昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「猿田彦神社」の参拝で見た不思議な八角形

2009年09月27日 | 近畿地方の旅
「月讀宮」から内宮方面に国道23号を約1Kmの「猿田彦神社」へ参拝しました。

内宮の大きな駐車場と、国道23号を挟んで西隣にあります。



「猿田彦神社」の参道口です。

参道口は、アスファルト舗装で、やや興ざめですが、鳥居付近から向こうは細かな砂利が敷き詰められ、さすがに拝殿前は神域の雰囲気が感じられます。

「猿田彦神社」は、当初「猿田彦大神」の子孫とする伊勢神宮の宮司「宇治土公[うじのつちぎみ]氏」が、邸内で祖神を祀る私的な神社だったようです。

江戸時代末期に火災があり、明治11年の社殿再建で正式な神社となったと言われています。

■頂いた神社の資料を転記します。
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猿田彦神社御神徳略記
主神  猿田彦大神
相殿  大  田  命
御  由  緒
猿田彦大神[さるたひこおおかみ]は天孫降臨[てんそんこうりん]の時、天八衝[あめのやちまた]に待ち迎えて、啓行[みちひらき]をされ、天孫を高千穂[たかちほ]へと導かれてから、天宇受売命[あめのうずめのみこと]に送られて、伊勢の五十鈴[いすず]の川上に来られ、こゝを中心に広く国土を開拓指導された地主の神で、皇大神宮がこの地に鎮座されたのは天上からの幽契[ちかい]によると古書に伝えられて居ります。
垂仁[すいにん]天皇の御代に皇女倭姫命[やまとひめのみこと]が神宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、猿田彦大神の御裔[みすえ]の大田命[おおたのみこと]がお迎えして、大神以来守護して来た五十鈴の川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げました。大神と大田命との子孫は宇治土公[うぢのつちぎみ]と云い以来永く玉串大内人と云う特殊な職承に任ぜられて代々奉仕して来ました。
御神徳高い大神は佐田大神、千勝大神、白鬚大神、導祖神、さいの神、庚申さま等々として津々浦々にお祀りされますが、日本書紀にも伝えられている通り、大神本拠の地であり大神の末孫宇治土公[うぢとこ]家の累代奉祀する最も特色ある本社であります。
大神は古来物事のはじめに災害を祓い、万事最も善い方へみちびき給うとされ、特に地祭[じまつり]方除、災除、建築、移転、開業、商工業の繁栄、豊産、豊漁、開運の御祈祷を全国から出願されます。

境内社佐瑠女神社
俳優[わざおき]、神楽[かぐら]、技芸、鎮魂[ちましづめ]の祖神[おやがみ]と仰がれる、天宇受売命[あめのうずめのみこと]を奉祀。天照大御神が天岩窟[あめのいわや]に籠[こも]られ世の中が乱れたとき、天宇受元命がその前で神楽をされ、そこに集った八百萬の神々が喜び笑い、天照大御神再び現れて平和な世になったと伝えられます。
また天孫降臨に際して待ち迎えた猿田彦大神と最初に対面し、高千穂の峯に至る道を開かれ、その後本拠の地に赴[おもむ]かれる大神と共に伊勢に来られ、その功により「媛女君[さるめのきみ]」と称号を受けられました。
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鳥居の前から拝殿方向を見た写真です。

よく見ると、鳥居や、灯篭の柱が八角形でした。

参道口の手水舎の柱も八角形ですようで、何やら特別な理由がありそうです。



拝殿前に「古殿地」の文字と、古来の方位が刻まれた「方位石」と呼ばれる石柱が柵に囲まれ、建っていました。

「古殿地」の意味は、江戸時代末期の火災前に神殿が建っていた場所ということでしょうか。

この「方位石」に刻まれた「星回り図」の八角形が、各所に使われている柱の八角形の元になっているものと思われます。

これは、方位除け、厄除けの祈祷をPRする目的か、拝殿正面に極めて目立っていました。(神社も厳しい生残り競争の時代でしょうか)

神社や、お寺の祈祷では生れ年で決まる「九星※」が、その年の星回りで凶方に位置する場合に行われるようです。

※九星の星回り
一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星

ちなみに「六白金星」の私は、今年が厄年で、お正月に近くの神社で厄払いをして頂きました。



「猿田彦神社」の拝殿です。

「猿田彦神社」の祭神は、「猿田彦大神」その末裔「大田命」です。

建物正面中央は、独特の建築様式「二重破風 妻入造」で、ツノのように突き出した「千木」も美しさを引き立てているようです。



拝殿後方の神殿を横から垣根越しに仰ぎ見た写真です。

全体的に美しさを感じる建物で、「千木」の先端は、内宮と同じ内削ぎになっていました。



境内にもうひとつ「佐瑠女神社」[さるめじんじゃ]の簡素な社殿がありました。

参道口を入ったすぐ脇に、本殿側に向いて建っています。

祭神は、猿田彦と夫婦の神様「天宇受売命」[アメノウズメノミコト]です。

■置かれていたパンフレットを転記します。
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縁むすび御守
さるめ神社
人と物が様々に出合い結ばれる
ことによって新しい形が生まれ、
またそれぞれが成長していきます。
天岩戸開きを誘い、猿田彦大神様と
豊かな道をひらかれた天宇受売命
(アメノウズメノミコト)様の御守です。
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社殿の裏手に「御神田」と刻まれた大きな石碑と、水田がありました。

左右と突当りは、木々が茂った林になっています。

社殿横の通路に「御神田」と矢印が書かれた立て札があり、案内に従ってたどり着いたものです。

右手の林の中に不思議な建物が、かすかに見えています。(下段に紹介しています)



休憩所に掲示されていた御田祭[おみた]のポスターです。

ここを訪れたのが5月4日、御田祭の開催日前日でした。

この女性がかぶっているのは平安時代からの市女笠[いちめがさ]のようですが、縁がフラットで、初めて見る形です。

平安時代の市女笠として見たものは、縁が下に曲がり、顔が少し隠れるものでしたが、市女笠にも時代や、用途による違いがあったのでしょうか。



田植えの準備が整った水田の右手から左奥を見た景色です。

水田の奥に藤棚と、その下にサツキが見え、花が開き始めていました。

右手の奥のテントの下に注連縄で囲まれた場所が作られ、「御田祭」の神事が行われたものと思われます。



水田の右手奥に得体のしれない建物がありました、

建物の前に小さな立て札があり、「猿田彦土中神社 ご自由に中にお入りください 内部観覧時間 午前9時~午後5時・・・」と書かれていました。

写真も吊り下げられています。

見学したのは朝8時過ぎで、残念ながら鍵が閉まっていました。



石段の上に不思議な建物があり、その前に小さく「猿田彦土中神社」の立て札があります。

入口は極めて小さく、茶室の入口のような大きさです。



横から見た「猿田彦土中神社」の建物です。

この建物は、「猿田彦神社」の各所に見られる八角形柱でした。

気になって「猿田彦土中神社」を検索すると、美術家の鈴木寅二啓之氏の作品を制作し、この建物と合わせて奉納するまでを「猿田彦土中神社」の名称でドキュメンタリー映画にしたようです。(2009年8月公開)

鈴木寅二啓之氏が、墨で描いた絵を土に埋め、バクテリアなどの作用で変化させ完成品とするもので、実に風変わりな技法のようです。

伊勢神宮別宮「月讀宮」の不思議

2009年09月20日 | 近畿地方の旅
5月4日7時過ぎに「松下社」を出発、7:30頃には伊勢市中村町の「月讀宮」に到着しました。

「月讀宮」は、伊勢神宮 内宮の別宮で、天照大御神の弟神「月讀尊」を主祭神とする神社です。



国道23号線沿いの裏参道口です。

参道口に2~3台の駐車場があり、利用させて頂きました。

御幸道路のすぐ脇にある表参道口よりこちらが落ち着いて出入り出来るようです。



「月讀宮」付近の地図です。

Aが裏参道口、Bが表参道口、Cも裏参道口と思われます。

①から②を経て右手上にある四つの社殿へ参拝しました。



参道②を右手に曲がると「手水舎」があります。



「手水舎」を過ぎ、③付近に二つの建物がありました。

手前は、板壁があり、倉庫のように見えましたが、向こうの建物は、壁のない柱だけの建物で、内宮・外宮でも見かけた形式です。

神事などが行われるのでしょうか。



左手に板塀に囲まれた小さな祠があり、後方には大木がそびえています。

この祠は、式年遷宮の御敷地[みしきち]に建つ心御柱覆屋のようにも見えますが、板塀に囲まれているものは初めて見ます。

又、式年遷宮の御敷地[みしきち]は、石垣の上の左手にあり、この場所とは違うようです。

板塀に囲まれ、参道脇にあるこの小さな建物は、私にとって今でも謎です。



四つの社殿に立て札があり、一番奥から「月讀荒御魂宮[つきよみのあらみたまのみや]」「月讀宮」「伊佐奈岐宮[いざなぎのみや]」「伊佐奈弥宮[いざなみのみや]」と並んでいました。

