気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

高校時代の野球②

2017-09-30 08:28:40 | 野球
 指導者は体育の先生(監督)と、もう1人コーチがいた。このコーチは土佐高校で甲子園に行った経験のある人である。周りの1年生はこのコーチのことを陰険で、厳しいと嫌っていたが、私はそう思わなかった。なぜならコーチは、私たち「新入り」にも技術を教えてくれたからだ。ある日、皆の練習が終わった後、私ともう1人(入学式後に入った仲間)だけ残って練習をしたことがあった。コーチは、内野手としてのボールの投げ方を教えてくれた。捕球したら、ボールを素早く耳の処に持っていき、肘から先だけを使って投げる。この一連の動作を二人でずっと練習した。練習後、体育教官室に挨拶にいくと、コーチはモツを焼いていた。そのモツを私たちの手にのせた。旨かったことよりもコーチの気持のようなものが伝わってきて、何とも言えない嬉しさがあった。
 コーチは自分のことは語らないから、何を考えているのか分からないところがあって、皆から誤解されていたのだ。しかし私にとっては、野球で入って来た選手やレギュラー選手を特別扱いしない、平等な人だった。
 その後、ある問題が起きて、コーチが辞める(辞めさせられる)ことになった(私は今でもコーチは悪くないと思っている)。最後に皆の前でこう言った。
「甲子園に行けるかどうかは、お前らがどれだけやったかどうかだ」。
厳しくもあるが、なんて希望のある言葉なんだろう!練習をやれば「行ける」のだ。甲子園が初めて眼の前に見えた。

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高校時代の野球①

2017-09-23 10:18:37 | 野球
 あんなに辛かった野球を何故高校へ行ってからも続けたのか。父親がすでにそういう方向でレールを敷いていたということと、私も高校野球に対して期待があったのである。それは甲子園というよりも、真剣に野球に打ち込む姿勢のようなものにあこがれていた。
 
 入学してまず驚いたのは、ほとんどの新入生部員が、入学前の春休みから既に練習にでていたということ。付属の中学から上って来た者だけでなく、中学やシニアリーグで活躍して、野球で入って来たような者がうじゃうじゃいた。何だかズルイ感じもしたし、出遅れたと思った(私と同じように入学後に入部した者もいたが、すぐに辞め、最後まで続けたのは私ともう1人だけである)。

 入部前に一度練習を見学に行くと、コーチに訊かれた。
「体育着はないのか」と。
コーチにしてみれば、「ユニホームなんかなくても野球はできる(とにかくやってみな)」ということだったのだ。
たしかにその通りである(話は逸れるが、私は太極拳の指導において、服装を問わない。いわゆる「表演服」とよばれるシルクの服など着なくても太極拳はできるのだから。こういう考えはこの時の経験によるものかも知れない)。

 練習は毎日あって、とにかくきつかった。1日の練習をこなすだけで精一杯。長い長い1日の練習が終わると、本当にホッとしたものだ。そして充実感があった。とは言え授業中に雨が降ってくると、クラスの野球部の友人と喜んだ。雨が降るとグランドが使えず、体育館での練習になるからだ。体育館での練習は、走ったり、筋トレをしたり、素振りくらいのものだったので少しは楽だった(それでも3時間くらいはやっただろう)。たいした練習もしない他のクラブ活動の連中が羨ましく見えたものだ。「甲子園に行く」とか「レギュラーになる」とか、そういう具体的な夢や目的など浮かばないほど日々の練習に追われていた。

 入部して1.2ヶ月経った頃、内野(私はショート)の守備練習をしているときに、ボールを飛び込んで取ろうとして、着地の時に指を怪我した。練習を続けたが、ボールを上手く投げられなかった。握るとボールが凹んで(歪んで)いるように感じるのである。
 練習後に整形外科でレントゲンを撮り、「折れているね」と言われたとき、真っ先に思ったのは、「これで練習が楽になる」ということだった。


 

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中学時代の野球⑤

2017-09-15 10:55:23 | 野球
 「中学時代の野球」は、経験したことのない世界であった。小学校時代は仲の良い友人と遊んだり、少年野球を楽しくしていたのだが、「中学時代の野球」は、全く違う世界だった。大人(指導者)が絶対の権力を持った世界。勝ち負けのはっきりした比較・競争の世界。肉体的にも精神的にも厳しい処で、私はそれを受け容れようとしていた。逃げたり、反抗することがなかったのは、それまでの人生で(と言っても12年間だが)、大人に対する信頼があったからだろう。実力主義の野球も、体罰も、「そういうものだ」と受け容れようとしていた。とはいえ当然むりもある。自分には合わない「何か」を感じていたのである。しかし当時はその違和感を追究する知恵を持っていなかった。
 
 親しい友人はいなかったが、皆いい仲間だった。中学生にはまだ子供の部分があり、個々のタイプは違っても、その純粋さで付き合えたのだろう。
 当時の指導者の体罰に対して、今は恨んだり、憎しみを持ったりはしていない。彼らもまた時代の雰囲気(当時の風潮・体罰を使っての指導)に影響されていたのだから。それに彼らは一方で体罰をしながらも、もう一方ではやさしい顔を持っていたのである。


番外編

*最上級生になってショートでレギュラーになったものの、バッティングはまったく振るわなかった。ヒットはめったに打てず、四球やバント(犠打)の方が仕事ができたような気がした(消極的な選手である)。初球から打ちに行く勇気がなかった。技術以前に精神面での弱さがあることを自覚し、何とかしたいと思っていた。結果的にこうして悩んだことが、高校でそれを克服することにつながってくる。

