聖書日課 デボーションノート
聖書日課に従って、日々聖書を読んで思わされたことを書き留めています。




列王記下 5:1 アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。この人は勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。
5:2 アラム人がかつて部隊を編成して出動したとき、彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て、ナアマンの妻の召し使いにしていた。
5:3 少女は女主人に言った。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」
5:4 ナアマンが主君のもとに行き、「イスラエルの地から来た娘がこのようなことを言っています」と伝えると、
5:5 アラムの王は言った。「行くがよい。わたしもイスラエルの王に手紙を送ろう。」こうしてナアマンは銀十キカル、金六千シェケル、着替えの服十着を携えて出かけた。
5:6 彼はイスラエルの王に手紙を持って行った。そこには、こうしたためられていた。「今、この手紙をお届けするとともに、家臣ナアマンを送り、あなたに託します。彼の重い皮膚病をいやしてくださいますように。」
5:7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、衣を裂いて言った。「わたしが人を殺したり生かしたりする神だとでも言うのか。この人は皮膚病の男を送りつけていやせと言う。よく考えてみよ。彼はわたしに言いがかりをつけようとしているのだ。」
5:8 神の人エリシャはイスラエルの王が衣を裂いたことを聞き、王のもとに人を遣わして言った。「なぜあなたは衣を裂いたりしたのですか。その男をわたしのところによこしてください。彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
5:9 ナアマンは数頭の馬と共に戦車に乗ってエリシャの家に来て、その入り口に立った。
5:10 エリシャは使いの者をやってこう言わせた。「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります。」
5:11 ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。
5:12 イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。」彼は身を翻して、憤慨しながら去って行った。
5:13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」
5:14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。

詩篇 139:1  指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。
139:2 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
139:3 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。
139:4 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。
139:5 前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。
139:6 その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。
139:7 どこに行けば あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。
139:8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。
139:9 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも
139:10 あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる。
139:11 わたしは言う。「闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。」
139:12 闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち 闇も、光も、変わるところがない。
139:13 あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
139:14 わたしはあなたに感謝をささげる。わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。
139:15 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
139:16 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。
139:17 あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。神よ、いかにそれは数多いことか。
139:18 数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。

ヤコブ 4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。
4:9 悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。
4:10 主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。
4:11 兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません。兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です。
4:12 律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。
4:13 よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、
4:14 あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません。
4:15 むしろ、あなたがたは、「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう」と言うべきです。
4:16 ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです。
4:17 人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。




人間とは何者であろうか。
いかにも全てを悟り、自分の考えていることが正しいと思いあがり、他者に対して平気で裁きの言葉や態度をぶつけていく。
それがどれほど愚かな行為であるかということに全く気付いていない。
それもまた愚かなことであろう。
先日ある方が、人を裁いている人達を見て、それを赦せない自分が赦せないと言って悩みを打ち明けて下さった。
とても正直で誠実な方であると思う。
もともと我々人間は、愛の心など持ちえない、愚かな罪人に過ぎない。
それにもかかわらず、なぜ自分を偽り、愛の人、義の人のように思ってしまうのだろう。
やはりそこには、人間の基本的な罪の性質である自己中心や自己保身が働いているからなのだろう。
どこまでも愚かな存在である。
しかし、神はこんな私たちを、いつでも一瞬に滅ぼすことが出来るし、本来そうすべきところを、愛と憐れみの心で、これを赦し、救おうとされ、そのためになんと御子イエス様の命を生贄の犠牲としてお捧げ下さったのである。
なんと畏れ多く、もったいないことであろう。
しかし、神はそれほどまでして、私たちに生きていて欲しい、救いの喜びに生きて欲しいと願っておられるのである。
私たちは今日も生かされている。
喜び、感謝と共に、主が私に何を望まれているのか、どう生きて欲しいと思われているのかを求めながら、今日一日を生きよう。


