気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

甲子園という目標を失ったとき

2020-05-29 15:59:16 | 
 「甲子園」を目指していた学生にとって、大会が中止になるということは目標を失うことである。目標を失って残された高校野球生活をどのように過ごしていくのか、他人事ながら気になる。
 
 人生に於いて、目標があると良く生きられる人がいる一方で、なくても自分らしく生きられる人もいる。人が何のために生きているのか、宗教家や哲学者などがいろいろ発言するが、絶対の答えはなく(誰も知り得ない)、いろいろな生き方があっていい。目標があろうとなかろうと現実の世界は刻一刻と眼の前に現れ、それをこなしていくことが先決なのだ。

 「栄冠は君に輝く」の歌詞に「♪一球に 一打にかけて 青春の讃歌を綴れ♫」とあるが、甲子園という目標があろうとなかろうと、目の前にボールは一つしかない。一球に本気で気持を込めたとき、目標だけでなく甲子園も勝利もヒーローも友達もすべて消える。迷いがなく、とても静かな時空がある(実際に音がしないということではない)。それに気がつくことは、その後の人生を生きていく上で、とても大きな力になる。
 
 老子は「無為を為せ」という。「人為的なことをせず、自然に任せる」ということである。甲子園がなくなり地方大会になれば(或いは地方大会がなくなれば)、否応なしに「無為」に近づく。最大の人為である「甲子園」という目標がないことで、かえって学生の一球にかける純度が高くなるのではないかと思っている。そんな期待をしてしまうのは、私だけだろうか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

教える人と教えられる人の温度差

2019-11-02 09:15:46 | 
 太極拳や気功の教室を始めるときに「無料体験」なるものを開いて、人を集めたことが十回くらいはあるだろうか。取りあえず「無料体験」に参加してもらい、良ければ入会してもらうというものだ。結論から言うと、あまり意味がなかった。9割以上の人は「無料」だから参加しただけである。体験してみて良かったら正式に入会するという姿勢の人はいない。
 たとえば私の場合、読みたい本が図書館にないから読むのをやめようということはできない。それができるのなら、それは読まなくてもよい本なのである。同様に自分が曽て習い事をしたとき、習いたいから習っただけであり、金額やその他の条件でそれを決めたことはない。当然、教室を一番に考え、他の用事は教室以外の日にまわす。
指導者の熱量と生徒のそれが同じにならないのは、もともと(最初から)の「思い入れ」が違うからかも知れない。だとしたら仕方のないことである。私のできることは、教室内でできるだけ良いパフォーマンスを見せて、生徒の意欲を少しでも喚起できるようにすることだけである。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「察する」

2019-07-27 08:55:47 | 
 甲子園の予選が各地で行なわれているが、今年も母校の応援に行かなかった。母校に対する愛着がないわけではないし、知人に会えば嬉しくもなる。しかし私はずいぶん前から野球だけでなくスポーツ競技全般に対して関心が薄れているのである。
 地元に某高校の練習施設があり、野球やサッカーをしている高校生が、道一杯に広がり騒ぎながら歩いている。この高校が甲子園に行くことはない。野球はチームプレーであり、大事なことは相手のことを「察する」ことである。失敗した選手の気持ちを察して声を掛ける。いつもと違う顔をしていたら「どうかしたのか」と聞いてみる。そういう細やかな意識の一つ一つがチーム力を向上させる。指導者の指導はグランドだけではない。公共の場所での生徒の振る舞いに意識が届かない指導者が、どうして野球を教えられるのか。
 エラーをするとプロ野球ではヤジが飛ぶ。高校野球でもないわけではない。高校野球の大会では「エールの交換」というのがあり、応援団が互いの健闘を称えあう。私は高校野球に期待していることがあり、それは誰か選手が失敗したときに、仲間だけでなく相手チームからも励ます声が掛かることである。そして高校野球大会の歌「栄冠は君に輝く」を勝者が敗者の「君」に、敗者が勝者の「君」に歌ってほしいと思う。
 私はいつ、球場に足を運ぶだろうか。高校野球が変わったときか、自分が変わったときか。
 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

体罰をする側の身心

2019-05-18 10:28:51 | 
 体罰をする時、その身心にどのような変化が起こるのか。人は人を殴る時に身心共に緊張する。緊張しなければ殴ることができないからだ。その緊張は、からだの自然(リラックスした自分らしい状態)からみると、「不快」の種に属する。にもかかわらずそれをするのは何故だろうか。本人の感覚が鈍く、緊張を不快だと感じられないからである。本人の生活にストレスがあったりして感覚が偏ると、その解消として体罰が行われることがある。また本人が良かれと思って体罰をしている場合もある。体罰は生徒の能力を高めたり、悪い処を改善させるためにしているのだと思いこんでいる。
 
 体罰の是非を各方面から論じるのも良いが、私は体罰をしない理由として、自分が「不快になるから」というのがあってもいいと思っている。人は普段思考したり行動する時に、善悪・好悪・利害・美醜・勝負・・・などを基準にするが、「快不快(自然不自然)」もそこに入れたい。それが、将来体罰をしないブレーキにもなり得ると考えている。それは体罰だけではなく、虐待やいじめ、言葉で人を傷つける行為に対してのブレーキにも。もちろんそのためには、本人が自分の身心に耳を寄せ、からだの声を聞きとらなければならないのだが・・・。
 、

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ながら族」にはなれない

2019-02-16 09:24:18 | 
 先日生徒と話していて、「先生は【ながら族】ではないんですね」と言われた。考えたことはなかったが、そうかも知れない。食べながら(つまみながら)テレビを見ることはないし、携帯音楽プレーヤーも持っていない。誰かと食事をしながら話をすることもあるが、興味のほとんどは話にあり、料理に意識がいかないことも多々ある。そういえば数年前にホテルのバイキングで行われた同窓会では、話に夢中になって一皿しか食べなかったことに後になって気がついた。少々残念なこともあるが仕方がない。
 一つのことに「集中する」ということは、私にとって快感である。食事に関心が無いわけではなく、話の方に関心が行ってしまうのである。太極拳の教室でBGMとしていろいろな音楽をかけるが、レッスン中はほとんど耳に入って来ない。クラシックもストーンズもボブ・マリーも私にとっては同じなのである(生徒には時々太極拳にその音楽が合うとか合わないとか言われることがあるが)。
 酒を飲みながら音楽を聴くことがあるが、分析してみると、酒と音楽を同時に味わってはいない。音楽を楽しんでいる中で、酒を飲むときには(音楽を忘れて)、酒だけを味わっているのである。わずかな時間音楽から意識を放して、再び音楽に戻っているのである。これでも十分音楽を楽しむことができる。
 他の人は会話と料理、酒と音楽をどのようにこなしているのだろうか。意識を半々に分けて、それぞれに対する感覚を薄めることなく同時に楽しむことなどできるのだろうか。




  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする