NY Times によると、Texas が全米ではじめて11歳から12歳の少女に子宮癌の70%に関係しているふたつの菌株と、生殖器いぼの90%に関係する菌株を抑制する予防接種が義務化された。
なんとなくこの件でざわついているのは、この病が性行為で感染するものなのに11歳の少女に接種するという事実が親に違和感を与えるかららしい。が、感染してから接種しても効果はないし、発症前にやればほぼ完璧に抑えることができるとのことで、ほかの州も追随する見通し。
こういう記事をみると、女性の神秘さおよび男と女は違うことを思い出す。そして思う、男女の別が生殖のためだけにあり、そのための機能として男女はそれぞれいろいろなものを備えている、それらがすべて種の保存という目的に向かっているとすると、我々は種の保存のためにだけ生きているのか、と。
NY Times のここ2週間ほどで最も読まれた記事が、「自由な選択はあるか?」だった。これは、我々は自由に日々選択しているようにみえるが、選択肢ははじめから限定されているんだから、真に自由ではない、というよくある話。
そう考えてみると、生殖(性交ではない)の相手は、男女間しかないのだから選択肢は限定されていて運命づけられている。とにかく男女という性差は我々の指標のなかで傑出していて、ほかの選択肢と比べられることがない。
例えば金持ちとルックスの良さは明らかに違う指標だが、結婚相手の男性を決めるとき迷うかもしれない。また、家庭的なやさしさと美しい顔というのは、男性が女性を選ぶときの悩みの種だし、肉と野菜はどちらも美味い。
しかし男性であることと、金持ちであるという指標が並べられることはまずない。家庭的なやさしさと女性であることも並べられることはない。男女の別がそれほど上位の区別であるなら我々は種の保存を運命付けられそこからは逃れられないことになる。
自由について考えるとき、サルトルとレヴィストロースの論戦が思い浮かぶ。サルトルは自由な意思決定が存在するといい、レヴィストロースはないといった。
理論的には後者に軍配が上がるが、ハイデガー風にいえば、Sein (存在)が生成される過程をある程度包括的にみられれば僕なんかは人間の分際としてかなり自由な感じがするし、文学作品理解は結局そこに行き着く気がする(柄谷行人の『坂口安吾と中上健次』をみよ)。
司馬さんは、空海が性交にあけくれているとききっと若い男としての空海自身のひたむきな性欲とそれをかき立てる快楽がどこからくるのか考えながらいそしんでいたろうと書いていたが、そうしたメタな視点がなきゃ新しいものはできない。
当然そうした視点に立ったFeminists は、目標のひとつに、性差という指標の格下げを掲げた。そこで70年代からのSFに潜り込んだ。
「性欲」というのは本来何なのか?男性は性欲の権化みたいにいわれるが、女性の肉体が男性にとってそんなに魅力的なのはなぜか?乳房があるからなのか。なら乳房が3つある女性を想像してみよう。そのとき男性は喜びさらに性欲が刺激されるのか。そんなはずはない。
じゃあ何に?
文化人類学の本をみると更に明瞭だが、「性欲」は秘儀として「作られた」(forged)ものだということがわかってくる。社会が存続するために、おそらく多くの文化圏がこの男女差を基盤に慣習なり伝統を作り、男女が一緒に暮らすことがMajorityとなった。
そんなカラクリがSFでは描ける(Maggie Piercyなど)。我々が性欲と呼んでいる快楽は、本当に異性としか関係はないのか。快楽という人参がぶら下げられているだけではないか、と。
こういうのをみると、女性が胸を露にして5年我慢すれば、胸に対する執着は消えるんじゃなかろうか、と思ったりする。つまり伝統や慣習がリアルを直視するのを妨げることがあるといいたい。
そういえば、そうした伝統を逆手にとる事件があった。Bostonglobe には、70歳のパレスチナ人女性が自爆テロでイスラエル人が犠牲になった。女性はやらないという前提を逆手に取ったテロがかなりあるらしい(スリランカでは3分の1が女性)。
今日こんなことを書きたくなったのは、僕の顔をみるや怪訝そうな顔をして突如隣の女性専用車両に移った女性がいたから。中身だけの男としてはよくあることだから気にしないが、オレの快楽はあんたじゃつくれねぇ、といいたくなった。
追伸1:少なくともアメリカでは、配偶者と暮らす女性はMinority になった。これはNY Times が算出した数字だが、2005年の時点で、51%の女性が配偶者がいない(2000年が49%、1950年は35%)。もちろん人種別にみると一概にはいえない感じがする(アフリカ系アメリカ人女性が30%で断然低く、ヒスパニック49%、白人55%、アジア60%)。
このことについて、Townhall の常任コメンテーターJeff JacobyがBostonglobeに書いた記事はこちら。
追伸2:公民権法によるとみんな平等にしなきゃいけない。というわけで、チアガールが女性のスポーツ大会にも応援に行く。そんな事件をめぐって喧々囂々(Townhall)。
追伸3:前回触れたブッシュが提出した予算案について(NY Times)。
追伸4:民主党が暴く共和党が隠していた(?)イラク戦争での予算案(NY Times)。
追伸5:左翼がユニセフに提出した子供と性差別についてのレポートについて、Townhall が斬る(Townhall)。
