興味津々心理学

アメリカ発の臨床心理学博士、黒川隆徳によるあなたの日常の心理学。三度の飯よりサイコセラピーが好き。

間主観性と人間関係 (Intersubjectivity and Interpersonal Relationship) その1

2013-05-24 | カップル・夫婦・恋愛心理学

 近い人間関係、たとえば、夫婦関係、恋愛関係、親しい友人との友好関係などにおいて、その2人の人間は、様々な状況、出来事などにおいて、それぞれの主観性(Subjectivity)を相手に表現することによって、共有された第三の主観性、「間主観性」(Inter-subjectivity)を通常無意識的に2人で構築していく。

 たとえば、最近付き合い始めた真治さんと美央さんは、相性が良く、意気投合し、2人の将来について語りだすようになったのだけれど、ここで、この2人の人間が、それぞれの理想、願望、必要、欲求、期待、希望などについて相手に話していく。この繰り返される会話の中で、それぞれがそれぞれの主観性を認識し、その自分の主観性と相手の主観性が徐々に「2人が共有する2人の未来像」という共有された主観性、間主観性を作り出す。この「2人の未来像」は、真治さんと美央さんがそれぞれはじめから持っていたイメージとは多かれ少なかれ異なったもので、当然ひとりでいては生まれなかったもの、相手の主観性があって初めて生まれたものだ。

 別の例をあげると、結婚生活3年目の博史さんと夏美さんが夏休みの休暇に海外旅行に行こうという計画を立て始め、しかし最初の段階で、博史さんはハワイをイメージし、夏美さんはイスラエルをイメージしていたため、この「ハワイとイスラエル」というかけ離れたイメージから、2人はどうしてハワイなのか、どうしてイスラエルなのか、会話を重ねていく。自分の気持ちをきちんと意識しながら、相手の気持ちに良く耳を傾けていくうちに、2人はやがてそれぞれの気持ちや欲求や興味が共有された、第三の場所を見つけていくかもしれないし、今回はハワイ、次回はイスラエル、となるかもしれない。何はともあれ、博史さんと夏美さんがゆっくりと対話を重ねて出てきた答えというのは2人の主観性の交差点、間主観性によって出てきたもので、この2人の親密な人間関係によって作られたものだ。

 ここまでが前置きで、健全な人間関係において健全な間主観性がどのように構築されていくか簡潔に述べたわけだけれど、ここからが本題、それでは何が2人の人間関係に問題を起こすのか、ということについて考えてみたいと思う。

 人間関係の軋轢には当然様々な理由がある分けれど、今回のテーマ、間主観性という観点からみると、「2人の人間が間主観性を築けないとき」、それから、「2人の間の間主観性の場(Intersubjective field)が崩壊したとき」、その人間関係に問題がでてくる、ということができる。

 たとえば前述の2つの例において、付き合い始めた真治さんと美央さんが、意気投合し、2人の将来について話し始めたら、それぞれの両親、家族との付き合いにおいてそれぞれどうしても妥協できないことの存在が明らかになったり、出産、育児、キャリアなどを巡ってどうにもならない価値観の相違が明らかになったりして、ぞれぞれがそれぞれの主観を表現するものの、2人とも到底その考えに賛同できずに共有するものが見出せない、というときに、2人の人間関係には当然問題がでてくる。ここで精神分析学的に何が起きているのかというと、「2人の人間が間主観性を築けずにいる」ということだ。

 2つ目の例では、博史さんが夏美さんのイスラエルに対する情熱に全く興味を示さなかったり、夏美さんが博史さんのハワイへの気持ちを平凡でつまらないと切り捨ててしまっては、2人が築き始めた「海外旅行」という事象において共有するものが見出せないため、この「2人の間の間主観性の場の崩壊」が起こり、それが人間関係に悪影響を及ぼすことになる。

 ところで、お気づきの方もおられると思うけれど、上記のまずい例においてこの2つのカップルに共通して見られるのは、それぞれが、「2人で一緒に何かを作り上げていく」という、人間関係における基本的で且つ不可欠なことを忘れてしまったり、怠ったり、できなくなってしまっている、というだ。

 今のあなたの大切な人間関係において、何かが間違ったほうに動き始めていると感じていたら、その人間関係において、1)どれだけあなたが自分の主観性を相手に表現できているか、そして、2)どれだけあなたが相手の主観性を認識できているか、そこに興味を持てているか、について考えてみると、その人間関係の改善に繋がる良い発見があるかもしれない。

 ところで、よくある人間関係の問題で、2人の人間のうちのひとりが一方的に自己主張をし、相手が自分の言うことを聞くことを強いるようなときが考えられ、ここでは、2人の人間が交流しているにも関わらず、そこは一人の人間の主観だけになってしまっているのが問題だ。

 主張する側が相手の主観性を完全に無視していたり、もう一方が、自分の主観性を全く表現できなくなってしまっている状況で、2人はよいものを共有できないし、そこに間主観性は存在しない。

 これは極端な例だけれど、もっとよくあるのは、このパターンのバリエーションで、一方の主体性が70-80%、もう一方の主観性が20-30%などと、釣り合いが取れていないために、その間主観性に大きな歪が生じているという状況がある。

