北進か南進か 重光葵の嘆き

2017年04月03日 | 歴史を尋ねる
 早瀬利之氏の「石原莞爾」では、当時の日本全体の動きが見えにくいので、重光葵の「昭和の動乱」から、解説して貰おう。重光はこの項を、次のように書きだす。「日本の政治において、統帥権が独立し、その統帥権が、また陸海軍に両断されたことは、国家の致命的災厄であった」と。統帥部の生成は、明治11年、陸軍省から参謀本部を独立させ天皇直属の組織とした。これはプロイセン(ドイツ)のやりかたを取り入れたもので、参謀本部の長は独自に天皇に上奏できるとされた。この統帥権の独立という制度は、大日本帝国憲法より前にすでに法制化されていた。そして重光の云う陸海軍に両断されていたとは、陸軍においては、参謀本部、海軍においては海軍軍令部(のちの軍令部)を指した。
 満州事変によって、軍の直接行動が是認され、国際連盟の脱退や軍縮条約の廃棄によって、軍備に対する国際的制約がなくなった時、陸海国防当局は、直ちに無制限なる軍備拡張に乗り出した。これを止める国内の政治力は、すでに消耗してしまっていた。満州事変発生後、陸軍の予算は急膨張、海軍は軍縮廃棄後の、無制限建艦に着手、陸海の均衡が保った。陸軍は満州国建国後は、明確にソ連を仮想敵国とし、海軍はこの点で陸軍に対抗することとなった。陸海軍の軍拡競争は、軍部予算を二等分して均衡を保つという、奇現象を生じた。陸軍は北進、海軍は南進を主張、世界最大の陸軍国及び海軍国(ソ連と米国)を目標に勢力を争う、憐れむべき日本と、重光は記述する。それぞれは他方を批判、近衛公の如き政治家は、海軍を以て陸軍を、陸軍を以て海軍を掣肘しようとして、結果は両方の主張、要望に屈服することとなった、と。

 陸海軍統帥部は、毎年仮想敵国に対する作戦計画を立て、年度末に上奏裁可を経て、その年の作戦準備をすることに決まっていた。これは陸海共同の案であって、陸海統帥部の一致を要した。作戦計画は、各国別に立てられるもので、一旦緩急ある場合に対応する単なる準備行為であった。軍部限りの腹案であって、純然たる統帥事項として取り扱われていた。しかし、その内に陸海軍の政治的意向が反映していた。両統帥部は、海外に武官を派遣して、諜報機関を組織し、調査研究立案に関する有力なる部局を抱えていたから、独自の見地に立って、彼等自身の対外政策をも生み出していた。ここに重大な意義が伏在している、と重光葵。そうか、前項の石原莞爾は、統帥部の権限を越えて、国策を論じようとしたのか。従前の統帥部の作戦計画では対処しきれなくなった国際情勢の変化に、軍部内で対処しようと石原は動いた。重光の云っていることはこのことを指摘しているように見える。

 事実関係はこうだった。昭和11年8月7日、広田内閣の五相会議(総理大臣廣田、外務大臣有田、陸軍大臣寺内、海軍大臣永野及び大蔵大臣馬場)で国策の基準を決定した。「帝国内外の情勢に鑑み、当に帝国として確立すべき根本国策は、外交国防相俟って、東亜大陸の地歩を確保すると共に南方海洋に進出発展するにあり・・・・・」 これが趣旨で、大陸に対しては、満州国の健全な発達と日満国防の安固を期し、北方ソ国の脅威を除去すると共に英米に備え日満支三国の緊密なる連携を具現して我が経済的発展を策するを以て、大陸に対する基調とす。これが遂行に当たりては、友好関係に留意す、と。 これを読む限り武力の優先ではない。しかし、国策の基準は、極東国際軍事裁判でその侵略性を指摘された。広田総理は予算を取るための軍部の根拠づくりであったと述べているが、しかしこの国策の大綱は、堀内謙介外務次官を委員長とする委員会で策定されたものであり、国家として統一された意志の元に国策を推進しようとする成文になっている。むしろ平和的経済的発展を基本としていた。
 「証言録 海軍反省会」は、1980年から1991年まで、大日本帝国海軍軍令部、第二復員省OBが一般には公にせず内密に組織した旧海軍学習グループに依るもののオーラルヒストリーで、それを後日戸高一成氏が纏められたものである。その中で、ここで重要なことは、北守南進か、南守北進かは、政治と統帥の調整の上で決定されるべきものであって、陸海軍の作戦レベルで論争さるべきものでない。しかし当時政治の権威が衰えており、国策が陸海軍、特に陸軍の主導するところで行われた。外交、陸軍、海軍の三省が、国策大綱の作成に当たって、委員長を堀内謙介外務次官としたのは、その弊を除こうとしたのではないか。少なくとも海軍は、外務省を抱き込もうとしていた。陸軍の独走を抑えようよしたことは間違いない、と。

 重光葵は当時を振り返ってこう指摘する。当時の風潮として、政府の事務当局は、軍部と共に常に「作業」の進捗のために、多くのその場限りの国策に関する作文立案を行い、後患を残すことがしばしばあった。この国策大綱も、その好適例であった、と手厳しい。この基本国策要綱(国策の基準、国策大綱)は五相会議において決定されたが、海軍側の意図は、明らかに満州事変以来の陸軍の北進政策に対して、海軍の南進政策をも、正式に国策として採用されることを謀って、成功したものである、と。この文書は、対外政策として、南進と北進とを併せて決定した、非常に重要なものになった。この南進北進の決定は、陸海軍妥協の結果出来上がったもので、陸海軍が、予算を均等に分配するために、必要な政策上の伏線を張ったに過ぎない、単なる予算措置に過ぎない、と会議で説明された。内閣側も、馬場蔵相は軍事費の増加はこの際やむを得ないという方針であり、有田外相は外交については、列強諸国との国交を円滑ならしめるために、あらゆる努力をなすとの方針を高調して、この決定に賛成した。内閣は深くその内情を究めず、陸海軍間で意見のまとまったものは、なるべくこれを尊重しようという態度の出て、この重大なる国策を決定してしまった、と。