新国立小劇場『タトゥー』 A席後方センター
主題は2007年7月パルコ劇場で上演された長塚圭史さん作・演出の『SISTERS』(私の感想)と同じ。近親相姦、そのなかで支配する、されるものの関係を描く。芝居として緊迫感があったのは2時間15分あった『SISTERS』。『タトゥー』は1時間30分の作品だったが岡田利規さんの演出および役者の力量不足の面があり途中だれてしまったのが残念。脚本として緻密なのは『タトゥー』のほうだと思うのだが、芝居は戯曲だけで成り立つものではないのだなというのを感じた。
ただ、思っていた以上に面白く観られた。重すぎる内容を感情をある程度排することで観やすい芝居にしていた。それが良いか悪いかは別としてこういうやり方で提示していくのはアリだと思う。咀嚼を観客に委ねることでまずはこういうテーマに関して「拒絶反応」をあまり起こさせずに、いったん「芝居」として受け入れることが出来るのではないかと思う。
ドイツの戯曲家のデーア・ローアー女史の作品の骨格がまず良い。1992年に発表された作品とのこと。主題に目新しさはないかもしれないが、たぶん、ずっと問いかけをしていかなければいけないモチーフとして残っていける作品なのではないかと思う。ドイツの作家だけあって、近親相姦のタブー、そのなかの歪んだ愛情という部分のほかに、支配・支配されるものの関係がナチスのユダヤ人迫害時の優越意識の問題も孕んでいるような気がした。この作品のなかでは支配する側の言い分としてアフリカ人の女性蔑視の問題を「文化」として捉える形をとっている。こういう非常にデリケートな話題をストレートに会話として提示していく大胆さは欧米の作家ならではかもしれない。
また台詞が独特。センテンスが短く、いわゆる文章になっていない。言葉のずらしがあって詩のような感じ。翻訳した時にどの程度作者の意図を拾い上げているのかはわからないが、文体を崩してあるのは元々の戯曲からだそうだ。イマドキの若者言葉は翻訳した時点で変えたのかな?とは思う。
演出の面では舞台美術を現代美術作家の塩田千春が手掛けた圧迫感のある窓枠を重ねて構築した大きな作品を天上からぶらさげたのは効果的だったと思う。その作品から中途半端な形でテーブルや椅子、ベットなどがぶらさがり上下できるようになっている。このいびつさのある作品があるだけで父の力の支配、歪んだ家族関係などが強調される。舞台面の作り方はかなり私の好みであった。
ただそのなかでモニターを使って時々映像を流す場がいくつかあったのだが必然性をまったく感じず。歪んだものを表すノイズにすらなってない中途半端な使い方。このごろの演出家はモニターを使いすぎだ。しかもほとんど効果なしだし…。
役者の使い方が独特でした。台詞をほとんどフラットにしている。いわゆる棒読み。野田秀樹さんもかなり台詞をフラットにしゃべらせる演出家だけど岡田利規さんはもっと極端。ただ、今回その岡田メソッド?をどれだけ役者が表現できていたかはこの作品だけではわからず。役者によって、フラットの加減がだいぶ違っていて、台詞をどう伝えるべきか意識の統一はされてない感じがした。しかしながら役者の力量は関係なくフラットな台詞廻しのおかげで戯曲の内容が非常にわかりやすくは提示されていた。
また動きも独特。自然な動きがあまりない。台詞に対して動きが不自然。それがダンスのようにも見える。そういう部分で芝居というよりパフォーマンスアート的な雰囲気もあった。特に衣装が生成りで立体的な生地での衣装でいわゆるアート系なものだから尚更その感を受けた。そのため役者の「感情」が粒だたないきらいがあり、内容の重さのわりに緊迫感やカタルシスが生まれてこない。その部分で主題の悲惨さが十分に伝わってこない。私としてはもっと伝えて欲しかった。
演出を意図的に平坦にしているのだろうけど終始平坦にしすぎ。もしこの演出で90分を持たせようとするのであればかなり役者を揃えないと難しいのではないかと思う。また、最初から家族を「歪んだ」ものとして提示したのも少々疑問。表面的に繕っている家族をまずは見せて、だんだん歪んだものをみせていけば、観客の興味をもっと惹いたのではないかと思う。
実際、あらすじは
「気さくで働き者で家族思いの父、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母、仲良く喧嘩するしっかりものの姉とやんちゃな妹、どこにでもある普通の平穏な家庭、それはこの家族の一表面であると同時に「なんとしても失いたくない」心の拠り所になっている。その願いの陰で行われる父の蛮行。」
