シアターコクーン『NODA MAP 贋作・罪と罰』2回目 S席1F舞台裏座席後方
先月、この芝居を観た時は私はいわゆる野田演劇はほぼ初見(生で観た舞台は歌舞伎『研辰の討たれ』のみ)で、いわゆる野田演劇の方法論を知らないままの観劇で最初のうちどうしても入り込めず、大川の川辺のシーンでようやく物語のなかに入っていけたのですが、2回目の今回は最初から入っていけたように思います。(私の1回目感想)
それにしてもやはりシンプルな舞台のなかに喚起される言葉と情景のリアルさには感嘆する。言葉がなぜこんなにキラキラと光って見えるのだろう。私はいったい何をみているんだろう。私は言葉を観ていました。決して技巧を凝らした言葉ではないのにとても美しく感じる。
そして今回は芝居を観て楽しむという部分以外に「人の生(せい)ってなんなんだろう?」と考えてしまいました。「人が生きていくこと」への揺れを私は感じました。そして「人は生きていくべき」と言い切るのではなくたぶん願いとして「生きていてください」と投げかけているのではないかなあとそう感じました。精神主義、物質主義、そのどちらも徹底的にちゃかしてはいるけれど、たぶん信用はしていないけれど、そのすべてをひっくるめて「人の生」への希望を捨てない。だから切ないのだ。生きていくことの不安定さを突きつけられているかのようだった。
以下、もうほとんど感想じゃありません。いつもの妄想モードな思考の弄びです。
この芝居は松たか子演じる三条英に、三条英を演じる松たか子に、何かを感じることができなければ、たぶん「面白いね」くらいでそれほどひっかかってこないものかもしれないとも思った。それぐらい英を演じる役者が引っ張っていかないと立ち上がってこない物語だ。そして私は松たかこ子造詣した英という人物にとても複雑な感情を抱いてしまうのだ。「理想のために人を殺すことが許されるのか」、机上の論理を踏み越えて殺人を犯してしまった英。松たか子の英にはそこに本当の意味での狂気はない。あくまでものびやかで真っ直ぐな精神。だからこそ、恐い。
英の未成熟な硬質さは、10代の少女が犯した殺人や殺人未遂事件を思い起こさせた。彼女たちの殺人はある部分とても無邪気だ。現実感がほんの少し希薄だったがための、それこそ机上の彼女たちだけの論理に従ってしまっただけのようなものに私は思えて、それゆえに私は彼女たちを受け入れたくないと強烈に思ってしまっていた。その感覚を『贋作・罪と罰』の英の殺人に感じてしまった。英自身の咆哮のような悲鳴とともに行なわれる殺人。
だからこそ目が離せなかった。ギリギリの精神のバランス。笑うことができない英はその未成熟さゆえに無防備であまりに純粋だ。時に子供のようにさえ見える。方向を見失った迷子のよう。その孤独をも自覚しないまま何かに追い詰められていく。その焦燥感がどこからきているのか、わかっていないんだろう。美しく感じていた風景も、身近にあった音も感じなくなって「人殺し」という事実が覆いかぶさり何か違うと感じているのに頭がついていかない、認められない。それは自身を拒絶していることに他ならないに。
それを受け止める才谷は「男」だけどどちらかというと父性に傾いている。何が起ころうとも全てを受け入れてくれる彼の存在を認めることにより、ようやく英は自身を、そして罪を受け入れる。その瞬間の英@松たかこの嗚咽とも叫びともつかないあの声はいったいなんだろう。その瞬間だけは言葉ではなく声無き声の力に圧倒された。一言では言い表せない声。その声を吐き出した後の英はようやく穏やかな顔になる。笑顔では無いのだけど、居場所を見つけたそんな顔だった。どこかへようやく辿り着いたのだ。
そしてすべての人に「生きていてください」と願い、未来に向かって「誠実に生きていく」と誓い、愛するものに「愛してる」と告白する。しかし英のその言葉をあざ笑うかのように英の父に愛する才谷は殺される。それが英につきつけられた罰なのだろう。牢獄から出た英はそれでも生きていくのだろうか。たぶん生きていかなければと、きっと思うだろう。その時、英は大川の風をどのように感じるのだろう。ひどく残酷でだからとても切なくて私は泣いてしまった。でも英を受け入れられない自分もいる。でもずっと考えていかないといけないんだろうなあ。
東京千秋楽のこの日、英役の松たか子さん以外の役者さんたちは前回観た時より肩の力が抜けリラックスした表情のように思いました。その代わり、ちょっと台詞を噛んだり間違ったりと危うい部分もありましたが…(笑)。まあそこは前回観ていた分、補完しながら見ていました。それでも役への入り込み方は断然良かったです。松たか子さんは終始張り詰めていました。英という役は緩んではもう英ではなくなってしまう、そういうキャラクター。その英を演じることはかなりの精神力がいるんじゃないのかなあと、カーテンコールの時でさえ笑顔が出ていない表情の彼女を見て思いました。英から抜け出して笑ってくれないかなあなんて思いながらずっと追いかけてみていると、表情が緩んだ瞬間を一瞬だけ見ることができました。それは最後の最後カーテンコールからはけていく時に古田さんが声を掛けた時でした。
