昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

伝承園「御蚕神堂(おしら堂)」の神秘的な赤の世界

2008年03月25日 | 東北地方の旅
遠野市「伝承園」の続きです。



南部曲り家「旧菊池家住宅」の母屋の部屋からトンネルのような暗い渡り廊下の入り口がありました。

■案内板があり、転記します。
「オシラ堂」
馬と娘の恋物語で知られているオシラ様には、曲家(まがりや)の常居(じょい)よりお入りください。
「遠野物語」の世界へお誘いします。 伝承園



薄暗い廊下を進むと「御蚕神堂(おしら堂)」の入り口に突き当たります。
入り口の上にはしめ縄が飾られ、御蚕神が祀られている神聖な場所と感じられます。

又、廊下の壁に「遠野物語」の世界を演出するような写真が展示されていました。



伝承園のパンフレットにあった「御蚕神堂」の写真を拝借しました。
中央に太い柱があり、周囲の壁に沢山のオシラ様が飾られていました。
ここは、ロマンと神秘に満ちあふれた赤の世界です。



壁の高い場所までびっしりと「おしら様」が飾られています。
「おしら様」は、ちょっと神秘的な中にも色とりどりの美しい衣装で飾られ、楽しませてくれます。


赤い照明にも演出されているせいか、千体もあるというたくさんの「おしら様」に圧倒されます。

下の方にお坊さんの袈裟にも使われる金襴の生地で作られた着物のオシラサマが見えます。
写真の下部に案内文があり、「青森のオシラサマ」の題で津軽地方のオシラサマ信仰が紹介されており、このオシラサマは、津軽地方で作られたオシラサマのようです。
オシラサマを祀る「おしら講」は、東北、関東地方で広く行なわれているようですが、青森県弘前市の久渡寺の「大白羅講(おしらこう)」は、オシラ様信仰が最も盛んな場所ともいわれているようです。



おしら堂を出る途中にこんなお飾りがありました。
木の枝に沢山の蚕の繭(まゆ)が付けられ、繭(まゆ)は、赤・緑・黄の三色に染められています。
お正月に繭の豊収を願う「繭玉飾り」のようです。



「御蚕神堂(おしら堂)」を出て、その土蔵を外から撮った写真です。
土蔵の横にトンネルのような渡り廊下が見えます。

表に出てなぜかホットした気持ちになりました。

「伝承園」 (佐々木喜善の短い生涯)

2008年03月23日 | 東北地方の旅
遠野市土淵町の伝承園を見学させて頂きました。



「伝承園」の入場券(裏表)です。
上段は、券の表で、オシラサマのイメージをデザインしたようです。
下段は、伝承園の入り口の写真です。



「伝承園」の入り口付近にあった園内の案内図です。



「佐々木喜善記念館」です。
玄関脇に銅像がありましたが、少し写真のイメージと違う感じです。



「佐々木喜善記念館」の玄関にあったパネルです。
遠野物語誕生のシーンではないかと思います。
パネルの三人は、右から「柳田国男」「水野葉舟」「佐々木喜善」と書かれてあるようです。



「柳田国男」の写真です。
「佐々木喜善」が遠野物語を自分で書いていたら今日の「柳田国男」の存在はかなり変わったものと思われます。



佐々木喜善の生い立ちです。



佐々木喜善です。
青春時代の頃でしょうか。

その後、村長になった佐々木喜善は、自分・家族の病気、経済的な困窮、新しい村づくりの挫折などで、仙台へ移ったそうです。
「河北新報」で連載小説の場や、仙台NHKではラジオ放送での土俗講座などの場が与えられ、東北民族の体系化を試みた研究誌「民間伝承」を発刊した直後、48歳で生涯を閉じてしまったようです。
詳しくは分かりませんが、大きな希望を抱き、その結果、挫折を繰り返す人生だったのではないかと、勝手な想像をして同情してしまいました。



「伝承園」にある曲り家「旧菊池家住宅」です。
この家には「南部曲り家」の文化が生まれる過程が残っているそうです。

■説明板を転記します。
国指定重要文化財「旧菊池家住宅」
指定  昭和51年2月3日
所在地 遠野市土渕町第六地割五番三
この住宅は、市内小友町高木から移築した南部曲り家の一つです。この地方(旧南部藩領)は県内でも南部曲り家が数多く分布していた地域で、なかでもこの住宅は、遠野の代表的な曲り家の形式を残しています。建てられたのは十八世紀前半と推定されています。
当初は直ご家(すごや=曲り家の部分がない家)として建てられました。
その後、台所部分が拡張され、8.1mに18mの母屋となり、7.2mに8.1mの馬屋が付け加えられ、曲り家の形になりました。
おのや、ちょうな削りの桂を使った開口部(窓など)の少ない閉鎖的なつくり、火打梁をかけた古い例、それに直ご家から曲り家へ変わっていった過程などを知る上で貴重な構造を数多く残しています。


台所の拡張、うまやの拡張と、二回の増築で建物が変化したようです。

遠野「福泉寺」で見た「早池峰山妙泉寺」再興の夢

2008年03月20日 | 東北地方の旅
「遠野ふるさと村」の帰り、観光案内地図に載っていた「福泉寺」に立ち寄りました。



福泉寺の拝観受付所付近にあった案内図です。
下中央の道から第1駐車場、第2駐車場と進んでいきます。

駐車場付近を足早に拝観させて頂き、右上の「五重塔」「毘沙門堂」「白衣観音」などは時間の関係で省略してしまいました。



受付で頂いたパンフレットです。
下から仰ぐ「五重の塔」と、水平方向から眺める「五重の塔」の2枚の写真が表紙を飾っています。
ご住職の「五重の塔」に対する思い入れが感じられます。
水平方向から撮った「五重塔」は、建物の美しさがストレートに感じられ、屋根の面の美しいカーブがとても印象的です。

