さて、ここまでは賢治と犬田卯との間には類似した点、つまり相似性があるという観点からばかり論を進めてきたが、ここでは逆に、明らかに犬田が賢治とは異なるにる点について少し考えてみたい。というのは『愛といのちと』からそれを知ることができそうだからである。そしてこのことを知れば、さらに賢治と犬田卯の関係が鮮明に浮かび上がってきそうな気がしてくるからである。
例えば、同書の「孤立無援」の中で住井すゑは次のようなことを述べている。
たしかに住井すゑの言うとおり、犬田が主人公をして自分の想いを語らしめているであろう『土に生まれて』からは、
そして、もちろんこの前者〝①〟に関しては、犬田卯と父が地主であるの賢治との間には抜きがたい違いがあり、後者〝②〟に関しても、二人は共に長男でありしかも父に反発しているという点では同じでも中身はほぼ逆だ。
そこで次に、『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)等を参考にしながら上記のことについてもう少し考えてみたい。
(1) 地主と小作
まず〝①〟に関しては、
・犬田卯の実家は当時は半小作農家であった。
・ 〃 村内でも底辺部におかれていたようだ。
<『犬田卯の思想と文学』11pより>
ということである。
一方、
ということだから、賢治の実家は当時約10町歩の地主であったことになる。まさしく賢治の実家は、犬田に言わせれば〝働きもせずに小作人から収穫の半分以上も搾取する〟という〝大地主〟なのである。
これに関して、安藤の同書は、犬田卯のある著書から引用して
と紹介しているから、犬田からすれば、賢治の実家はまさに憎っくき大地主である。
(2) 二人のそれぞれの認識の仕方
次に〝②〟に関して、安藤は同様に、
と紹介している。自分が貧農のせがれであるという宿命に、自分自身のせいではなくておかれた家庭環境のみによってかくも差別を受けねばならぬという不公平に、犬田卯が如何に悲憤していたかが解る。なお、〝父に対しても憤り〟に関しては安藤の掲書の中には
けれども父との思想的対立は避けられず
<前掲書13p>
と述べてあるだけで、それ以上のことは書かれてなさそうであるが、
・犬田卯は父に反発し、貧農のせがれであるという宿命を呪っていた。
とはたしかに言えそうである。以上が犬田の認識だろう。そこには切実感が溢れている。
一方の賢治といえば、周知のように
・賢治は父との信仰の違いに反発し、家業(古着、質屋)に嫌悪感を抱いていた。
とはいえ、
と賢治はぼやきながらも、実際はこの〝財ばつであること〟のメリットを十二分に甘受していたということは否定できない。以上が賢治の認識であり、常識的には賢治の認識は金持ちのぼんぼんで甘いと言われるだろう。
よって、 賢治の実家は大金持で地主、犬田卯の実家は半小作で極貧、という両極端ともいえるほどの経済的・社会的落差があったが、それ以上に二人の認識の仕方にどうしようもない乖離があったと私は理解した。これが賢治と犬田卯とが似てはいても決定的に違う最たるものではなかろうか。
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例えば、同書の「孤立無援」の中で住井すゑは次のようなことを述べている。
働いても働いても、小作人はスカンピンだった。
夫も、その小作人の長男にうまれた。ある年の冬のこと、夫は父親のひく手車のあと押しをして小作米を納めに行った。その時のことを、夫は、ある長編小説の中で、次のように書いている。(三人称になっているが、その彼なる人物が、夫自身なのはいうまでもない)。
<……今日も彼は、成井下の小作田へ来てしまっていた。そこには忌まわしい記憶があったのだ。それは、彼がまだ町の私塾へ通っていた頃、彼はある日、父親のひく手車の後押しをさせられた。父は霜に凍てた町の道を七、八俵の米を積んで行くのだった。そしてそれが小作米だと知った時、彼はどんなに屈辱感に顫えたことだったか。さらにまた、地主の家へ行ってその米俵を納入する時、痛いほど見せつけられてしまった地主と小作人との関係――その時、彼の父親は、まるで自分がそのお蔭を蒙って辛うじて生きているものであるかのようなへり下った態度で、地主から来るあらゆる侮蔑的な待遇を忍んでいたのだった。
彼は父親の意気地なさを憤ると共に、…(投稿者略)…何故自分は、こんな境遇に生まれて来なければならなかったんだ。