先月、この芝居を観た時は私はいわゆる野田演劇はほぼ初見(生で観た舞台は歌舞伎『研辰の討たれ』のみ)で、いわゆる野田演劇の方法論を知らないままの観劇で最初のうちどうしても入り込めず、大川の川辺のシーンでようやく物語のなかに入っていけたのですが、2回目の今回は最初から入っていけたように思います。(私の1回目感想)
それにしてもやはりシンプルな舞台のなかに喚起される言葉と情景のリアルさには感嘆する。言葉がなぜこんなにキラキラと光って見えるのだろう。私はいったい何をみているんだろう。私は言葉を観ていました。決して技巧を凝らした言葉ではないのにとても美しく感じる。
そして今回は芝居を観て楽しむという部分以外に「人の生(せい)ってなんなんだろう?」と考えてしまいました。「人が生きていくこと」への揺れを私は感じました。そして「人は生きていくべき」と言い切るのではなくたぶん願いとして「生きていてください」と投げかけているのではないかなあとそう感じました。精神主義、物質主義、そのどちらも徹底的にちゃかしてはいるけれど、たぶん信用はしていないけれど、そのすべてをひっくるめて「人の生」への希望を捨てない。だから切ないのだ。生きていくことの不安定さを突きつけられているかのようだった。
以下、もうほとんど感想じゃありません。いつもの妄想モードな思考の弄びです。
この芝居は松たか子演じる三条英に、三条英を演じる松たか子に、何かを感じることができなければ、たぶん「面白いね」くらいでそれほどひっかかってこないものかもしれないとも思った。それぐらい英を演じる役者が引っ張っていかないと立ち上がってこない物語だ。そして私は松たかこ子造詣した英という人物にとても複雑な感情を抱いてしまうのだ。「理想のために人を殺すことが許されるのか」、机上の論理を踏み越えて殺人を犯してしまった英。松たか子の英にはそこに本当の意味での狂気はない。あくまでものびやかで真っ直ぐな精神。だからこそ、恐い。
英の未成熟な硬質さは、10代の少女が犯した殺人や殺人未遂事件を思い起こさせた。彼女たちの殺人はある部分とても無邪気だ。現実感がほんの少し希薄だったがための、それこそ机上の彼女たちだけの論理に従ってしまっただけのようなものに私は思えて、それゆえに私は彼女たちを受け入れたくないと強烈に思ってしまっていた。その感覚を『贋作・罪と罰』の英の殺人に感じてしまった。英自身の咆哮のような悲鳴とともに行なわれる殺人。
だからこそ目が離せなかった。ギリギリの精神のバランス。笑うことができない英はその未成熟さゆえに無防備であまりに純粋だ。時に子供のようにさえ見える。方向を見失った迷子のよう。その孤独をも自覚しないまま何かに追い詰められていく。その焦燥感がどこからきているのか、わかっていないんだろう。美しく感じていた風景も、身近にあった音も感じなくなって「人殺し」という事実が覆いかぶさり何か違うと感じているのに頭がついていかない、認められない。それは自身を拒絶していることに他ならないに。
それを受け止める才谷は「男」だけどどちらかというと父性に傾いている。何が起ころうとも全てを受け入れてくれる彼の存在を認めることにより、ようやく英は自身を、そして罪を受け入れる。その瞬間の英@松たかこの嗚咽とも叫びともつかないあの声はいったいなんだろう。その瞬間だけは言葉ではなく声無き声の力に圧倒された。一言では言い表せない声。その声を吐き出した後の英はようやく穏やかな顔になる。笑顔では無いのだけど、居場所を見つけたそんな顔だった。どこかへようやく辿り着いたのだ。
そしてすべての人に「生きていてください」と願い、未来に向かって「誠実に生きていく」と誓い、愛するものに「愛してる」と告白する。しかし英のその言葉をあざ笑うかのように英の父に愛する才谷は殺される。それが英につきつけられた罰なのだろう。牢獄から出た英はそれでも生きていくのだろうか。たぶん生きていかなければと、きっと思うだろう。その時、英は大川の風をどのように感じるのだろう。ひどく残酷でだからとても切なくて私は泣いてしまった。でも英を受け入れられない自分もいる。でもずっと考えていかないといけないんだろうなあ。
東京千秋楽のこの日、英役の松たか子さん以外の役者さんたちは前回観た時より肩の力が抜けリラックスした表情のように思いました。その代わり、ちょっと台詞を噛んだり間違ったりと危うい部分もありましたが…(笑)。まあそこは前回観ていた分、補完しながら見ていました。それでも役への入り込み方は断然良かったです。松たか子さんは終始張り詰めていました。英という役は緩んではもう英ではなくなってしまう、そういうキャラクター。その英を演じることはかなりの精神力がいるんじゃないのかなあと、カーテンコールの時でさえ笑顔が出ていない表情の彼女を見て思いました。英から抜け出して笑ってくれないかなあなんて思いながらずっと追いかけてみていると、表情が緩んだ瞬間を一瞬だけ見ることができました。それは最後の最後カーテンコールからはけていく時に古田さんが声を掛けた時でした。