第2駐車場の上にある大観音堂から少し小さく見える「五重塔」を眺めましたが、今思えばこの角度で眺められなかったことが残念です。

案内図によるとお遍路さんでおなじみの「四国八十八カ所」や、近畿から岐阜に跨る「西国三十三番霊場」を模したミニ霊場めぐりがあるようです。



一番上にある第2駐車場から「大観音堂」へ石段を上がっていきました。
左右に狛犬が見えてきました。



「大観音堂」の正面にある石段脇に立派な台座に乗った狛犬がありました。
口の開け方と、目がとても可愛い狛犬で、子犬が吠えているようにも見えます。



狛犬や、仁王さんは、向って右の口が開いている方を阿形、向って左の口が閉じている方を吽形といいます。



「大観音堂」です。
前にベンチがあり、おばあさんが座っていました。



「大観音堂」の軒下の彫刻が素晴らしく、写真を拡大してみました。



横から撮った「大観音堂」です。
この建物の感じは、神社でよく見られる「権現造り」に似ています。



「大観音堂」前から見上げた多宝塔です。
風格のある素晴らしい建物です。



緑の屋根の「福泉寺」本堂が見えてきました。

「福泉寺」ホームページにあった由緒の概要です。
明治維新政府から布告された「神仏分離令」と、「廃仏毀釈」運動により「早池峰山妙泉寺」から「早池峰神社」に改宗されことから「法門山福泉寺」開山の物語が始まるようです。
初代住職の祖父「佐々木紋右衛」は、当時、妙泉寺檀家信徒総代で、「妙泉寺」の再興を強く願っていたそうです。
祖父の意思を継いだ「佐々木宥尊師」(当時は佐々木源吉)は、仏門に入り厳しい修行の上、1912年(大正元年)8月、法門山福泉寺を開山されたそうです。



「福泉寺」本堂にお参りしました。
今や6万坪の敷地にたくさんの仏教施設がある「福泉寺」もこの本堂から始まり、初代住職が祖父から引き継いだ「早池峰山妙泉寺」復興の夢は実現したようです。

明治維新の混乱した時代におこった一部民衆の「廃仏毀釈」運動により、多くの仏教施設が破壊されたそうです。
奈良時代、聖武天皇が、東大寺大仏の前で「三宝(もほとけ)の奴と仕へ奉・・・」と言われ、天皇自ら熱心に仏教に帰依した時代もありました。

2001年アフガニスタンの国宝だったバーミヤンの巨大な石仏が、厳格なイスラム原理主義を唱えるタリバンによって爆破された事件がありましたが、明治維新後の日本で全国的におこった「廃仏毀釈」では、バーミヤン以上の破壊があったものと思われます。

バーミヤンの遺跡も、日本をはじめとして世界的な支援で修復が始まっているようですが、私たちもこのような事件が二度とおきないよう改めて「廃仏毀釈」の歴史を学ぶ必要があると思います。



出口付近にあった「仁王門」です。
時間がなく、残念ながら裏側の仁王さんを見ずに帰りました。

遠野ふるさと村の「曲り家」

2008年03月17日 | 東北地方の旅
「遠野ふるさと村」には江戸時代から明治時代に作られた6軒の「南部曲り家」を移築して昔の村を再現していました。



曲り家「大工どん」のすぐ裏にある「川前別家」です。
遠野市土淵町にあった江戸末期(安政年間)築の曲り家だそうです。
曲がった柱や桁梁等が多く使われ、腕の良い大工さんが建てたと言われています。



曲り家「大野どん」です。
地元の大野集落の上層農家の家だったそうです。
この家は、NHKの朝ドラ「どんと晴れ」で柾樹の父が住む家で使われたそうです。

■説明板があったので転記します。
炉端の家「大野どん」
明治初期築
集落の上層農家の曲り家
奥座敷・表座敷・中の間・茶の間・寝部屋・常居(居間)・台所土間・小厩・厩 すべて昔そのままのつくりになっている。



縁側でお年寄りが民具作りをされていました。
上にぶら下がっている細長い籠や、柄ザルが陳列されていました。
何に使うのでしょうか。



炭を積んだ馬車が曲り家の軒下に置かれてありました。
この家の横に炭焼き小屋もありました。



江戸時代末期に造られた曲り家「肝煎りの家」です。
「肝煎」とは「 庄屋」のことだそうで、「遠野ふるさと村」では最大の曲り家です。
向って左に厩(うまや)があり、人だかりが出来ています。



この馬もNHKの朝ドラ「どんと晴れ」に出演したそうです。



「小昼(こびる)の家」がありました。
「味噌にぎり」「やきもち」「かねなり※」「串団子」などの軽食があるようです。

又、遠野市は、どぶろく特区で、ここで「どぶろく」を製造しているそうです。

この建物は江戸時代中期の1762年(宝暦12)に造られた「曲り家」でない「直家(すごや)」で、納屋、土蔵、厩は別棟になっているようです。
「直家(すごや)」は、この地方では苗字帯刀を許された家の形だったそうで、遠野市上郷町赤川集落の旧菊池善右エ門家だったそうです。

 ※「かねなり」は、米の粉を練って小判の形にし、くるみ醤油を付けて焼いた遠野名物だそうです。



「肝煎りの家」の横にある土蔵です。
壁を保護するためでしょうか、変った板壁が作られていました。


江戸時代の曲り家「弥十郎どん」です。
とても感じのよい曲り家でした。

■説明板があったので転記します。
そばの家「弥十郎どん」
文化9年(1812年)築
典型的な上層農家
人目にふれるところは天井が高く
家人の住むところは低くして2階をつくり、隠し部屋として仕切り板を工夫する等、武家屋敷以上に防備した
※そばつくりの体験ができます(予約必要)



屋根の部分を拡大した写真です。
模様が付いて格調の高い屋根です。
なぜかカラスまでカッコよく見えます。



明治時代中期に造られた曲り家「水乃口(みなくち)」です。
「草木染め体験」や、展示ギャラリーでは草木染め、陶芸、木工などの作品を展示しているようです。
向って左側や、中央にも玄関があり、家の間取りをかなり改造したものと思われます。
何となく住みやすそうな家でした。

「水車小屋」と、「バッタリ小屋」

2008年03月16日 | 東北地方の旅
昨年10月、東北旅行の「遠野ふるさと村」見物の続きです。



わらぶき屋根の大きな水車小屋がありました。
屋根のてっぺんに草がびっしりと生えていました。



修理中なのでしょうか、水車の一部が外されて下に置いてありました。
水車の構造はなかなか複雑そうで、素人が日曜大工で作れるものではないようです。


水車小屋の中の様子です。
水車の回転を杵に伝える丸木が水平に取り付けられ、一列に並んだ6本の杵が臼の穴に順番に落ちるカラクリのようです。



田んぼのあぜ道にコスモスが咲き、のんびりと見物しながら歩いていました。
わら葺でトンガリ屋根の変った建物がありました。
初めて見るもので、不思議に思いながらも離れた場所から写真を撮っただけで通り過ぎてしまいました。