そうしたことがあってからというものは、彼は、この成井下の田圃へ来る度ごとに、その時の忌まわしさを今更のように呼び起こし、憤怒と反抗とに燃えなくてはいられなかった。――しかもなお、小作百姓であるが故の屈辱は、それに止まらない……単に土地を所有しているという一片の紙上の権利、勝手なその権利だけで、指一本触れるでもなく、眼一つあてるでもなく、懐手をしていて、他人が生命がけで生産したものの半分以上も「納入」させるなんて! しかもそれが地主様なんだ。人類の生命の糧を生産する人間は、ああ、何と悲惨な、忌まわしい畜生なんだろう。「勝手にしやがれ、誰がのめのめと、こんな馬鹿臭えことが出来るんだ!」>(『土に生まれて』より)
夫は土をすてた。そして文筆生活をするようになった。けれども、夫は、決して土を忘れ去ったわけではなかった。むしろ、親のもとを離れての都会生活は、夫に、農村を客観する機会を与えた。夫は農村に生まれた魂の全てが通らなければならない運命を、はっきりと認識した。――彼らのために闘わねばならぬ。いや、〝彼ら〟ではない。自分自身の解放のために。
夫も、その小作人の長男にうまれた。ある年の冬のこと、夫は父親のひく手車のあと押しをして小作米を納めに行った。その時のことを、夫は、ある長編小説の中で、次のように書いている。(三人称になっているが、その彼なる人物が、夫自身なのはいうまでもない)。
<……今日も彼は、成井下の小作田へ来てしまっていた。そこには忌まわしい記憶があったのだ。それは、彼がまだ町の私塾へ通っていた頃、彼はある日、父親のひく手車の後押しをさせられた。父は霜に凍てた町の道を七、八俵の米を積んで行くのだった。そしてそれが小作米だと知った時、彼はどんなに屈辱感に顫えたことだったか。さらにまた、地主の家へ行ってその米俵を納入する時、痛いほど見せつけられてしまった地主と小作人との関係――その時、彼の父親は、まるで自分がそのお蔭を蒙って辛うじて生きているものであるかのようなへり下った態度で、地主から来るあらゆる侮蔑的な待遇を忍んでいたのだった。
彼は父親の意気地なさを憤ると共に、…(投稿者略)…何故自分は、こんな境遇に生まれて来なければならなかったんだ。
そうしたことがあってからというものは、彼は、この成井下の田圃へ来る度ごとに、その時の忌まわしさを今更のように呼び起こし、憤怒と反抗とに燃えなくてはいられなかった。――しかもなお、小作百姓であるが故の屈辱は、それに止まらない……単に土地を所有しているという一片の紙上の権利、勝手なその権利だけで、指一本触れるでもなく、眼一つあてるでもなく、懐手をしていて、他人が生命がけで生産したものの半分以上も「納入」させるなんて! しかもそれが地主様なんだ。人類の生命の糧を生産する人間は、ああ、何と悲惨な、忌まわしい畜生なんだろう。「勝手にしやがれ、誰がのめのめと、こんな馬鹿臭えことが出来るんだ!」>(『土に生まれて』より)
夫は土をすてた。そして文筆生活をするようになった。けれども、夫は、決して土を忘れ去ったわけではなかった。むしろ、親のもとを離れての都会生活は、夫に、農村を客観する機会を与えた。夫は農村に生まれた魂の全てが通らなければならない運命を、はっきりと認識した。――彼らのために闘わねばならぬ。いや、〝彼ら〟ではない。自分自身の解放のために。
<『愛といのちと』(犬田卯・住井すゑ著、新潮文庫)144p~より>
おそらく、〝犬田卯・住井すゑ著〟という共著の形で出版するくらいだからこの二人は強い絆と信頼で結ばれていたであろう。そのような住井すゑの犬田卯に対するこのような見方をこの度私は知って、私は以前にも増して、ますます例の〝面会謝絶事件〟のかなりの原因が実は白鳥省吾の方ではなくて犬田卯の方にあったのかもしれないと考えるようになった。たしかに住井すゑの言うとおり、犬田が主人公をして自分の想いを語らしめているであろう『土に生まれて』からは、
① 犬田卯は、地主が働きもせずに小作人から収穫の半分以上も搾取するという小作制度の不条理にすこぶる憤っていた。
② 犬田卯は、その制度に甘んじてなおかつ地主に謙っている父に対しても憤り、そして自分が貧農のせがれであるという宿命を呪っていた。
であろうことが容易に想像できるし、このような犬田卯の想い(憤怒と反抗)が「土からの文学」「農民文芸運動」を通じて、特に奴隷的生活を強いられていた当時の多くの農民をなんとかして救いたいという困難な闘いに己を駆り立たせていったのであろうことも推察できる。② 犬田卯は、その制度に甘んじてなおかつ地主に謙っている父に対しても憤り、そして自分が貧農のせがれであるという宿命を呪っていた。
