気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

大きな虹鱒

2014-03-27 21:29:35 | 渓流・鮎釣り

 今年から桂川(都留漁協)に通うことにして2日目。駅から徒歩で川原に降りて、ハヤル気持ちを抑えて着替える。眼の前に大きな淵があるから、尚更急いてしまう。川虫を取ろうと下流に行くと、50メートルくらい後ろに釣り人が見えた。仕方なく場所を替えることにして、国道139号線を西へと向かった。そして恐らく人のいないであろう処に入渓した。案の定、人は居なかったが、アタリもない。餌の川虫がいない渓相かも知れないと思いながら進むと、ようやく開けた場所があり、そこで小さなヤマメを釣った。すると再び川幅が狭く急流な渓相になり、横を歩くのに気を遣う。それ以上進めないポイントが淵になっていたので、5.4mから7mの竿に替え、重たいオモリで餌を沈めると、虹鱒が2匹釣れた。再び遡行し辛い道を戻るのは気分的にも疲れるものだが、2匹出たことで力を得た。

 その後支流に移って数匹の虹鱒、小さなポイントで岩魚が出た。そして、この大きな(56センチ位の)虹鱒が掛かった。

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糸を1回切られたあと、1号の糸に替えて川虫を流すと同じ処で喰ってきた。初めはモソッとした、はっきりしないアタリで、その後水面に飛び跳ねたりして暴れ、私は下流側に廻り、何とか上げようと必死だった。浅瀬に寄せた後はタモを使わず、虹鱒を手で上に投げた。実はこの直前に穂先を折ってしまい、苦肉の策で竿先に輪ゴムをキツく巻いていたのである。結果的にはそんな方法でも虹鱒を釣り上げることができた。

 先週、今週とわたしにとっては、釣れ過ぎである。放流量が多いのと、天候やその他の運にも助けられているに違いない。今後、どういう釣りができるのか、楽しみである。


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名曲を勝手に解釈する⑫

2014-03-21 19:38:56 | 音楽

 岩崎宏美がこの歌を唄う時、「聖母(マドンナ)」に見えてしまうのは、私だけではあるまい。

 「さあ眠りなさい 疲れきった体を投げだして」と言えるのは、母だからではなく、母性である。歳を取っても特に男は、子供の頃の記憶がある限り、それを求めることがある。

 「この都会(まち)は戦場だから 男はみんな 傷を負った戦士」

 聖母は「どうぞ 心の痛みをぬぐって・・・」と言う

 「恋ならば いつかは消える

 けれども もっと深い愛があるの」

 この女性は、始めから聖母だったわけではあるまい。信仰や思想によってそうなったのではなく、「恋」を「愛」に昇華させたのだ。それは簡単なことではない。恋は所有することを求め、触れることを求めるが、愛は見返りを求めない。ただ一方通行の「想い」だけが通り抜けるだけで、何の「形」も残さない。

 「ある日あなたが 背中を向けても 

 いつも私は あなたを遠くで 見つめている 聖母」

 聖母は一人では存在しない。温かい眼差しを感じ取れる人がいて初めて存在する。巷にあふれる、お金を介在させた安っぽい「癒し」とは、次元が違うのである。

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名曲を勝手に解釈する⑪

2014-03-13 19:48:13 | 音楽

 厦門大学に留学していた時、ある人から、中村雅俊のテープを頂いた。

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 この中に入っていた「君の国」・「君の中のモナリザ」・「さらば涙~風の彼方に」などを気に入って、良くギターで弾き語りをした。

 「白い寫真館」が好きだと言っていたその人は、今、何処で、何をしているのだろうか・・・

 「俺たちの祭」は、「俺たちの旅」や「ただお前がいい」と同じく作詞は小椋佳。

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 「君の手をとり 心の海に 白い小舟を浮かべる」

 「小舟」は自分の分身である。どうしようもなく小さくて非力な小舟は、大海原を自分では進んで行くことができないが

 「愛の帆をはり 月のさやかに 風のそよぎに漂えば」

 「いつか二人は 見知らぬ遠い島へ」行くことができるのではないか、という「夢」を見る。

 

 「君の手をとり 別れをつげるつらさ・・・」

 「別れをつげるつらさ」は相手を傷つけ悲しませる「つらさ」だけでなく、傷つけた人間が「自分」であるという事実から逃れられない「つらさ」でもある。

 「まっすぐに俺を見る君」の視線を受け止めることのできる力など、別れをつげた人間の何処に有り得ようか。

 「遠い島では 別れのない愛が あるそうな」

 「別れのない愛」があるのなら、その「愛」は好き嫌いなどを超越したもっと大きな「愛」である。別れもないかわりに、出会いもまたない。

 そんな「迷いもまどいも 消え果てる 光りの地」である「遠い島まで 君をつれて行きたいよ」

 

 他に好きな人ができたのではない

 ただ、愛が冷めていくのだ・・・

 君を傷つけたくない

 自分も傷つけたくない

 現実の世界でそれを実現できないのだから、「遠い島」というユートピアを設定するしかなかった。そこは絶対の「愛」に包まれた世界である。相対することがないのだから、彼女を傷つけることもなく、自分も傷つくことはない。しかし「絶対愛の世界」では、将来二人の間に愛が芽生えることはなく、愛し合ったという証である過去も全て、失われるのだ。

 ユートピアが無いと知っているから観た夢なのか、それとも在れば本気で行くつもりでいたのか・・・

 テープをくれた、信仰心の篤いその人ならば、迷わないかも知れない・・・


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「意欲」と「気」

2014-03-06 09:19:48 | 気気

 某教室の某さんに、「当日、午前の用事の済み具合で、行かれたら(自分で自分を整体する会に)参加したいのですが・・・」と訊かれたので、即座に断った。それは申し込み期限が4日前までだからということではなく、何かが「気になった」からだ。その理由を考えてみる。

 もしこれが、他の教室ならば気にしない。他の用事を優先しようと、練習をせずに参加しようと、気にしない。他の教室はそういう「レベルの」ものだからだ。しかし、今回開く「自分で自分を整体する会」はそういう訳にはいかない。

 この会への参加条件として、唯一挙げたのが、「意欲のある人」である。経験や才能ではなく、意欲の有無だけを観る。参加者の中に意欲の濃淡があれば、会は前には進まない。

 意欲を持たずに参加することは、私に対してではなく、「気」に対して失礼なのである。先に「何かが気になった」と答えた理由はここにある。「気」に触れるには、それなりの覚悟と姿勢が必要なのだ。「気」は、死と共に無くなるという。生きている人にしかないもの・・・そういう意味では「気」は「生命」と言っても良い。「いのち」に直接触れることが、気安くあって良いはずがない。

 ずいぶん堅いことを言っているかも知れないが、無理な注文ではないはずだ。誰でも飛行機やコンサートのチケットは、事前に予約するのだから。もちろん私は旅行やコンサートのような楽しさや興奮を提供できるとは思っていないが、しかし旅先の風景や歌手よりも真剣さが劣っているつもりも無いのだ。

 大した指導者ではないことは、自分が一番良く知っている。それでも伝えられることがあると思い、この会を開いた。私の希望は、レベルの上がった参加者を卒業させて、その人の次の道を一緒になって考えることだ。

 


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