Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

新橋演舞場『五月花形歌舞伎 夜の部』 3等A席3階センター

2012年05月12日 | 歌舞伎
新橋演舞場『五月花形歌舞伎 夜の部』 3等A席3階センター

今回、歌舞伎初心者を二人連れて行きました。まず衣装の美しさに感動、そして義太夫、鳴物、歌舞伎独特の動き、派手なアナログ大道具、女形の柔らかい動きがとても面白かったとのこと。総合芸術だというのを実感したと。かなり変則演目だったとは思うけど入り口としては十分だったらしい。一般的な歌舞伎のイメージとして華やかな衣装、見得、女形、それが観られるとまずは観たーという気になるのかも。私の経験では芝居好きだったり読書好きの友人たちは観るところが違うのでちょっと別なんですが漠然と歌舞伎を観たいと思っている人たちには時代物のほうが受けがいい。まあ今回は擬古典ではあったけど。

『椿説弓張月』
滝沢馬琴の原作を三島由紀夫が戯曲化し演出も手がけた作品です。三島由紀夫が自決する1年前の作品であり上演するにあたっても三島と役者たちの意思疎通がうまくいってなかったらしいいわくつきの作品であります。初演が白鸚さん、再演は幸四郎さんと猿之助さんが1回づつ。今回が4回目の再演です。私は10年前の猿之助さんver.を拝見しております。猿之助さんは初演時に参加しており三島のスペクタクルな演出はかなり猿之助さんに影響を与えたようです。また猿之助さんは参加時に「自分だったら演出はこうする」とも考えていたといい10年前の上演はスピーディにするために三島戯曲をさらに脚色し猿之助さんご自身が考えた演出で実現させた上演でした。そして今月、今回は三島の戯曲通りに初演の演出通りにと原点回帰させた上演。染五郎さん曰く「「欲は捨てて三島さんがやりたかった事を忠実に。そこを通らないと変えることができない」ということ。

『椿説弓張月』の源為朝は実は主役であって主役ではないという役割。歌舞伎の世界での「義経」と同じ象徴としてのキャラクターです。猿之助さんご自身も「為朝は主役ではあるけど為所がなく面白い役ではない。高間夫婦、白縫姫、阿公のほうが為所があり目立つ役なんです」とおっしゃっています。英雄としてただそこにいるそれだけのキャラクター。周囲によって物語が転んでいくという歌舞伎の古典のセオリーに則った三島の物語の組み立てといえます。とはいえ三島の脚本では周囲の物語もそれほど描きこまれておらず全体として物語のうねりがなく脚本として成功しているか?という部分で練りきれてなさを感じます。これは猿之助ver.でも今月でも思いましたが、まあそこを物語中心の芝居ではなく三島の歌舞伎に対する衒学趣味的な擬古典の見せ場主義な作品と思えば見所は沢山あります。上中下の三幕を上の巻で時代物を中の巻でいわゆるケレンと三島の嗜虐趣味をみせ下の巻で時代世話をみせる。歌舞伎の様々な要素を三島流にアレンジし絵草紙として仕立てた感。

さて、私はといえばやはりつい10年前と今月を比べながら観てしまいました。10年前に一度観たきりで細かいところは覚えてはいないのですが猿之助ver.は少しばかりショートカットして筋をわかりやすくしていましたが物語の運びは今月とほとんど同じ。演出も中の巻の船に乗り込む場とラスト以外はそれほど違いはありませんでした。ところが猿之助ver.『椿説弓張月』と今月の『椿説弓張月』、同じ作品を観た気がしないほど作品から受ける印象が違っていて驚きました。演じる役者が違うというだけでなくまず作品の世界観の捉え方がまったく違っているのではないか?と思うほど。特にラストは演出がかなり違い、それゆえ物語の閉じ方がかなり違っていました。観終わって「私は10年前観た作品と同じ作品を今観ていたのだろうか?」となんとも不思議な感覚に陥りました。

