命名の独善性~共感・「感情移入」という虚構~

2007-09-15 12:31:04 | 抽象的話題
さて、前回は主人公の名前を変えても作中人物に影響を与えない=一方通行であることを述べた。なお現実においては、自分の名前によって様々な局面で影響を被ることがあり、この図式は当てはまらない。また、植物に声をかけると反応するといった話が事実なら、動植物への命名なども無意味で一方的な行為とは言えないかもしれない。


とはいえ、こと虚構の世界(これまでの文脈から言えばゲーム)に関しては、たとえ主人公の名前が「ヤ・ボン」だろうが、「はじめ人間どてちん」だろうが「のらくろ四等兵」だろうが、彼の行動原理どころか周囲の行動にさえ何らの影響も及ぼさない(この観点からすれば、ある名前がつけれないドラクエの演出はおもしろい)。これはある意味で無機物の擬人化と似ている。例えば車が故障したとして、それを車が故障しているだけと見ようが「マイケルが怒っている」と見ようが、車が壊れているという事実は変わらない。にもかかわらず我々は名前を考えるのはなぜだろうか?ある人は親近感が湧くからと言うだろう。またある人は感情移入するためと言うだろう。要するに名前を付ける行為は「情を移すため」ということになるのだろうが、名前によって影響を受けるのは自分だけだ。つまり命名は、相手ではなく自分の一方的な問題なのであり、全くのところ独善的なもので単に自分のイメージと戯れているだけに過ぎない。


この命名の独善性に対する指摘に対して、「そもそも作品に触れることは各々の『異本』を作ることであって、独善的なのは当たり前だ」という反論が出るかもしれない。なるほど確かに、人は経験などに基づいた主観の上にものを見るのであって、100%同じものの見方をすることはありえない。その意味では、自分の名前をつけたり、相応しい名前にしようと頭を悩ませたり、あえて奇妙な名前をつけておもしろがるのも、すべからくその人なりの「異本」(作品や人物に対するイメージ)を構築する作業に過ぎない。しかし重要なのは、その行為にどれほど自覚的であるかということなのである。


自覚的である、つまり上で指摘したように「人は経験などに基づいた主観の上にものを見るのであって、100%同じものの見方をすることはありえない」という事実を念頭に置いているのなら、どうして「全く同じように感じたり理解したりする」反応を指す共感であるとか「感情移入」をさもできて当たり前みたいに書いたりする人が後を絶たないのだろうか?結局それが、そういった事情を理解してない人が多いことの表れだと思われる。


いやその無自覚性をもっと突っ込めば、むしろ共感や「感情移入」を自分を押し付ける言い訳にしてはいないだろうか?例えば、その生きてきた文脈を考えることなしに登場人物の行動を評価することはできないが、そういった必然性の考察を果たしてどれほどの人が意識的にやっているのだろうか?もしそれをやっていないのなら、逆に聞きたいのだけど、共感や「感情移入」は可能なのだろうか?共感というのは全く同じような感覚を共有することだという。相手の生きてきた文脈や行動原理、その時の心理状況といったもの全てを考慮に入れてなお、それが果たして可能なのかどうか…少なくとも私には相当に困難な作業のように思われる。


今述べたように共感や「感情移入」がそもそも難しいことに加え、それを行うだけの努力をしていない(と少なくとも私には映る)感想やレビューなどを見ていると、そういう錦の御旗をもとに、実は相手の人生と自分の人生を同時に軽視してしまっているのではないだろうか。それは、相手や自分の文脈を掘り下げて理解するのを放棄し、中間項の存在しない精神的癒着を求める行為と言ってもいい。


ここで、「では自分が経験したことがあるような事柄(例えばある特定の病気)を扱ったものであれば共感も可能ではないか」という反論が出るかもしれない。なるほど病気という経験において、作中人物と通じるところがあるのはわかる。しかしながら以前も書いたように、たとえ同じ痛みを味わったのだとしても、それまでの経験(人生)でどれくらい痛みへの耐性があるのかといった点で大きく個人差が生まれてしまっているのであって、決して「全く同じような感覚」は持てないと思われる。むしろ同じ事柄の経験をもってすぐに「それならわかる」と考えてしまう軽率さを警戒する必要すらあるのではないだろうか(この点に関しては、モラヴィアの『無関心な人びと』と私の無関心という形で述べる予定である)。


さて、ありもしない幻想を抱いて人はなぜ共感や「感情移入」が可能だと思うのか?…仮初にでも、相手のことが見えていると思わなければ不安だからだ。人が見えないもの、理解できないものを忌む性質を持っていることを考えれば、この反応はかなり必然的なものではある。しかし、共感や「感情移入」がそういう一種の「擬制」や共同幻想に過ぎないという事実に自覚的でなければ、人はありもしない高度な(あるいは密な)繋がりを、あるべき姿ないし自明なものとして誤った基準にしてしまうことだろう。作品の登場人物という、違った文脈を生きる他者・虚構存在に対して何の疑いものなく共感だとか「感情移入」という言葉を振りかざす評価を見ていると、そのような自覚をしていない人が数多いように思えてならない。
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