そして、もちろんこの前者〝①〟に関しては、犬田卯と父が地主であるの賢治との間には抜きがたい違いがあり、後者〝②〟に関しても、二人は共に長男でありしかも父に反発しているという点では同じでも中身はほぼ逆だ。
そこで次に、『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)等を参考にしながら上記のことについてもう少し考えてみたい。
(1) 地主と小作
まず〝①〟に関しては、
・犬田卯の実家は当時は半小作農家であった。
・ 〃 村内でも底辺部におかれていたようだ。
<『犬田卯の思想と文学』11pより>
ということである。
一方、
・宮沢政次郎 田五町七反、畑四町四反、山林原野十町
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)272pより>ということだから、賢治の実家は当時約10町歩の地主であったことになる。まさしく賢治の実家は、犬田に言わせれば〝働きもせずに小作人から収穫の半分以上も搾取する〟という〝大地主〟なのである。
これに関して、安藤の同書は、犬田卯のある著書から引用して
私の村――常陸の南部地方には大地主といふものが殆どない。…地主と云っても一町歩やそこらへを自作したあとを人に貸すといふやうな方法をとってゐのであって、田地田畑みは人任せで小作料をむさぼり食ってゐるような地主なるものは見当たらない。
<『犬田卯の思想と文学』11pより>と紹介しているから、犬田からすれば、賢治の実家はまさに憎っくき大地主である。
(2) 二人のそれぞれの認識の仕方
次に〝②〟に関して、安藤は同様に、
…その「遊んで食って行く人間」の卵である中学生でさへ、もう随分見兼ねた威張り方をする。自分と同じに小学校を出て、わたしを田や畑に残し、そして堂々と征服をつけて中学校へ通ひ出した友達に、どんなに私は辛い思ひみせられたことか? 今思ひ出しても厭な気持ちがする。私は屈辱感に堪えられなくて、よく彼等が通ると或は傍らに隠れ、或は麦の中に身をひそめて憤慨の涙を流したものでった。
<『犬田卯の思想と文学』12pより>と紹介している。自分が貧農のせがれであるという宿命に、自分自身のせいではなくておかれた家庭環境のみによってかくも差別を受けねばならぬという不公平に、犬田卯が如何に悲憤していたかが解る。なお、〝父に対しても憤り〟に関しては安藤の掲書の中には
けれども父との思想的対立は避けられず
<前掲書13p>
と述べてあるだけで、それ以上のことは書かれてなさそうであるが、
・犬田卯は父に反発し、貧農のせがれであるという宿命を呪っていた。
とはたしかに言えそうである。以上が犬田の認識だろう。そこには切実感が溢れている。
一方の賢治といえば、周知のように
・賢治は父との信仰の違いに反発し、家業(古着、質屋)に嫌悪感を抱いていた。
とはいえ、
書簡 421 (昭和7年) 六月二十一日 母木光あて
…何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいってゐるので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあって来てゐるのです。財ばつに属してさっぱり財でないくらゐたまらないことは今日ありません。…
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)402pより> …何分にも私はこの郷里では財ばつと云はれるもの、社会的被告のつながりにはいってゐるので、目立ったことがあるといつでも反感の方が多く、じつにいやなのです。じつにいやな目にたくさんあって来てゐるのです。財ばつに属してさっぱり財でないくらゐたまらないことは今日ありません。…
と賢治はぼやきながらも、実際はこの〝財ばつであること〟のメリットを十二分に甘受していたということは否定できない。以上が賢治の認識であり、常識的には賢治の認識は金持ちのぼんぼんで甘いと言われるだろう。
よって、 賢治の実家は大金持で地主、犬田卯の実家は半小作で極貧、という両極端ともいえるほどの経済的・社会的落差があったが、それ以上に二人の認識の仕方にどうしようもない乖離があったと私は理解した。これが賢治と犬田卯とが似てはいても決定的に違う最たるものではなかろうか。
続きへ。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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