*調布シニアとの練習試合で難しいライナーを好捕したら、相手のショートの選手に「ナイスキャッチ!」と言われた。その選手は、守備だけでなく万能だったので、本当に嬉しかった。それにしても、敵のチームの選手に対して「ナイス!」と言える余裕・開いたココロがあることは、野球を「やらされている」受け身の私には衝撃だった。

*中1の時、駅からグラウンドまで歩いていると、自転車の先輩が通りがかり「乗りな」と後ろに乗せてくれた。あまり話はしなかったが、シブイ人だった。リトルリーグ上がりの選手が多い中、軟式野球出身で、しかも中2からレギュラーだった。憧れというよりはカッコイイ先輩だった。

*帰り道、仲間と駅に向かっていると、監督が車で駅まで送ってくれた。練習中とは打って変わって、やさしい声だった。

*同級生たちはいわゆる「ツッパリ」が多く、皆「ソリ(髪の生え際を鋭角に剃る)」を入れていた。開会式に制服で集まる時には、「ドカン(これ以上太いズボンはない)」をはいているのが何人もいた。

*同級生が2人、その後甲子園に出場した(テレビで観たときには羨ましいとは思わず、ただ嬉しかった)。


*写真は中学2年生 毎日素振りをしていた。実を結ぶのは高校に行ってからである。

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中学時代の野球④

2017-09-08 08:52:02 | 野球
 最上級生になると、主将に任命された。野球をするのが精一杯なのに主将が務まるものかと思ったが、否応なしに練習・試合は繰り返された。私は表面的には主将のするべきことはこなしたが、自発性がなく、統率力もなかった。あの頃の私は全てにおいて自信がなく、ココロが閉じていた。誰かに相談でもできたら良かったのにと、今になれば思う。
 大阪に遠征して、試合前に藤井寺球場の外野を皆で走っていた時、ベンチの監督に呼ばれ、いきなりピンタされた。「何ダラダラ走っているんだ!それで、試合ができるのか!」と。鼻血が出たことよりも、痛さよりも、もっと別の何かが傷ついたのだが、その時にはよく分からなかった。中学・高校時代に体罰も含めて私が指導者から受けたことは、その後の人生に大きく影響した。老荘思想や・禅・野口整体を勉強したことは、あの頃分からなかったものを分かろうとする試みだったのだ。
 数カ月後、主将は別の人と交代したが、それは残念なことではなく、ただホッとした。

 ある日、甲子園に出場した、4、5つ上の先輩が練習に来てくれた。その人は試合形式の練習で、たった一振りで、大きな滞空時間の長い見事なホームランを打った。その後その人は一時期、私たちの監督になった。新監督は、チームのために犠牲になることの重要性を説いた。ある試合、ノーアウトランナー2塁の場面で、バッターは私。何とか二塁ゴロを打ち、走者を進塁させるとほめられた。野球でほめられたのは初めてかも知れない。私は初めて、野球はどのようにやるのかという方向性をつかんだ。場面場面で、自分のやるべき仕事をキチンとやろうとする「姿勢」である。「結果」ではなく、「姿勢」。指導者が選手の「姿勢」を観ている限り、選手は安心してプレーすることができるのである。あの時つかんだものを、今でも大事にしている。現在私は太極拳や気功を指導しているが、生徒たちを「できる・できない」で評価することはない。「やろうとする姿勢」だけを観ている。

 余談だが、高校野球を引退後、私も「一振りでホームラン」を2回している。1回目は、中国に留学した年(18歳)、近所の中学校に野球を指導に行った時、初めての打席で打った。もう1回は、母校の紅白戦に代打で出させてもらい、打った。見ていた人のココロに、ちょっとでも何かが残っただろうか…私がそうであったように。

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中学時代の野球③

2017-09-02 09:16:07 | 野球
 野球が下手で「球拾い」と「あいさつ」くらいしかできなかった私は、周りから「真面目」だと思われていた。自分には他の面もあるのに、そこを見せることができず、真面目な処しかみてもらえないことがもどかしかった(自分の素を少しは見せられるようになるまで1年以上かかった)。
 リトルリーグを引退して入って来た仲間たちは、付近のチームで主力だった選手が多く、上手かった。周りの皆が上手いというのはツライことでもある。自分ができないことを思い知るからだ。その時から中3で引退するまで、自分は「下手なんだ」という思いをずっと持ち続けることになる。
 野球チームに参加するということは、野球の「上手い下手」で評価されることになる。人間性・性格のようなものは二の次である。少年野球から高校野球に至るまで、たとえその目的を身心の健全な発育・成長とうたっていたとしても、それは建前で、実際には関係機関(連盟・組織)も、チームも、個人も、野球の技術の向上・勝利を何よりも目指しているのである。そうでなければ(平等であるならば)下手な人間の居場所がなくなったり、辞めて行くこともないのである。
 上述したのは、全体の傾向(雰囲気)であり、もちろん個人的には、練習中にも人間らしい喜びなどはあったのである。
 
 話は変わるが、先輩たちが関東大会の決勝で対戦したのが、荒木大輔(元ヤクルト投手)擁する調布シニアだった。頼もしい先輩たちが全く手も足も出せず、完敗だった。彼は翌年、早実に入り甲子園で準優勝投手になるのだから、当時から相当の実力があった。これが中学生かと思うほどの体格、スピードボール、切れのある変化球…別格である。加えて顔もよくて、正にスーパースター。12歳まで生きてきて、初めて見たスゴイ人だった。

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