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列王記下 17:5 アッシリアの王はこの国のすべての地に攻め上って来た。彼はサマリアに攻め上って来て、三年間これを包囲し、
17:6 ホシェアの治世第九年にサマリアを占領した。彼はイスラエル人を捕らえてアッシリアに連れて行き、ヘラ、ハボル、ゴザン川、メディアの町々に住ませた。
17:7 こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである。
17:9 イスラエルの人々は、自分たちの神、主に対して正しくないことをひそかに行い、見張りの塔から砦の町に至るまで、すべての町に聖なる高台を建て、
17:10 どの小高い丘にも、どの茂った木の下にも、石柱やアシェラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から移された諸国の民と同じように、すべての聖なる高台で香をたき、悪を行って主の怒りを招いた。
17:12 主が、「このようなことをしてはならない」と言っておられたのに、彼らは偶像に仕えたのである。
17:13 主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダにもこう警告されていた。「あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければならない。わたしがあなたたちの先祖に授け、またわたしの僕である預言者たちを通してあなたたちに伝えたすべての律法に従って、わたしの戒めと掟を守らなければならない。」
17:14 しかし彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、主を信じようとしなかった先祖たちと同じように、かたくなであった。
17:15 彼らは主の掟と、主が先祖たちと結ばれた契約と、彼らに与えられた定めを拒み、空しいものの後を追って自らも空しくなり、主が同じようにふるまってはならないと命じられたのに、その周囲の諸国の民に倣って歩んだ。
17:16 彼らは自分たちの神、主の戒めをことごとく捨て、鋳像、二頭の子牛像を造り、アシェラ像を造り、天の万象にひれ伏し、バアルに仕えた。
17:17 息子や娘に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、自らを売り渡して主の目に悪とされることを行い、主の怒りを招いた。
17:18 主はイスラエルに対して激しく憤り、彼らを御前から退け、ただユダの部族しか残されなかった。

詩篇 54:1  指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。
54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。
54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

マタイ 23:29 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。
23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。
23:32 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。
23:33 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。
23:34 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
23:35 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
23:36 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」
23:37 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。
23:38 見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。
23:39 言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」




旧約聖書で語られている偶像礼拝の罪と、新約聖書に出てくる律法学者やファリサイ派の人たちの偽善とは、神を第一とせず、他のものを自分の神のように捉えているという点では本質的に同じであろう。
人は誰も自分の都合や欲望を優先し、いかにも正しいことを行っているように理屈を述べて、自分の行いを正当化しようとするものである。
偶像礼拝を犯す者や、律法学者やファリサイ派の人たちが特別に悪い人たちなのではなく、私たちの中にも多かれ少なかれ同じような性質があることを自覚せねばなるまい。
もちろん「私はどうしようもない罪人だから、生きている資格もない」などといって、必要以上に自己卑下する必要はなく、むしろ「こんな私のことをも愛して下さり、命をかけて救って下さった神を信じて感謝して生きよう」と思えば良い。
大事な事は、真の神以外のものに信頼したり、自分自身の力に頼ったり、自分を正当化するために偽りを行う事を避けることであり、反対に、真の神を信頼し、自分の罪や愚かさとも誠実に向き合い、そのためにイエス様が十字架で死なれた事、それによって赦された者であることを覚えて生きること、であろう。

見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。


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列王記上 22:24 ケナアナの子ツィドキヤがミカヤに近づいて頬をなぐり、「主の霊はどのようにわたしを離れ去って、お前に語ったというのか」と言った。
22:25 「あなたが身を隠そうと部屋から部屋へと移る日にそれが分かる」とミカヤは答えた。
22:26 イスラエルの王は命じた。「ミカヤを捕らえ、町の長アモンと王子ヨアシュのもとに引いて行って、
22:27 言え。『王はこう言われる。この男を獄につなぎ、わたしが無事に帰って来るまで、わずかな食べ物とわずかな飲み物しか与えるな。』」
22:28 ミカヤは王に、「もしあなたが無事に帰って来ることができるなら、主はわたしを通して語られなかったはずです」と言い、「すべての民よ、あなたたちも聞いておくがよい」と言った。
22:29 イスラエルの王は、ユダの王ヨシャファトと共にラモト・ギレアドに攻め上った。
22:30 イスラエルの王はヨシャファトに、「わたしは変装して戦いに行きますが、あなたは御自分の服を着ていてください」と言い、イスラエルの王は変装して戦いに行った。
22:31 アラムの王は配下の戦車隊の長三十二人に、「兵士や将軍には目もくれず、ただイスラエルの王をねらって戦え」と命じていた。
22:32 戦車隊の長たちはヨシャファトを見たとき、「これこそイスラエルの王にちがいない」と言い、転じて彼に攻めかかろうとした。ヨシャファトは助けを求めて叫んだ。
22:33 そこで戦車隊の長たちは、彼がイスラエルの王ではないと知り、追うのをやめて引き返した。
22:34 ところが一人の兵が何気なく弓を引き、イスラエル王の鎧の胸当てと草摺りの間を射貫いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。」
22:35 その日、戦いがますます激しくなったため、王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが、夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。
22:36 日の沈むころ、「おのおの自分の町、自分の国へ帰れ」という叫びが陣営の中を行き巡った。
22:37 王は死んでサマリアに運ばれた。人々はこの王をサマリアに葬った。
22:38 サマリアの池で戦車を洗うと、主が告げられた言葉のとおり、犬の群れが彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。
22:39 アハブの他の事績、彼の行ったすべての事、特に彼の建てた象牙の家、彼の建てたすべての町々については、『イスラエルの王の歴代誌』に記されている。
22:40 アハブは先祖と共に眠りにつき、その息子アハズヤがアハブに代わって王となった。

