興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

自己分析の限界点

2018-07-11 | プチ精神分析学/精神力動学
サイコセラピーに積極的に参加して、それまで抱えておられた課題を克服、あるいは大幅に改善したクライアントさん達からよく聞く言葉に、「今までに私はありとあらゆる自己啓発本を読んだけれど大きな変化が得られなかった。サイコセラピーを受けてみて、それが何故だかなんとなく分かった」、というものがあります。

私のブログを読んでサイコセラピーにお越しになる方達は、非常に勉強熱心な方が多く、民間心理学(folk psychology)の情報などは、正直なところ、私より早い方が結構多いです(例えば最近ですと、”strength finder”、少し前は、”HSP” (Highly Sensitive Person) など)。「それは何ですか?」と尋ねると、皆さん丁寧に教えてくださいます。それで興味が出ると、遅ればせながらに調べてみて、必要に応じて本を読んだりします。

ここでひとつの疑問が出てきます。

民間心理学の知識量においては、私よりも詳しい方がたくさんいらっしゃるのに、彼らはこれといった決定的な変化はサイコセラピーを受けるまで得られなかったと言います。
これはいったいどういうことでしょう?

この理由には、少なくとも4つの可能性があります。

① 心理学の情報量は、個人の抱えている問題の改善、解決とは無関係である。

② 民間心理学の知識と、学術的な臨床心理学の知識との間には、質的な違いがある。民間心理学の知識だけでは治療的に十分でない。

③どんなに知的で内省力のある人にも必ず盲点があり、その盲点は自己分析の盲点となる。

④ 心理学の情報量とは独立した治療的要因がある。

他にもいくつかの可能性がありますが、とりあえずこの4つの可能性について考えてみましょう。

まず①ですが、これは私の臨床経験からも個人的な経験からも言えることですが、明らかな誤りです。心理学の情報量は、こころの問題の解決、改善において、非常に大切です。

次に、②。これは、イエスと言わざるを得ません。 民間心理学の知識と、大学院や臨床現場などで学ぶ臨床心理学の知識とは、根本的な違いがあります。実際、多くの民間心理学の情報は、すでに臨床心理学で広く知られている情報の応用であり、しかも多くの場合、その表層的な部分でしかありません。臨床心理学者は、こうした民間心理学のお話は、多くの場合、一を聞いて十を知る事ができます。

とはいっても、最近は民間心理学と実際の臨床心理学の情報の違いが以前ほど明確ではなくなってきました。これにはもいくつかの理由が考えられますが、ひとつに、日本のメンタルヘルスの業界のレベルが以前より向上していること、もうひとつは、情報化社会で、これまでは専門家の間に留まっていた情報が、一般の人達にも拡散しやすくなっている、ということです。さらに、以前よりもずっと多くの臨床家が、発信することに意義を見出していること、また、発信する機会を得るようになったことなどが考えられます。

こうしたことから、近年は、かなり本格的で有益な情報が、一般の人たちにも入手しやすくなっていることです。

たとえば、乳幼児精神医学や発達心理学。こうした分野の臨床研究や理論が乳幼児の育児本に非常に効果的に応用されるようになり、現代は、乳幼児という人間の人格形成や精神発達において最も重要な時期の親の適切な関わり方についての情報が、いつになく多くの親御さんたちの手元に容易に届く時代となっております。

トラウマケアについても、同じことがいえます。最近は、実際の臨床でトラウマケアに携わる臨床心理士や精神科医が、トラウマ克服のための本を一般向けに書くことが多くなり、以前よりもずっと、トラウマを抱えた人たちが、個人レベルで自分の抱えているトラウマに取り組みやすくなってきました。一人でできることは限られているかもしれませんが、確かな情報や、治癒への正しい糸口は、回復への大きな助けとなります。

こうした事情を踏まえて考えると、②は決定的な要因ともいえません。

③ですが、これは皆さんの多くも直感的にお分かりになるように、答えは大きなイエスです。

これは精神分析学の世界では昔から知られていることですが、自己分析にはどうしても限界があります。

人間の無意識の領域は非常に広いです。

サイコセラピーにお越しになった方のその内省力の高さに驚くことがしばしばあります。そうした方は、非常に的確な自己分析について、私たち精神分析家にわかりやすく語ってくださいますし、実際、それはこちらの仕事の手間が省けるくらいに有益な情報だったりします。

皮肉なことに、こうした方たちの自己分析のまさに盲点が、その人の問題の核心である場合が多いです(すでに彼らが気づいている領域のどこかに解決の糸口が含まれている、というよりも)。

というのも、これがまた人間のこころの複雑なところで、そうした無意識的な本人のこころの問題の核心は、つまりは理由があって本人が気づかないようになっています。

まさにそのこころの作用である防衛機制の「抑圧」によって、無意識に押し込められているからです。別の言い方をすれば、盲点とは、その人が無意識的に気づきたくない事、その時点では気づく事がこころにとって脅威であったり不都合である事だという事です。

