Snowtree わたしの頭蓋骨の下 *鑑賞記録*

舞台は生もの、賞賛も不満もその日の出来次第、観客側のその日の気分次第。感想というものは単なる個人の私感でしかありません。

新橋演舞場『五月花形歌舞伎 夜の部』 1等A席前方センター

2012年05月24日 | 歌舞伎
新橋演舞場『五月花形歌舞伎 夜の部』 1等A席前方センター

『椿説弓張月』
2回目の観劇です。前のほうで観ても5/12(土)観劇時に感じた空虚で冴々とした彼岸の世界が立ち現れていた芝居という印象は変わらず。華やかな場面やスペクタクルな場面があるにも関わらず鬱々とした閉じられた世界観が劇場を覆う。場面場面では面白かったりもしたのですが…いかんせん三島の脚本にはドラマがなくて趣向が趣向で終わっている。外側から事象を淡々と語る叙事詩的芝居といえばカッコイイんですが脚本に骨格がないのがなんとも。読んで楽しむもので芝居の脚本ではないかなと思います。馬琴の長大な物語をここまで短くして自分の趣味を散りばめ入れ込んだことには単純に凄いとは思いますけど、三島由紀夫という作家を語るための資料としての面白さ以上のものではないかな~。

とはいえ、単純に役者を楽しんだりスペクタクル場面を楽しんだり観劇中はあれこれ楽しんだりもしました。でも印象に深く残るか?といえばnonかな。物語的にもそもそも子どもがむやみにしかも結局は意味がない死に至るところが好きではない。成人に近い舜天丸だけは生き延びるけど他の子どもたちが自分の意志なく死んでいく。為頼も初陣をきって武士らしく死ぬのではないことを悔やんで死んでいく。可哀相すぎだ。馬琴の原作では島姫は生き延びるんですけどね。

実は10年前の猿之助ver.での子どもたちの死の場面をまったく覚えてなかった。たぶん、記憶抹消してたんだろうな…。猿之助ver.でしっかり覚えていたのは玉様の白縫姫(中の巻のみ出演)、勘九郎時代の勘三郎さんの高間&阿公(孫殺しの部分はなぜか覚えていないけど)、そして途中まで存在感が薄いと感じていた猿之助さん為朝の最後の宙乗り。猿之助さんなのになぜ存在感が薄かったのか役回りが損な役というのはわかっておりましたが今月観て完全に納得がいきました。

為朝@染五郎さん、為朝というキャラクターのヒトガタにすっぽり入り込んでいるという印象。最初からどこか人外さ(人として生きている感がない)がある雰囲気でした。染五郎さんは感情の揺れを表現するのが上手い方ですがこのお役にはそれが必要ない。三島が好みそうな哀しみ溢れる劇性の強い美貌の武将を体現はしていましたが染五郎さんの良さが活きる役ではなかったなあと思います。ただ5/12(土)に拝見した時より虚無感を漂わせる自己愛の無さのなかに、家族(妻と子供)に対しての切なる想いというものが為朝の静かな魂の芯の部分にほんのりあったような気がしました。非常にさりげなく、死に至る為頼へのやるせない慟哭であったり白縫姫へのさりげない心配りであったり舜天丸が生きていたことへの喜びであったりがそこにありました。なので最後の死出の旅では、愛するものを置いていく哀しみがプラスされなおいっそう孤独感を感じました。白馬に乗っての引っ込みにはやはり高揚感も安堵感もなかった。

白縫姫@七之助くんの佇まいがとっても良くなっていました。凛とした佇まいに存在感が出ていました。また為朝さま大好きオーラがキラキラしていました。それゆえか為朝@染五郎さん、白縫姫に対してかなり優しくなっていたような。それにしても台詞廻しが玉様降臨か?くらいにますます似てきていました。琴も一月の間にも成長していましたし阿古屋が狙える位置にきたかなと思ったり。そういえば玉三郎さんの白縫姫は「おやかたさま」と呼ばれて当然な剛胆な姫で為朝がいなくても十分に生きていけそうだったのですが七之助くん白縫姫は完全に為朝を拠り所にして生きている姫でした。芝居の仕方は同じだと思うので持ち味の違いなんでしょうね。

舜天丸@鷹之資くん、表情が活き活きとしていました。怪魚の乗る時、本当に嬉しそうな笑顔になっててとっても可愛かった。楽しいんでしょうね~。

亀@松也さん、凛とした佇まいから女装した時の柔らかな佇まいの切り替えが鮮やか。情感のある台詞回しもとてもよく印象に残りました。一時期、女形が似合わない時期がありましたが先月に顔世御前という大役をこなしたことで一気に良くなった感。先が楽しみ。

個人的には拷問シーンでの腰元のなかでも京屋お姉さまズ(京妙さん、京蔵さん)の嬉々とした拷問ぶりがツボでした。

余談:「下の巻」を観てて10年前の猿之助verで亀を亀治郎さんが演じてて「亀が亀を演じてる~」とツボに入った記憶がよみがえりました。