではないかと追及、広田内閣組閣の時の軍の干渉についても非難した。また、浜田国松は、独裁強化の政治的イデオロギーは、滔々として軍の底を流れていると批判、寺内陸相が軍人を侮辱する言辞だと反発、論戦は明らかに寺内の負けであった。斉藤といい、浜田といい、大正デモクラシーの中で育った政党人の勢いであったが、国民の間では、こうした人々の人気は必ずしも高くなかった。当時すでに国民の心は政党から離れていて、政党人と言えば腐敗、堕落、国事を顧みず党争に専念する人というイメージが定着していた。従って、議論がいかに正しくとも、口舌の徒が党利党略のためにまた何かいっているという印象しか与えなかった、と。ふーむ、言論人が口を開くと政治家を批判ばかりしていたから、いざというときに国民は常識的な判断も出来なくなる、こうした現象もあったのではないか、政党政治の歴史が少なかったこともあるが。しかし林内閣時の総選挙結果が、従来通りであったということは、正常な判断が行われていたともいえる。当時の詳細な分析が必要か。

 林の退陣後、陸軍は板垣を総理後任に推し、重臣たちもやむを得ないという雰囲気だった。しかし西園寺は色をなして怒った。そして近衛文麿を推した。これが西園寺が元老としての指導力を発揮したほとんど最後のケースだった。近衛の出現は、右翼も左翼も、政党も軍もこれを歓迎した。華族筆頭の近衛家の嫡流で、一高、東大、京大のインテリ、180センチの長身の容姿端麗な若きプリンスが語り掛けるのに国民は興奮した。新聞は未知数の魅力と評した。それまでの政党、軍閥の両方に倦んでいた国民にとって、世の中が明るくなったような印象を与えた、と。
 結果から見れば、近衛の政治は日本を破滅に導いた。盧溝橋事件の処理を誤り、その後も戦争が泥沼化する節目節目で有効な指導力を発揮できず、のちに松岡洋右を外相に登用して日本を英米に対して抜き差しならない対決状態に追い込んだ。また、日本の戦前の政党政治に終止符を打った大政翼賛会が発足したのは近衛内閣の下であった。