違う場所から撮った写真で、円錐形のわら葺屋根の建物でした。
藁葺の建物の横にシーソーのような構造物があり、その一部は小屋の中に入っています。
又、木の樋(とい)から水が流れて来て、木をくり抜いた穴に水が貯まるようになっていました。



「遠野ふるさと村」の案内地図中央の田んぼの場所にこの小屋が「バッタリ」の名前で載っていました。



「バッタリ」を調べてみました。
この図は、庭園に竹で作られている「ししおどし」「添水(そうず)」と呼ばれるものです。(手作りの図です)
右の注ぎ口から竹に水が入り、支点から右の節に水が溜まると下にさがり、水が流れ出ます。
その左が勢いよく下がり、音が出るカラクリです。
(この図で、支点から左の長さをもう少し長くしなければバランスが悪かったようです)

「バッタリ」は、この原理で穀物をつく装置と分かりました。
「水車」と同じような働きをするようです。



帰り際に南方向から「ばったり小屋」を見た景色です。
遠野の田舎の風景によくなじんでいます。

「遠野ふるさと村」の南部曲り家「大工どん」

2008年03月13日 | 東北地方の旅

「遠野ふるさと村」の最初の曲り家に着きました。
すぐ横に倉があります。
倉の横の軒下が、格子状に木材で囲われており、初めて見るものです。
この地方の人には分かるのかも知れませんが、雪対策にでも使われるのでしょうか。



倉の正面の軒下も木材で囲われています。
この倉の入口にの「山里の暮らし館」の看板がありました。
昔ながらの山里の民具を展示しているようでしたが、建物の周囲にの囲いに気を取られて通り過ぎていました。



南部曲り家が見えてきました。
見るのが初めてですが、民家としてはかなり大きな家です。

■入口に説明板があったので転記します。
「南部曲り家の特徴」
飛騨の合掌造りと並んで日本を代表する茅葺き民家
茅葺き民家には直家(すぐや)と曲り家が多くみられた。

人の住居空間と厩が鍵型(L字型)に曲がっていて居間台所から常に馬の様子を見ることができ馬が一つ屋根の下で家族の一員として大切に扱われていた。
曲り家は例外なく正面を南向きで建てられ厩のある曲り部分は冬の季節風を除ける役割を果たした。



秋の日差しが当たる南向きの縁側にわら細工の鶴や、民芸品などが並べて置いてありました。
縁側近くにいたおばさんが、製造直売しているのでしょうか。

■この家「大工どん」の説明板を転記します。
おもてなしの家「大工どん」
292.4㎡ 明治中期築
上流階級の民家(この曲り家は大工の棟梁の住居だった)
作りは母家・厩・土間となっており、土間には厩に馬を飼っていた時のままの「馬釜」が据えられています。



わらぶき屋根の民家にはめずらしい二階建てで、屋根の切り込みがおもしろいデザインになっています。
窓に格子があり、昔にしてはセキュリティーを考えた造りのようです。



縁側の奥が、表座敷で、かなり広い部屋があります。
さすが大工どんの家です。



建物の間取り図と、説明書きが掲示されていました。

家の全景は、かなり立派な建物ですが、よく見ると正面玄関がありません。
これも特徴なのでしょうか。

■説明書きを転記します。
遠野の曲り家と間取り 2002.01.21
遠野の曲り家は、一般に南部曲り家と称されている。
1600年代の遠野地方の民家は直家(すごや)であったが、馬産の隆盛とともに曲りの部分を補充し、それが定着したのが南部曲り家である。1700年代になってほほこの構造になったと推定されている。
建築様式は寄せ棟造り(突出部分の一部は入母屋造り)で茅葺き平屋建てで、屋根もL型に葺き、突出部を厩として利用し、厩として利用し、厩と住居の接合部に台所を配して、居ながらに馬のようすを観察できるようになっている。
土台を用いるようになったのは一般的に明治時代以降のことで、それまでは地面に置いた石の上に直接柱を建てる「カノコ(鹿の子)建て」という方式で建てられた。
壁は寒さを防ぐため、柱や貫などを塗りつぶした大壁が原則になっているが、これは激しい冬を過ごしてきた遠野の人々の暮らしの知恵から生まれたものである。
人と馬が一緒に住めるように設計された建築様式や、厩の入り口に貼られる絵馬やお蒼前(そうぜん)様の守札からも、馬のすこやかな成長を祈った遠野の人々の馬に寄せるこまやかな愛情がうかがわれ、遠野の曲り家の大きな特徴になっている。



家に上り、見物をさせて頂きました。
ここは、表座敷の北側で、襖絵や、床の間が非常に立派でした。



床の間の飾りです。
中央に「おしらさま」、向って左にわら細工の馬があり、右に素朴な木彫りのカッパが置かれています。



茶の間の奥にある部屋「常居(じょうい)」に大きな囲炉裏がありました。
こんな大きな囲炉裏を見ると、大家族だった昔の生活がイメージされます。



大きな釜がありました。
給食の台所の釜を思い出します。

■案内板があったので転記します。
「馬釜」
冬は特に寒さがきびしいので餌を与えたりあたためたりして馬に温かい食事を与えた
豆腐や味噌をつくる豆を煮たり蕗などの山菜を湯がいたり蚕のまゆをほぐして糸つむぎをしたり麻を蒸して繊維をと

るなどに使った。
燃料に生木を用いて煙を出し茅葺き屋根に虫がつかないようにいぶして長期間保存に役立てた。
煙は厩の上を通って外にでるため冬のきびしい寒さから馬を守ることができた。



獅子踊りの装束や、わら細工の馬がたくさん置かれていました。

■この写真の右手に2.5m以上もあるような男の藁人形があり、説明板がありました。
この人形にはとてもデカイ男性のシンボルが付いていて、観光客のおばさんにとても人気でした。
「雨風祭のワラ人形」
雨風祭は、二百十日前の8月下旬に行われる行事です。等身大のワラ人形を、男女2体作り「二百十日雨風祭まつるよ。おおきたのはてまで送るよ。」と唱えて、村境まで持っていき、人形を納めます。
二百十日ごろは台風が襲来します。被害から農産物を守るための厄除け行事です。遠野の各地で、雨風祭の行事が見られましたが、現在では、ワラ人形を省略して、旗だけを村境にさしているところもあります。
似たような行事に「虫祭」(旧暦6月)と「春風祭」(旧暦2月)があります。
このワラ人形は、雨風祭の人形をモデルに作ったものです。高さが、3メートルでこのような大きいワラ人形は、全国でも珍しいものです。

