本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

賢治も卯も時代の流れの中に生きていた

2016-09-25 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 先に私は
 ただしここで急に気になり出したことがある。それは、この〝ドタキャン事件〟の起こった大正15年7月頃は既に賢治は犬田及びその著作、思想などをある程度知っていたとは思うが、何によって知ったのだろうかと。 実は、時間軸上では『家の光』誌上からそれらを知ることは出来ないことに私は気付いたからだ。ちなみに、『家の光』における犬田の記事の初出は大正15年の8月号だった。
 でも、と私は思った。おそらく犬田はその時点までにかなりの著作を他の雑誌等で公にしていたのではなかろうかと直感した。
のだった。
 そこで、『日本農民文学史』(小田切秀雄編、犬田卯著、農文協)所収の「日本近代農民文学史年表」(小田切秀雄・南雲道雄)から犬田卯のものや関連する著作等を拾い出して列挙して一覧表にしてみたならば、それは下表のようなものとなった。
【表 犬田卯や関連する著作等一覧】

 なお、この表の中で
    緑字:犬田卯の著作
    青字:宮澤賢治の著作
    赤字:『家の光』の掲載分
である。やはり予想どおり、犬田は早い時点からかなりの数の著作を〝早稲田文学〟等で公にしていたのだった。

 そこでこの表を俯瞰していると幾つかのことが見えてくる。例えば、
・犬田卯は早い時点から農民文学関連の小説や評論を公にしていて、それも〝早稲田文学〟などにはかなり発表しているので、賢治はこれらの紙誌を通じて犬田卯の幾つかの著作やその思想・活動ぶりなどを知っていたかもしれない。
・『農民芸術概論綱要』が完成したのは大正15年の6月で、大冊『農民文芸十六講』の発刊は大正15年10月であるから、『十六講』が『綱要』から直接の影響を受けたことはあっても、逆に『綱要』が『十六講』から影響を受けていることはなかろう。
・大正末期から昭和初期にかけての犬田卯の「土の芸術」、「農民文芸」としての文筆活動、とりわけ農民劇に関しての活動はすこぶる旺盛であった。
・「農民文芸会」のメンバーと『家の光』の執筆者とはかなりダブっているから、「農民文芸会」と『家の光』の目指すものは通底していたのだろう。
・『農民芸術概論綱要』も『農民文芸十六講』も共にこの当時の時代の流れの中で生まれたものであるという見方ができそうである。
ということなどが、である。
 やはりこうなると、当時賢治は〝早稲田文学〟とか『家の光』等を読んでいたのではなかろうかと俄然興味が湧いてくるところだ。賢治が下根子桜に移り住んだ当初は、例の大正15年4月1日付『岩手日報』の記事では少なくとも農民劇を上演したいなどと賢治は喋ってはいないが、翌年の昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事によれば、賢治は『農民劇農民音楽を創設し』『農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる』と取材に答えていたことになる。このような賢治の農民劇に対する考え方の変化と、当時の農民文芸運動における〝農民劇〟の取り扱われ方の推移を見てみると賢治と犬田、あるいは賢治と『家の光』の動きは同調しているような気がするからだ。またそれ以上に、犬田はもっと早い時点から〝早稲田文学〟等の誌上で多くの著作を公にしていたから、賢治は犬田がどのような人物かということを少なくともある程度は知っていたはずだ<*1>。

 ところで、秋田出身の小牧近江が『種蒔く人』を創始し、青森出身の福士幸次郎が「郷土文芸」の名目の下、中央文壇に対して抗争を試みた(『日本農民文学史』(小田切英雄編、犬田卯著)21pより)のもこの時代だったはずだ。すると、賢治は隣県宮城出身の白鳥省吾はもちろんのこと、これも隣県の出身者である近江や福士のことも多少は知っていたであろう。これらの人々が直接影響を互いに受け合ったか否かはさておき、岩手に隣り合う3県の全てで当時このような活動家がいたということになるのだから、中央だけではなくて、当時は日本全国津々浦々でこのようなうねりが起こっていたということになろう。たとえば、山形鼎望月桂土田杏村はそのような代表的な人物であったであろうし、松田甚次郎の『最上共働村塾』、千葉恭の『研郷会』もまたそのようなうねりの中で起こった活動の一つであったであろう。
 したがって、賢治が『農民芸術概論』をものしたり、「羅須地人協会」を創設したりしたのもそのような流れの中にあったからだということになり、下根子桜であのような活動をした宮澤賢治もそのような時代のうねりの中にいた一人であったという見方もできそうである。

 そしてそのうねりの中で、賢治と犬田の二人がそれぞれ目指していたものは、他の誰よりも多く重なっていたということが言えるということを私は確信できた。賢治が松田甚次郎に強く『農村劇をやれ』と勧めた頃、「農民文芸会」や『家の光』を通じて犬田はとりわけ熱心に農民劇に取り組んでいたということになりそうだ。これで、賢治、『家の光』、卯はやはり相似性があったと言ってもよさそうだと、私はひとまず安堵した。
 もちろんこれは当たり前のことであるのにもかかわらず、賢治は別格だと思ってしまって私はこのことを忘れがちになるのだが、
    賢治もそして犬田卯も時代の流れの中に生きていた。
ということなのだ。ついついそれは賢治の「独自性」によるものだったと思いたくなってしまうことが少なくないが、実はそれは「同時代性」によるものだったということが少なからずあるのだということを、私はこの際改めて肝に銘じておきたい。

<*1:投稿者註> ちなみに、阿部芳太郎は賢治が農学校で劇を上演した際に背景を描いたという人物だが、芳太郎は画家を志して出京し小川芋銭に師事したことがある(『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)の「受信人索引」)。また、犬田が小川芋銭に大変世話になったことは周知のとおりである。したがって、
    賢治―阿部芳太郎―小川芋銭―犬田卯
というルートで、賢治は早い時点から犬田のことは知っていた可能性が高いから、このルートを通じても知っていたかもしれない。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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