市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

マイ 村上隆 マイ ロンサム カーボーイに思うこと

2008-10-31 | 芸術文化
 村上作品のマイロンサムカーボーイを写真で見て「凄い不快感をかんじました」「でも、不快であることと芸術的であることには矛盾は無いのでしょうね。すくなくとも、「新しさ」という価値観の中においては。」というコメントをmkさんからいただきました。性器を左手でにぎり、射精した精液を右手で投げ縄にして、にたりとわらっている裸の男性のフィギュアは、若い女性には不快感をあたえるでしょうね。それにこれになんの意味があるのか!と、こんなものが芸術か!これも多くの反応であると、他の多くのブログなどでもうかがい知りました。

 あなたの場合は、それでも「新しき」芸術を理解するには、自己の感情を抑えようという気配を感じました。いや自分を抑える必要はありませんよ、自分が一番です。まずは、自分の感情を大事にして欲しいです。 

 村上隆の活動をめぐっては、かなり批判も多いです。今回は、さらに批判が高まりこんな「くだらない作品」を、アメリカの「大金持ち」が、わけもわからず、村上の「スーパーフラットという理論」に乗せられて、16億円も支払った。芸術を換金する詐欺ではないかというような批判にまで高まっています。

 ではなぜくだらない作品なのか、アメリカの大金持ちは作品の判定もできぬあほなのか、村上のスパーフラット論は、詐欺師の売り込みかという、この批判の3要素は、「思い込み」ですよね。もちろん、ここで思い込みだからダメというつもりはありません。それで結構です。ただ、その思い込みが、かなり違うということが、気になるわけでして。

 さて、ぼくも今から村上隆作品について、述べますがこれも「思い込み」ではあります。だって、作品について写真だけしか見てないわけでして、それに村上氏本人に会ったこともないし、わずかにかれの「芸術起業論」を読んだだけだし、かれの作品2点を、9月に霧島アートの森美術館の「ネオテニージャパン展」で見ただけに過ぎないのです。かれの作品の意味をどうだと論じても、これもまたぼくの「思い込み」です。そのような前提でお読みください。

 ぼくにとって、この作品が抵抗が無かったのは、それが「芸術」であるかどうかなど、そんなことはどうでもいいという見方によるからでしょうね。もうだいぶ前からおそらく70年代半ばころから芸術というフィルターで作品を判断することをしなくなったのです。文学も演劇も、絵画もそうです。夕べでしたか、映画「007」が40年ぶりで、新作が制作されたとテレビが報じてましたね。監督は、今度の作品は芸術なったといってました。映画007が、芸術になったとしたら、前の作品とどう違うのか、007を芸術作品で区別するとは仰天、そんなもの必要でしょうかね。

 そこで、誰しも芸術とみとめるロダンの彫刻「考える人」と「マイロンサムカーボーイ」を並べてみましょう。ぼくは、ロダンの考える人ポーズでは、考えたことがないのです。歩きながら考えるし、台所で朝飯を作りながら考えるし、追い詰められると、フィットネスのサウナで考え続けるし、サイクリングでは、ほとんど考えにふけっているし、そして友達と話しながら考えているしです。ロダンの彫刻は、まさにポーズですよね。ほかにも「接吻」とか「抱擁」とかがありますが、宝塚の舞台のような劇的シーンで、そんなポーズを日常で実践する恋人も夫婦もいないでしょう。精緻なロダンの肉体は、現実の日常とは関係なく、だからといって非日常でもなく、きわめて教養的なハイブロウな、考えるや、愛のありふれた概念でしかないわけです。そういうことで、ロダンの彫刻は、ぼくにとっては、おもしろくもなんともない彫刻なんです。たとえ芸術であってもです。

 むしろ、ロンサムボーイのほうが、見た瞬間、それは写真であっても、こちらを考えさせる、ロダンは、その前で、考える事が出来なくなるのです。もう一例、比較できる彫刻をあげてみましょう。

 宮崎市の文化の森公園の南西の隅に若い女性の銅像があります。満木攻一「晩夏」と、もうひとつは、レストランの南に立つ女性像、平原孝明「素朴」です。晩夏では、女性は肌にぴったりの水着を着ています。素朴は、膝までのぴったりの半ズボンに袖なしのベストのようなものを着ています。どうも着衣姿の少女像を彫像にしたとはどうしても思えません。要は裸体そのものでは良俗秩序に問題ありという「素朴」どころか老獪な大人の知恵で立てられたといえるのです。思うとどうもあちこちにパンツをはいた猿ならず乙女像があるような気がします。そこです、この卑劣なる彫刻こそ、ぼくにとっては、きわめて不快きわまりないのです。