猿之助ver.はラストが白馬の乗った宙乗りで猿之助さんの晴れ晴れとした表情とも相まってカタルシスがあり、終りよければ大団円的な爽快感がありました。そういう意味で歌舞伎らしいいわゆる現世の英雄譚としての物語として閉じていった感。しかし今月の白馬は天馬というより黄泉の馬。海の底からやってきて空虚で冴々とした彼岸の世界へ向かうものだった。言うなれば日本神話的な雰囲気というか、手触りに「人」の感覚があまりなく感覚的に不可思議な世界になっていた感じです。どこか歌舞伎という枠にハマっているようでどこかずれた感覚がある感じもあり芝居全体の雰囲気が妙に作り事めいてたというか神話や叙事詩を読んでいるイメージに近い感じで…全体的に異形を感じさせました。

今月の『椿説弓張月』は強烈に死に彩られているというのを感じさせる。そこに高揚感も憧憬もない。哀しみと虚無に覆われている。染五郎さん演じる為朝には自己愛がない。私の印象では三島は自己愛と死への甘美な憧れがあった人だと思うのです。そこを考えれば三島という作家の歌舞伎として正しい有り様なのは猿之助ver.と染五郎ver.のどちらなのだろうかとちょっと考えてしまいました。今月、観た後にとっさには今月のほうが作品の本質を突いてる気がしたのですが三島が作ろうとした世界観であったかな?と思うとまた何か違うような気もして。まあ、その前にこの芝居に関しての感想の自分の落としどころもみつかってない状態のですが…。

為朝@染五郎さん、運命の糸にあがらえず哀しみと孤独を背負った悲劇性の強い美貌の武将としてそこにいました。ただそこにいることだけを課せられ英雄としていることを課せられつつ、死に向かって流転する。請われるままにただそこに居ることで死の目撃者となることへの哀しみを纏い、課せられた運命に殉じていく。染五郎さんはすっぽりと為朝という雛形に入り込み、溜め込んで張り詰めて演じているのではないか、というように感じました。為朝という人を演じるのではなく、為朝という象徴を体現しているそんな風にみえました。そこに自己愛はなく死というものへの哀しみ、それを誰とも共有できない哀しみがあり、そして「死」に虚無をみている。2幕目冒頭の為朝ですが崇徳上皇の霊に押しとどめられたのは肉体ではなく飛び立とうとした魂。地上に戻された為朝はすでに人ではないという印象を受けました。

白縫姫/寧王女@七之助さん、凛とした美しさが白縫姫にピッタリ。時々、玉三郎さんが降りてきてる?と思う場面もしばしば。とはいえ玉三郎さんの白縫姫がもつ豪胆さは七之助さん白縫姫には見えず、根が強いわけじゃなく為朝ラブゆえに強くあらんとしてる姫にみえました。透明感のある風情が儚げ。

阿公/崇徳上皇の霊@翫雀さん、阿公がとても良かったですね。阿公は『奥州安達ヶ原』の婆、岩手そのままの人物像なので物語に動きがあり場面として造詣しやすいとはいえ、鬼婆の不気味さより怖さのなかにどこが滑稽味を含ませ、モドリでの悔いとそして女・母の面を切なく哀れに演じしっかり見せてきたと思います。崇徳上皇の霊は品がよく妄執に駈られた感はなかったな~。

簓江@芝雀さん、簓江のいかにも島出の洗練されてなさのなかの濃い情味をみせる。絶望感のなか子供とともに死んでいくのがとても哀れでした。

高間太郎@愛之助さん、のお役は猿之助ver.では勘三郎(当時:勘九郎)さんが華やかに演じていたのでちょっと大人しいかなと思ったりもしましたが主君のために尽くす高間を過不足なく。

磯萩@福助さん、出すぎず引っ込みすぎずの丁寧な芝居。福助さんは猿之助ver.でも同じお役でしたが佇まいが美しくとても良かったです。    

為頼@玉太郎くん、舜天丸@鷹之資くん、頑張っていました!

覚書:
今月の演出、国立劇場で初演したそのままということですが確かに国立劇場仕様な演出なでした。国立のほうが綺麗に映えそうなセットとライティング。