興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

泣くということ

2019-07-03 | プチ精神分析学/精神力動学


時折、「泣くことが出来なくなった」という主訴で心理療法にいらっしゃる方がいます。

人によっては、泣けなくなった事に気付いてから、世の中の大半の人が泣いたという事で有名な映画を片っ端から見まくったりした後で、やっぱりダメだった、涙が出ないんですと、お越しになります。

人は、基本的に、大人になるにつれて、次第に泣くことが少なくなっていきます。泣くことが日常ではなくなっていきます。

それで、何かの折に泣いた時に、多くの人は、「久しぶりに泣いた」という感想を抱きます。泣くことはその人にとっての非日常となっています。

それでも多くの人にとって、泣くことは自然な人間の営みであり、何かあれば自分は泣ける、という感覚も、意識する事がなくても、自然に持っています。

ここで、「どうせ滅多に泣かないのだから泣けても泣けなくても大差ないんじゃない?」と思う方もいるかもしれません。

しかし、「泣かない」事と、「泣けない」事とでは、わけが違います。泣けないという事は、泣くという能力が失われた状態であり、その人間の自然な営みが経験できなくなっている状態です。

これはどうにも落ち着かないものであり、精神的苦痛を伴うものです。

それではなぜわれわれ人間にとって、泣ける事が大切なのでしょう?

それはきっと、泣くという事が、われわれ人間の存在の根源的なものだからかもしれません。

赤ちゃんがママのおなかの中から出てきて最初にするのは、泣く事です。

生まれて間もない赤ちゃんは、それからしばらくの間、おなかが空いた時以外はあまり泣きません。寝ているか、泣いているか、ぽーっと目を開けているか。

新生児の泣き声は、とても小さいです。

しかし、時間が経つにつれて、赤ちゃんの泣き声は次第に大きくなっていきます。これは象徴的なもので、その子の自我が形成され、自己主張が出てくるのに従って、文字通り、「声が大きく」なっていきます。

最初はおなかが空いた時だけだったのが、成長するにつれ、泣く理由も次第に増えていきます。

生まれたばかりの新生児には、基本的には快と不快しかありません。その二分法です。それが目覚ましい勢いでどんどん細分化していきます。

おなかがすいた時、態勢が良くない時、オムツが気持ち悪い時、暑い時、寒い時、眠い時、目覚めているけど目が開かない時(目覚めたら目を開ければいいのだとまだちゃんとわからない時期があるようです)、怖かった時、抱っこしてほしい時、退屈な時(飽きちゃった時)、などなど、生後数カ月の時点で相当なバリエーションが出てきます。

泣く理由が増えれば、泣き方も多様化していきます。先述したように、声もどんどん大きくなります。そのうちに、涙が出ていない、いわゆる「嘘泣き」も出てきます。これがまた興味深いです。嘘泣きは、思うに、赤ちゃんが泣く事以外のコミュニケーション手段を覚える第一歩かもしれません。泣く事からの分化です。

数年前に、乳幼児精神医学や発達心理学の分野で、産婦人科の新生児育児室の生まれてまもない赤ちゃんの間で起きる、「ひとりの赤ちゃんが泣きだすと、それにつられて他の赤ちゃんも泣き出す」という現象(専門的には、"emotional contagion"と呼ばれるものです。「感情の伝染」、とでも訳しましょう)が、我々人間の共感性の起源として注目されました。一青窈さんの「もらい泣き」は、生まれて間もない赤ちゃんの頃から始まっているのです。

誰かが泣く事で、また、その泣き方で、その人の気持ちや想いが伝わってきます。気持ちが繋がります。共に泣く、という非言語的で、本質的なコミュニケーションです。

泣くというその人間の起源である現象は、個人が他者と繋がる対人関係的な機能とは別に、自分自身と深いところで繋がるという、自分自身との関係にも直結したものです。

泣く事ができなくて苦しいのは、自分自身とうまく繋がれなくなっているからかもしれません。

ふいに泣く事ができた時に多くの人が経験する「こころの浄化作用」の正体のひとつは、その瞬間、自分自身と深く繋がれた事かもしれません。