しばらく時間がかかると思いますが、どうぞご了承ください。
コンピューターは肉体と違って放っておいても治らないから困ります。情も通じず、気も通らず、ただ正確な知識だけが互いを結ぶ言葉です。付き合っていてあまり面白い相手ではありません。たとえそれが人や犬の形をしていても本質は同じです。いくら学習能力があったとしても人の直感には及びません。もちろん、人もその直感を磨かなくてはならないことは言うまでもありませんが。
気気の会では、うつぶせになった人の背中に手を当てる。その姿勢は、手を当てる人から受ける人に気を送っているように見えるが、「気」という視点から見ていくと必ずしもそれだけではない。ここでいう「気」は、物質的なものというよりも、すべての人(物)を生かしているハタラキである。
「気」はすべての人に共通してあり、動けば一方通行ではないから、手を当てる人だけではなく、うつぶせになっている人も「気」を出しているのである。どちらの人も気を出し、同時に受けている。
自分と相手が同質である「気」を介してつながれば、当てている掌が肉体の末端ではなくて、相手のカラダも自分のカラダの延長として感じる。このような一体感は、自分と相手だけではなく、さらに拡げていくことができる。たとえば、(気功や瞑想法などを使い)部屋の空気や屋外の木々とも同質であるとイメージできれば、体感もまた大きく拡がる。
人は意識するしないにかかわらず、思い込みや錯覚をしている。そうして偏った意識をもっているのだから、自然体(ニュートラル)ではない。それを修正する(ニュートラルに戻す)ために、上記のような「気」の視点を持つ、或は多少のイメージを使う。気気とは、本来持っているはずの身心の状態に戻るための一つである。
某教室の某さんに、「当日、午前の用事の済み具合で、行かれたら(自分で自分を整体する会に)参加したいのですが・・・」と訊かれたので、即座に断った。それは申し込み期限が4日前までだからということではなく、何かが「気になった」からだ。その理由を考えてみる。
もしこれが、他の教室ならば気にしない。他の用事を優先しようと、練習をせずに参加しようと、気にしない。他の教室はそういう「レベルの」ものだからだ。しかし、今回開く「自分で自分を整体する会」はそういう訳にはいかない。
この会への参加条件として、唯一挙げたのが、「意欲のある人」である。経験や才能ではなく、意欲の有無だけを観る。参加者の中に意欲の濃淡があれば、会は前には進まない。
意欲を持たずに参加することは、私に対してではなく、「気」に対して失礼なのである。先に「何かが気になった」と答えた理由はここにある。「気」に触れるには、それなりの覚悟と姿勢が必要なのだ。「気」は、死と共に無くなるという。生きている人にしかないもの・・・そういう意味では「気」は「生命」と言っても良い。「いのち」に直接触れることが、気安くあって良いはずがない。
ずいぶん堅いことを言っているかも知れないが、無理な注文ではないはずだ。誰でも飛行機やコンサートのチケットは、事前に予約するのだから。もちろん私は旅行やコンサートのような楽しさや興奮を提供できるとは思っていないが、しかし旅先の風景や歌手よりも真剣さが劣っているつもりも無いのだ。
大した指導者ではないことは、自分が一番良く知っている。それでも伝えられることがあると思い、この会を開いた。私の希望は、レベルの上がった参加者を卒業させて、その人の次の道を一緒になって考えることだ。