社殿を取り巻く新緑の森の美しさが印象的でした。



「月讀宮」の社殿です。

「月讀尊」は、「伊弉諾尊」「伊弉冉尊」の子供で、天照大御神の弟神、素盞嗚尊の兄神とされています。

このブログで、<2009-07-14 外宮別宮「月夜見宮」へ参拝>でも記載していますが、外宮の別宮に「月夜見宮」があり、祭神も「月夜見尊」とされ、「「月讀尊」と同じ神様です。

その記事にも少し書きましたが、天照大御神の弟神「月讀尊」が、内宮・外宮両方の別宮として祀られていることや、弟神「素盞嗚尊」が別宮に祀られていないことなど、とても不思議に感じます。



上段の地図④にある「宿衛屋」[しゅくえいや]で、お札・お守りの授与を行っている施設だそうです。

朝早く、まだご出勤前のようで、留守でした。



参道口から②付近で突き当った場所に式年遷宮の新御敷地があります。



①参道口を進み、②までの中間に「葭原神社」[あしはらじんじゃ]があります。

「葭原神社」は、内宮の末社だそうで、ここにも式年遷宮の新御敷地があました。



裏参道から「葭原神社」へ上がる石段です。

「葭原神社」の祭神は、「佐佐津比古命」「宇加乃御玉御祖命」「伊加利比売命」とされています。

「宇加乃御玉御祖命」は、稲荷神社の祭神と思われますが、他の二神は初めて聞く神様です。

5月連休の伊勢神宮の参拝の記録も「猿田彦神社」が残るだけとなってきました。

「松下社」の気になる小さな鳥居

2009年09月14日 | 近畿地方の旅
「御塩殿神社」から二見浦海岸沿いを東に向かい「松下社」を参拝しました。

二見の「夫婦岩」付近から国道42号に合流、鳥羽方面へ1~2Km走った所に「松下社」があります。

すぐそばを五十鈴川の派流が流れています。



国道42号線沿いに「松下社」の森が茂り、クスの古木がありました。

幹や根の中央が空洞になりながらも枝や、葉が元気に茂っています。

背後の境内は、一段高くなっています。

■柵に囲まれたクスの木の根元に立て札がありました。
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 松下社の大クス
県指定文化財
松下 松下社 昭和一二・一二・一〇指定
 松下社宮域内の南東部にあり、昭和一二年(一九三七)一二月一〇日に三重県の天然記念物に指定されている。
主幹は五メートル位を残して枯損し下部は空洞化しているが、樹幹基部の周辺から枝幹が張り出して堂々たる景観を保っている。
 樹齢は二〇〇〇年とも言われているが、その風格は幽遠な蘇民の伝説を秘めた神社によく適応し、より一層の荘厳さを漂わせている。
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松下社付近の地図に境内の建物名称(推測)を張付けたものです。

黄緑のエリアが松下社の境内で、参道口がA・B二ヶ所あります。

大クスは、国道42号沿いにあり、真っ先に見えます。



上段の境内図にある参道口Aです。

右手には手水舎があります。

神社の境内がとても奇麗に掃除され、本当に気持ち良く参拝させて頂きました。

地元の方々が、「松下社」を大切にされていることが分かります。



三段の石段が見えています。

石段を上がった左手に板塀と、入口があり、神社の門のようです。

突き当たりを右手に進むと再び石段があります。



板塀越しに中を覗くと、小さな祠がありました。

立札には「蘇民祠」と書かれてあり、蘇民将来を祀る祠のようです。

この地では「蘇民将来子孫」と書いた桃符を注連縄に吊す習慣が古くから続いているようです。

「蘇民将来」の伝説は、「備後風土記」(広島県東部)の逸文にありますが、この地方に色濃く残っているのはなぜでしょうか。

■東洋文庫「風土記」吉野裕訳 にある備後風土記の逸文を転記します。
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備後国[きびのみちのしりのくに]
 蘇民将来
 備後の国の風土記にいう、-疫隅の国社[えのくまのくにつやしろ]。昔、北の海においでになった武塔[むとう]の神が、南の海の神の女子を与波比[よばい](求婚)に出ていかれたところが、日が暮れた。その所に将来兄弟の二人が住んでいた。
兄の蘇民将来はひどく貧しく、弟の将来は富み、家と倉がー百あった。ここに武塔の神は宿を借りたが、惜しんで借さなかった。兄の蘇民将来はお借し申しあげた。そして粟柄[あわがら](粟の茎)をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。
さて終わってお出ましになり、数年たって八桂の子供をつれて還って来て仰せられて、「私は将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に在宅しているか」と問うた。蘇民将来は答えて申しあげた。「私の娘とこの妻がおります」と。そこで仰せられるには、「茅の輪を腰の上に着けさせよ」と。そこで仰せのままに〔腰に茅の輪を〕着けさせた。その夜、蘇民の女の子一人をのこして、全部ことごとく殺しほろばしてしまった。そこで仰せられて、「私は速須佐雄[はやすさのお]の神である。
後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」と
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松下社の拝殿の前に立ちました。

鳥居、壁のない銅板葺きの拝殿、その奥に塀に囲まれた神殿があります。

右手の茅葺きの建物は、絵馬が多く掛けられていることから「絵馬殿」とも思われます。



拝殿前の両脇に門のような石組みがあり、小さな鳥居と、枯れた榊が置かれていました。

始めて見るものです。



拝殿から見た「松下社」の神殿です。

■立て札に祭神が書かれていました。
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ご祭神
 不詳一座
 素盞鳴尊
 菅原道真
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拝殿横にある茅葺の建物です。

神様に奉納された絵馬がたくさん飾られていました。

奉納された絵馬が神様に見えるよう配慮してか板壁の建物に窓が広く開いています。



社務所と思える建物ですが、常駐する人はいないようです。

建物の前に石と注連縄で囲まれた木がありました。

大木でもない木に注連縄が張られ、いったいこの木は何なのでしょうか。



南の参道口近くに「山の神」と書かれた立て札があり、小さな鳥居が立掛けられた枯れた榊の束がありました。

拝殿前にも同じものがありましたが、一体何でしょうか。

古代の信仰の形を思わせるとても珍しいものです。



参道口Bから見た境内です。

神殿建物の方向から、こちらが正式な参道口のようで、この後方に一の鳥居がありました。

境内のあちこちで見た榊の束に立掛けられた小さな鳥居の不思議な光景が今でも気になっています。

伊勢神宮の製塩施設「御塩殿神社」

2009年09月09日 | 近畿地方の旅
「御塩浜」の見学を終え、6:30頃、すぐ近くの「御塩殿神社」[へ行きました。

駐車場がなく、参道口まえの道路脇に駐車し、短時間で参拝させて頂きました。



「御塩殿神社」みしおどのじんじゃ]の前は変則的な三叉路で、カーブミラーから左手に進む道が、外宮に至る「御塩道」[みしおみち]です。

「御塩道」は、「御塩殿神社」で作られた「御塩」を外宮まで運ぶ約10Kmの街道だそうです。

右手の道路の横断歩道をそのまますすむと「御塩殿神社」の参道です。

■カーブミラーの下ある二つの白い石碑の小さい方に説明文が刻まれていました。
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鴨長明は、鎌倉時代初期の人で、「方丈記」の作者としても有名です。
文治二年(1186)ごろ、二見の御塩殿を訪れ、ひの物ふりて神々しいたたずまいにすっかり感動しました。それがこの歌です。
  二見町教育委員会
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■大きい石碑に刻まれていた鴨長明の歌です。
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二見潟神さびたてる御塩殿 幾千代みちぬ松かげにして 長明
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早朝の「御塩殿神社」の参道口です。

真直ぐに進む参道は、木が生い茂り、薄暗いトンネルのようでした。

■参道口前の道端に「御塩殿神社」の案内文が刻まれた石碑がありました。
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御塩殿神社
塩筒翁の神がまつってあります。
域内に皇大神宮の御料の御塩を調製する御塩殿、御塩焼所、御塩汲み入れ所があります。
御料の御塩は、夏の土用に町内の西地内にある御塩浜から運ばれた塩分の濃い海水を御塩汲み入れ所におさめ、これを御塩焼所で荒塩に焼きます。
さらにこの荒塩を、毎年三~四回、御塩殿において三角形の土堝をもって堅塩に焼き固めて、これを御料に供えています。なお、御塩の調進は昔から神領二見郷の住民が奉仕しております。
  二見町教育委員会
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参道を進むと「御塩殿」[みしおでん]が見えてきます。

