聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




マタイ 20:29 一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。
20:30 そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:31 群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。
20:32 イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。
20:33 二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。
20:34 イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。

ここでも、盲人らがイエス様に癒しを求めて叫んだ時、群衆は彼らをしかりつけている。
「あなたたちのような者がイエス様を頼ってはいけない」とでも言うのであろうか。
とても残念な行為であろう。
人は、自分の方が物事をよく見えていて、理解している、と考えがちである。
確かに、盲人に比べたら、見える分だけ、情報もおおいかもしれない。
しかし、だからと言って、見えるている人が必ずしも常に正しいとは限らないし、目は見えなくても、他の間隔が優れている場合もある。
見えているかどうかだけで、どちらが判断力が優れているかとか、どちらが正しいかといったことは、全く別の次元の話なのだろう。

ヨハネ9章には、イエス様が生まれつきの盲人の人を癒されたことが記されているが、そこでイエス様は「見える」と思い込んでいる人にこそ罪があることを語られている。

ヨハネ 9:35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。
9:36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
9:38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、
9:39 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
9:40 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
9:41 イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

人間の考えや思い込みなど、いかにも自己中心的で都合の良いものばかりで、実は、本当に正しいことが見えていないのかもしれない。
心がねじ曲がった状態、それが我々人間の本質かもしれないし、だからこそ、悔い改め、常に謙遜で、神の御言葉に聞いていくものでありたいものである。



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