詩篇 54:1  指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。
54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。
54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

ローマ 11:25 兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、
11:26 こうして全イスラエルが救われるということです。次のように書いてあるとおりです。「救う方がシオンから来て、ヤコブから不信心を遠ざける。
11:27 これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」
11:28 福音について言えば、イスラエル人は、あなたがたのために神に敵対していますが、神の選びについて言えば、先祖たちのお陰で神に愛されています。
11:29 神の賜物と招きとは取り消されないものなのです。
11:30 あなたがたは、かつては神に不従順でしたが、今は彼らの不従順によって憐れみを受けています。
11:31 それと同じように、彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。
11:32 神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。




ローマ書の箇所には、神に選ばれたはずのイスラエルの民が不従順となったために、救いの恵みが異邦人に及び、現在イスラエルの民が不従順であるがゆえに、神の憐れみを受けることになる、と語られている。
不従順とは、神を信じず、神に敵対しているような状態である。
にも関わらず、不従順ゆえ、神の憐れみを受けることになる、というのである。
皮肉なことに、民が不従順で自力では救いに達成することができないからこそ、神は一人子なるキリストの命を捧げられ、何の力も功績もなくても救いの恵みにあずかることが出来るようにされたのである。
なんとも不思議なことであるが、これこそが神の愛と憐れみ深さのゆえになされた御業なのである。
けれど、神がそういうお方だからこそ、私たちは救いにあずかることができるし、きっと人間の行いによって救われるかどうかが決まるのなら、罪深い人間など、誰一人救われることはなかっただろうから、まさに「この方法しかない」というのが神の救いの御業なのだろう。
神様は、それほどに私たち人間の現実を知っておられるし、その上で愛し、憐れまれたのである。
だからイスラエルの民が一時的に不従順になることなど、想定内のことであろうし、むしろ、それでも救いが実現しうるからこそ、神の救いの御業はおどろくべきことなのだろう。
もちろん、願わくは不従順ではなく、神の救いの約束を従順に受け取っていきたいものである。
不従順でも恵みにあずかることになるのかもしれないが、それよりも、従順に恵みを受け取って行くことの方が幸いであるに違いないのだから。


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士師記 6:1 イスラエルの人々は、主の目に悪とされることを行った。主は彼らを七年間、ミディアン人の手に渡された。
6:2 ミディアン人の手がイスラエルに脅威となったので、イスラエルの人々は彼らを避けるために山の洞窟や、洞穴、要塞を利用した。
6:3 イスラエルが種を蒔くと、決まってミディアン人は、アマレク人や東方の諸民族と共に上って来て攻めたてた。
6:4 彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。
6:5 彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった。
6:6 イスラエルは、ミディアン人のために甚だしく衰えたので、イスラエルの人々は主に助けを求めて叫んだ。
6:7 イスラエルの人々がミディアン人のことで主に助けを求めて叫ぶと、
6:8 主は一人の預言者をイスラエルの人々に遣わされた。預言者は語った。「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしはエジプトからあなたたちを導き上り、奴隷の家から導き出した。
6:9 わたしはあなたたちをエジプトの手からだけでなく、あらゆる抑圧者の手から救い出し、あなたたちの赴く前に彼らを追い払って、その地をあなたたちに与えた。
6:10 わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちはアモリ人の国に住んでいても、アモリ人の神を畏れ敬ってはならない、とわたしは告げておいた。だがあなたたちは、わたしの声に聞き従わなかった。」

詩篇 54:1  指揮者によって。伴奏付き。マスキール。ダビデの詩。
54:2 ジフ人が来て、サウルに「ダビデがわたしたちのもとに隠れている」と話したとき。
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。
54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。
54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。
54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。
54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。
54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。
54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。わたしの目が敵を支配しますように。

Ⅰコリント 2:1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
2:2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
2:3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
2:4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。
2:5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。