鳥居があり、板垣に囲まれた建物で、てっきり「御塩殿神社」と思いました。

「御塩殿」は、粗塩を焼き固めて「堅塩」を作る施設だそうです。



「御塩殿」の左手にこじんまりとした「御塩殿神社」の建物がありました。

「御塩殿神社」は、皇大神宮の所管社で、この建物は他の所管社と同じようです。

参道口の案内板によると祭神は、「塩筒翁の神」とあります。

「塩筒翁」[しおつつのおきな]は、日本書紀に出てくる「塩土翁」と同じ神様と思われます。

釣針をなくして途方にくれた山幸彦(彦火火出見尊)を助けた場面や、神武天皇(山幸彦の孫)へ東征を進言した場面に登場します。



右手から見た「御塩殿」です。

「御塩殿」の右手後ろの塀の中に「御塩御倉」の屋根がほんの少し覗いています。

「御塩御倉」には「御塩殿」で作られた「堅塩」が外宮へ運ばれるまで保管されているようです。



「御塩殿」の右手に社務所のような建物が見えます。

その建物の横の道を左手に進むと「御塩殿」の後方にある「御塩焼所」「御塩汲入所」があります。



林の中の道を進むと生垣に囲まれた「御塩焼所」「御塩汲入所」が見えてきます。

人気のない早朝の境内を妻と二人で歩いて行きましたが、無断で奥まで入って行くことにいささか躊躇してしまいます。



左手の建物が「御塩焼所」、右手の建物が「御塩汲入所」です。

ここにも鳥居があり、神聖な場所への入口としているようです。



御塩焼所[みしおやきしょ]では、大きな鉄鍋で鹹水(濃縮された塩水)を煮込み、水分を蒸発させて粗塩を作る施設だそうです。



鳥居の向こうに「御塩汲入所」[みしおくみいれしょ]の建物があります。

前回紹介した御塩浜から運ばれた「鹹水(濃縮した塩水)」を保管する施設だそうです。

屋根が低いため建物の中を立って歩くのがつらいようです。

入口が見当たりませんでしたが、左手の妻側にあるのでしょうか。



「御塩汲入所」の切妻と、後方の「御塩焼所」の切妻が並び、美しく見えました。

この建物の建築様式は、「天地根元造り」[てんちこんげんづくり]と呼ばれ、竪穴住居のイメージも感じるスタイルです。

伊勢神宮の塩田「御塩浜」

2009年09月06日 | 近畿地方の旅
5月連休の熊野・伊勢・志摩旅行の続きです。

旅行3日目、5月4日の早朝6時過ぎ、伊勢市二見町荘にある「御塩浜」に行きました。

この後に見学予定の、「御塩殿[みしおどの]神社」と合わせたものが伊勢神宮の製塩施設のようです。



人気のない五十鈴川の河口付近の土手から興味津々で「御塩浜」[みしおはま]を見下ろしました。

手前のコンクリートのマスは、海水の取水口で、塩田は柵に囲まれた部分(縦38m、横31m)です。

写真には見えませんが、すぐ左手に土手から下りる道があります。



伊勢市付近の地図です。

赤いマークの「御塩浜」は南の「伊勢神宮 内宮」の横を流れる五十鈴川の河口にあります。

ここで作られた濃縮塩水が、東にある「御塩殿神社」へ運ばれて塩になるようです。

現代ではトラックで濃縮した塩水を運ぶことが出来ますが、担いだり、荷車で運んでいた昔は製塩する「御塩殿神社」と同じ場所にあったものと考えられます。

二見浦で塩が作られ始めたのは「伊勢神宮」創建の頃とされていますが、当初は海水を煮詰める製法で、この御塩浜(塩田)はなかったものと思われます。

古墳時代後期~奈良時代の福井県小浜市の岡津製塩遺跡を見学したことがあります。

当時は、海岸に平たく石を敷き詰め、ソフトボール程度の大きさの土器に塩水を入れて複数並べ、その周囲で火を焚く土器製塩だったようです。

この「御塩浜」(塩田)の始まりは、それからかなり時代が下った頃からと思われます。



向こうに見える五十鈴川の河口から遡った土手に造られた御塩浜の取水口です。

土手の反対側に最初の写真の取水施設があり、干満の差を利用して海水を引き込んでいるようです。

この辺りでは五十鈴川の流れと、海水が混じり合っているものと思われます。

常識的には、塩分の薄い河口付近の水では海水を乾燥させる効率が悪いと考えられます。

しかし、一部の本では、河口付近の水が、きめ細かく、ミネラル豊富な塩が採れる先人の知恵が伝えられているとの見解もありますが実態は分かりません。



土手から道を下り、「御塩浜」の入口に立ちました。

御塩浜(塩田)の手前に鳥居がありましたが、特に社殿はありませんでした。

この鳥居で、やはり伊勢神宮の塩田であるとの感じが伝わってくるようです。



御塩浜(塩田)に近づくと、左手に物置小屋のような建物がありました。

作業の用具などが納められているものと思われます。



鳥居に近づいてみると、「黒木の鳥居」(木の皮を剥がず原木で造った鳥居)です。

左手には「貫」(笠木の下の二段目の横木)のない鳥居のようなものが立っていますが、何のためのものかよく分かりません。



土手の下の取水口につながった水路です。

突き当たりの土手の向こうには五十鈴川の河口付近の流れがあります。



御塩浜(塩田)の中の様子です。

正面の柵の下は、御塩浜(塩田)に塩水を入れる取水口のようです。

御塩浜(塩田)の中央付近に板が四か所に立てられています。

この場所は、沼井[ぬい]と呼ぶ施設で、濃縮された塩水を効率的に作る役割があるようです。



沼井[ぬい]の付近を拡大した写真で、奥行きが長く、長方形の穴が開いています。

この右手に大きな沼井の穴を掘るようですが、興味のある方は三重県醤油味噌工業協同組合 御塩作りの作業に掲載されていますので参考にして下さい。

「御塩浜」での塩作りは、一見昔の情緒を感じるものと思われますが、かなりの重労働のようです。

「二見興玉神社」参拝と、干潮の「夫婦岩」

2009年08月30日 | 近畿地方の旅
5月連休の伊勢旅行の思い出をゆっくりと書いています。

旅行2日目の夕方、二見浦の「夫婦岩」を見に行きました。

もし翌朝、快晴になれば、日の出を見たいと下見を目的に行きました。
(結局、翌朝は曇りで日の出見物は中止にしました)



近くの駐車場に車を止め、海岸沿いの参道口進んで行きました。

■参道口に案内板がありました。
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二見浦と浜参宮
夫婦岩(立石)沖には、現在は海中に没していますが、神様が寄り付く岩 興玉神石[おきたましんせき]があり、この周辺の立石浜は、神々のいる常世[とこよ]の国から寄せる波が最初に届く聖なる浜と信じられてきました。
神仏に参拝する時、水を浴びて心身を清めることを垢離[こり]と言いますが、古来立石浜は伊勢神宮の禊場[みそぎば](垢離場[こりば])として人々の信仰を集めてきたのです。
神領民は勿論、全国から来られた方々も外宮から内宮へ廻る神宮参拝や神事に参加する前にこの浜で禊をするのが慣わしです。
このように事前に禊のために立石浜を訪れてお祓[はら]いを受けることを「浜参宮」と言います。
本来は実際に海水に浸かって禊をするのですが、現在では、二見興玉神社に参拝し、興玉神石より採取した無垢鹽草[むくしおぐさ]草で身を清めるお祓いを受ける浜参宮が一般的です。
  第62回神宮式年遷宮浜参宮受入委員会
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海岸沿いの東に向かう参道を進むと「夫婦岩」が見えてきました。

干潮で、右手の岩が砂浜で地続きになり、写真で描いていたイメージとはだいぶ違っていました。

上段の説明文にあるように、この海岸は、伊勢神宮の禊の場でもあったようです。

神に祈る前に手や、口を清める習慣は禊[みそぎ]が変形したものと言われています。

大勢の見物客で、賑わっており、やはり人気のスポットのようでした。



海岸沿いの石垣の上に案内図がありました。

夫婦岩や、周囲の岩の名称が書かれています。

上段の写真では烏帽子岩と、獅子岩が一部重なっています。



上段の案内図のすぐそばに立て札がありました。
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古来烏帽子岩と呼ばれておりましたが御神威か近年蛙の容姿をなしていました・
神様のお使い蛙岩(親子蛙)
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何と! 神様の偉大な力で、烏帽子岩が、蛙岩になってきたようです。



