くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

いざ!石和(其の参:甲府の淵源)

2005年03月29日 | 参陣記
甲府の武田神社を目指し、中央道を一宮御坂で降り、毎年満開・・・なのに今年は残念!ちらほらと咲く桃畑の間を疾走。この日の本陣・富士野屋夕亭を遥か向こうに望みつつ、石和春日居の温泉街を抜け、中央本線北側の山添の道を疾走し、談合坂から1時間程かけて目的の地・武田神社に到着。
この途中、関西より別働の大蛇丸殿に連絡してみると、塩山踏破の後、ワイナリーへ行くとのこと。
・・・しかも知らない史跡ばかりとは・・・うーむ、さすがです。


さてこの武田神社は、永正16年(1519)に甲斐守護・武田信虎によって築かれた躑躅ヶ崎館跡(含一帯:武田氏館史跡に建立された御社。
この創建は、武田信玄公が従三位に叙された(大正)4年後の大正8年のこと。
爾来85年、この地の鎮守として山梨県民と武田贔屓の人達の、また「勝運」の神として篤い崇敬を受けています。
その“前身”である躑躅ヶ崎館とは、どんなところなのかというと...
律令時代より甲斐国の中心は、国府・国分寺などが在った春日居一宮御坂などの東八代地方であったと思われます。
鎌倉時代。
鎌倉殿御家人である甲斐守護職武田氏は、この地の一角で鎌倉街道の起点・石和を守護所とし、以後、室町中期頃まで紆余曲折経ながら甲斐守護の拠点とし、同国を統治する。(石和館=成就院)
文正元年(1466)、14代信昌は予てより対立関係にあった守護代跡部氏を前年に駆逐し、石和から西方の川田(甲府市川田)に新たに館を構えて以後3代、ここを守護所とする。
その後、16代信虎は父と家督を巡って対立した叔父油川信恵ら勝山城で討果し、また小山田信有など対立する諸氏豪族を傘下に組み入れてほぼ甲斐一国を掌中に治めると、永正16年(1519)に拠点を更に西方に普請した躑躅ヶ崎館と定め、一帯を甲府(甲斐府中)と命名する。
ここは、北を背後に天険を備え、南側は(相川)扇状地の開けた地で、甲斐から近隣諸国への交通の要衝でもあった。
この地を守護所と定めた信虎は、背後の山に要害山城を設け、南側の開けた地に町割を施して傘下の諸氏豪族・国人衆の屋敷を館近くに構え、武田家の威信の誇示と館の防禦とを兼備えるよう施した。
さらに南方の湯村山と一条小山(一条流武田家名字の地)に城砦を構え、狼煙台を造るなど、その重厚な備えは後世「左右鳥翼の如く」と讃えられる。
ゆえに躑躅ヶ崎館は、予て言われてきたような「防禦に弱い武家屋敷」などということは全く無く、更に近年行われている学術調査の結果を見ても、深堀高壁で防禦の備わった“平城”(城館)であることが確認されています。
爾来62年、19代勝頼が新府城に移るまで3代に渡ってこの躑躅ヶ崎館は、武田家領の実効支配の中心となるわけです。
しかし、その武田家も天正10年に織田信長に攻められて滅亡。
甲斐には、織田家の代官(国主)に河尻秀隆を任じて実効支配に当たらせるが、その3ヶ月後、京四条西洞院の本能寺で明智光秀に討たれると状況は一変。
この余波は甲斐にも波及し、混沌とした状況下で武田家遺臣が一揆を成して挙兵、この鎮圧に出た河尻秀隆を返討にしてしまう。
これによって領主不在となった甲斐(含む武田家旧領)を巡って北条家と徳川家が争うこととなる(天正壬午の乱)。
しかし、これは武田家遺臣を抱き込み、黒駒の合戦で勝利した徳川勢が状況を有利に展開させ、遂には和睦が結ばれて甲斐は徳川領となる。
そして平岩親吉(松平信康元傅役)を甲斐郡代(1万3千石)として入国し、当初は躑躅ヶ崎館を陣所と定めたが、やがて南方の一条小山にあり一条流武田家縁の時宗一連寺(一条道場)一帯を城割し普請に取り掛かるに及んで、ついに躑躅ヶ崎館は名実ともにその使命に終りを告げる。
江戸時代に入り、一条武田家の後胤を称する柳沢美濃守吉保が宝永4年(1707)、武州川越から15万石で甲府に入封すると、中途半端だった城と城下町の再整備。
甲斐の発展と武田家遺臣の待遇改善が進むが、それも享保9年(1724)に甲斐守吉里が大和郡山へ転封して御料所(直轄地:甲府勤番支配)となるに及び、武田家とその関連の遺構が再び振り返られることは無く、躑躅ヶ崎館は御林(幕領)となるが、実態は竹薮と化し、これは下草(堆肥などに利用。有料)などに用いられ、堀は溜井と化して用水に転用されて、すっかり見る影もなくなる。
(一方、要害山城址には信玄を不動明王に見立てた武田不動尊が建立される)