というもの。しかし、今回は最初から家族全員が病んでるという部分を見せてしまっていた。あきらかに歪んだ関係が役者が出てきた瞬間からそこにあった。だがまずはこの普通の平穏な家庭を見せるべきだったのではないか?そして少しづつ不穏な空気を纏わせていけば、かなりスリリングな芝居になったと思う。
そのなかで役者さんたちは個々、頑張っていた。
父ヴォルフ@吹越満さんは映像で大好きな役者さんですが生の舞台はお初で観ました。上手い役者さんだと思う。ただ今回フラットな台詞廻しには苦労させられていたような。感情が噴出しそうなところを無理矢理押さえて棒読みにしている感じ。フラットのなかに感情を出す、という部分で苦労されていた…もったいないなあと思いました。ただ、不条理な言い分で支配する男の怖さ、狂気は見事に体現されていた。あれほど細く小柄な方なのだけど有無を言わさない威圧感をまとっていた。そしてそれだけでなくそのなかに男の矮小さをも感じさせる。この方は別の舞台でも観て見たいです。
妹ルル@内田慈さん、たぶん、この芝居の岡田メソッドに一番合っていた役者さんだと思う。台詞廻し、動き、共に一番しっくりきていました。フラットな台詞のなかに微妙な感情表現を含ませて愛情に飢えた攻撃的で心が脆いルルを体現していました。
母ユーレ@広岡由里子さん、他の役者さんがどこかしらに硬質さを滲ませているなかで唯一肉体の湿度、血を感じさせた役者さん。岡田メソッドに合っていたかどうかはわからないのだけど、この方がいることの違和感が芝居にはかなり活きていたような気がする。自分のことで精一杯の立場がよく見えました。犬ぐるみを着せられたのは効果的とは思えず。
姉アニータ@柴本幸さん、大河『風林火山』でデビューの新人。今回が初舞台です。すらりとした容姿と品のよさが持ち味でしょうか。父に蹂躙されている娘の弱さ、女の強さの両方の佇まいをきちんと体現できていたと思います。しかし、さすがにこの難しい舞台をこなすには荷が重過ぎた感じも。棒読みが単なる棒読み。凛とした声でかろうじて納得いく雰囲気はあったのだけど…。娘が主体になって物語が動く後半のシーンで場を持たせられてなかった。引っ張っているだけの力量がまだないので、完全に場がだれてしまう。
またアニータの恋人パウル@鈴木浩介さんが、とにかく弱い。まず台詞にまったく説得力がない。どこを切り取っても彼が発する言葉と彼の佇まいに納得できるものがない。役の解釈不足な気がするのだけど…。岡田メソッドに合わないタイプの役者さんなのかもしれない。ファンの人すいません。でもどうにも今回の役は納得できる出来ではありませんでした。
後半の大事な場面でのアニータとパウルに力がなかったのが今回、ちょっと痛かったかなあ。一番、歪んだ人と人の関係性が象徴されるシーンなのに説得力が生まれなかったのがなあ…もったいないなあ。
『タトゥー』
【戯曲】デーア・ローアー
【翻訳】三輪玲子
【演出】岡田利規
【美術】塩田千春
【配役】
ヴォルフ:吹越満
アニータ:柴本幸
パウル:鈴木浩介
ルル:内田慈
ユーレ:広岡由里子
【ストーリー】
気さくで働き者で家族思いの父、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母、仲良く喧嘩するしっかりものの姉とやんちゃな妹、どこにでもある普通の平穏な家庭、それはこの家族の一表面であると同時に「なんとしても失いたくない」心の拠り所になっている。その願いの陰で行われる父の蛮行。
長年かけて築いてきた温かい家庭の体面を保ちたい母ユーレは、娘の犠牲を見て見ぬふりをするが、自分を統括しきれず自虐行為で発散する。そんな母を軽蔑し、父の愛が姉だけに向けられているのを妬む妹ルルは、自分の未熟とコンプレックスを攻撃性に変える。家族のため、家族が崩壊したら困る自身のため父との関係を受け入れる姉アニータは、平穏な日常と残酷な悪夢の間を行き来する。マイホーム・パパを自負する父ヴォルフは、家族の依存心を利用して野蛮な慣習を正当化し、強大な支配力を発揮していくが、実はそんな家族に誰よりも依存しているのがこの父であった。
そんな日常の中、花屋の店員パウルとの出会いによって、アニータに訪れたまたとない「機会」は、諦めかけていた未来への希望を蘇らせるが……。