蛙岩です。

なるほど、親子蛙の姿に見えてきます。



この中に「天の岩屋」の洞窟があるようです。

建物の中に「天鈿女命」[アメノウズメ]の石像がありました。

天照大神が隠れられた岩屋の外で刺激的な踊りを舞った神話を思い出します。

「天鈿女命」は、二見興玉神社の祭神、「猿田彦命」と夫婦神でもあります。



手水舎がひっきりなしに来る参拝者で賑わっていました。

手洗いの他、水槽の中に置かれた蛙の像に水を掛けています。

■水槽の横に立て札に書かれていた文です。
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満願蛙(水の中の蛙)
この蛙は 御神示により この水中にお鎮まりになりました
水を掛けると 皆様の願いが かなえられます
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「無事帰る」「貸したものが返る」「若返る」などの縁起があるそうです。

このような駄洒落のごりやくを感じた人達が、境内の各所に置かれたカエル像を寄進したそうで、楽しい観光地気分を盛り上げてくれます。



「二見興玉神社」の社殿です。

右手の拝殿入口が見えていませんが、長い拝殿と、左手に神殿があります。

写真左手(神殿後方)の鳥居は、日の出の遥拝所です。

■参道口に掲示されていた「二見興玉神社」の由緒です。
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二見興玉神社由緒
 祭神 猿田彦大神
    宇迦御魂大神
垂仁天皇の御代、皇女倭姫命天照皇大神の神霊を奉戴して、此の二見浦に御船を停め神縁深き猿田彦大神出現の神跡である海上の興玉神石を敬拝し給う
即ち夫婦岩に注連縄を張り拝所を設けたが其后天平年間僧行基興玉社を創建す
明治に至り宇迦御魂大神を合祀して二見興玉神社と称する
古来、日の出の名所として、また伊勢参宮の禊所として有名である。
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日の出の遥拝所で、夫婦岩の間から昇る朝日を拝む他、皇居も遥拝する場所のようです。

右手が「夫婦岩」、左手が神殿です。



拝殿の近くから撮った「夫婦岩」です。

干潮でもあり、意外に陸地から近く見えたことで、やや期待外れでした。

■参道口にあった説明板を転記します。
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夫婦岩
 夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており、日の出の遥拝所として古くから知られています。
 男岩と女岩を結ぶ大注連縄は、「結界の縄」と称され大注連縄の向うを常世神が太平洋の彼方から寄りつく聖なる場所、そして手前を俗世という隔りを持ち張られ
ています。
 この大注連縄は、およそ650年前(文保年間)、既に張られており、現在も氏子により大注連縄張替の神事が年3回、5月5日・9月5日と12月の第3日曜日に行なわれています。
 夫婦岩の大きさは、男岩 高さ9m、女岩 高さ4mで二つの岩を結ぶ大注連縄ま長さ35m、男岩に16m、女岩に10mか巻かれ、その間9mあります。
 夫婦岩の間からの日の出は、5月から7月頃が見ころで、その絶景は深い感動を与えています。
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拝殿横の通路で見かけた「日の出遥拝案内図」です。

この図をよく見ると、太陽の下に小さく富士山が描かれています。

夏至の日(6月21日4:30頃)の前後数日間は、夫婦岩の中心にある富士の上から太陽が昇るそうです。

上段の夫婦岩の説明文に「夫婦岩は、沖合660mの海中に鎮まる興玉神石の鳥居と見なされており・・・」とあります。

「夫婦岩の中心」に「興玉神石」「富士山」「夏至の太陽」が重なる奇跡場面が、この「日の出遥拝案内図」に描かれているようです。



境内に掲示されていた「注連縄張神事」のポスターです。

夫婦岩の上空から神事の様子をとった写真が掲載されていました。

左手の陸地には見物する人々があふれています。

■頂いた「二見興玉神社」しおりに神事の説明文があり、転記します。
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特殊神事
大注連縄張神事
夫婦岩は「日の大神」と夫婦岩沖合の猿田彦大神縁りの「輿玉神石」を拝する鳥居の役目をしております。
五月、九月、十二月、皆様方の御奉献により大注連縄を新しく張り替え大神様の御神威は益々光り輝きます。

藻刈神事
五月二十一日「輿玉神石」より無垢塩草[むくしおくさ]を採取します無垢塩草は、大日に干して祓の具、不浄祓守となります。
猿田彦大神は甦りの神と称えられております。

夏至祭と禊の神事
早い暁、夫婦岩より霊峰富士の神威を仰ぎ、その背に差し昇り御光洋上に輝く太陽を拝するとき、神神[こうごう]しく神秘的な壮厳さは王さに大照大神であります‥、夏至の当日日の出前に夏至祭を斎行し皆棟の御多幸御健勝また世界平和を御祈願します。
日の出とともに禊をし、「日の大神」「猿田彦大神」の御加護を戴きましょう。
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志摩国一宮の「伊雑宮」へ参拝

2009年08月26日 | 近畿地方の旅
三重県志摩市磯部町の「おうむ岩」を下って「伊雑宮」[いざわのみや]へ向かいました。

「伊雑宮」は、伊勢神宮 内宮の別宮で、志摩国一の宮として崇められています。



11:00頃、「伊雑宮」[いざわのみや]の参道口へ到着しました。

左手の駐車場から歩いてきましたが、参拝者が少なく、ゆったりとした気持ちで参拝できました。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「伊雑宮」の由緒が書かれていました。
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『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇の御世、皇女倭姫命が皇大神宮の朝夕の御贅を奉るべき地を選定せんと志摩国を巡行したとき、伊佐波登美命が倭姫命を奉迎して磯部の地に神宮を営んだのが、伊雑宮の創立であるという。
『皇太神宮儀式帳』には「伊雑宮一院 志摩国答志郡伊雑村にあり、大神宮以南相去ること八十三里 天照大神遥宮と称す」と記され、『延書式』の伊勢大神宮式にも同様のことが記されている。すなわち、帳・式ほともに当宮を天照皇大神を遥拝する宮としているのであるが、一般に中世・近世には、『倭姫命世記』の記述から、当宮は伊射波登美命と玉柱屋姫命を祀る宮だと信じられていた。しかし明治維新後は天照大神の御魂と定められて今日に至っている。
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「伊雑宮」の境内と、付近の地図です。

東の参道口(赤丸印)から西の神殿の前まで一本道でした。

参道口の鳥居をくぐると左手に「衛士派出所」、右手に「宿営屋」があり、西に突き当たると右手に「伊雑宮」の神殿が配置されています。



参道口を入り右手にある留守のような「宿営屋」(社務所)です。

向かいには「衛士派出所」の交番のような感じの小さな建物があり、こちらも留守のようでした。

「宿営屋」の左右に大木がそびえています。



「宿営屋」の左にある大木です。

大木の根元が異様に丸く膨れ、巨大なカボチャのようにも見えます。



参道を進むと左手に塀で囲われた、井戸がありました。

通り過ぎて振り返って撮った写真です。

塀に囲まれ、使われていないのでしょうか。

水を汲まないと、井戸は、水の道が途絶えてしまいます。



右手の参道の脇に小さな小屋が建っていました。

資料がなく、建物の名は分かりませんが、倉庫のようです。

案内板が欲しいものです。



右手に見える最初の小屋のような建物を過ぎると、つい立があり、二つの建物が見えます。

奥の建物は、平屋の倉庫のようですが、手前の壁や床のない建物は内宮・外宮でも見た形式です。



右手の建物を通り過ぎ、参道口を見渡した景色です。

帰り際まで他の参拝者がいなく、妻と二人の貸切り状態の参拝でした。

杉の大木が斜め45度くらいに立っているのが不思議です。



「伊雑宮」 の社殿が見えてきました。

既に、参拝した内宮・外宮の別宮の建物とほとんど同じ姿のようです。

鰹木は6本(内宮は、10本)、千木の先は、内削ぎで水平にカットされ、内宮と同じものです。



「伊雑宮」 のある磯部の等高線のある地図です。

向かって左上に国民宿舎と「おうむ岩」があります。

「伊雑宮」の周辺は、「磯部町上之郷」で、川を挟んで南に「磯部町下之郷」があります。

それぞれに水田が広がり、昔の志摩国では数少ない田園地帯です。

■「日本の神々 神社と聖地」谷川健一著に「皇太神宮儀式帳」【804年(延暦23)】を引用したと思われる「磯部の地」に関する記述がありました。
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磯部の地には、はじめは伊雑神戸と粟島神戸があり、両者は磯部の地を貫流する野川を堺としていたようであるが、のちに合併して伊雑神戸と称されることになる。
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「神戸」とは特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のことだそうで、耕作される水田を「神田」と読んでいました。

ここ磯部の地の人々の労役や、「神田」からの収入が、伊勢神宮の運営を支えていたようです。(戦国時代まで?)