新約聖書に記されている伝道者パウロは、ローマの市民権を所有し、比較的裕福な家庭に育ち、教育もしっかり受けていた人物であった。
要するにエリートである。
しかし、そのようなパウロが、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いず、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた、と語るほどに、知識や経験を用いず、ただひたすら十字架のキリストのことを語る事に徹していたというのである。
実際、パウロは、何度か人々の関心をひくようなアプローチをしたものの、人々の反応は無関心であるか、全く聞き入れられなかったことから、もっと本質的で直接的なメッセージを語るほうが、よりダイレクトに伝えることができるし、そうするべきだと思うようになったのだろう。
そもそも、イエス様ご自身がそういうお方であった。
イエス様は、人々の罪の贖いのために、ご自分の命を犠牲の生贄として捧げるためにこの世に来られたお方である。
知恵を示し、人々からの賞賛を受けたりしようとは望んでおられない。

Ⅰコリント1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。

この世のどんな素晴らしい知恵も、輝かしい功績も、人の命を死から解放し、永遠の命に与らせることのできるものなどない。
ただ、十字架で死なれ、死を打ち破り、よみがえられた主イエス様だけがそれを実現できるのだ。
人間の賢さや力によるのではなく、どんな人でも信じさせすれば受け取ることのできる救いの約束だからこそ、神の知恵は恵みとなりうるのである。
だから、私たちもまた、人の目には愚かなことのように見えても、神の成し遂げられたまことの知恵である十字架のキリストの贖いの死と復活と、それを信じる信仰によって救われる幸いを、感謝して恵みとして受けとめていこうではないか。


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イザヤ 10:12 主はシオンの山とエルサレムに対する御業をすべて成就されるとき、アッシリアの王の驕った心の結ぶ実、高ぶる目の輝きを罰せられる。
10:13 なぜならアッシリアの王は言った。「自分の手の力によってわたしは行った。聡明なわたしは自分の知恵によって行った。わたしは諸民族の境を取り払い 彼らの蓄えた物を略奪し 力ある者と共に住民たちを引きずり落とした。
10:14 わたしの手は、鳥の巣を奪うように 諸民族の富に伸びた。置き去られた卵をかき集めるように わたしは全世界をかき集めた。そのとき、翼を動かす者はなく くちばしを開いて鳴く者もなかった。」
10:15 斧がそれを振るう者に対して自分を誇り のこぎりがそれを使う者に向かって 高ぶることができるだろうか。それは、鞭が自分を振り上げる者を動かし 杖が木でない者を持ち上げようとするに等しい。
10:16 それゆえ、万軍の主なる神は 太った者の中に衰弱を送り 主の栄光の下に炎を燃え上がらせ 火のように燃えさせられる。
10:17 イスラエルの光である方は火となり 聖なる方は炎となって 一日のうちに茨とおどろを焼き尽くされる。
10:18 森も牧場も魂から肉まで焼き尽くされ くずおれて、倒れる。
10:19 森に残る木は数少なく 幼子でもそれを書き留めうる。
10:20 その日には、イスラエルの残りの者とヤコブの家の逃れた者とは、再び自分たちを撃った敵に頼ることなく、イスラエルの聖なる方、主に真実をもって頼る。

詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

ヨハネ 7:25 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。
7:26 あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。
7:27 しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」
7:28 すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。
7:29 わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」
7:30 人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。
7:31 しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。
7:32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
7:33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
7:34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
7:35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
7:36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」





イエス様は、まことの神であられたが、まことの人として世にそのお姿を現わされた。
それ故に、どう見ても普通の人にしか見えなかったため、人々の反応はまちまちであったようである。
イエス様を真の救い主として見るものがいれば、ただの人間に過ぎず、人々を扇動して惑わしている詐欺のように見ている者もいたのだろう。
そう言う人たちは、イエス様は自分のことを神のごとく主張しているとして、神の戒めを破る者だから殺してしまえと主張していたのである。
なぜこうもイエス様に対する見方は人によって違ってしまうのだろう。
イエス様を信じる人たちの中にも、疑いつつも信じるものもいたし、イエス様を否定する人たちの中にも、もしかしたら本当にメシアなのではないかと思う人もいたことであろう。
イエス様を信じる態度については、意外にアナログ的なところもあるように思えるが、最終的には、イエス様を信じるか、信じないかのデジタル的な二者択一の選択しかない。
信仰とは、たとえ弱くても、小さくても、信じるなら、どんな信仰でも信仰である。
イエス様が私を救って下さることに期待して頼るのかどうか、である。
イエス様は無限のお方だから、その無限にいくらかけるのか、数字の大きさは問題ない。
何もかけないなら、それは無限に0をかけるようなもので、それは0のまま。
しかし、無限にたった1でもかければ、もうそれで無限である。


