ヨシュア記 2:15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
2:16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
2:17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
2:18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
2:19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
2:20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
2:21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
2:22 二人は山に入って行き、そこに三日間とどまって、追っ手が引き揚げるのを待った。追っ手はくまなく捜したが、見つけ出すことはできなかった。
2:23 その後、二人は帰途につき、山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとに戻り、自分たちが経験したことを一部始終報告して、
2:24 こう言った。「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」
詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。
ヤコブ 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
ヨシュアがエリコの町の偵察のために遣わした二人の斥候(スパイ)は、城壁の中に住むラハブによってかくまわれ、難を逃れることとなった。
そのため、イスラエルの軍がエリコの町を攻める時には、戦いの混乱の中、命を落とすことにもなりかねないので、決してその家から外に出ないように命じ、目印として窓に真っ赤なひもをつるしておくよう、ラハブとその家族を助けることを約束し、ラハブのもとを去っていくのである。
斥候との約束を守れば、ラハブとその家族は助かるし、恐れや不安に負けて外に出てしまえば、命を落とすことになるかもしれず、ラハブとその家族の命運は、約束を守るかどうかにかかっていた。
私たちの生きる世界においても、いつ何時、何が起きるか分からないし、恐れや不安がないと言えばうそになる。
しかし、主なる神様が私たちを救い、永遠の命を与えて下さると聖書には約束されていて、その約束を信じて生きるならば救われる。
つまり、どう生きるかが問われている、ということであろう。
ヤコブの手紙では、人が救われるのは信仰だけによるのではなく、行いによると語られ、まるでローマの手紙に語られているような「人は行いによるのではなく信仰によって救われる」という教えと真っ向から対立するようなことが語られているように見えるが、ヤコブの手紙で語られているのは、信仰によってどう生きているかが重要である、ということなのだろう。
神の救いの約束を信じていても、それに対し、これまでと何ら変わりなく、信じていない時と同じ歩みをしているのなら、それは「行いのない信仰」となってしまい、信じているとも言えないのかもしれない。
何をするか、どう生きるかは、その都度、その人人によってちがうだろうから、一概に「こうあるべき」とは言えないかもしれないが、神の救いを信じたからこそできる生き方というのがあるのだろう。
主なる神様は、御子イエス様の命をかけてあなたを救って下さる。
それに対して「あなたはどう生きるか」、それが問われている。