資料の記述に「伊雑神戸」「粟島神戸」が野川を堺としていたとあり、「磯部町上之郷」と、南の「磯部町下之郷」が比定されます。

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「Wikipedia 伊雑宮」の記載によると「鳥羽市を中心に鳥羽市安楽島町の伊射波神社※(いざわじんじゃ)を志摩国一宮とする異論がある。」とあります。

延喜式神名帳によると志摩国答志郡に「粟嶋坐伊射波神社」(二座・並大)があり、「伊雑宮」ではなく「伊射波神社」※を比定する説です。

その比定理由の一つに「粟嶋[あわしま]」と「安楽島[あらしま]の地名が似ていることがあげられています。

おそらく野川を堺としていた「粟島神戸」の文献の認識がなかったものと推察されます。

戦国時代末期、九鬼嘉隆に神戸を没収された伊雑宮側は、長期間にわたる執拗な神領復興の活動を続けていたようです。

その対抗上、九鬼側から「伊射波神社」※を「粟嶋坐伊射波神社」に比定する説を流布する目的で出されたものとも考えられます。
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※かって「伊射波神社」は、「加布良古神社」[かぶらこじんじゃ]と呼ばれていたが、明治の初めに改称されたようです。

志摩市磯部町のちょっと不思議な「おうむ岩」

2009年08月21日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮の参拝を終え、志摩市磯部町の皇大神宮別宮「伊雑宮」[いざわのみや]へ行く途中、磯部町恵利原の「おうむ岩」へ立ち寄りました。

「おうむ岩」は、音がこだまする岩壁で、相手の言葉をそのまま繰り返す「オウム返し」の言葉からこの岩の名前が付けられたものと思われます。



国民宿舎「伊勢志摩ロッジ」前の広場の片隅に「おうむ岩」(鸚鵡石」[おうむいわ])の案内板がありました。

左端に「おうむ岩展望台」に上る石段があり、そのすぐ右手に「おうむ岩」へ下る道があり、進んで行きました。

■鸚鵡石[おうむいわ]の案内板より
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鸚鵡石
「鸚鵡石」は、恵利原の和合山とゆう地にあり。この石のことは「伊勢参宮春の賑[にぎわい]」等にも記されて、往古より文人墨客の来遊が頗[すこぶ]る多い。ひと度この処にいり、語場[かたりば]より手拍子で得意の喉をうならせ、高吟すれば、巨巌は、之に応へて「聞石」[ききいし]と呼ぶ辺りの山小屋で聞く山彦の美しい音色は訪れる人の心をひきつける。
江戸時代、磯部を訪れた高山彦九朗。佐久間象山。俳人曽良等は、高さ二十七間(五〇米)巾八七間(一五八米)の石英岩の大岩壁を眺め乍らこの付近を探勝いつゝこゝをさる。
南約一粁今も皇大神宮別宮として崇敬されている志摩の大社(?)伊雑宮に詣でている。
巨巌の頂上より望む、なだらかなみどりの山脈[やまなみ]は、「神話の故郷」ともゆうべき「伊勢志摩」と共に、俄に脚光をあびつゝある。
  伊勢志摩国立公園
   磯部町 磯部町観光協会 恵利原区
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下り道を進むと左手に分かれる道があり、「おうむ岩 語り場」への案内標識がありました。

石柱に文字が刻まれていますが、達筆でまったく読めません。残念です。



道を下ると左手に「聞き場」と書かれた標識と、休憩所のような建物がありました。

この建物が「聞き場」で、中に座ってこだまを聞くようです。

建物の向こうに石段と、「おうむ岩」の切り立った岩壁が見えます。

右手の塀は、下の「語り場」から音が直接聞こえないようにするためのものと思われます。



この岩壁が、「おうむ岩」です。

岩壁の前に木製の鳥居と、祠が見えます。



「おうむ岩」に少し近づいた写真です。

「おうむ岩」の岩壁下部中央が、窪んだ感じで、音の反射が一定方向に集中する構造になっているように思えます。



「聞き場」の前から道を下った「語り場」[かたりば]方向を見た景色です。

妻が歩いている、すぐ右手の小さな建物が、「語り場」です。

「おうむ岩」全体の位置関係は、三角定規の頂点の配置に似ています。

ここ「聞き場」は内角90度の角、この先の「語り場」が内角30度の角、「おうむ岩」は内角60度の角の様になっています。(角度は違いますが・・)



この小さな建物が、「語り場」です。

中にはイスとテーブルがあり、拍子木が置かれていました。

この中で拍子木を打つと、入口から音が出て、「おうむ岩」の岩壁に当り、「聞き場」へ伝わります。

小さな入口だけから音が出るように建物を工夫して造っているのが分かります。



「語り場」の前から斜め上の「おうむ岩」を見上げた景色です。

「おうむ岩」へ直接登る石段の先に小さく鳥居が見えています。

鳥居の左手に白い塀が見え、その向こうに「聞き場」があります。

「語り場」と「聞き場」を妻と交代で、体験してみましたが、「語り場」の音があたかも「おうむ岩」から発したように実感しました。

童心に帰り、ちょっと無邪気な遊びでしたが、古代祭祀場の可能性もある岩壁や、岩の前の祠に祀られている神様の方が気になりました。



元の「伊勢志摩ロッジ」前の広場に戻り、「おうむ岩展望台」に登りました。

展望台に登り、振り返った景色です。

写真左手に「伊勢志摩ロッジ」の白い建物が見えますが、広場から比較的簡単に登れました。



展望台にあった周辺の案内図です。

これから参拝する「伊雑宮」の位置も書かれています。



上段の案内図とほぼ同じ方向を見た景色です。

「伊雑宮」の美しい緑の森も見え、気持ちの良い展望台でした。


神風で、国難を救った内宮「風日祈宮」

2009年08月14日 | 近畿地方の旅
「荒祭宮」[あらまつりのみや]の参拝の後、別宮「風日祈宮」[かざひのみのみや]へ向かいました。



参道脇の立派な門をのぞくと、「神楽殿」の立派な建物がありました。

玄関の上に曲線の「唐破風屋根」[からはふやね]が二つ並んでいる珍しい建物です。

神楽殿では私祈祷の神楽が行なわれているそうです。



神楽殿の隣に「授与所」[じゅよしょ]があり、次々と、御守等を買う人がやってきます。

母や、知人へのお土産に、お守りを数個買いました。



神楽殿の向かいに「風日祈宮」[かざひのみのみや] へ入る参道がありました。

「風日祈宮」へ向かう道を進むと「島路川」に架かる「風日祈宮橋」が見えてきます。

「島路川」は「五十鈴川」の支流で、御手洗場の100m上流で合流しています。



「風日祈宮橋」から「島路川」の美しい清流が見えます。

この「風日祈宮」の参道に横たわる「島路川」と、「風日祈宮橋」は、あたかも内宮正殿の「五十鈴川」と、「宇治橋」のミニチュア版のように造られたように思えます。

外宮の「風宮」でも書きましたが、元寇の時に吹いた「神風」で、二階級特進で「別宮」の社格まで上りつめたようです。



「風日祈宮」[かざひのみのみや]の社殿です。

祭神は、風の神様、「級長津彦命」[しなつひこのみこと]と「級長戸辺命」[しなとべのみこと]が祀られているそうです。

■矢野憲一著「伊勢神宮―知られざる杜のうち」 (角川選書) の一節です
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鎌倉時代、蒙古(元)の大軍が襲来した時、朝廷は公卿勅使を神宮に派遣し、風の神に祈話した。
風社の社殿が鳴動して、赤い雲が立ち上り、天地を照らし大風が石や砂を巻き上げて巨木を倒して、西の方に駆け抜け、九州の博多湾では猛風が起こり、怒涛天を衝き、来襲する敵艦は沈没、十万の元兵はたちまち全滅した。それが二度もあった。
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しかし、鎌倉時代、蒙古(元)の大軍が襲来した時、この神様に「神風」を吹かせて下さいと祈り、それが実現したとは信じられません。