なんとなくこの件でざわついているのは、この病が性行為で感染するものなのに11歳の少女に接種するという事実が親に違和感を与えるかららしい。が、感染してから接種しても効果はないし、発症前にやればほぼ完璧に抑えることができるとのことで、ほかの州も追随する見通し。
こういう記事をみると、女性の神秘さおよび男と女は違うことを思い出す。そして思う、男女の別が生殖のためだけにあり、そのための機能として男女はそれぞれいろいろなものを備えている、それらがすべて種の保存という目的に向かっているとすると、我々は種の保存のためにだけ生きているのか、と。
NY Times のここ2週間ほどで最も読まれた記事が、「自由な選択はあるか?」だった。これは、我々は自由に日々選択しているようにみえるが、選択肢ははじめから限定されているんだから、真に自由ではない、というよくある話。
そう考えてみると、生殖(性交ではない)の相手は、男女間しかないのだから選択肢は限定されていて運命づけられている。とにかく男女という性差は我々の指標のなかで傑出していて、ほかの選択肢と比べられることがない。
例えば金持ちとルックスの良さは明らかに違う指標だが、結婚相手の男性を決めるとき迷うかもしれない。また、家庭的なやさしさと美しい顔というのは、男性が女性を選ぶときの悩みの種だし、肉と野菜はどちらも美味い。
しかし男性であることと、金持ちであるという指標が並べられることはまずない。家庭的なやさしさと女性であることも並べられることはない。男女の別がそれほど上位の区別であるなら我々は種の保存を運命付けられそこからは逃れられないことになる。
自由について考えるとき、サルトルとレヴィストロースの論戦が思い浮かぶ。サルトルは自由な意思決定が存在するといい、レヴィストロースはないといった。
理論的には後者に軍配が上がるが、ハイデガー風にいえば、Sein (存在)が生成される過程をある程度包括的にみられれば僕なんかは人間の分際としてかなり自由な感じがするし、文学作品理解は結局そこに行き着く気がする(柄谷行人の『坂口安吾と中上健次』をみよ)。
司馬さんは、空海が性交にあけくれているとききっと若い男としての空海自身のひたむきな性欲とそれをかき立てる快楽がどこからくるのか考えながらいそしんでいたろうと書いていたが、そうしたメタな視点がなきゃ新しいものはできない。
当然そうした視点に立ったFeminists は、目標のひとつに、性差という指標の格下げを掲げた。そこで70年代からのSFに潜り込んだ。
「性欲」というのは本来何なのか?男性は性欲の権化みたいにいわれるが、女性の肉体が男性にとってそんなに魅力的なのはなぜか?乳房があるからなのか。なら乳房が3つある女性を想像してみよう。そのとき男性は喜びさらに性欲が刺激されるのか。そんなはずはない。
じゃあ何に?
文化人類学の本をみると更に明瞭だが、「性欲」は秘儀として「作られた」(forged)ものだということがわかってくる。社会が存続するために、おそらく多くの文化圏がこの男女差を基盤に慣習なり伝統を作り、男女が一緒に暮らすことがMajorityとなった。
そんなカラクリがSFでは描ける(Maggie Piercyなど)。我々が性欲と呼んでいる快楽は、本当に異性としか関係はないのか。快楽という人参がぶら下げられているだけではないか、と。
こういうのをみると、女性が胸を露にして5年我慢すれば、胸に対する執着は消えるんじゃなかろうか、と思ったりする。つまり伝統や慣習がリアルを直視するのを妨げることがあるといいたい。
そういえば、そうした伝統を逆手にとる事件があった。Bostonglobe には、70歳のパレスチナ人女性が自爆テロでイスラエル人が犠牲になった。女性はやらないという前提を逆手に取ったテロがかなりあるらしい(スリランカでは3分の1が女性)。
今日こんなことを書きたくなったのは、僕の顔をみるや怪訝そうな顔をして突如隣の女性専用車両に移った女性がいたから。中身だけの男としてはよくあることだから気にしないが、オレの快楽はあんたじゃつくれねぇ、といいたくなった。
追伸1:少なくともアメリカでは、配偶者と暮らす女性はMinority になった。これはNY Times が算出した数字だが、2005年の時点で、51%の女性が配偶者がいない(2000年が49%、1950年は35%)。もちろん人種別にみると一概にはいえない感じがする(アフリカ系アメリカ人女性が30%で断然低く、ヒスパニック49%、白人55%、アジア60%)。
このことについて、Townhall の常任コメンテーターJeff JacobyがBostonglobeに書いた記事はこちら。
追伸2:公民権法によるとみんな平等にしなきゃいけない。というわけで、チアガールが女性のスポーツ大会にも応援に行く。そんな事件をめぐって喧々囂々(Townhall)。
追伸3:前回触れたブッシュが提出した予算案について(NY Times)。
追伸4:民主党が暴く共和党が隠していた(?)イラク戦争での予算案(NY Times)。
追伸5:左翼がユニセフに提出した子供と性差別についてのレポートについて、Townhall が斬る(Townhall)。
http://hobby9.2ch.net/test/read.cgi/rail/1167910038/