主題は2007年7月パルコ劇場で上演された長塚圭史さん作・演出の『SISTERS』(私の感想)と同じ。近親相姦、そのなかで支配する、されるものの関係を描く。芝居として緊迫感があったのは2時間15分あった『SISTERS』。『タトゥー』は1時間30分の作品だったが岡田利規さんの演出および役者の力量不足の面があり途中だれてしまったのが残念。脚本として緻密なのは『タトゥー』のほうだと思うのだが、芝居は戯曲だけで成り立つものではないのだなというのを感じた。
ただ、思っていた以上に面白く観られた。重すぎる内容を感情をある程度排することで観やすい芝居にしていた。それが良いか悪いかは別としてこういうやり方で提示していくのはアリだと思う。咀嚼を観客に委ねることでまずはこういうテーマに関して「拒絶反応」をあまり起こさせずに、いったん「芝居」として受け入れることが出来るのではないかと思う。
ドイツの戯曲家のデーア・ローアー女史の作品の骨格がまず良い。1992年に発表された作品とのこと。主題に目新しさはないかもしれないが、たぶん、ずっと問いかけをしていかなければいけないモチーフとして残っていける作品なのではないかと思う。ドイツの作家だけあって、近親相姦のタブー、そのなかの歪んだ愛情という部分のほかに、支配・支配されるものの関係がナチスのユダヤ人迫害時の優越意識の問題も孕んでいるような気がした。この作品のなかでは支配する側の言い分としてアフリカ人の女性蔑視の問題を「文化」として捉える形をとっている。こういう非常にデリケートな話題をストレートに会話として提示していく大胆さは欧米の作家ならではかもしれない。
また台詞が独特。センテンスが短く、いわゆる文章になっていない。言葉のずらしがあって詩のような感じ。翻訳した時にどの程度作者の意図を拾い上げているのかはわからないが、文体を崩してあるのは元々の戯曲からだそうだ。イマドキの若者言葉は翻訳した時点で変えたのかな?とは思う。
演出の面では舞台美術を現代美術作家の塩田千春が手掛けた圧迫感のある窓枠を重ねて構築した大きな作品を天上からぶらさげたのは効果的だったと思う。その作品から中途半端な形でテーブルや椅子、ベットなどがぶらさがり上下できるようになっている。このいびつさのある作品があるだけで父の力の支配、歪んだ家族関係などが強調される。舞台面の作り方はかなり私の好みであった。
ただそのなかでモニターを使って時々映像を流す場がいくつかあったのだが必然性をまったく感じず。歪んだものを表すノイズにすらなってない中途半端な使い方。このごろの演出家はモニターを使いすぎだ。しかもほとんど効果なしだし…。
役者の使い方が独特でした。台詞をほとんどフラットにしている。いわゆる棒読み。野田秀樹さんもかなり台詞をフラットにしゃべらせる演出家だけど岡田利規さんはもっと極端。ただ、今回その岡田メソッド?をどれだけ役者が表現できていたかはこの作品だけではわからず。役者によって、フラットの加減がだいぶ違っていて、台詞をどう伝えるべきか意識の統一はされてない感じがした。しかしながら役者の力量は関係なくフラットな台詞廻しのおかげで戯曲の内容が非常にわかりやすくは提示されていた。
また動きも独特。自然な動きがあまりない。台詞に対して動きが不自然。それがダンスのようにも見える。そういう部分で芝居というよりパフォーマンスアート的な雰囲気もあった。特に衣装が生成りで立体的な生地での衣装でいわゆるアート系なものだから尚更その感を受けた。そのため役者の「感情」が粒だたないきらいがあり、内容の重さのわりに緊迫感やカタルシスが生まれてこない。その部分で主題の悲惨さが十分に伝わってこない。私としてはもっと伝えて欲しかった。
演出を意図的に平坦にしているのだろうけど終始平坦にしすぎ。もしこの演出で90分を持たせようとするのであればかなり役者を揃えないと難しいのではないかと思う。また、最初から家族を「歪んだ」ものとして提示したのも少々疑問。表面的に繕っている家族をまずは見せて、だんだん歪んだものをみせていけば、観客の興味をもっと惹いたのではないかと思う。
実際、あらすじは
「気さくで働き者で家族思いの父、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母、仲良く喧嘩するしっかりものの姉とやんちゃな妹、どこにでもある普通の平穏な家庭、それはこの家族の一表面であると同時に「なんとしても失いたくない」心の拠り所になっている。その願いの陰で行われる父の蛮行。」