もっとも、こうした方たちは、すでに分析マインドができているので、「そっか! どうして今まで気づかなかったんだろう!」と、治療のかなり初期段階でその無意識を意識化できることも多いですし、治療の展開も早いです。

最後に④ですが、個人的にはこれが決定的な要因だと思っています。

というのも、我々人間がこの世で抱えることになるあらゆる問題は、煎じ詰めると対人関係に線源があります。

人間は、この世に生れ落ちた瞬間から(最近では、母親の胎内にいるときから、関係性は始まっているという説が注目されています)母親という最初の人間との対人関係が始まります。この生後6か月から1年の間の人間関係が、その人の人格形成に極めて重要であることは心理学では広く知られています。

こうした母親との最初の関係性がこころの中に内在化された「内的作業モデル」(Internal Working Model, IWM)が人間関係のテンプレートとなってその後の対人関係が展開されていくので、こういう意味で、自分自身との関係も、学校での人間関係も、部活での人間関係も、恋愛関係も、職場での人間関係も、婚姻関係も、義理の家族との関係も、ママ友などコミュニティーの人々との人間関係も、こうしたなかで生じるストレスやメンタルヘルスの問題も、すべては対人関係、つまり、二者間(あるいはそれ以上)の問題であり、二者間の人間関係が本質的である問題は、やはりひとりではなく、二人で解決される性質の問題なのです。

実際、このブログで何度も触れている「修正的情緒体験」という精神力動的精神療法の中核となる現象は、クライアントとセラピストの交流をはじめとする、<他者との>「良い人間関係」でのみ体験できるものであり、相手ありきのものです。

精神分析において、クライアントが自分の問題の根本的なところを理解する「洞察」が得られたとき、それで問題が解決する人もいますが、そうでない場合のほうが多いです。これは我々精神分析家がよくクライアントから言われる事です。「自分の問題の核心が分かったのにまだよくならないよ」、と。

つまり、深い洞察は、その人のこころの問題の改善の重要な手掛かりとはなるけれど、治癒にはそれだけでは不十分である、ということです。サイコセラピストという他者を通しての、良い人間関係によって、トラウマは癒され、人格改善も可能になります。

万引き家族 レビュー その2 (本編)

2018-07-03 | プチ・映画レビュー

(結構なネタバレが伴うので、まだここ映画を見ていない方で、これから見る予定の方は、以下は映画をご覧になってからお読みください。)



けっしてはなればなれにならないこと。みんなもちばをまもること。(「スイミー」より)



小学校低学年の頃に国語の教科書で読んだ「スイミー」には心惹かれるものがあった。しかし、「今回はそれでうまくいったけれど、次にうまくいくとは限らない。いつかバレるんじゃないかな」と、子供心にその小さな魚たちの今後に不安を覚えていた事を、「万引き家族」を見ていて思い出した。

映画の中で男の子がこの話について熱心に「父親」に語りかけていたが、「スイミー」はこの「家族」の性質や、家族システム (family system) について如実に表している。むしろ、スイミーの物語にある意味この映画のすべてが集約されているように思う。

とても強い絆で結びついているように見えるこの大家族は結局のところ疑似家族に過ぎず、家族(目の黒い赤い大きな魚)に擬態しているものの、実態は張りぼてである。この巨大で強靭に見える魚の黒い目は、この男の子なのだと思う。赤い魚の中核で居続けるのは、この小さな男の子にとって、あまりに酷であったし、そんな役割をこの子が担い続けねばならなかった事自体が本当に悲しくて痛ましい。

樹木希林さん演じるおばあちゃんは全てを見抜いていて、こんなものは長続きしないと呟く。しかし死期の迫る彼女が浜辺で海遊びをする「家族」達に向ける眼差しは慈悲深く、どこか満ち足りたようにも見える。

赤くて大きな魚は、「けっしてはなればなれにならないこと。みんなもちばをまもること」が掟であったが、実態がなく、動的平衡状態で保たれているに過ぎない集団なので、ひとたびこの平衡状態が崩れると致命的となる。

男の子は、新しくできた妹が自分を真似て万引きを覚える事に対して強い葛藤を覚え、その葛藤に取り合ってくれない「父親」に対して不信感を募らせる。この不信感をこの子は今まで一生懸命見ないようにしていたが、その「否認」の心の規制もやがて破綻しはじめる。抑制していた罪悪感がやがて絶頂を迎える事になる。

この「父親」は、男の子が投げかける素朴でいて鋭い本質的な問いに答えることができない。「スイミー」の物語で、追い払われた大きな魚もかわいそうだ、という男の子の感性は鋭いが、浅はかな父親はこの問いがうまく理解できない。

(この「追い払われた」大きな魚がかわいそう、というのもこの映画の重要なテーマだと思う。

共感性とは、相手の立場に立って想像したり感じたり考えたりする能力だけれど、この父親には本当の意味での共感性が欠落している。自分の犯罪行為が他者にどのような影響を及ぼしているのか想像できない。