 だから、このロンサムボーイを宮崎県立美術館の一室中央に立て、そのまわりを、パンツをはいた女性裸像彫刻でとりまいたら、すごくわくわくするスキャンダラスな美術展になるのではないかと、空想してみました。

 この対比から、かれのフィギュアが、きわめて挑戦的意図を、芸術作品に向けて発していくエネルギーを発散しているようにかんじられるのです。この裸の男性をとりまく精液の動的に螺旋状に巻き上がっていく彫像は、かなり高度な表現を感じさせます.又、射精に伴う快感、飛翔感を戯画的にあらわしていて笑わせます。そして、燃えるような金髪も射精と呼応して巻き上がり、若いとも、子どもともわからぬ顔に目をかーっと見開き、大胆に笑って、投げ縄を投げかけようとするポーズは、かっこいいなと思うのです。

 性器とか射精とかを描いてこれほどあっけらかんとして明るいとは。それに男性はマッチョでなく10頭身のアンドロイド的な姿態で、それだけに投げ縄は現実感があります。こんなもので、からめとられたら大変だと、おもわずのけぞります。

 やさしい肉体と無垢な子どものような表情と、その攻撃の姿勢のアンバランスが
こちらの想像を刺激します。そのとき、あのタイトルの「ロンサム」という言葉が
気になるのです。ロンサム、一人ぼっちであり、そこはかとなくさびしさの荒野、
そんなものです。村上隆は、1998年のこの作品で、攻撃と孤立と、あるむなしさをかんじていたのではないかと、想像するのです。人間、畢竟ひとりだよ、それがどうした、生きるしかないというような声を聞く気がしたのですが。

 以上、ぼくのひとりよがりの感想をおわらいください。なお、村上氏の芸術起業論は、おおくの問題を提示していると思います、ただ、提示の仕方が不味い、どうもすっきりしないところがあるようです。ここもいつかしゃべってみて、このフィギュアと重ねて、言ってみたいと思っている次第です。ではこれにて。ながななとなりました。

 
 

 

 


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4 コメント

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Unknown (mk)
2008-11-03 09:28:54
空想の展覧会を想像して、思わず爆笑です。

なるほど、そういう見方が、あの作品にはあるのですね。射精にまつわる爽快感、というのは、私には想像が及ばず、なるほどなるほど、と読ませていただきました。

実は私は村上隆作品と言うのは、米国で壁紙になっているのを1点見たことがある、というくらいで、本も読んでおらず、まったく無知です。仕入れた知識と言うのは要するにニュースからで、そこから発展してないのですよね。これは反省しています。
芸術起業論、まず読んでみます。

ところで007の新作、というのは小説の事ですよね。これもびっくりです。おっしゃられるとおり、007が芸術とは驚きです。なにか際立って前衛的な手法の小説なのでしょうか。前衛的なら、芸術的、と言うのも短絡的に思えます。それならそれで、面白そうではありますが・・・
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コメントの再登校 (shigaiya)
2008-11-05 21:40:36
 mkさん、コメントをありがとうございました。ッ早速、コメントを昨日、あなたあてに登校したのですが、2回ともダメ、今朝もしましたが、コレもダメ。ところが、今日のブログへのコメントは出来たのです。そこで、またやってみます。とどいたらよいのですが。
 ただ、私のいいたいことは、今日(11月5日)のブログの通りなのですので、ここではこのお知らせだけで終わります。
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mkさんへ ふたたび (shigaiya)
2008-11-05 21:48:01
 なんと今夜はコメントは投稿できました。なぜ今まではダメだったのか、理由がわかりません。
 投稿が登校になってまして、ごめんなさい。とにかくぼくは誤字が多く、わかっているのですが、直すのが面倒でして、わかればいいじゃないかとう不遜な態度でほっときます。これは小学生のときからの癖です。折り紙なんかのテストでも、最後まで折るのがばかばかしくて、途中でやめたまま提出したら、通信簿に4点でした。親からこっぴどくしかられました。
 なんで4点かというと、完成まで10回で終わる兜の
折り紙がばかばかしくて、4回でやめたのです。小学一年生の入学した直後の事件でした。学校をこれで信頼する気を完全に消失しましたが、これは、そのごのトラウマになりましたね。
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Unknown (mk)
2008-11-06 08:35:58
昨日のブログ、拝見しました。足、大丈夫ですか?
ワタシは右足の方が弱いので、右に傾いているのかもしれません。今のところはまだ、こけないですんでいますが、今度から右にこけても大丈夫なように道路の右側を歩こうと思います。

誤字脱字は気になりませんよ。大丈夫です。

それにしても、折り紙でテスト、というのは何をするのでしょう?あれは完成するまでの過程で「あっこんな折りかたしたらこうなるんだ!」という驚きがあるのが楽しい、遊びだと思っていましたが、テストになるんですねぇ。。
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