くない鑑

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いざ!石和(其の七-2:御大将の正体)

2005年03月24日 | 参陣記
ここでは、竹俣家と三河守慶綱についてご紹介いたします。

源姓の竹俣家の出自は宇多源氏(宇多院皇子六条宮敦実親王の子、源雅信が祖)である。
同出には公家として庭田・綾小路・大原・慈光寺の五家。
武家では近江に土着した成頼を祖(近江源氏・佐々木氏)として六角・朽木・京極・尼子・黒田筑前福岡藩主などがある。
この近江佐々木氏が竹俣家と、引いては越後と結び付く切欠となったのが、建仁元年(1201)に下越鳥坂で挙兵した城資盛の叛乱鎮定で、この鎮定に鎌倉殿大将として赴いたのが、越後国加地荘地頭職であった三郎盛綱で、これを見事鎮定したことによって、その勢力と地盤はここを中心(名字の地)として格段に強く、着実に勢力を広げていく。
平家追討の折、宇治川で梶原源太景季と先陣争いをした四郎高綱の兄であり、自身も源頼朝の挙兵の先駆けとなった伊豆目代山木兼隆襲撃に参加してその首を挙げている。

この加治(加地)氏の庶流で、今は新発田市上三光地区の竹俣荘を名字の地とし本拠(竹俣城)とするものが出る。
同氏は、加地一族ということもあり、他の下越国人衆(揚北衆=阿賀北衆)とともに隠然たる勢力を保持し、永正4年(1507)年に越後守護上杉房能と守護代長尾為景が争った折には、当主式部丞清綱は色部・本庄などともに守護方に合力(結果は敗北)、以後も台頭する長尾為景に抵抗し続ける。
しかし、長尾家当主が晴景になると情勢は一変。
父の為景が朝廷より賜った治罰綸旨を武器に、武力による掃討から協調・融和路線に転じ、この流れに対立関係にあった揚北衆などの国人衆の多くが長尾家に合力することとなる。
竹俣家もこの流れに抗せず、以後紆余曲折はあるものの、式部丞清綱は概ね守護代長尾晴景に合力することとなる。
そしてこの流れは、今回仰せつかった孫の三河守慶綱にも引継がれるのです。

竹俣三河守慶綱(1524~1582)は、弾正少弼晴景に代って当主となった平三景虎に近侍して寵愛と信頼を得、越山七手組の大将の1人に抜擢され、永禄11年(1567)に武田家と通じて上杉家から独立(大名化)を目論んだ村上城の本庄繁長の鎮定(蘆名家の仲介で終決)にも少なからず勲功がある。勿論、永禄4年(1561)9月の川中島合戦にも一手を率いて参戦し、乗馬武具を失いながらも奮戦して、政虎より感状を賜っている。
その主君、謙信公(不識院殿)が亡き後(天正6年)に起こった家督争い(御館の乱)では上田衆率いる弾正少弼景勝に合力してその勝利に大きく寄与し、新当主景勝からも信頼を受け、新潟津沖の口運上金(入港税)の徴収権を得る。
これが竹俣家に莫大な利益をもたらすが、これは竹俣領が加治川,阿賀野川などの水系に接していたことが、より利便性を与えた。
この頃、西方から織田家が上杉領を脅かしており、これに備えるべく、天正9年に越中の要衝,松倉城在番を仰せつかる。
その織田勢が、柴田勝家を総大将に越前,加賀などの軍勢を率いて侵攻を開始したのは、天正10年3月のこと。
これを受けて慶綱は魚津城に入り、中条景泰・山本寺景信らと共にここを守備する。
しかし、こうした情勢下に、遠縁である新発田重家が新潟沖の口の権益を横領、自力解決を断念した慶綱はこれを景勝に訴訟(天正9年6月)、これが上杉家と新発田家の後戻り出来ない対立の切欠となるのです。 
以後重家は新潟に城砦を構え、ここに一門(新発田刑部左衛門)を据えて周辺商から人質を強要し、ここを通して織田方佐々成政と連絡を取り合う。
更に蘆名家(阿賀野水系)や佐竹家(縁戚)と結んで上杉包囲網に加担して独立の旗手を鮮明にしますが、これは前の本庄繁長の乱と同様、上杉景勝による戦国大名として領国統治を貫徹しようとする向きに反発し、独自に自領統治を行おうと目論んだからであり、従来語られていた「論功行賞への不満」という単純図式だけでないことが近年明らかになっています。

ところで、天正10年4月に越中に侵攻した織田勢の猛攻は峻烈を極め、さらに織田勢は、森長可を大将に信濃から、また関東管領として西上野にあった滝川一益も一軍を率いて三国峠から越後を窺い、更には新発田重家の挙兵も相俟って、景勝は春日山城から思うように動けず、この時点で最早魚津城は陥落したも同然であった。
ただ、城兵は、独力でこれに頑強に抵抗するも、遂には力尽きて陥落、慶綱は他の守将とともに自刃して果てる。この折諸将は、後世に名を残そうと、板札に姓名を記し、耳に開けた穴に鉄線でこれを結いつけた・・・と言われています。
これは天正10年6月3日。即ちこれは、本能寺の変の翌日のことであり、越中の両陣営ともにこのことは未だ誰も知らない事実でした。
       
この後、この急報に接した柴田勢は、越中制圧を目前にしながら越前への撤退を余儀なくされ、空城になった魚津城へは上杉方須田満親が回復し、この一帯は再び(一時に)上杉領となる。
しかし、竹俣家は当主慶綱が魚津城で討死したことによって断絶の危機に瀕しますが、それを聞いた景勝は其の名跡を惜しみ、長尾景久に継がしめて(竹俣利綱)、以後上杉家上士(侍組)として仕え、美作当綱へ、さらに幕末から今日へと繋がっていくのです。

竹俣家と三河守慶綱についてはこの辺にして・・・
次に、また本線に戻って合戦の模様などを記して参ります。

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