「遠野ふるさと村」門前までの風景と、植物

2008年03月09日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。



岩手県遠野市附馬牛町の「遠野ふるさと村」に到着しました。
駐車場から入口方向の広々した景色です。



受付場所にあった「遠野ふるさと村」の案内図です。

「遠野ふるさと村」は、昔から岩手県にあった農家の建築様式「南部曲り家」の建物が数棟移設され、自然な姿で見ることができます。
「南部曲り家」は、母屋と馬屋が一体となったL字型の住宅です。



受付で購入した「入村券」です。
「南部曲り家」と、馬の写真が印刷されています。



受付で頂いた「遠野ふるさと村」の地図です。
左下のビジターセンターを入り村内を右回りで一周しました。



受付を済ませて、右手に見える「蛇石川橋」を渡ると「自然資料館」が見えてきます。
この地方で見られる、動植物の写真パネルや、標本などが展示されていました。



「自然資料館」の横に面白い実が付いた木を見つけました。
赤い実が四つに割れ、その中に黒い実が見えます。
名前は分りませんが、親しみを感じる秋の木の実です。



この花も「自然資料館」の横に咲いていました。
初めて見る花で、一見「葉のないチューリップ??」の感じでした。

調べるとこの花は、「イヌサフラン」でした。
花は、秋になると球根を土に植えていなくても咲くようで、球根の生命力がとても強いようです。
葉は、開花後に出てくるようで、彼岸花を連想します。
又、ユリ科だけにこの花の雄しべは、ユリのものとよく似ている感じです。



村の案内地図に「門前(カドマエ)」と書かれた場所で、ここが本当の村の入り口のようです。
門前の道端に白い花が満開でした。



門前に咲いていた白い花で、「秋明菊」のようです。
道側に花の裏側が向いていたので花の正面が撮れていませんが、花の中心にある黄色い雌しべが印象的です。
花の周りに丸い小さなつぼみが元気よく風にゆれていました。

「秋明菊」は、菊ではなくキンポウゲ科アネモネ属で、花びらが退化し、がく片が花びらのようになったそうです。



「秋明菊」のすぐ隣にこんな花も咲いていました。
ほとんどの花の中心は、あずき色でしたが、黄色のもの(写真右上)もありましたが、調べても、名前が分りませんでした。



門前を入るとこんな景色が見えてきました。

移設された農家の建物が、周囲の野山と調和して人為的に作った観光スポットとは思えない自然な風景が広がっています。
いよいよ「南部曲り家」の見物です。

遠野盆地の秋の景色

2008年03月03日 | 東北地方の旅

遠野市博物館から北の方向にある「遠野ふるさと村」へ向う途中で見た景色です。
しばらく車を止め、この景色を楽しんでいました。

この写真の景色は、北西の方角だったと思います。



やや西の方向の景色です。
少し高い山が見えます。


一面に黄金色の田んぼが広がり、その向こうに山が連なる景色は、どこでもあるようですが、その中に遠野盆地の独特の美しさがあるように思えます。



南西方向の景色です。
なんとなく懐かしさを感じました。

「遠野市博物館」の様々な展示

2008年03月02日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。


遠野市博物館で頂いたパンフレット(1)です。
会場の配置図があり、見学の様子を思い出します。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(2)です。
会場の配置図の向って左側の展示第一室の二つのフロアーでは映像で「遠野物語」や、遠野の昔話の紹介されていました。

とてもワイドなスクリーンで、遠野の不思議な物語の世界を知りました。



写真は、展示第一室にあるジオラマの「おしらさま」で、とても悲しい物語でした。
この二つの人形の背景に照明の色や、映像を映し、物語を聞かせてくれます。

向って左側が馬、右側が娘の人形で、「おしらさま」は養蚕の神様です。
養蚕の神様にちなんで「おしらさま」の顔は、桑の木で作られるようです。

他にも面白いカッパの物語もジオラマで、紹介されていました。



これも「おしらさま」で、神様は、赤い布の下だそうです。
「おしらさま」にはこのような「包頭型」と、一つ上の写真で、服の上に顔が見えるのが「貫頭型」の二つのタイプがあるようです。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(3)です。
遠野地方の暮らし、信仰、芸能等、多くの展示がありました。



馬市の模型が展示されていました。
説明書き転記します。
■遠野の馬市
馬を育てるのに適した広大な牧草地や高原性の気候をそなえ、古くから馬の改良飼育につとめたため、遠野は南部駒の産地として知られ、とくに粗食で耐久力の強い軍馬の供給地としても評判でした。
毎年、秋の8日間ひらかれる馬市掫(おせり)は、遠野郷にとっては最大の年中行事でした。
陸軍省や農林省の購買官をはじめ全国から集まった人びとから値段が呼びかわされる馬検場、その外の馬繋場では飼い主の家族と馬との惜別のドラマがみられます。



曲り家の模型に説明文がありました。
■住まいとウマ
遠野に最も多く分布している南部の曲り家は日本の民家の代表的な建築様式で、ウマの飼育管理にはきわめて適した構造といえましょう。正面の母屋からL字形に厩(うまや)が突き出し、その間に設けられた土間にはウマの飼育をつくる大釜をすえたカマドがあります。
通風・採光にめぐまれた厩の入口には、絵馬や各地のお蒼前様の守札がはられ、ウマに寄せるこまやかな愛情を物語っています。



遠野市博物館で頂いたパンフレット(4)です。



遠野生まれの人類学者「伊能嘉矩(いのう かのり)」のパネルが展示されていました。
日本の人類学の先駆者「坪井正五郎」に人類学を学び、台湾文化の研究をされたようです。

久しぶりに「鳥居龍蔵」の名前を見ました。
「鳥居龍蔵」は、このブログで2007-05-29に掲載した石垣島の川平湾の近くにある「川平貝塚」を発掘した考古学者として紹介したことがあります。

遠野市博物館の特別展「ザシキワラシ」

2008年02月25日 | 東北地方の旅

特別展「ザシキワラシ」のパンフレットです。
遠野市博物館の玄関や、最初の展示コーナーにも同じ内容のポスターが掲示されていました。
「民話のふるさと」といわれる遠野には、たくさんの民話が残されて、「ザシキワラシ」もその一つのようです。