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列王記上 13:11 ベテルに一人の老預言者が住んでいた。息子の一人が来て、神の人がその日ベテルで行ったすべてのこと、王に向かって告げた言葉を語り聞かせた。息子たちがそれを父に語り聞かせると、
13:12 父は、「その人はどの道を行ったか」と尋ねた。息子たちは、ユダから来た神の人がどの道を行ったか見ていた。
13:13 老預言者は息子たちに、「ろばに鞍を置くように」と言い、彼らがろばに鞍を置くと、そのろばに乗り、
13:14 神の人の後を追った。彼は樫の木の下で休んでいる神の人を見つけ、「ユダからおいでになった神の人はあなたですか」と問うた。その人は「わたしです」と答えた。
13:15 老預言者は、「一緒にわたしの家に来て、食事をなさいませんか」と勧めたが、
13:16 彼は答えた。「一緒に引き返し、一緒に行くことはできません。ここで一緒にパンを食べ、水を飲むことはできません。
13:17 主の言葉によって、『そこのパンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻るな』と告げられているのです。」
13:18 しかし、老預言者は言った。「わたしもあなたと同様、預言者です。御使いが主の言葉に従って、『あなたの家にその人を連れ戻し、パンを食べさせ、水を飲ませよ』とわたしに告げました。」彼はその人を欺いたのである。
13:19 その人は彼と共に引き返し、彼の家でパンを食べ、水を飲んだ。
13:20 彼らが食卓に着いているとき、神の人を連れ戻した預言者に主の言葉が臨んだ。
13:21 彼はユダから来た神の人に向かって大声で言った。「主はこう言われる。『あなたは主の命令に逆らい、あなたの神、主が授けた戒めを守らず、
13:22 引き返して来て、パンを食べるな、水を飲むなと命じられていた所でパンを食べ、水を飲んだので、あなたのなきがらは先祖の墓には入れられない。』」
13:23 神の人がパンを食べ、水を飲んだ後、老預言者は連れ戻したその預言者のろばに鞍を置いてやった。
13:24 その人は立ち去ったが、途中一頭の獅子に出会い、殺されてしまった。なきがらは道に打ち捨てられたまま、ろばがその傍らに立ち、獅子もそのなきがらの傍らに立っていた。
13:25 そこを通りかかる者があって、道に打ち捨てられたなきがらと、傍らに立つ獅子を見、老預言者の住んでいる町に来てそのことを話した。

詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

コロサイ 3:1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。
3:2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。
3:3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。
3:4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
3:5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。
3:7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。
3:8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
3:9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、
3:10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。
3:11 そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。



人が言い争いをしたり、喧嘩をしたりするのは、互いに自分の思う通りに人を従わせようとするからである。
人が怒りや憤りの感情を持つのは、自分が常に正しいと思っているからである。
人がイライラするのは、自分の願い通りに事が進まないからである。
そして、思い通りにならないから平安はない。
コロサイの手紙の箇所には、地上の事柄に執着する生き方をやめ、上からのもの、神が与えて下さる命を求めて生きるように勧められている。
しかしそれは、この世の富や快楽、恵まれた環境や幸いを追い求めることを戒めるようなものであり、それで生きていて何が楽しいのか?と問われるかもしれない。
たしかに楽しくはないかもしれないが、少なくとも、不幸にはならないだろう。
そして、様々な事を追い求める焦燥感や不安から解放され、平安が与えられるだろう。
イエス様を信じれば、もはや失われることのない永遠の命が約束されているのだから。
人がどう生きていくかは、その人自身でしか決められない。
自由でもある。
しかし、その自由を、本当の平安を得るために用いて行きたいものである。