よくありがちな話です。それこそ、越前一乗谷のように。
      
この変り果てた遺構が、再び注目されたのは明治に入ってから。
その背景には、それまで直轄地(御料所)だった甲府および山梨県民(=幕領民)に対して、その終焉と “明治政府”というレジームを知らしめる為・・・かと思います。
こうした動きは甲府に限らず、他の地にも言えることで、明治新政府に接収された多くの城【封建支配の象徴】が破却【その終焉とレジームチェンジの現実】され、其の跡地に陸軍駐屯地(鎮台)などが置かれるという現実【近代国家体制確立】を知らしめる・・・ということだったのではないでしょうか。
甲府城も、明治4年に陸軍省(兵部省)の所管となり、その2年後に公布された廃城令をもって破却され、更に市街地化などの波にさらされてその保護は等閑にされてしまいます。

・・・と、少々長くなってしまいましたが(^^ゞ・・・まだもちっとだけ・・・

まず東側口より境内に入って真っ先に向ったのは宝物殿
ここは、明治天皇巡幸の折、供奉の太政大臣三条実美が、祖先(武田晴信=正妻三条氏)の遺徳を偲んで太刀(吉岡一文字)を寄進したものを嚆矢として、以後、特に御社創建以来武田家縁の重宝を中心に収集し展覧しており、甲冑・太刀、二十四将図などの他に、武田氏支配時代を偲ばせる甲州金や書状や、御社建立の契機となった晴信公従三位口宣案も展示されていました。ここらへん、結構そそられるところです。

ちなみに、これより一週間前の4月10日の信玄公祭の日、宝物殿にて特別展示中の「孫氏旗」の前にて、武田家16代目当主邦信氏と織田家宗家12代目当主信和氏と先代信成氏が、御社の仲介で固い握手を交わし、長篠合戦以来約430年後に“和睦”を果たしています。
・・・けど、武田家は信玄公第2子・龍芳(二郎信親)の裔が高家として、また信玄の異母弟、河窪兵庫介信実やかつて家督を争って対立した油川信恵の裔など、信玄の近親者の子孫が旗本として徳川家に仕えています(他諸流数家あり)
一方の織田家は、八家が徳川時代にも命脈を保っており(大名家・旗本は半々)、交流がなかった・・・わけではないと思うのですが・・・。
現に高家衆の武田家も織田家当主も高家肝煎(高家衆筆頭)を務めたことがあるわけだから、顔付き合わせ、御役目を共に務めたでしょうに。
ただ、私の調べたところでは、まだ不完全ではありますが、縁戚関係が見られなかったです。
ちなみに、織田宗家は信雄後胤で、最後は羽州天童領主です。
明和事件までは、上州小幡を領し、国主格として一度は天下を掴みかけた織田家の誇りを護っていたのですが・・・。
この経緯、卒論で取扱ったんですけど、こんなところで活かされるとは・・・。

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