「ザシキワラシ」は、「座敷童子」と書き、岩手県を中心とした地方に伝わる子供の姿をした神様・精霊・妖怪のような存在と考えられているようです。
髪はオカッパで、赤い着物を着た女の子が「ザシキワラシ」のイメージとされていますが、他にも様々な説があるようです。



「佐々木喜善(きぜん)」の写真です。
「佐々木喜善」は、明治19年(1886)土淵村(遠野市土淵)に生まれ、文学を志し、早稲田大学文学科に学んでいました。
早稲田在学の時、まだ無名だった前田夕暮・水野葉舟・三木露風・石川啄木・北原白秋たちと交流がありました。
その頃、水野葉舟の紹介で柳田国男と知り合ったようです。
佐々木喜善が語った遠野地方の民話や、昔話を柳田国男の筆により「遠野物語」発表されました。

■「佐々木喜善(きぜん)」の写真の横にあった説明パネルを転記します。
「ザシキワラシの発見」
--小説「舘の家」から--
ザシキワラシという言葉が、初めて文字となって現れたのは、明治40年(1907)3月の「芸苑」に掲載された佐々木喜善(きぜん)の短編小説「舘の家」である。
この小説でザシキワラシは、二人の子供の会話に登場する。子供達は、外で自分の家にザシキワラシがいるという噂を聞き、しきりにおびえている。そして文中でザシキワラシは、真夜中に奥座敷で遊び、9・10歳くらいの子供のようなものだと紹介されている。
小説の後半は、この家が実は呪われた家で、家の主人が長生きできない伝統があることが明らかになる。ザシキワラシの恐怖は、あくまでも子供たちの抱く幻想にすぎず、真の恐怖は、当主の男性が早世するという呪われた血筋の恐怖であったということになる。
佐々木喜善によって、「ザシキワラシ」が、初めて世の中に登場したことは、あらためて評価されていいだろう。



「宮沢賢治」の宮沢賢治の写真パネルがありました。

又、その横に「宮沢賢治とザシキワラシ」のタイトルのパネルがありました。
宮沢賢治は、花巻地方の4話のザシキワラシの話を「ざしき童子のはなし」として雑誌に掲載し、それが「佐々木喜善」との出会いのきっかけとなったようです。



写真上中央にあるイラストで、女の子の頭に「黄金の玉」が描かれています。

■説明文を転記します。
「ザシキワラシの正体は「黄金の玉」か!?」
青森県五戸町地方では、家に付いている「黄金の玉」の精が凝ると子供の姿になって、時たま屋内や座敷に出るものだといい、そのワラシが、家の敷居をまたぐと家運が傾くとされている。黄金の玉なのでザシキワラシは「家の福神」であるという考え方がある。

写真に向かって右上に早池峯神社の「座敷児童祈願祭」の祭壇が展示され、その下に女の子の姿をしたザシキワラシの人形が飾られていました。

■ザシキワラシの人形の前に展示されていた説明文を転記します。
「座敷児童祈願祭の由来」
早池峯神社では、昭和63年(1988)から「座敷児童祈願祭」が行われている。昭和58年(1983)新潟の事業家が早池峯神社に参詣し、帰り道の途中で自動車の後部が重くなり、不思議に思って、家に帰って宗教的職能者に祈祷をお願いしたところ、そばのミコにザシキワラシが憑依し自らの由来を語ったという。自分は早池峯神社のザシキワラシで、当分の間この家に住まわせてもらうため車に乗ってきたという。また自分には、たくさんの仲間がおり、大神の使いとして各地で活躍していると語ったという。
この事業家の会社は次第に繁盛するようになった。その後、早池峯神社でも社殿の大改修が行われ、その完成を機に毎年4月(現在は4月29日)に「座敷児童祈願祭」を催し、希望者にザシキワラシの「お姿」の人形を授与するようになった。神事の内容には「入魂の儀」という儀式がある。この日は、過去に授与された人も、ザシキワラシの「お里帰り」といって人形を持ち寄り、祭事に参加する。現在ではその評判から全国から多くの参拝者が訪れている。


■ザシキワラシの様々な説がパネルに展示されていましたので以下に転記しました。

「佐々木喜善のザシキワラシのカード」
「奥州のザシキワラシの話」によって佐々木喜善は、いちやく有名になったが、それでザシキワラシの採集が終わったわけではない。いつの頃からか、喜善は膨大になっていく資料をカードで整理することを始めていた。
こうとたかたちで、遠野はもちろん、東北地方以外にザシキワラシの採集を広げようとしたのである。
大正13年(1924)3月の「郷土趣味」に、「ザシキワラシの話」を書いている。ザシキワラシの起源について、河童説に始まり、童形の人形や黄金の玉とする説を述べ、若葉の霊魂の例を引き、猿説も挙げて、諸説まちまちだとしたうえで、秋田の三吉さんの話に転じてゆくというザシキワラシの起源について追究した論考になっている。
続いて、同年6月の「人類学雑誌」に、「ザシキワラシの話」を発表する。これは、82話をザシキワラシの出現の仕方に注目した分類で紹介し、ザシキワラシのカードが多く利用されていることが確認できる。作成されたカードは、この報告に集約されたことがわかる。


「ザシキワラシとキジムナー」
キジムナー(キジムン)は、沖縄本島及び周辺の諸島で伝承されてきた樹木の精霊。樹木は、ガジュマルの古木であることが多い。体中が真っ赤な、赤髪の子どもの姿で現れると言われている。魚が好きで特に目玉を好む。夕食時にはかまどの火を借りに来るなど、人間とは近しい存在である。しかし、住みかの古木を切ったりするなど、ひとたび恨みを買えば、徹底的に祟られると伝えられる。
キジムナーに気に入られた家は栄え、反対に嫌われた家は滅びるとも伝えられる。
「奥州のザシキワラシの話」や「南島説話」でもキジムナーとザシキワラシの類似が指摘されている。


「ザシキワラシの仲間達」
ザシキワラシに似た形のもの、似た動作をするもの、性質が似ているもの、関連があるものについて、佐々木喜善は下記のものを紹介している。
・朝鮮半島のタイジュ(幼女の精霊)
・北海道アイヌ民族のアイヌカイセイ
(ボロボロになったアットウシという着物をまとい、就寝中にいたずらをする家屋の妖怪)
・ロシアのドウモイ(老人の姿の家屋の妖怪)
・ヨーロッパのアルプス地方のセルバン
・青森県八戸地方のアカテコなどの樹木の精
・沖縄県の樹木の精霊「キジムナー」
・秋田県の三吉神(童形で剛力な神)
・静岡県、愛知県のザシキボウズ・ザシキコゾウ
・石川県の枕返し
・徳島県のアカシヤグマ
他にオクナイサマやオシラサマなど家の神、カッパなどがある。

