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択捉島と国後島や色丹島はロシア領。日本がゴネているのは米国の指示によるもの。

2016-12-25 09:46:23 | 国際
日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土 (ちくま新書 905)
孫崎享
筑摩書房



 1943年10月5日、米国大統領ルーズベルトは国務省スタッフとの会談で、千島列島はソ連に引き渡されるべきであると述べた。続く10月19日米英ソ三国外相モスクワ会談で、ハル米国務長官は、ソ連外相モロトフに対し、千島列島・南樺太をソ連領とする見返りに、日本との戦争に参戦することを求めた。
 1945年2月4日ヤルタ会談で米国大統領ルーズベルトはソ連に対して対日参戦を求めた。ドイツ降伏3ヵ月後に、ソ連は対日参戦し、樺太・千島はソ連領となることが合意された。
 1945年8月9日ソ連は対日参戦し、当時、日本が実質支配していた中国東北部(満州国)に進攻し、8月11日には当時日本領だった南サハリンに進攻し、さらに18日には千島列島に進攻を開始する。
 日本政府はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏し、9月2日戦艦ミズーリー号船上で降伏文書に調印している。ポツダム宣言八条に従って、日本の領土は、四つの主要な島(北海道、本州、九州及び四国)及び連合国が定めた諸小島に限定された。 ポツダム宣言第七条、一般命令一項(ロ)により、千島はソ連の占領下になった。
 実際にソ連が北方4島を占領するのは、8月28日から9月5日であり、択捉島は8月29日に占領、国後島・色丹島は9月1日に占領した。歯舞群島は9月3日に作戦を開始し、9月5日夜に捕虜を国後島に移送した。
 歯舞群島はポツダム宣言調印式の後の占領されている。

 
【サンフランシスコ講和条約第2条】
(c) 日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 最初は「千島列島」には南千島も含まれるという解釈だった。吉田茂首相(当時)も外務省条約局局長も択捉島と国後島は千島列島の一部であると国会で答弁している。

 1956年10月、鳩山一郎首相とソ連のブルガーニン首相はモスクワで「日ソ共同宣言」に署名した。「共同宣言」では「ソ連は歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」と明記された。
 当時、アメリカのダレス国務長官は重光葵外相に対し「二島返還を受諾した場合、アメリカが沖縄を返還しない」という圧力(いわゆる「ダレスの恫喝」)をかけていたと伝えられている。
 このダレスの恫喝については先日プーチン大統領が来日した折に、プーチン自身が言及している。

 このダレスの恫喝の通りに外務省などが国内世論を煽って今日至っている。
私は釧路や国後島が見えるあたりまで観光旅行したことがある。確かに国後島は文字通り目と鼻の先にあり、望遠鏡を使わなくても国後島が眺望できた。
国道沿いには「島は奪われた!」とソ連兵が機関銃を抱えて立っている立て看板が幾つもあった。島は奪われたことは本当だが、今更観光客の不安を掻き立て、胸糞悪くなるような看板を林立させることが北海道経済のためになるとは到底思えない。

 だが海道経済は危機的状況にあり、JR北海道は経営危機で、保線もままならず貨物列車の脱線事故を起こしている。その上、台風の襲来で国道があちこちで寸断されて復旧工事が急務となっている。

 敗戦で奪われた領土は帰ってこない。ヤルタ会談は「今後は戦争によって国境線を変更するのを止めよう」という取り決めでもあった。だから、もはや千島も樺太もロシア領で確定なのである。
 色丹島にはロシア人が住んでいる。歯舞群島は無人島である。歯舞群島だけはポツダム宣言受諾調印式以後に占領されたのであるから、日本側が領有権を主張する根拠はあると言える。日ロ平和条約を締結し、歯舞群島での漁業権を日本側に譲ってもらうという形で収め、樺太経由でサハリンのパイプラインを北海道まで引き込んで、北海道経済活性化を行うほうが日本にとっても良策である。


北方領土問題
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm

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