おそらく、台風で蒙古の大軍が壊滅し、その後造られた話ではないでしょうか。

日本が元によって征服されようとする最大の国難に、二度にもわたり奇跡的に助かったことは、決して偶然とは思えなかったものと思われます。



「参集殿」で放映されていた「風日祈宮」の神事の様子です。

今でも風の神様に感謝をし、天候の無事を祈っているようです。



上段の写真と同様、「参集殿」でビデオ放映されていた「風日祈宮」の5月の神事に「蓑と笠」お供えした場面です。

「風日祈祭」の昔の祝詞に「雨甘[あめあま]く、風和[かぜやわらか]にして」という一節があるそうで、適当な量の雨と、風を神様にお祈りしているそうです。

蓑・笠の材料は、菅[すげ]だそうで、「笠縫内人」[かさぬいうちんど]という専門の人によって造られているそうです。

「笠縫」[かさぬい]は、古代に天照大御神を祀っていた土地の名前でもあります。

万葉の時代から「神風の伊勢」と言うように「伊勢」の枕詞は「神風」です。

「神風」の本来の意味は、鎌倉時代の蒙古襲来の時に吹いた奇跡の「神風」ではないようです。

「伊勢神宮―知られざる杜のうち」 の本の一節には「神威が強い国という意味があろう・・・」とあります。

伊勢神宮 内宮 第一の別宮 「荒祭宮」、鳥居のない理由

2009年08月09日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 内宮の御正宮を参拝し、別宮「荒祭宮」[あらまつりのみや]へ歩いて行きました。



緩やかな上り坂を進むと、左手に建物があり、立て札に「御稲御倉」[みしねのみくら]と書かれています。

■Wikipediaiに「御稲御倉」の説明文がありました。
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稲御倉は御稲御倉神を祀る内宮所管社で、神宮神田で収穫された稲を納める倉でもある。社殿は高床式倉庫に近い神明造で、社殿に垣がないため神明造の特徴を観察することができる。
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この中には籾[もみ]のままの抜穂が保存されているようで、脱穀をして保存する一般的な方法とは違う弥生時代の方法が残っているようです。

矢野憲一著「伊勢神宮 知られざる杜のうち」の記述では、扉を開いた瞬間、生温かい懐かしい米の香りが漂い、稲の魂を感じて思わずひれ伏してしまうそうです。

参道脇に、なにげなくある建物にも様々な行事や、小さなドラマがあるようです。



建物中央の扉の金具を拡大して見たものです。

「御稲御倉神」を祀る神殿として立派な装飾がされているのでしょうか。

これらも式年遷宮で、作り替えられるものと思われます。



「御稲御倉」を過ぎ、まもなく正面に「外幣殿」[げへいでん]が見えてきます。

外幣殿[げへいでん]は、「古神宝類」が納められている建物とのことだが、扉の金具もなく、質素な建物です。

中にはいっる「古神宝類」とはどんなお宝か分かりませんが、扉に架けられた黒い錠ては、大切な「古神宝類」を守るには少したよりない気持ちになります。



「外幣殿」からしばらく進んだ下りの石段から撮った「荒祭宮」[あらまつりのみや]です。

こちらと「荒祭宮」の間は低い地形で、階段の下りと、上りが連続します。

朝8:30頃でしたが、人出が次第に増えてきました。


「荒祭宮」[あらまつりのみや]に近づいてきました。

「荒祭宮」は、内宮第一の別宮で、御祭神が、「天照大御神」の荒御魂「天照坐皇大御神荒御魂」[あまてらしますすめおおみかみのあらみたま]をお祀りしるているそうです。

外宮の別宮 多賀宮[たかのみや] の御祭神も、外宮の神様「豊受大御神荒御魂」[とようけおおかみのあらみたま]で、同じ荒御魂をお祀りしるているようです。

この二つの社殿には鳥居がなく、小高い場所に建つと言う特徴があります。

このことから、これらの別宮は、当初には参拝を受ける社殿ではなく、神の降臨を祈った神事の場所だったとも考えられます。

京都「上賀茂神社」には深夜に非公開で行われる「御阿礼神事」[みあれしんじ]では、屋外に設けた祭壇で天に祈り、降臨した神が憑依した榊を神殿に運び、祀る神事があります。

この「荒祭宮」の場所でも同様に、「天照坐皇大御神荒御魂」に降臨を祈り、御正殿までご案内する神事があり、その後「荒祭宮」の社殿造営に至ったものと推測しています。

内宮「御正宮」には「和御魂」、「荒祭宮」には「荒御魂」と同じ神様が二つの性格で祀られているとされていますが、「荒御魂」[あらみたま]は、「新御魂」の意味で、天から新たに降臨された御魂だったものと考えます。

そういえばこの辺りの石段に「踏まずの石」と呼ばれる割れた石があると聞いていましたが、見逃していました。

「踏まずの石」は、割れ目が「天」の字の形になっているそうで、見落としたのは少し心残りでした。

伊勢神宮 内宮 正殿への参拝

2009年07月29日 | 近畿地方の旅
伊勢神宮 内宮の「宇治橋」を渡り、庭園のような植え込みが続く、広い参道を進んでいきました。

初めての参拝で、少し気持ちが高ぶっていました。



長い参道の狭い水路に架かった「日除橋」[ひよけばし]がありました。

外宮の参道口にも「日除橋」がありましたが、内宮では「宇治橋」が参道口となっており、「日除橋」は境内の参道の途中です。

江戸時代の寛政9年(1797)年発刊の伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」の「内宮宮中図其三」と現在の様子と比べてみました。

「内宮宮中図其三」の絵図には「日除橋」は見当たりませんでした。

宇治橋を渡り、一の鳥居までの一帯に民家等が立ち並ぶ様子は、現在とは大きく違っています。

「日除橋」は、神宮の建物を火災から守るため境内を水路でさえぎり、水路に架けた橋とされているようです。

「日除橋」が出来た経緯も民家が立ち並ぶ時代に考えられた防火対策で考えられたものではないかと推測されます。



「日除橋」を渡り、右手に「手水舎」がありました。

外宮の「手水舎」と同じ位の大きさで、やはり檜の掘建て柱です。



「手水舎」を過ぎるとすぐに「第一鳥居」があります。

榊が飾られた鳥居は、横を歩く人の大きさから、かなり太い柱です。

神社の鳥居には様々な種類があり、この鳥居は「伊勢鳥居」と呼ばれています。

鳥居の上にある傘木の断面が五角形で、その下段の横木「貫」[ぬき]が柱を突き抜けていない形式だそうです。



「第一鳥居」を過ぎると右手に五十鈴川の川岸につくられた「御手洗場」[みたらし]があります。

大勢の参拝者は、広い緩やかな石段を下って川岸で、手を清めています。

以前は、口も清めていたそうですが、衛生的な問題もあったのか、手だけの清めににしているようです。



「御手洗場」[みたらし]を過ぎると参道は、左に折れ、第二鳥居が見えてきます。

木が生い茂った参道から、社殿などの開けた明るい場所に出るとき、何とも言えない神聖な光が降り注いでくるようです。



参道を歩いていると散水車が追い越して走って行き、子供たちが追いかけて行きました。

散水車の青い水タンクの後方に「神宮」と書かれ、毎日参道に散水する保有車両のようです。

第二鳥居から「御札授与所」「神楽殿」「五丈殿」などの建物を左に見ながら歩いてきた辺りです。

手前の木は、杉の多い境内では珍しい巨大なクスのようです。



内宮正殿に近づいた参道の左手に大きな岩「籾種石」[もみだねいし]があります。

この風変りな名前「籾種石」には、実に涙ぐましい過酷とも思える物語がありました。

江戸時代中期、全国的に起きた「天明大飢饉」の頃、地元の楠部(五十鈴川下流の地域)の人々が、五十鈴川の河原からこの大きな岩を運び込んだと言われいます。

大飢饉で、食料が乏しくなっていた楠部の人々は、籾種[もみだね]まで食べ尽くしながらも岩を運び、奉納したことから「籾種石」と言われるようになったそうです。



参道は、突き止まりで、左手の石段を登るといよいよ天照大御神を祭る「御正宮」[ごしょうぐう]と呼ばれる神殿です。

右手の先には壁のない建物「御贄調舎」[みにえのちょうしゃ]が見えます。

内宮の祭典の時、ここでアワビを調理する儀式を行い、天照大御神にお供えするそうです。



参道の左手に「御正宮」[ごしょうぐう]へ昇る以外に高い石段がありました。

石段の下で写真撮影をするよう言われ、皆さんここで記念写真を撮っています。



「御正宮」のある石段の上を拡大してみました。

大きな鳥居と、茅葺屋根の門が見えます。

気が引き締まる想いで石段を登って行き、参拝しました。



参拝を終え、正面左手の道から見た「御正宮」です。

次々と参拝者が石段を登って行きます。



「御正宮」の隣に白い看板があり、「平成二十五年 第六十二回式年遷宮御敷地」と書かれています。

この場所に新たな神殿が建ち始めるのも、そう先ではないようです。

■新御敷地の前にあった式年遷宮の案内板に書かれていたものです。
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神宮式年遷宮について
ここは西の御敷地です。
東の御敷地と同じ広さがあり、二十年に一度、御正殿を始め、御門・御垣などの御建物と御装束神宝のすべてを新しくして、大御神様に新宮へお遷りいただくお祭りが式年遷宮です。
天武天皇の仰せににより、次の持統天皇四年(690)に第一回が行われて以来、現代まで千三百年間にわたって受け継がれてきました。
来る平成二十五年の第六十二回式年遷宮には、ここに新しい殿舎が建てられ、大御神様のご遷座を仰ぎます
この大祭には古代より常にみずみずしく、国も人も若がえり、栄え行くようにとの深い祈りが捧げられてまいりました
 神宮司庁
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伊勢神宮 宇治橋の架け替え工事の風景