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列王記上 13:1 主の言葉に従って神の人がユダからベテルに来たときも、ヤロブアムは祭壇の傍らに立って、香をたいていた。
13:2 その人は主の言葉に従って祭壇に向かって呼びかけた。「祭壇よ、祭壇よ、主はこう言われる。『見よ、ダビデの家に男の子が生まれる。その名はヨシヤという。彼は、お前の上で香をたく聖なる高台の祭司たちを、お前の上でいけにえとしてささげ、人の骨をお前の上で焼く。』」
13:3 その日、この人は更に一つのしるしを与えて言った。「これが主のお告げになったしるしである。『見よ、祭壇は裂け、その上の脂肪の灰は散る。』」
13:4 ヤロブアム王は、ベテルの祭壇に向かって呼びかける神の人の言葉を聞くと、祭壇から手を伸ばして、「その男を捕らえよ」と命じたが、その人に向かって伸ばした彼の手は萎えて戻すことができなかった。
13:5 神の人が主の言葉に従って与えたしるしが実現して、祭壇は裂け、その祭壇から脂肪の灰が散った。
13:6 王が神の人に、「どうか、あなたの神、主をなだめ、手が元に戻るようにわたしのために祈ってください」と言ったので、神の人が主をなだめると、王の手は元に戻って、前のようになった。
13:7 王は神の人に、「一緒に王宮に来て、一休みしてください。お礼を差し上げたい」と言ったが、
13:8 神の人は王に答えた。「たとえ王宮の半分をくださっても、わたしは一緒に参りません。ここではパンを食べず、水も飲みません。
13:9 主の言葉に従って、『パンを食べるな、水を飲むな、行くとき通った道に戻ってはならない』と戒められているのです。」
13:10 その人はベテルに来たとき通った道に戻ることなく、ほかの道を通って帰って行った。

詩篇 119:169 主よ、わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させてください。
119:170 わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出してください。
119:171 わたしの唇から賛美が溢れるでしょう あなたが掟を教えてくださいますから。
119:172 わたしの舌はあなたの仰せを歌うでしょう あなたの戒めはことごとく正しいのですから。
119:173 あなたの御手はわたしの助けとなるでしょう あなたの命令を選び取ったのですから。
119:174 主よ、御救いをわたしは望みます。あなたの律法はわたしの楽しみです。
119:175 わたしの魂が命を得てあなたを賛美しますように。あなたの裁きがわたしを助けますように。
119:176 わたしが小羊のように失われ、迷うとき どうかあなたの僕を探してください。あなたの戒めをわたしは決して忘れません。

ローマ 3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
3:13 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
3:14 口は、呪いと苦味で満ち、
3:15 足は血を流すのに速く、
3:16 その道には破壊と悲惨がある。
3:17 彼らは平和の道を知らない。
3:18 彼らの目には神への畏れがない。」
3:19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。




ローマ書に書かれている事柄は、私たち人間には、救いを達成することのできるような良いところが何一つないといったことが明確に語られている。

わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。
正しい者はいない。一人もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。

そして、それゆえ、神の裁きは全ての人に対して向けられていることが語られる。

すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。
律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。

これらの表現に共通することは、何一つも妥協したり、例外を認めるようなことのない「全て」であり「完全に」ということである。
そんな「妥協なき」「例外なき」神の裁きのゆえに、神は御子イエス様を贖いの犠牲として十字架に捧げられたのである。
このことは一見厳しいことのように思えるが、だからこそ、私たちの救いも完全なものとなりうるのである。
誰一人、救われないことはないし、完全なる救いが約束されているのだ。
なんと有難いことであろう。
なんと幸いなことであろう。
十字架のイエス様を見あげ、このお方の御業のゆえに、私の救いも完全であることを覚えつつ、感謝と平安のうちに歩ませていただきたいものである。



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ヨシュア記 6:22 ヨシュアは、土地を探った二人の斥候に、「あの遊女の家に行って、あなたたちが誓ったとおり、その女と彼女に連なる者すべてをそこから連れ出せ」と命じた。
6:23 斥候の若者たちは行って、ラハブとその父母、兄弟、彼女に連なる者すべてを連れ出し、彼女の親族をすべて連れ出してイスラエルの宿営のそばに避難させた。
6:24 彼らはその後、町とその中のすべてのものを焼き払い、金、銀、銅器、鉄器だけを主の宝物倉に納めた。
6:25 遊女ラハブとその一族、彼女に連なる者はすべて、ヨシュアが生かしておいたので、イスラエルの中に住んで今日に至っている。エリコを探る斥候としてヨシュアが派遣した使者を、彼女がかくまったからである。
6:26 ヨシュアは、このとき、誓って言った。「この町エリコを再建しようとする者は 主の呪いを受ける。基礎を据えたときに長子を失い 城門を建てたときに末子を失う。」
6:27 主がヨシュアと共におられたので、彼の名声はこの地方一帯に広まった。

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

マタイ 21:23 イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」
21:24 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
21:25 ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。
21:26 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」
21:27 そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」
21:28 「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。
21:29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。
21:30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。
21:31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。
21:32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」




