分析と解釈:深読みを避けるために

2007-04-22 23:08:33 | 感想など
以前「作品、作者、そして自分との向き合い方」で誤読について触れたが、作者の意図を正確に理解するという観点から見れば深読みもまた誤読の一種であると言える。


とは言っても、「作者の意図した範囲でしかその作品を考えるべきではない」と主張しているわけではない。作者の意図を理解する段階と、その作品を土台にして我々がどんなことを考えるのか、あるいはその作品からどのような時代状況が読み取れるのか、といった見方をする段階(作者が意図していないところも解体・分析の対象になる)を意識的に分けるべきだ、という意味である(過去ログ解釈の恣意性とレビューも参照のこと)。


それにしても、人との対話における深読みがどれほど人間の精神に負担をかけているかは多くの人が自覚しているだろうに、作品の深読みについて無頓着な感じがするのは意外に思える。おそらく、(もの言わぬ本は)実害が無いということと、本の場合は対話ではなく一方通行的行為(感覚や考えの押し付け)が容易に成立することが関係しているのだろう(なぜ作品を「読めない」のかも参照)……閑話休題。今読んでいる本に以下のような文があったので引用しておくことにしよう

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解釈とは人間関係で言えば対話に当たるようなものであり、分析とは、人間関係についていえば、身体検査と戸籍調べのようなものである。これらの悟性的な前提知識が人間を知ってゆくのに必要であるのと同じに、作品を知ってゆく上にも、ほとんど絶対的に必要とされることは事実であると思う。芸術体験のためには、悟性操作が必要条件となっていることはくりかえし主張してきた。つまり、普遍的な記号に分析しつくした後、その普遍者によって、いわば武装してもう一度感覚の現実に立ち返ってこなければならない。安易な言い方になるけれども、このように特殊な感覚的な所与と、分析的な普遍者の弁証法的総合として、さらに、芸術体験の十分条件として作品とのより高次な対話の場面という理性活動が形成されて来なければならない。あたかも或る人間を理解し、その人間のもっている精神的な価値に遭遇するためには、その人間と対話してゆかなければならないように、或る作品の個性的な価値を理解し、それが志向する美を知るためには、作品との対話が開かれてこなければならない。作品との対話と一口に言うが、これは結局、作品が秘めている体験及び価値展望と、自己の体験によって深められている私との対話ということができよう。 (今道友信『美について』 講談社現代新書 1973 45Pより)
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要するに、解釈は個人の領域に属し、分析は一般的な領域に属すると言えるだろう(※)。しかしレビューなどを見ていると、分析の段階を適当にやって自分の感覚を押し付けているだけのものが多いと感じる。何よりもまず分析を通して土台を作ること、それが作品と向かい合う際に求められる行為と言えるだろう(特にレビューを書く人間にとって)。その姿勢を身につけてこそ、作品・作者・そして自己と真摯に向き合う契機が初めて生まれるのではないだろうか。



解釈の領域に属する記事はと言えば、「沙耶の唄の衝撃」などがそれに当たるだろう。ちなみにこの経験が、「人はなぜ美しいということがわかるのか」という疑問に繋がったのであった(その他終末の過ごし方など)。なお、次で扱う太宰治「人間失格」の記事も、その様相を帯びることになるだろう。
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