日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

静岡の蓮永寺(2)お万の方の供養塔

2024-09-09 | 徳川家康

蓮永寺の墓所には、お万の方の供養塔があります。

養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万。
母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭の娘、あるいは田中泰行の娘(=北条氏尭の養女、板部岡江雪斎の姉の娘・姪)ともいい、諸説ある。
実父の正木頼忠は上総勝浦城主正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の跡を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は後北条家家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。
伊豆で成長した万は慶長元年(1596年)頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年8月に鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。慶長8年(1603年)に常陸水戸20万石が長福丸に与えられ、慶長11年(1606年)に下総下妻10万石が鶴千代に与えられた。慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河・遠江50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封された。(Wikipediaより)

その他、勝海舟の母・信子と、妹(佐久間象山の妻)じゅんの墓もあります。

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静岡の蓮永寺(1)駿府城鎮護の寺

2024-08-30 | 徳川家康

静岡市葵区の沓谷(くつのや)にある蓮永寺は、文永11年(1274)、日蓮上人の高弟・日持上人によって庵原郡松野村(現在の富士川町)に開創されました。

その後、衰退しましたが、徳川家康の側室・お万の方の発願により、元和元年(1615)、駿府城鎮護の寺として現在の沓谷に移し、再興されることになりました。

山門


仁王門


実に広々とした境内です。



鐘楼


庫裏


客殿


本堂



蓮永寺(貞松山蓮永寺・みまつさんれんえいじ)
 蓮永寺は、はじめ庵原(いはら)郡松野村に建てられてあったが、元和元年(1615)、お万の方(の発願によって、駿府の鎮護とすべく、この地に再興されたものである。
 お万の方は、上総国(千葉県)大滝城主正木左近太夫頼忠の娘で、後に伊豆河津の笹原城主蔭山氏の養女となり、徳川家康に仕えて2人の男子を産んだ。上の子は、家康の第10子頼宣(紀州家)で、下の子は、第11子頼房(水戸家)である。水戸黄門の名で知られる水戸光圀公はお万の方の孫に当るわけである。
 お万の方は、熱心な法華経の信者で、特に身延山久遠寺日遠上人の帰依者であった。元和2年(1616)4月17日に、家康が駿府城で歿すると、剃を下して養珠院と号し、この蓮永寺にこもって、家康公の菩提を弔ったということである。晩年は、わが子頼宣のもとで平穏に暮らし、77歳でこの世を去った。
 境内には、当時の権勢を誇るかのように、身の丈を越える立派な供養塔が建てられている。また近くには勝安房の母信子と妹じゅん(佐久間像山の妻)の墓がある。
 寺宝 家康ゆかりの品が数多く保存されている。
             静岡市

 
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大善寺の亀姫の墓

2024-08-18 | 

JR飯田線「新城駅」から徒歩4分のところにある大善寺には、亀姫の墓とされる五輪塔があります。



本堂



亀姫は、徳川家康との築山御前の長女で、兄は松平信康。奥平信昌の正室。

永禄3年(1560年)、駿府で生まれた。元亀4年(1573年)ごろに家康が奥三河における武田氏の勢力を牽制するため奥平氏の帰順を試みた際、織田信長の提案で亀姫と新城城主・奥平信昌の婚約が提示条件の一つとなり、長篠の戦いをめぐる戦功への家康からの褒美として天正4年(1576年)7月、信昌へ嫁いだ(「徳川幕府家譜」『徳川諸家系譜第一』)[3] 。生涯、信昌に一人も側室を置かせず、自身で4人の男子(家昌・家治・忠政・忠明)と1女(大久保忠常室)を儲ける。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦勝により、慶長6年(1601年)夫・信昌が美濃加納10万石に封じられ、三男・忠政共々加納に移ったことから、加納御前・加納の方と呼ばれるようになった。やがて忠政、宇都宮藩の嫡男・家昌、信昌と夫子らの相次ぐ死去を受けて、剃髪して盛徳院と号し、幼くして藩主となった孫たちの後見役となった。

寛永2年(1625年)、加納において66歳で死去した。戒名は盛徳院殿香林慈雲大姉。墓所は光国寺(岐阜県岐阜市)、法蔵寺(愛知県岡崎市)、大善寺(愛知県新城市)にある。4人いた妹たちには全て先立たれている。(Wikipediaより)