というもの。しかし、今回は最初から家族全員が病んでるという部分を見せてしまっていた。あきらかに歪んだ関係が役者が出てきた瞬間からそこにあった。だがまずはこの普通の平穏な家庭を見せるべきだったのではないか?そして少しづつ不穏な空気を纏わせていけば、かなりスリリングな芝居になったと思う。
そのなかで役者さんたちは個々、頑張っていた。
父ヴォルフ@吹越満さんは映像で大好きな役者さんですが生の舞台はお初で観ました。上手い役者さんだと思う。ただ今回フラットな台詞廻しには苦労させられていたような。感情が噴出しそうなところを無理矢理押さえて棒読みにしている感じ。フラットのなかに感情を出す、という部分で苦労されていた…もったいないなあと思いました。ただ、不条理な言い分で支配する男の怖さ、狂気は見事に体現されていた。あれほど細く小柄な方なのだけど有無を言わさない威圧感をまとっていた。そしてそれだけでなくそのなかに男の矮小さをも感じさせる。この方は別の舞台でも観て見たいです。
妹ルル@内田慈さん、たぶん、この芝居の岡田メソッドに一番合っていた役者さんだと思う。台詞廻し、動き、共に一番しっくりきていました。フラットな台詞のなかに微妙な感情表現を含ませて愛情に飢えた攻撃的で心が脆いルルを体現していました。
母ユーレ@広岡由里子さん、他の役者さんがどこかしらに硬質さを滲ませているなかで唯一肉体の湿度、血を感じさせた役者さん。岡田メソッドに合っていたかどうかはわからないのだけど、この方がいることの違和感が芝居にはかなり活きていたような気がする。自分のことで精一杯の立場がよく見えました。犬ぐるみを着せられたのは効果的とは思えず。
姉アニータ@柴本幸さん、大河『風林火山』でデビューの新人。今回が初舞台です。すらりとした容姿と品のよさが持ち味でしょうか。父に蹂躙されている娘の弱さ、女の強さの両方の佇まいをきちんと体現できていたと思います。しかし、さすがにこの難しい舞台をこなすには荷が重過ぎた感じも。棒読みが単なる棒読み。凛とした声でかろうじて納得いく雰囲気はあったのだけど…。娘が主体になって物語が動く後半のシーンで場を持たせられてなかった。引っ張っているだけの力量がまだないので、完全に場がだれてしまう。
またアニータの恋人パウル@鈴木浩介さんが、とにかく弱い。まず台詞にまったく説得力がない。どこを切り取っても彼が発する言葉と彼の佇まいに納得できるものがない。役の解釈不足な気がするのだけど…。岡田メソッドに合わないタイプの役者さんなのかもしれない。ファンの人すいません。でもどうにも今回の役は納得できる出来ではありませんでした。
後半の大事な場面でのアニータとパウルに力がなかったのが今回、ちょっと痛かったかなあ。一番、歪んだ人と人の関係性が象徴されるシーンなのに説得力が生まれなかったのがなあ…もったいないなあ。
『タトゥー』
【戯曲】デーア・ローアー
【翻訳】三輪玲子
【演出】岡田利規
【美術】塩田千春
【配役】
ヴォルフ:吹越満
アニータ:柴本幸
パウル:鈴木浩介
ルル:内田慈
ユーレ:広岡由里子
【ストーリー】
気さくで働き者で家族思いの父、家事と仕事を両立しながら控えめに家を支える母、仲良く喧嘩するしっかりものの姉とやんちゃな妹、どこにでもある普通の平穏な家庭、それはこの家族の一表面であると同時に「なんとしても失いたくない」心の拠り所になっている。その願いの陰で行われる父の蛮行。
長年かけて築いてきた温かい家庭の体面を保ちたい母ユーレは、娘の犠牲を見て見ぬふりをするが、自分を統括しきれず自虐行為で発散する。そんな母を軽蔑し、父の愛が姉だけに向けられているのを妬む妹ルルは、自分の未熟とコンプレックスを攻撃性に変える。家族のため、家族が崩壊したら困る自身のため父との関係を受け入れる姉アニータは、平穏な日常と残酷な悪夢の間を行き来する。マイホーム・パパを自負する父ヴォルフは、家族の依存心を利用して野蛮な慣習を正当化し、強大な支配力を発揮していくが、実はそんな家族に誰よりも依存しているのがこの父であった。
そんな日常の中、花屋の店員パウルとの出会いによって、アニータに訪れたまたとない「機会」は、諦めかけていた未来への希望を蘇らせるが……。