エリコ攻略のために尽力したラハブは、遊女であり、きっとエリコの町の人たちからはラハブはもちろんのこと、家族や親族一同、人々から見下されていたものと思われる。
そういった理由もあってであろうか、ラハブはエリコの町の人たちよりも、イスラエルの人たちに味方し、エリコ攻略の手助けをすることとなったのかもしれない。
人がどんな仕事に携わっていようと、同じ人間であり、今の時代なら、人権を尊重し、差別をしてはならないといったことが叫ばれるようになっているが、当時のイスラエルの社会では、そういったことはお構いなしで、ある人たちは「汚れたもの」として扱われたり、人としてではなく、なにか汚れた動物でも見るかのような接し方をしていたのかもしれない。
しかし、どんなに時代が変わろうと、人権が声高に叫ばれようと、人間社会において、差別や偏見は無くならない。
人間が罪人であり、自己中心的な存在である以上、それは避けることのできない問題なのだろう。
祭司長や民の長老たちは、イエス様が神の言葉を教えたり、困っている人を助けたりしているのをみて、いったい何の権威でそのようなことをするのかと批判しているが、困っている人や苦しんでいる人を助けたりすることに、いったいどんな権威が必要だというのだろう。
できることは、誰の許可を得ずとも、すれば良いだけのことであろう。
また癒される人、救われる人の側にも、なんの差別もあってはならない。
誰もが救われるべきであり、滅んでいい人などこの世界には一人もいないし、少なくとも、主なる神様はそう願っておられる。

Ⅰテモテ神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。


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ヨシュア記 2:15 ラハブは二人を窓から綱でつり降ろした。彼女の家は、城壁の壁面を利用したものであり、城壁の内側に住んでいたからである。
2:16 彼女は二人に言った。「追っ手に会わないように、山の方へ行きなさい。三日間はそこに身を隠し、追っ手が引き揚げてから帰りなさい。」
2:17 二人は彼女に言った。「あなたが我々に誓わせた誓いから、我々が解かれることもある。
2:18 我々がここに攻め込むとき、我々をつり降ろした窓にこの真っ赤なひもを結び付けておきなさい。またあなたの父母、兄弟、一族を一人残らず家に集めておきなさい。
2:19 もし、だれかが戸口から外へ出たなら、血を流すことになっても、その責任はその人にある。我々には責任がない。だが、あなたと一緒に家の中にいる者に手をかけるなら、その血の責任は我々にある。
2:20 もし、あなたが我々のことをだれかに知らせるなら、我々は、あなたの誓わせた誓いから解かれる。」
2:21 ラハブは、「お言葉どおりにいたしましょう」と答えて、二人を送り出し、彼らが立ち去ると、真っ赤なひもを窓に結び付けた。
2:22 二人は山に入って行き、そこに三日間とどまって、追っ手が引き揚げるのを待った。追っ手はくまなく捜したが、見つけ出すことはできなかった。
2:23 その後、二人は帰途につき、山を下り、川を渡って、ヌンの子ヨシュアのもとに戻り、自分たちが経験したことを一部始終報告して、
2:24 こう言った。「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

ヤコブ 2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
2:18 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。
2:19 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。
2:20 ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。
2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。
2:23 「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。
2:25 同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。
2:26 魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。




ヨシュアがエリコの町の偵察のために遣わした二人の斥候(スパイ)は、城壁の中に住むラハブによってかくまわれ、難を逃れることとなった。
そのため、イスラエルの軍がエリコの町を攻める時には、戦いの混乱の中、命を落とすことにもなりかねないので、決してその家から外に出ないように命じ、目印として窓に真っ赤なひもをつるしておくよう、ラハブとその家族を助けることを約束し、ラハブのもとを去っていくのである。
斥候との約束を守れば、ラハブとその家族は助かるし、恐れや不安に負けて外に出てしまえば、命を落とすことになるかもしれず、ラハブとその家族の命運は、約束を守るかどうかにかかっていた。
私たちの生きる世界においても、いつ何時、何が起きるか分からないし、恐れや不安がないと言えばうそになる。
しかし、主なる神様が私たちを救い、永遠の命を与えて下さると聖書には約束されていて、その約束を信じて生きるならば救われる。
つまり、どう生きるかが問われている、ということであろう。
ヤコブの手紙では、人が救われるのは信仰だけによるのではなく、行いによると語られ、まるでローマの手紙に語られているような「人は行いによるのではなく信仰によって救われる」という教えと真っ向から対立するようなことが語られているように見えるが、ヤコブの手紙で語られているのは、信仰によってどう生きているかが重要である、ということなのだろう。
神の救いの約束を信じていても、それに対し、これまでと何ら変わりなく、信じていない時と同じ歩みをしているのなら、それは「行いのない信仰」となってしまい、信じているとも言えないのかもしれない。
何をするか、どう生きるかは、その都度、その人人によってちがうだろうから、一概に「こうあるべき」とは言えないかもしれないが、神の救いを信じたからこそできる生き方というのがあるのだろう。
主なる神様は、御子イエス様の命をかけてあなたを救って下さる。
それに対して「あなたはどう生きるか」、それが問われている。


