気を感じながら暮らす

からだや自然について思うことなどを気ままに

「善」の前に在るもの

2011-03-24 19:32:03 | 

 私はテレビをあまり観る方ではないが、それでも最近震災関連の報道の中で、「感動」「善意」などの言葉が多い気がする。報道する側が意図的にそういうドラマティックな内容のものを探し、流しているのであろう。

 孟子は、人は生まれながらにしてその性は善である(性善説)と言った。たとえば、井戸に落ちそうになっている幼子を見たら、誰でもそれを助けたくなるものだという。

 大震災が起こり、おそらく本当に多くの人たちが、被害に遭った人たちに心を寄せているのではなかろうか。ある人は行動に移し、ある人は想いを持ち続ける。

 老子曰く 「皆知善之爲善。斯不善已。(皆がその行動を『善』と言うことに決めたから、そうではないものを『不善』と言うことになった・・・白石拙訳)」 もともと「善」はなかったのである。しかしそれは「善」という概念が無かっただけで、「善」同様の内容の行為は行われていた。

 多くの人が想いを寄せたり行動しているのは、そうすることが「善」だからではなく、自然にそう思わざるを得ないからである。だとすれば「感動」や「善意」などという言葉をわざわざ言う必要は無いだろう。自分や誰かの、「最初に在る純粋な想い」が見えなくなってしまう。


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枯葉の上の出来事

2011-03-17 16:43:29 | 風景・自然

Photo

 いつもの山道の 枯葉の一枚で

 白い羽をピンと伸ばしている

 風に震わされ 周りの枯葉は飛ばされる

 その細い足に力を入れた

 

 しがみつかれるものは枯葉の如く

 しがみつくものは枯葉の如く


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「無伴奏チェロ組曲」まで13年

2011-03-03 16:41:15 | 音楽

 バッハの「無伴奏チェロ組曲」を好んで聴くようになるまでに、13年かかった。

 初めて聴いたのは、静岡のSさんの車の中。カザルスのCDをかけてくれた。クラッシック音楽=オーケストラと思い込んでいた私は、チェロという楽器を単独で演奏する曲があることを初めて知った。「なかなかシブイな」と思った。間もなく私もカザルスのCDを手に入れ聴いて見た。太極拳や気功教室のBGMなどにも使い、頻繁に聴いた。しかし、その曲は相変わらずシブイままで、好きにはならなかった。

 その後、バッハではヴァイオリンやピアノの曲に興味が向いて、「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」や「無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ」「平均律クラヴィーア曲集」などを好んで聴いた。「無伴奏チェロ組曲」もカザルス以外の演奏者も聴いて見た。「シュタルケル」「フルニエ」「ロストロポーヴィチ」など。私は「エンリコ・マイナルディ」という人の演奏がゆったりとして、伸びやかな音色で、抵抗無く聴けた。

 最近になって何故か、「無伴奏チェロ組曲」が聴きたくなる。身心がそれを欲している。朝、仕事に出かける前に聴きたくなる。帰って来た後にも。休みの日の午前中にも聴きたくなる。或いは「立つ練習」のBGMに・・・

 私は音楽を勉強したことが無いから、音楽をどのように理解すれば良いのかを知らない。名曲とは一体何を指すのかを知らない。ただ私は、自分の身体の欲するものを聴きたいと思っている。今の私は「無伴奏チェロ組曲」を欲している。演奏はカザルスが多い。


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