聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




イザヤ 63:1 「エドムから来るのは誰か。ボツラから赤い衣をまとって来るのは。その装いは威光に輝き 勢い余って身を倒しているのは。」「わたしは勝利を告げ 大いなる救いをもたらすもの。」
63:2 「なぜ、あなたの装いは赤く染まり 衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」
63:3 「わたしはただひとりで酒ぶねを踏んだ。諸国の民はだれひとりわたしに伴わなかった。わたしは怒りをもって彼らを踏みつけ 憤りをもって彼らを踏み砕いた。それゆえ、わたしの衣は血を浴び わたしは着物を汚した。」
63:4 わたしが心に定めた報復の日 わたしの贖いの年が来たので
63:5 わたしは見回したが、助ける者はなく 驚くほど、支える者はいなかった。わたしの救いはわたしの腕により わたしを支えたのはわたしの憤りだ。
63:6 わたしは怒りをもって諸国の民を踏みにじり わたしの憤りをもって彼らを酔わせ 彼らの血を大地に流れさせた。
63:7 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を 主がわたしたちに賜ったすべてのことを 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み 憐れみと豊かな慈しみを。
63:8 主は言われた 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。そして主は彼らの救い主となられた。
63:9 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし 御前に仕える御使いによって彼らを救い 愛と憐れみをもって彼らを贖い 昔から常に 彼らを負い、彼らを担ってくださった。
63:10 しかし、彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた。
63:11 そのとき、主の民は思い起こした 昔の日々を、モーセを。どこにおられるのか その群れを飼う者を海から導き出された方は。どこにおられるのか 聖なる霊を彼のうちにおかれた方は。
63:12 主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ 民の前で海を二つに分け とこしえの名声を得られた。
63:13 主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが 彼らは荒れ野を行く馬のように つまずくこともなかった。
63:14 谷間に下りて行く家畜のように 主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き 輝く名声を得られた。
63:15 どうか、天から見下ろし 輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは 抑えられていて、わたしに示されません。
63:16 あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見知らず イスラエルがわたしたちを認めなくても 主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。
63:17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを あなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために あなたの嗣業である部族のために。
63:18 あなたの聖なる民が 継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
63:19 あなたの統治を受けられなくなってから あなたの御名で呼ばれない者となってから わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。

主なる神様がなされる救いの御業には、憐れみと恵みに満ちたものである一方、厳しくも激しい怒りと裁きも隣り合わせとなっている。
それゆえ、救われる者にも苦悩が絶えないように思われる。
しかし、本当の救いというのは、我々を懲らしめる悪の勢力を打ち倒すことではなく、我々の内にある悪に対する処罰を全うすることによって完成するものであり、それゆえ、我々自身も痛みを伴うものである。
ただ、主なる神様は、その処罰を我々に負わせられないで、ご自分の御子キリストに背負わされたのである。
それゆえ、もはや我々は、裁かれることがない。
十字架で死なれたキリストの裁きが本物であり完全であるからこそ、我々の救いも本物であり完全と言えるのである。
イエス様は、そのような裁きを一人担われ、踏みにじられたぶどうのように、十字架の上で血まみれになり、裁きを受けられ、そして、我々の救いを完成されたのである。
そのことを忘れないためにも、いつも十字架を見上げていたいものである。

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