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ヨシュア記 2:1 ヌンの子ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「行って、エリコとその周辺を探れ」と命じた。二人は行って、ラハブという遊女の家に入り、そこに泊まった。
2:2 ところが、エリコの王に、「今夜、イスラエルの何者かがこの辺りを探るために忍び込んで来ました」と告げる者があったので、
2:3 王は人を遣わしてラハブに命じた。「お前のところに来て、家に入り込んだ者を引き渡せ。彼らはこの辺りを探りに来たのだ。」
2:4 女は、急いで二人をかくまい、こう答えた。「確かに、その人たちはわたしのところに来ましたが、わたしはその人たちがどこから来たのか知りませんでした。
2:5 日が暮れて城門が閉まるころ、その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません。急いで追いかけたら、あるいは追いつけるかもしれません。」
2:6 彼女は二人を屋上に連れて行き、そこに積んであった亜麻の束の中に隠していたが、
2:7 追っ手は二人を求めてヨルダン川に通じる道を渡し場まで行った。城門は、追っ手が出て行くとすぐに閉じられた。
2:8 二人がまだ寝てしまわないうちに、ラハブは屋上に上って来て、
2:9 言った。「主がこの土地をあなたたちに与えられたこと、またそのことで、わたしたちが恐怖に襲われ、この辺りの住民は皆、おじけづいていることを、わたしは知っています。
2:10 あなたたちがエジプトを出たとき、あなたたちのために、主が葦の海の水を干上がらせたことや、あなたたちがヨルダン川の向こうのアモリ人の二人の王に対してしたこと、すなわち、シホンとオグを滅ぼし尽くしたことを、わたしたちは聞いています。
2:11 それを聞いたとき、わたしたちの心は挫け、もはやあなたたちに立ち向かおうとする者は一人もおりません。あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです。
2:12 わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください。そして、確かな証拠をください。
2:13 父も母も、兄弟姉妹も、更に彼らに連なるすべての者たちも生かし、わたしたちの命を死から救ってください。」
2:14 二人は彼女に答えた。「あなたたちのために、我々の命をかけよう。もし、我々のことをだれにも漏らさないなら、主がこの土地を我々に与えられるとき、あなたに誠意と真実を示そう。」

詩篇 116:1 わたしは主を愛する。主は嘆き祈る声を聞き
116:2 わたしに耳を傾けてくださる。生涯、わたしは主を呼ぼう。
116:3 死の綱がわたしにからみつき 陰府の脅威にさらされ 苦しみと嘆きを前にして
116:4 主の御名をわたしは呼ぶ。「どうか主よ、わたしの魂をお救いください。」
116:5 主は憐れみ深く、正義を行われる。わたしたちの神は情け深い。
116:6 哀れな人を守ってくださる主は 弱り果てたわたしを救ってくださる。
116:7 わたしの魂よ、再び安らうがよい 主はお前に報いてくださる。
116:8 あなたはわたしの魂を死から わたしの目を涙から わたしの足を突き落とそうとする者から 助け出してくださった。
116:9 命あるものの地にある限り わたしは主の御前に歩み続けよう。

ヘブル 11:17 信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。
11:18 この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。
11:19 アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
11:20 信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。
11:21 信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
11:22 信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。




昨夜、教会員の方が天に召された。
臨終の瞬間には間に合わなかったけれど、すぐにかけつけ、ご遺族の方々と共に臨終の祈りの時を持った。
ご遺族の方からは、ついさっきまで会話しておられたご様子を撮影した動画を見せていただき、最後の瞬間まで必死に生きようとしておられたお姿も見せて頂いた。
いつもと変わらない、ときおり笑顔も見せながらの会話だった。
人は人生の最後の瞬間まで、その人らしく生きるものである。
聖書に記されている信仰の先達たちは、人生の最後の瞬間に至るまで、神を信じ、家族の祝福を祈りつつ、天国へと旅立って行った。
死は辛く、悲しい出来事かもしれないが、主イエスさまが伴って下さり、主なる神様のみもとへと連れて行って下さるのだ。
最後の最後まで神と共に歩む人生は、なんと幸いなことであろう。
ご遺族の方々に主の慰めを祈りつつ、お見送りしたい。




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