2009年07月27日 | 近畿地方の旅
5月3~5日の「熊野・伊勢・志摩旅行」の思い出を再開します。

5月4日7:50頃、伊勢神宮 内宮へ参拝で、参道口の「宇治橋」にさしかかりました。

伊勢神宮では、第62回神宮式年遷宮の行事が、平成17(2005)年に始まり、平成25(2013)年まで様々な儀式や、行事が続いているようです。

内宮の宇治橋の架け替えもその行事の一つで、平成20年7月26日に起工式が行われ、目下建設中でした。



鳥居の向こうに工事中の「宇治橋」が見えます。

内宮の参道口である「宇治橋」は、五十鈴川に架かる檜[ひのき]造りの橋です。

記念撮影をする人が多く、私も三脚を持参し、妻と記念写真を撮りました。



伊勢神宮で頂いたパンフレットに掲載されていた「宇治橋」の写真です。
(前回の建て替え直後に撮られた写真でしょうか)

このブログ【2009-07-09 外宮 神路通りにある「お木曳」の案内板】でも引用した本ですが、「伊勢神宮 知られざる杜のうち」(矢野憲一 著)に、この正面から冬至の太陽が昇ることが紹介されていました。

誰かが冬至の日の出を意識してこの橋の方角を考えたのか、単なる偶然なのかは不明です。

機会があれば、この場所から冬至の早朝に太陽を拝みたいものです。

■パンフレットにあった宇治橋の説明文です。
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宇治橋
内宮の入口、五十鈴川の清流に影を映してかかる高欄つきの和橋が宇治橋で、二十年ごとに架けかえます。
橋の内側の大鳥居は内宮古殿の棟持柱を、外側は外宮古殿の棟持柱をつかい遷宮後に建て替えられます。
ここからはいよいよ神域だと、心のあらたまるところです。
  ここは心のふるさとか そぞろ詣れば旅ごころ
    うたた童にかへるかな      吉川英治
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工事中の「宇治橋」の隣ある「仮橋」です。

立て札に「右側通行」とありますが、外宮では逆に「左側通行」でした。



手前の仮橋から見る工事中の「宇治橋」です。

骨格は既に出来上がり、仕上げに入る段階のようです。



宇治橋の向こうに「鼓ヶ岳」[つづみがたけ](標高355.2m)が見えます。

この地方の山は、緑の色が多様で、とても美しく感じます。



川の中央付近から上流を見た景色です。

上流には人家が少ないようで、水がとても澄んでいます



仮橋から五十鈴川の下流を見た景色です。

川は、左にカーブしてその先の川辺は「おはらい通り」の町並みの裏通りです。

川の曲がった流れが、雑然とした景色を遮断しているようです。



仮橋を渡り、振り返って見た「宇治橋」の全景です。

少し離れているため、檜の香りはしませんでしたが、新緑の「鼓ヶ岳」に映えて完成時の美しさが思い浮かぶようです。



寛政9年(1797)年5月に発刊された伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」の「宇治橋」の絵図です。

「絵図に見る伊勢参り」(旅の文化研究所編 河出書房新社)に掲載されていたもので、江戸時代に盛んだったお伊勢参りの様子がよく伝わってくる本です。

江戸時代の「宇治橋」の風物詩を描いたもので、参拝者が厄除けで投げる銭を橋の下にいる人々が竿の先に付けた網でキャッチする様子だそうです。

大道芸人のようなパフォーマンスで、投げ銭をする人達を喜ばせていたのでしょうか、昔の情緒がしのばれます。

しかし、寒い冬にはかなりつらい仕事だったものと思われます。

■「絵図に見る伊勢参り」に掲載されていた説明文です。
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宇治橋
 五十鈴川に架けられた橋で、内宮の入口にあたる。南北の橋の渡り口に鳥居が立つ。ここでの名物は、竹の先に網をつけて投げ銭を拾う人々であった。『東海道中膝栗毛』にも、弥次郎兵衛と喜多八が同行の上方者といっしょになって宇治橋から銭を投げる場面がある。どのように銭を投げようとも彼らが器用に拾ってみせるので、一種の芸人であったともいえる。こうした情景がいつごろからみられるようになったかは定かでないが、神宮徴古館蔵の『伊勢両宮畳茶羅図』(桃山時代ごろ)に、宇治橋から銭を投げる人々とそれを拾う子どもの姿がすでに描かれている。綱つきの竹こそ使っていないが、宇治橋での投げ銭の慣習そのものは中世以来のことと考えることができる。また、寛政六(一七九四)年に東北からの参詣者が書き残した『伊勢参宮所々名所並道法道中記』には、「厄落とし橋銭投げ申すべく候」と善かれている。厄落としの賽銭のような意味合いで、参詣者は宇治橋から銭を放ったのであろう。
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「宇治橋」を内宮側の鳥居の下から見た景色です。

「宇治橋」の工事は、平成21(2009)年11月3日の渡始式を目指して行われており、完成後には再訪して渡って見たいと思います。


伊勢神宮 内宮 地下参道の「おかげ参り」の屏風絵

2009年07月17日 | 近畿地方の旅
宇治浦田町交差点の北にある無料駐車場に車を置き、内宮への参拝に向かいました。



a宇治浦田町交差点の少し東にある地下道の入口です。

まだ早朝だったので駐車場の空が多く、すぐ駐車出来ましたが、参拝を終えた頃には、待ちの行列が出来ていました。



b地下道に下りていく階段です。

多くの参拝者を考慮して広い地下道になっていますが、両脇の壁に、何やら絵が掛けられています。



右手の壁の絵です。

大きい字で「伊勢参宮道」とあり、続いて「おかげ参.抜け詣の図」と書かれています。

絵の中央付近に「京 三条大橋 京人總貫しは次第と 雪だるま式に道中を 伊勢に向ふ者しきり也」(一部読めなくて間違っている?)と書かれてありました。

これは、江戸時代にブームとなった伊勢神宮へのおかげ参りで、京都から伊勢までの絵の最初の場面のようです。



左手の絵の最後には、「昭和四十八年六月■■■始 八月■日完」「伊勢参宮道おかげ参の図 門脇俊一筆」と書かれ、海に浮かぶたくさんの帆かけ船の絵と、陸地には「御塩殿」の文字と、建物の絵があります。(■:読めない文字です)

左下に画家「門脇俊一筆」のサインに印があることから、どうも最後の絵のようです。

地下道の右の壁を奥に進み、左の壁を逆に戻る順で、京都から伊勢までのおかげ参りの道中の絵がかかれているようです。



地下道の半ばにさしかかった左手に「おかげ参り抜け詣の図」の説明文がありました。

これらの絵は、「現代の浮世絵師」と称される門脇俊一画伯(1913~2005年)の作品を陶板画にしたものだそうです。

■説明文を転記します。
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伊勢参宮道・おかげ参り抜け詣の図

伊勢に行きたい伊勢路がみたい
せめて一生に一度でも
江戸時代日本人みんなの憧れの
お伊勢さん
この絵は今から三百年前の
おかげ参り
京都から五日間の旅

昭和四十八年第六十回式年遷宮の年
画家門脇俊一さんは還暦を迎えた
そこでこれまでいただいた神仏を
はじめあらゆる「おかげ」に
感謝する気持ちをこめ
当時の人々の気分になって
一気に八十メートルの大屏風を描く
京都三条大橋を出発して
外宮内宮そして二見まで
一万人以上の人が描かれ
みんな喜びにあふれている
楽しんでご覧ください
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伊勢旅行の計画の下調べで見た本で、「絵図に見る伊勢参り」旅の文化研究所編 河出書房新社-の表紙の写真です。