説明文がたくさんありましたが、読めば読むほど分らなくなるほど多くの説があります。

遠野市の縄文遺跡「綾織新田遺跡」「張山遺跡」

2008年02月23日 | 東北地方の旅
昨年10月7日の東北旅行の続きです。
遠野市博物館で縄文時代の遺跡が紹介されていました。



博物館で、遠野にある遺跡地図のパネルが展示されていました。
向って一番左が「新田遺跡」、一番上が「張山遺跡」です。

遺跡地図の範囲外ですが、遠野市には国内最古の遺跡が発掘されています。

遠野市に合併された旧宮守村達曽部金取にある「金取遺跡」で、中期旧石器時代の8万5000年前の阿蘇山の火山灰層から石斧、掻器など7点の旧石器が発掘されたそうです。
阿蘇山の火山灰層とは、8万5000年前、九州の阿蘇山の巨大噴火によるもので、朝鮮半島から北海道までを火山灰が覆い尽くしたそうです。
旧石器が発掘された「金取遺跡」の火山灰層には木炭片、焼けた礫(れき=石ころ)が多く見られたそうで、旧人がキャンプをした場所と考えられています。

この時代の人類は、「旧人」の段階で、類人猿→原人→旧人と進化し、現代の「新人(ホモ・サピエンス)」に代わる前の時代です。



縄文時代前期の「綾織新田遺跡」の展示パネルがありました。
向って右の図は住居跡・広場跡・道路跡で、向って左の写真は3号住居跡の写真です。

「綾織新田遺跡」は、ほとんどが長方形の大型竪穴住居で、縄文時代前期の集落の様子が分かる貴重な遺跡だそうです。

■展示パネルの説明文を転記します。
「国指定史跡 綾織新田遺跡」
綾織町新田地区にあり、長方形の大型のたて穴式住居がならぶ縄文前期(約5500年前)のムラである。
はば約5m、長さ約8~14mの巨大な住居には、使い方がわからない小さなたて穴式建物がついていた。ムラの中には広場があり、そのまわりに住居がならんでいて、食べ物をたくわえる穴やお墓、道路などがあった。
ほかに、土器や石器、けつ状耳かざり、牙状装飾品、異形石器、カツオブシ型石製品などが発見された。
このようなムラの遺跡は、当時の社会の様子を知るうえで、非常に重要な発見として平成14年(2002年)国指定史跡となった。



展示されていた土器の写真です。
縄文時代前期から中期にかけて東北地方の土器は、秋田・盛岡・宮古を結ぶ線を挟んで北が「筒式土器」、南が「大木式(だいぎしき)土器」が出土し、二つの文化圏があったようです。
「綾織新田遺跡」からは「大木式土器」の中でもあまり例のない「大木三式土器」が出土しています。
写真の土器について個別に分りませんが、「大木三式土器」は、縁が波打っているのが特徴と思われます。



■この土器のの後ろに「張山遺跡」の説明書きがパネル展示されていましたので転記します。
「張山遺跡」
附馬牛町張山地区にあり、縄文時代の中ごろ(約5000年~4000年前)の集落の様子をよく伝える遺跡である。集落の中心には広場があり、そのまわりを約40の墓穴が囲んでいる。
その外側に住居の跡や食料をたくわえる穴、柱穴のある地域がある。
また、集落からやや離れたところにも数棟の住居の跡がある。
住居の中には、8mを超す大型のものも見られる。
遺跡からは土器や石器、土製品、石製品のほか、墓穴からはヒスイの大珠や赤色の顔料が発見された。



■「張山遺跡」の出土品の説明書きを転記します。
「お墓から出たヒスイ大珠」
石を立てたお墓からヒスイとベンガラ(赤い顔料)が出てきました。
ヒスイは新潟県糸魚川付近でとれるめずらしい宝石です。
ムラのまとめ役など特別な人のお墓だったのでしょうか。
 張山遺跡(附馬牛町)出土



「張山遺跡」で発掘された「石製有孔装飾品」です。

「張山遺跡」は、遠野市附馬牛町張山で発掘された縄文時代中期から後期の遺跡です。
遺跡では、集落中央の広場の周囲に48基の墓があり、又その周囲を竪穴住居が取り囲む環状集落跡が発掘されたようです。
「張山遺跡」は、「遠野市博物館」の後行く「遠野ふるさと村」の近くです。

遠野と早池峰山信仰

2008年02月12日 | 東北地方の旅

遠野市博物館の見学で、「早池峰山信仰」のパネルがありました。
パネルの写真には壊れた鳥居の間から早池峰山が見えています。

■パネルの説明文を転記します。
「遠野と早池峰信仰」
遠野の信仰・学問・文化の中心は早池峰山妙泉寺でした。平安時代初期に創設され、絶えず上方との交流を保ち、近世に入っては長谷寺・御室御所・嵯峨御所等の学問寺や門跡寺院への留学などで、京都から持ちかえった文化を積み重ねてきました。
また、遠野盆地の人びとは早池峰から流れ出る水のおかげで生産ができ、死ぬとこの山にいくのだと信じていました。
この山岳信仰と高い文化は、遠野の歴史や伝統を貫き、「遠野物語」を生む背景となりました。



早池峰神社を中心とした、早池峰山付近の図です。
伝説では、大同元年(806)来内村(現遠野市)の猟師「四角藤蔵」がクマを追って早池峰山の山頂で十一面観音に出合い、早池峰山頂にほこらを建立したのが始まりだそうです。
斉衡年間(854~857)慈覚大師が、早池峰山持福院妙泉寺建立し、明治の神仏分離令により、「早池峰神社」と改称したようです。

このブログ「角磐山 大山寺」で、鳥取県の大山寺縁起でも似た話がありました。
猟師が金色の狼を見つけ、大山まで追いつめたところ地蔵菩薩が現れたという話です。
しかも「慈覚大師」により天台宗の寺とされた点も共通しています。

又、平泉で「中尊寺」と並ぶ大きな寺院「毛越寺」でも同じような「白鹿伝説」がありました。
「慈覚大師」がその地を旅で歩いていた時、霧の中で白鹿と遭遇、やがて「薬師如来」の化身である老人が現れ、堂宇を建立するよう告げられ、寺を建立した話しです。
この類似した伝説に「慈覚大師」による布教目的の意図的なにおいも感じます。