この五輪塔は、信昌と亀姫の子・4男の松平忠明が、亀姫の供養のために建立したものです。



大善寺と亀姫

天正3年、長篠の戦いで大功のあった奥平貞昌は、織田信長から信の字を賜って信昌と改め、家康の長女亀姫をめとり、新城城を築き、入城しました。

亀姫は熱心な浄土宗の信者で、当地に大善寺を建立し、後年母築山御前の法要、長篠の戦いの戦死者の供養を行いました。

天正18年信昌は、上州(現在の群馬県)宮崎3万石、さらに岐阜加納10万石に移封され、亀姫は加納御前とよばれ、寛永2年死去されました。

亀姫の没後、四男松平忠明は母の供養のために五輪塔を大善寺に建立し、現在に至っております。

大善寺が江戸時代から葵の紋の使用を許されているのは、亀姫の開基によるからであります。   新城市観光協会

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本多忠豊の墓碑

2024-08-05 | 

本多忠豊は、徳川四天王の一人、本多忠勝の祖父にあたります。

1544年(天文13年)9月、安祥城は、織田信長の父・織田信秀に支配されました。

安祥城を奪還するため、岡崎城の徳川家康の父・松平広忠は、1545年(天文14年)9月、上条西で織田軍と交戦。(第二次安祥合戦)

織田軍の援軍によって挟み撃ちにされ、敗北した松平広忠を逃がすため、殿軍(しんがり)を務めて討死したといわれています。

三河国乗子の大中寺に葬られ、後に妙源寺に改葬されました。

墓碑は、討ち死にしたと考えられる場所に建立されています。

 

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本多忠高の墓碑

2024-07-27 | 

安祥城の近くの住宅地の中に、本多忠勝の祖父と父の墓碑があります。

墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)にあり、戦死地の安城町赤塚にも墓碑が建てられています。

まずは、本多忠勝の父・本多忠高の墓碑から紹介します。

市指定史跡 本多忠高墓碑
 天文九年(1540)尾張の織田信秀(織田信長の父)が、安城城(安祥城)を奪い取ります。その後、天文十八年(1549)までの約10年間、安城城争奪戦、いわゆる『安城合戦』が繰り返されました。

 天文十八年(1549)、岡崎城主・松平広忠(徳川家康の父)が没しました。同年、今川・松平軍は太原崇孚(たいげん そうふ)雪斎を総大将とし、織田軍が占領する安城城を攻撃しました(第3次安城合戦)。先鋒となった松平軍の主将・本多忠高(本多忠勝の父)は、安城城代・織田信広(信長の兄)に追い迫りましたが、城の本丸近くまで深入りしたため、この場所で敵の矢に当たり戦死しました。

 寛政九年(1797)、岡崎藩主・本多忠顕(ただあき)により、忠高は戦死した地に墓碑が建てられました。さらに同十一年(1799)、妙源寺(岡崎市)に葬られていた忠高の遺骨を安城に改葬したとされます。

 忠高は天分十四年(1545)の安城清畷(せいなわて)の合戦(第2次安城合戦)で戦死した本多忠豊の嫡子であり、本多父子の墓は徳川に功績があった者だけに許される大亀の墓碑をもちいて築かれ、大学頭林衡(だいがくのかみ はやしたいら)の撰文で顕彰されています。忠豊の墓碑は、安城町赤塚の住宅地の中に建てられています。

安城市教育委員会


本多 忠高(ほんだ ただたか)は、戦国時代の三河国の武将。松平氏の家臣。子に本多忠勝。

本多忠豊の長男として誕生。弟に忠真がいる。

父同様、松平清康や松平広忠に仕えた。天文16年(1547年)、松平一族で、家督を狙う松平信孝が反乱を起こした際にも出陣し、また、翌年にも、尾張国の織田信秀が三河国に侵攻すると、今川氏の太原雪斎と広忠は小豆坂にて迎撃し、忠高もそれに従い織田軍と戦い、勝利を収めた(小豆坂の戦い)。

しかし、天文18年(1549年)3月、主君・広忠が岡崎城内で岩松八弥に暗殺され、松平氏や三河国人衆は大きく動揺した。今川氏当主・今川義元は三河国人衆が織田氏に寝返ることを恐れ、腹心の太原雪斎を送って織田氏の三河国の拠点であった安祥城を攻めた(第三次安城合戦)。守将の織田信広は城をよく守ったため、忠高は大久保忠俊らとともに昼夜たがわず攻めたてたが、敵の矢に眉間を貫かれ討死した。

墓所は妙源寺(愛知県岡崎市大和町)。戦死地の安城市安城町赤塚(安城市歴史博物館横・大乗寺の境内)にも墓碑が建てられている。
(Wikipediaより)

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