この本には、寛政9年(1797)年5月に発刊された伊勢参りの絵図「伊勢参宮名所図会」が紹介されています。

「伊勢参宮名所図会」は、五巻六冊、附録一巻二冊の絵入大本で、編著者・絵師共に「蔀関月」[しとみかんげつ]とされ、絵図は、京都の三条橋から伊勢湾に面した二見の浦まで149点があるそうです。

「絵図に見る伊勢参り」には「伊勢参宮名所図会」の絵図35点が掲載されており、江戸時代と、現代の風景の違いが楽しめます。



「絵図に見る伊勢参り」にあった「古市」の絵です。

★古市は、外宮と、内宮の中間にあり、江戸時代賑わった全国有数の遊郭があった街だそうです。

遊女が千人もいたようで、昔も伊勢参りが盛んだったことがうかがえます。



地下道の門脇俊一画伯の屏風絵の中にも「古市」の絵がありました。

「伊勢参宮名所図会」の絵図とはまったく違っていますが、説明文はなぜか、同じ文章が書かれています。

やはり現代の浮世絵師と言われた「門脇俊一画伯」の絵は魅力的でした。

他にも楽しそうな絵がたくさんあり、昔の名所を調べて写真に撮った絵を眺めるのも旅の後の楽しみです。

外宮別宮「月夜見宮」へ参拝

2009年07月14日 | 近畿地方の旅
ゴールデンウィークに行った伊勢旅行の続きです。

5/3早朝、外宮の参拝を終えて、近くにある別宮「月夜見宮」へ参拝しました。



外宮から「神路通」を直進すると「月夜見宮」に突き当ります。

「月夜見宮」の参道口は、深い森に囲まれています。

鳥居を入ると乗用車3台程度の駐車場がありました。



境内に入り、参道口を振り返って撮った写真です。

入口には「手水舎」がありますが、木が茂って暗い参道口を過ぎると明るい境内が広がっています。



月夜見宮の社殿前から参道口方向を撮った写真です。

向って右の「手水舎」に並ぶ建物の名称は、分かりませんが、壁がなく、板葺きの屋根でした。

手前の社殿前の砂利の色が白黒の二色となっているのが分かります。



参道口を入り、左手にある「宿衛屋」[しゅくえいや](社務所)の建物です。

早朝で、ひっそりとしていました。



「月夜見宮」の社殿です。すぐ脇に杉(?)の大木がありました。

祭神は、「月夜見尊」、「月夜見尊荒御魂」[つきよみのみことのあらみたま]と書かれており、伊勢神宮では珍しく、一つの社に二柱の神が祀られています。(とは言え同じ月夜見尊です)

「月夜見尊」は、最高神とされる女神「天照大神」の弟神でありながら、「天照大神」と同格とされる女神「豊受大神」(外宮)の別宮[わけのみや]に祀られています。

伊勢神宮の食物を司る女神「豊受大神」とは、いったい何者でしょうか?

又、伊弉冉[いざなぎ]の長男と思える「月夜見尊」を最高神とせず、姉神「天照大神」を最高神としたことも謎に思えます。

「豊受大神」は、兵庫県北部から遷宮されたとされ、元宮が残っているとのことで、一度訪ねてみたいと思います。



月夜見宮の社殿の横は、式年遷宮の敷地があり、社殿中央の砂利は、白く、両端は黒くなっています。

建物は、外宮の境内にある別宮と同じもので、背後のさわやかな5月の森に建物の美しさが引き立てられているようでした。



「月夜見宮」の社殿から右手奥に進むと、「高河原神社」があります。

参道の脇に小さな建物跡のように石が並んでいます。

祠でもあったのでしょうか?



立札に「豊受大神宮摂社 高河原神社」とあります。

板葺きの屋根で、他の摂社と同じような建物です。



「月夜見宮」の社殿左手奥に進む道があり、鳥居の下に稲荷神社にある白い狐が見えます。



大木の根元が枯れて空洞になった所にお稲荷さんが祀られているようです。

大木は、数本の木に支えられています。



白い狐の間に小さな賽銭箱があり、その奥に上が三角形になった石が置かれていました。

なぜか古代祭祀で神の依り代となる石のようにも思えます。

外宮境内の「度会国御神社」の奥にも大木の根元に白い狐の置物と、鳥居がありましたが、同じ神様なのでしょうか?

これらの神様に社殿を造らなかったことも謎です。

案内板もなく、祀られた神様もまったくわかりませんが、社殿のない遠い古代の信仰がそのまま残っているような感じです。

「神路通り」で知った伊勢地方の「しめ縄」の文化

2009年07月11日 | 近畿地方の旅
5月3日、外宮参拝を終えて別宮「月夜見宮」への道「神路通り」を進んで行きました。



まだ早朝6:30頃です。

「月夜見宮」への道は、単純な直進の道ですが、二又に別れ、親切にも案内標識がありました。



少し進むと左手の道路脇の木の下に目立たない「神路通り」の案内板があります。

写真に向かって左下に竹筒から水が出るように作られたものと、水の説明板があり、右上にその拡大写真を貼り付けています。

■「神路通り」の案内板を転記します。
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神路通
古くより外宮の裏参道と月夜見宮とを結ぶこの道は、「神の通う路」と言われています。
外宮の別宮である月夜見宮の神様(月夜見宮尊)が、外宮の神様(豊受大神)のもとへ通われる路です。
神様は夜、宮の石垣の一つを白馬にかえて、その馬に乗って行かれます。
夜、この道を通る人は、神様に出逢わないように畏れつつしんで、路の真ん中をさけ、端を通ったと伝えられています。
 「宮柱立てそめしより月よみの  神の行き交う巾の古道」
と古歌にも詠まれています。
  神宮司庁刊「伊勢信仰と民話」より
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■竹の筒から出る水の案内板です。
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このお水は 神路通の 神聖なお水です ごゆっくりどうぞ
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竹筒からは水が出ていませんでしたが、湧水が出るのでしょうか?

竹の柄杓が置かれており、参拝者をもてなす町の人々の温かい気持ちが感じられます。



「神路通り」に面した昔ながらの民家の玄関になぜか季節はずれとも思える「しめ飾り」と、「神路通り」の提灯が掛けてありました。



旅館組合の入口には「笑門」とだけ書かれたしめ縄があります。

他にも色々とタイプがあるのでしょうか?

調べてみると伊勢地方では「しめ縄」を年中するのは当たり前の風景のようです。



この民家にも同じように「しめ飾り」と、「神路通り」の提灯が掛けてあります。

しめ飾りには大きな「門」の文字の中に「蘇民将来子孫家」と書かれているようです。

「蘇民将来」の伝説は、「備後風土記」(広島県東部)の逸文にあります。

全国的に行われている「茅の輪くぐり」は神社境内に作られた大きな「茅の輪」を歩いてくぐる神事です。

各戸の玄関にしめ縄を掛ける風習が続けられている伊勢地方のスタイルは、「蘇民将来」の伝説で語られる「茅の輪」を腰に付けると疫病にならない内容に近いものと思われます。

■東洋文庫「風土記」吉野裕訳 にある備後風土記の逸文を転記します。
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備後国[きびのみちのしりのくに]
 蘇民将来
 備後の国の風土記にいう、-疫隅の国社[えのくまのくにつやしろ]。昔、北の海においでになった武塔[むとう]の神が、南の海の神の女子を与波比[よばい](求婚)に出ていかれたところが、日が暮れた。その所に将来兄弟の二人が住んでいた。
兄の蘇民将来はひどく貧しく、弟の将来は富み、家と倉がー百あった。ここに武塔の神は宿を借りたが、惜しんで借さなかった。兄の蘇民将来はお借し申しあげた。そして粟柄[あわがら](粟の茎)をもって御座所を造り、粟飯などをもって饗応した。
さて終わってお出ましになり、数年たって八桂の子供をつれて還って来て仰せられて、「私は将来にお返しをしよう。お前の子孫はこの家に在宅しているか」と問うた。蘇民将来は答えて申しあげた。「私の娘とこの妻がおります」と。そこで仰せられるには、「茅の輪を腰の上に着けさせよ」と。そこで仰せのままに〔腰に茅の輪を〕着けさせた。その夜、蘇民の女の子一人をのこして、全部ことごとく殺しほろばしてしまった。そこで仰せられて、「私は速須佐雄[はやすさのお]の神である。
後の世に疫病がはやったら、蘇民将来の子孫だといって、茅の輪を腰に着けた人は免れるであろう」と
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備後地方に住んでいますが、全国的に神社で行われる「茅の輪くぐり」しかなく、この話を知る者も特に多いとは思えません。

しめ縄の風習、「松下社」など、伊勢地方に色濃く残る「蘇民将来」の伝説は、忘れ去られた歴史の痕跡のようにも思えます。