早池峰山、薬師岳、早池峰神社が、一直線でつながるようです。
更に、この下の地図で確認できますが、遠野市役所が、この線上にあります。
二つの山を結ぶ線上に神社と、街を造ったかも知れません。
しかし、そうであったとしてもなぜ直線で結んだのかは謎です。



■山伏についてのパネルがありましたので転記します。
「人の一生と山伏」
山伏は修行をつみ、霊感による呪力を身につけ、村びとの依頼に応じてその病苦や災難を解くための祈祷をしました。
出産のさいは安産を、病気がちの子には取り子名をつけて無事を祈り、15歳になった男子の遠野三山へのお山がけの先達をつとめ、女子の帯解きの日には息災の祈祷、結婚にあたっては夫婦和合の符を与えるなど、病気・厄年・死後のお祓いと、人の一生の通過儀礼や年中行事と深いかかわりあいをもっていました。

「山伏の宇宙観」
密教では宇宙と自分は同一で、その宇宙に自分がなりきったとき行者は仏になるのだと教えています。山伏が超人的な力を出すいわれもこれにもとづいています。
広大な宇宙を、地・水・火・風・空の5つの要素に単純化し、これを手で5つの印に象徴化して結び、真言をとなえ、心に念じると、山伏は仏になり、宇宙になりきったおのれを駆使し、祈祷を通じて人びとの災いをなくして利益をもたらすことができると信じ、つとめてきました。


遠野三山は、地図に赤い山の印をしています。
遠野をはさむように早池峰山(標高1914m)、六角牛山(標高1294m)、石上山(標高1038m)と三つの山がそびえています。

「遠野物語 神の始」に次の物語がありました。
大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原(遠野)に来り、今の来内(らいない)村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華(れいか)降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃(ひそか)に之を取り、我胸の上に載せたりしかば、終に最も美しき早地峰の山を得、姉たちは六角牛(ろっこうし)と石神(いしがみ)とを得たり。若き三人の女神各(おのおの)三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬(そのねたみ)を畏(おそ)れて今も此山には遊ばずと云へり。

遠野には本当に沢山の物語が語り継がれ、訪れる者を不思議な世界に誘ってくれます。

「遠野市立博物館」玄関前の「獅子踊り」の銅像

2008年02月08日 | 東北地方の旅

岩手県遠野市へ到着し、早速「遠野市立博物館」へ行きました。
玄関の前に奇妙な銅像がありました。

銅像の向こうには黒い石碑があり、「元衆議院議員 泉国三郎住居跡」と書かれていました。
「泉国三郎」は、戦後の社会党の政治家で、宮沢賢治とも交流があったようです。



台座に「獅子踊り」「制作 照井栄」と書かれています。
一般的な一人の獅子舞が原型のようですが、獅子の顔、タテガミ、後ろに突き出た二本のシッポ(?)が非常に変わっています。
又、頭の上には戦国時代の兜のような二本のツノと丸い飾りがあります。



別の方向から撮った姿です。
獅子にしては顔が細く、不思議に思い、獅子踊りについて調べてみました。

宮城県・岩手県では、「獅子」ではなく「鹿(シシ)」の踊りの郷土芸能のようです。どうりで細面の顔になっている訳です。
又、「鹿(シシ)踊り」は、二つに分類され、銅像のように幕を掛けて踊る「幕踊系」、体(お腹)の前の小さな太鼓をたたいて踊る「太鼓踊系」に分類されるようです。

又、頭の上に大きな丸の周囲に八つの丸がある「九曜紋」と言われる飾りがあります。
江戸時代の岩手県は、北中部を南部藩、南部を伊達藩が治めていました。
「獅子踊り」との関連は分りませんが、両藩とも複数の家紋を使用しており、その中に「九曜紋」が共通してあったようです。



遠野市博物館の中にも「獅子踊り」の衣装と、太鼓が展示されていました。
又、その下にはビデオで「獅子踊り」の様子が紹介されていました。

■展示の説明書きを転記します。
「しし踊り」
しし踊りは大別すると、太鼓を付けて自ら打ち、自ら歌って踊る太鼓踊り系と、身に太鼓をつけず、太鼓と笛の囃子(はやし)に応じて身に覆(おおう)う幕を内から揺り動かして踊る幕踊り系があります。遠野地方のしし踊りは、後者の踊りで単に「しし踊り」あるいはしし頭のたてがみから「カナガシラじし」とも呼ばれています。踊り組は種ふくべ、子踊り、中太鼓、太刀ふり、しし、太夫、笛で構成され、豊作を祈る農民の心をこめて勇壮に踊られます。



向って左の獅子で、表の銅像とほぼ同じ形のようです。


向って右の獅子で、頭の上に「九曜紋」とは違う紋が付いています。
又、前の幕にある紋も違うものです。




ビデオの「獅子踊り」の画面です。
刀を持った子供とペアーで踊っています。



ビデオで見た「獅子踊り」は、勇壮で、魅力のある郷土芸でした。



博物館内の別の場所にも獅子踊りの資料が展示されていました。

「気仙川」で見た北国の厳しい自然

2008年02月03日 | 東北地方の旅

■昨年10月7日の東北旅行の記録です。

大理石海岸を出発して海岸線の国道45号線を北上、陸前高田市から気仙川沿いの国道340号線を通り遠野を目指し走っていました。
気仙川の景色が良い場所があったので車を止めて休憩しました。

標識に「世田米」とありますが、岩手県気仙郡住田町世田米のようです。
この場所は、矢印もあり、「世田米」の手前のようです。



少し川上に橋が見えます。
水の流れがきれいで、どことなく北国の川といった感じがします。



橋に近づいて撮った風景です。
橋の向こうの山の中腹にある家がのどかに見えます。



気仙川の美しい対岸の景色です。



対岸の岸辺を拡大してみました。
川の流れに岸が洗われて木の根が、痛々しく露出しています。

このブログ2007-06-10「浦内川流域で知ったたくましい植物の生態」で掲載のマングローブの根を思い出しました。



のどかな川下の景色です。



対岸の大木と、その下の流れが、とても気持のよい景色でした。



川べりの大木の根元が異様に大きく曲がっていました。
根が川の流れに洗われて流されそうになりながらもしっかりと根を張っているようです。
北国の厳しい自然の中でたくましく生き延びた木の姿を見ました。