 ここでいえるのはやはり、時々立ち止まって、どのくらい2人の間に「良い場」があって、今あなたがどのくらい相手の気持ちや考えを理解していて、また相手がどのくらい自分の今の気持ちや考えを理解してくれているのか、考えて、そのバランスに問題があったら、まずはそのバランスの問題について相手と話し合いを始めるのが得策だ。

 なぜなら、この2人がその人間関係の問題について相手と語り始めることそのものが、2人が(再び)一緒に間主観性を築き始める第一歩となるからだ。これは専門的にはMeta-communication(メタコミュニケーション)と呼ばれるもので、二人が嵌ってしまっているコミュニケーションの問題そのものについて、コミュニケーションを取る、というテクニックだけれど、話が長くなるので、Meta-communicationについてはまた別の機会に紹介してみたいと思います。。。

(Facebook, Twitterなどのシェアはご自由にどうぞ)


Don't throw the baby out with the bathwater (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)

2013-05-08 | プチ認知行動心理学

 アメリカ英語に、"Don't throw the baby out with the bathwater" (赤子を湯水と共に捨てるなかれ)という面白い表現がある。これはドイツの諺が元になっているようだけれど、アメリカ人がしばしば使う慣用表現だ。

 ずっと昔、まだ今のような文明がない時代、人々は一家全員で同じ風呂の同じ湯水を使いまわし、赤ちゃんを洗うのはたいていその仕舞い風呂であり、赤ちゃんを洗ったあとの湯水はだいぶ汚くなっている、という背景があったようだ。人々はその仕舞い風呂のすっかり汚れた湯水を当然捨てるわけだけど、この汚くなった無益な水と共に赤ちゃんまで捨ててしまわないように、という話である。

 奇妙でありえない話だけれど、この諺の意味するところは、大事なもの、良いもの(赤ちゃん、Baby)を、その大事なものに付随する悪いもの、厄介なもの(汚い湯水)と一緒に捨ててしまわないように、ということだ。実際、何かよいものが、悪いもの、厄介なものと共存していてなかなか切り離せないような状況にうんざりしてきてすべてを投げ出してしまう、という人は少なくない。

 例えば、ある人が、とても大事に思っている恋人の家族がどうしても好きになれなかったり、また、恋人の持っている問題(借金、その人の以前の恋人との問題、多い出張、飲酒、喫煙など)が嫌で、葛藤している人が、その葛藤に耐えられずに衝動的に別れてしまうような状況だ。また、好きな習い事に通っていた人が、そのクラスに嫌いな参加者がいてそれが嫌で習い事をやめてしまったりとか、念願の仕事についた人が、その仕事にまつわる面倒な任務にうんざりして衝動的に辞めてしまったり、好きな人が犯した間違いが許せずにその人のそれ以外の性質は今でも気に入っているのに衝動的に関係を絶ってしまったり、ミクシィなどのSNSを長年楽しんでいた人が、そのたくさんの友人のなかの一人との問題に嫌になって退会してしまったり、長時間掛けて絵を描いていて、その出来栄えが気に入っていたのに、ふいにミスをして、そのミスがどうしても嫌で絵を丸めてゴミ箱に捨ててしまったり、などなど、枚挙に暇がない。

 この諺のポイントは、その言外にある「衝動性」と、分離機制(Splitting)というこころの防衛機制だと思う。分離機制とは、Black-or-white thinking(黒か白かの思考パターン)、All-or-nothing thinking(全か無かの思考パターン)とも呼ばれるもので(これについては別のブログで詳しく述べようと思っています)、世の中のほとんどの物事は、白か黒かではなく、そのグレーゾーンが存在するわけだけど、このグレーゾーン(完全に良いとも完全に悪いともいえない領域)は、そこに立ち続けるのはなかなか居心地が悪いもので、人はしばしば衝動的にそのどちらかを選んでしまう。赤ちゃんは大切だけど、その赤ちゃんが入っている湯水はとても汚い、よって赤ちゃんも汚いもの、となってしまうのは、観葉植物を育てていた人が、楽しんでいたのに、そこにたかっていた毛虫が嫌でその植物を捨ててしまったり、恋人と喧嘩したらその恋人が最低な人に見えてきたりとか、尊敬していた大学教授が何かおかしなことを言ったことで急に敬意が消失して彼が駄目教授に思えてしまう、というようなものだ。

 今、あなたが何かに苦心していたり、うんざりしていたりして、その何かから逃げたくなったり、すっかり足を洗ってしまいたくなっていたら、この諺、Don't throw the baby out with the bathwater、赤子を湯水と共に捨てるなかれ、を思い出して、今一度立ち止まって考えてみると良いかもしれない。何が本当に大切で、何が実はどうでも良い、瑣末なものなのか、また、瑣末でなくても、その好ましくないものが、好ましいものと一緒くたに諦めてしまうほどに悪いものなのか、今一度検討してみるといいかもしれない。

 もしかしたら、それは一時の気の迷いかもしれないし、またもしかしたら、それは本当に潮時で、そこから退くのに良いときなのかもしれない。ポイントは、その判断が、湯水を流すように衝動的なものであるかどうか、ということと、その悪いものに惑わされて、良いものまでが悪いものに見えてしまったり、またその良いものを見失ってはいないか、ということだ。真っ白な状況、真っ黒な状況は、そうそう存在しない。