市街・野 それぞれ草

 802編よりタイトルを「収蔵庫編」から「それぞれ草」に変更。この社会とぼくという仮想の人物の料理した朝食です。

第18回宮崎映画祭  霧の中の未来へジャンプ 

2012-09-01 | Weblog
 「ハラがコレなんで」原ミツコは、佐和子のように自分を「中の下」とか「バカな女」とか自分の価値判断はしない。今や定職もなく、住居もなく、金もない、人生を前にして、中の下とか、バカとか規定してもなんの意味もないのだから、ますは生き延びねばならない。両親は一人娘はアメリカで勉強していると信じていて、都内アパートからかけてくる電話を国際電話と信じて、父親などは英語をしゃべってみたりする。しかし、彼女がしゃべる英語は、OKとレッツゴー(どんといこう)とサンキュウだけである。世間の常識からみる暮らしていく物質的条件をすべて欠いているのだ。そこから根性を入れ替えてとか、努力して活路を開くとか、そういう展開にはならない。強いていえば、最初から根性が入れ替わってしまっているひとりの女が現れたのだ。

 2,011年のどん詰まりの日本の状況を生きる妊娠9ヶ月の若いシングルマザーの人生が、どうなるのか、答えはまさに寓話となって魅了する。ここに美貌やロマンや知性とは関係のないニュウヒロインが活動する世界がつぎつぎと展開し、観客はおおいに笑い共感させられる。どうみても絶望的状況を、原ミツコは平然と通り抜け未来へ向けて出産を果たすことができたのかこれは爽快な希望の物語でもあるのだ。

 キャリーバッグ一つでアパートのドアの外で、彼女は真っ青な空に一塊の真っ白い雲が流れていくのを見上げる。彼女はこれまでもいつも雲をみてきたようにだ。人生、どうにかなる。雲のように漂っていくだけ、彼女もまたそう生きる。どうにかならないときは、寝る。寝ていればいい風も吹いてくる、そのときはどんと行こうだ。OKは、人生の積極的肯定である。このOKは、じつに絶妙なタイミングで彼女の口から発せられる。そして、人生を決めるのは、「粋」だねえという江戸ことばだ。それは、難しいことではなく、自分の利害を度外視して他人のためになにかをする姿にむかって「粋だねえ」と彼女は感嘆するのだ。それは、彼女の生きる原動力となっている。

 原ミツコを演じた仲里衣佐の目をみはるような存在感は、その容姿ももちろんであるが彼女の発する、台詞のすばらしさであろう。これらは、世界への肯定、自分の運命の肯定他人への思いやり、未来への予測などなどを、どん底の状況だからこそ、モノローグや対話となってくるのだが、「今にいい風が吹くから」という台詞は、昼寝で横たわる彼女に口から発せられるときじつに魅惑的である。「苦労するから」と彼女はしばしば相手と苦労を分け合う、自分も苦労するからと相手と共有することで、粋になれることを実感させる。彼女はまだ20歳そこそこの若者であるが、どん底における人間の苦労と再生への人生を、自分のなかに受け止めて、台詞に生命を吹き込んでいる。おそらく、彼女が生まれて成人するに至った20年間は、明るくは無い日本であったのだ。その暗さ、未来のあいまいさが、意識にしみこんでいる時代の子なのであるかと思う。

 人生どうなかなるとか、どうにかならなければ寝るとか、自分より他人への助成とかが、原ミツコを生かしているというのが、たんなる空想の産物であると、みなしてしまうならば、この映画は寓話にもならぬ、浮ついてお笑いにすぎないであろうが、ここには、否定できない実感があるのを、だれしも感じることができるとおもえる。人はだれでも、人生では、こういう体験をしたことがあるからである。また、他にこのような作品例をあげるならば、寝るについては、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」がある。これは、アメリカ南北戦争に巻き込まれたスカーレットが、タラの屋敷も農場も恋人も失いながらも、生き抜いていく物語であるが、どうしようもないときには、寝ることによって英気を取り戻す、じつによく寝る、これほど困難な時代状況を生き抜かざるをえなかったのだ。若者は蟹工船より上下巻1200頁もあるがおもしろい「風共に去りぬ」一気に読みきったほうが楽な気分になるかもしれない。他を助けるでは、ドミンク・ラビエールの「歓喜の街 カルカッタ」がある。これはカルカッタの貧民屈に単身生活した体験を小説にした、ほとんどドキュメントに匹敵する物語であるが、貧民屈だからこそみられた相互扶助や、他につくすヒューマニティの存在が、鮮やかにえがかれている。もうひとつウォールストリートジャーナル紙での最近のレポートでは、スペインでは、無職の市民がマーケットや相互扶助の市場をつぎつぎと開いているとあった。どん底の人生で、人間が活力を発揮する実例が、原ミツコの生き方を示してくるのは空想ではないのだということができる。

 このような生き方が、どのような未来を開くのか、それは定かではない。資本主義的経済生活の否定ではあるが、そのかわりの社会とは、マルクスでさへはっきりと描いているわけではなさそうだ。霧の中の未来であるが、つっこむしかないのだとは思える。でなければ、個人の自由の否定という全体主義への傾斜が、論理的に割出されるばかりではないのか、そんな気配がする。こんな状況で、「ハラがコレなんで」はおおくの示唆をふくんでいるといえよう。

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