「大理石海岸」の絶景

2008年02月02日 | 東北地方の旅

昨年10月7日の東北旅行の記録を再開します。
唐桑半島から海岸線を北上し、気仙沼市唐桑町の「大理石海岸」へ行きました。

「大理石海岸」までの道は、45号線から一旦西側に曲がり、45号線の下をくぐって東側の「大理石海岸」へ進みます。



「大理石海岸」の駐車場にあった案内地図で、図の右上に方角が示されています。
最初の地図にあった赤い鳥居は、八幡神社で、弁天島辺りの景色が見所です。

駐車場トイレの下に貝塚跡・土器出土跡が表示されています。
図の上には「石灰採掘跡」、その他「潮吹穴跡」「石切場」「ウミユリ等化石群跡」などが書かれています。

「大理石海岸」の駐車場にあった案内地図で、図の右上に方角が示されています。
最初の地図にあった赤い鳥居は、八幡神社で、弁天島辺りの景色が見所です。

駐車場トイレの下に貝塚跡・土器出土跡が表示されています。
図の上には「石灰採掘跡」、その他「潮吹穴跡」「石切場」「ウミユリ等化石群跡」などが書かれています。

■案内板の説明文を転記します。
過去見た観光地の案内板の中では飛びぬけて多い文字数でした。
<大理石海岸のご案内>
大理石海岸は、永い年月にわたる地殻の変動や海水の浸食によってできたリアス式沈降性海岸です。
岩質は大理石層、石灰岩層、黒色粘板岩層に分類された光輝く白亜の岩礁は湾内の景観をいっそう引き立たせております。
霧立山から流れ出る清流は植物性プランクトンを含み、やがて動物性プランクトンの繁殖によって小魚や海草、ウニ、鮑、牡蠣などの豊富な魚介類が自然繁殖しており、駐車場の北側には深さ三十メートルに及ぶ鍾乳洞があり、これまでの内部調査によって縄文土器や石斧など数点がはっけんされました。
また、駐車場南西側の斜面にはアサリや牡蠣・貝殻等の貝塚がはっけんされており縄文人達の足跡が今も色濃く残されています。
更にこの駐車場から徒歩五分程の南側大理石層(石切場)には沢山のウミユリ等の化石群が露出しており学術的な調査をする上では大変貴重な場所です。
明治四十年、浅野セメント創始者・浅野総一郎氏がアメリカ鉱山学博士、Rスミス氏と共にこの地を訪れ大理石の優れた性質を見て「イタリア産大理石を凌ぐ」と絶賛された事が伝えられております。
浅野セメントはその後約十年間に渡り採掘を続けましたが、岩石を積む船(運搬帆船)の接岸が容易ではなく、やむをえず採掘を中断してしまったと言われています。
また一説には東京三越本店正面玄関の左右のライオン台座の大理石礎石はこの場所から運ばれたと云われており、当時の積み残した大理石原石が今でも石切り場海岸のいたるところに残っており往時を忍ばせております。
陸中海岸は宮城県気仙沼市から岩手県久慈市まで180キロメートルにも及ぶ起伏にとんだ美しい海岸線で昭和三十年に一部国立公園指定を受けました。昭和四十四年、国道四十五号線仙台宮古間が開通すると同時に陸中海岸にも観光ブームが到来しその頃から、誰云うともなくこの海岸を「大理石海岸」と呼ぶようになりました。
この湾から見える左前方の岬、出山(石山)の石灰採掘跡が湾内の景観を損ねたと云う理由で昭和三十九年陸中海岸国立公園南部区域指定(大釜半造、大島等)の時、この大理石海岸だけ外されてしまいました。
閉山四十年後の今日、一部損なわれた自然も今は美しく蘇り、宮城県最北東端の海洋ロマンの町、唐桑半島の最も美しい景観を誇る名称地として見直されております。
「大理石海岸」の四季折々の自然が織り成す素晴らしい海・山・岩礁の色彩景観は、長旅でお疲れの皆様方のお身体とお心をきっと癒してくれると思います。



駐車場から弁天岩方向を見た景色です。
数隻の小さな漁船が砂浜に並んでいました。



駐車場から弁天岩方向への海岸沿いの道です。
道の横には白いツヤのある岩があり、大理石のようです。



海岸の道の脇にあった大理石の上に立って足元を撮ってみました。
この石を磨くと、白とグレーの大理石模様が浮かび上がるのでしょうか。


波打ち際に面白い形の岩がありました。
三角山のような小さな岩があり、手前の大理石の白と、向こう側の褐色(石灰岩?)の境目のようです。

案内板の説明にあったように、このあたりの岩は、大理石層、石灰岩層、黒色粘板岩層で構成されているそうです。
「大理石」は石灰岩がマグマの熱を受けて変成、再結晶したもの。
この辺りにウミユリの化石も出ており、生物が堆積して石灰岩が出来、更に火山活動の熱変成により大理石が出来たと思われます。
粘板岩とは堆積岩の一種で、砂や泥が強い圧力で固められた岩だそうです。
黒色粘板岩は、硯や碁石にも利用されており、磨くとつやが出るようです。




弁天岩を南西方向から見た景色です。



弁天岩を西方向から見た景色です。
海に並ぶ大きな岩礁に波が立ち、非常に特徴のある絶景です。



湾内の南東を見た景色です。
湾内の向こうに案内地図にもある堤防が見えます。



海岸に沿った道を歩いていると大きなカヤの木があり、足もとにたくさんのカヤの実が落ちていました。
カヤの実は、銀杏と同じような構造で、緑の外皮の内側に硬い内皮(殻)があり、その中にある実の表面に渋皮があります。

カヤの実は、縄文遺跡からも見つかっている木の実です。
案内板の説明によると駐車場周辺で縄文時代の遺物が見つかっているようです。
縄文人たちもこの大理石海岸の美しさに魅了され、この地に住んでいたものと思われます。



見上げると大きな「カヤの木」がそびえていました。

カヤの木は、イチイ科 カヤ属の常緑針葉高木です。
イチョウなどと同じ雌雄異株で、ちなみにこの木は実をつけているので雌の木のようです。



駐車場の横に見たことのない祠(ほこら)のようなものがありました。
屋根の上の飾りも初めて見るものです。
岩の上にある祠の四つの口の形も変わっています。
弥生時代や、古墳時代を思い浮かべるこの不思議なデザインの祠は、いったい何でしょうか。