この「追い払われた大きな魚」は、少年の実親かもしれないし、妹の実親かもしれないし、被害にあったお店や人々かもしれない。しかしこの父親にはそんな事は関係ない。頭にあるのは、今日いかにして生き延びるかのみだ。

それにしてもこの父親もまたただの悪人では決してない。少年を救い出し、女の子も救い出した。目の前にたまたま困っている子供がいると助けるのだ。しかし、救い出して育てる事はするけれど、関りは中途半端で、基本的にニグレクトフルだし、いざという時に保身を選んでしまう。これがまた男の子を混乱させ、傷つける。少年は直感的に何か違和感を感じ続けているから、彼を「お父さん」とは呼べない。そう呼びたくても。でも自身の言動が少年を傷つけていたことにこの父親は気づけない。)


万引きという犯罪行為を繰り返す自分たちに疑問をもち、問いかける男の子に対して、「母親」は、「お店が潰れなければいいんじゃない」と無責任なことを言うが、少年が万引きを繰り返していた駄菓子屋がある日潰れてしまった。(正確には、主のお爺さんが亡くなって閉店したのだが、この子に「忌引き」の文字の意味はわからない。少年は、自分がお爺さんの店をつぶしてしまったのだと思い、彼の罪悪感は頂点に達する)。

少年の万引きをずっと前から見抜いていて、最後はお菓子まで与えてくれて、妹を巻き込まぬように優しく戒めてくれたお爺さん。その姿は父親とは非常に対照的だった。

この物語の父親に、致命的に欠落しているのは、父性だと思う。

父性とは、社会のルールや道徳、倫理観を示して教えてくれる存在だ。前作「そして父になる」でリリーフランキーさんは、一つの理想的な父親を演じていた。貧しいけれど、温かく、誠実で、正直で、家族を何よりも大切にする父親だ。一見すると、今回のリリーフランキーさん扮する父親は、前作の父親とそっくりであるが、決定的に異なるのがこの父性だと思う。

この映画のテーマはたくさんあるけれど、貧困と格差社会、幼児虐待、ネグレクトなどの自明なものとは別に、「正義だとか正しさの相対性」というものがあるように思う。

事実(fact)は一つでも、真実(truth)は決して一つではない。

彼らが共に戦っていた大きな魚はなんだろう。いろいろある。弱者にとことん冷たい格差社会、暴力、虐待、裏切り、搾取、そして法律。

警察が彼らに突きつけてくる正義は、正論であり、客観的事実であるけれど、それらは必ずしも真実ではない。だけど、その事実は厳然たる事実であり、それは彼らが意識的、無意識的にそれまで合理化し、否認して見ないように、考えないようにしてきた事実だった。その事実を意識化せざるを得なくなった時、それに向き合わざるを得なくなった時、父親を筆頭に、彼らは持ち場を守る事も、離れ離れにならない事も、できなくなった。悲しいほどにバラバラになった。

それでは彼らの共同生活は、共に過ごした日々は、無駄だったのか? 無意味だったのか。

決してそんな事はない。

彼らは力を合わせて大きな魚になる事で生き長らえていたし、そこでの互いの繋がりや親密さはそれぞれの心の中に内在化されて生き続けるのだろう。

あの小さな女の子が、その小さな手のうちの小さなビー玉の中に見た宇宙は絶大であり、そこには無限の可能性がある。


「万引き家族」のレビュー その1

2018-07-03 | プチ・映画レビュー

先日、映画「万引き家族」、見てきました。思うところは多く、とても全てを書ききれませんが、個人的なログとして書いてみます。

いやはや、凄まじい映画ですね。非の打ち所がないクオリティです。今回のパルム・ドール受賞は受けるべくして受けたというところですね。この映画、本当に素晴らしいですが、私としては、衝撃も非常に大きく、見てから3日経った今でも正直消化しきれていません。プロセス中です。この映画のとりあえずの全貌を理解して自分なりにきちんと消化するのには少なくとも1週間は掛かりそうです。

私の隣に小学校中学年ぐらいの子が座っていましたが、この年代の子にはオススメできませんね。多分その子の親御さんもこの映画が具体的にどんなコンテンツかご存知なかったのでしょう。ポップコーン食べまくっていました。そのままお腹いっぱいになって熟睡のうちに映画が終わる事を密かに願っておりましたがダメでしたね。ポップコーン食べ終わってガン見しているようでした。皆さんも、お子様を連れていかれる時はご注意ください。お子様の精神年齢にもよりますが、少なくとも中学生以上であることが必要だと思います。

また、この映画は全ての人が楽しめるものではないかもしれません。想像力のない一部の大人達が、「日本人は万引きで生計を立てたりはしない」、「日本人は真面目で勤勉だ」、「日本人のイメージダウンだ」といった、的外れで頓珍漢なバッシングをしているようです。

この映画、本当に良いですが、ディズニー映画のように無害なものではありません。精神的にかなり堪えますし、それなりの覚悟をもって行くべきです。

と、レビューを書く前に時間切れです。レビューは次のエントリーで行います。よろしくお願いします。