千里山ブラウズ

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掌小説『菜の花』

2006-01-26 09:39:22 | 作詞・作曲


  菜の花        小畠 功

 「博子さんまだ眠っとんかの?」
 物置きから古い自転車を出すのを私がひきうけて、朝の薄い陽溜まりに運んでいくと、待っていた母はそう尋ねたが、その口振りに何も非難めいたものはなかった。
 「ええ、あの人も昨日は一日中、夜も遅くまで気を張っていたからでしょう、どうも疲れたようです。僕が起き抜けるのも気付かずにいたくらいですから、そのままにしてきました」
 「ああ、そうしてあげたらええ。休むのも昨夜は遅うなったしの」
 老いて小さくなった母は私を見上げながら微笑した。五旬日前に父を失くして以来、今ではその微笑が母の顔に貼り付いたようになった。しかし、二年間付きっきりで看病していた頃にも、また、さかのぼれば死んだ祖父や父、そして私達兄弟のまわりにはいつも、その哀しい表情があったような気がする。
 母の言葉に他意はなかったが、私は昨夜博子に加えた自分の行為を責められている気になった。博子は私の婚約者として、父の七七日の法要の為、私が東京から伴って来たのだった。一昨日の夕刻帰り着くとすぐ二階に床を延べてもらい、無理に休息をとらせた。博子は私と婚約後肋膜を患い、半年余りの療養生活を終えたばかりで、本人が言うほどには誰の目にも健康とは見えない。その夜、別室に私の布団を延べようとする嫂(あによめ)に、「いいんだよ、もう僕らは一つの部屋で」と私は言った。捜はクスッと目で笑い、「それでも…、じゃお母さんに聞いてから」と本当に母に相談したようだった。結局長い間待たされて要望は叶えられたが、そんななりゆきを私はおかしく見守っていた。家の者が博子の気持や身体を労ってくれるのは嬉しかった。
 昨夜私が博子を求めると、しばらく笑っていた博子の目がしだいに怒ったような真剣さを帯びて来て、私を探るように凝視(みつ)めた。私は、博子に触れたまま動きを止めて、その眼差しに再びやわらかい光が戻るのを待った。やがて博子は溶けはじめた。私は慌しく博子を追い詰め、余裕なく自分も果てた。博子のはだけた皮膚うすい胸は汗ばんで熱を帯び大きく上下した。
 母が以前もっぱら使った婦人用自転車は、二年ぶりに表へ出すと、さすがに細かな挨を被ってい、タイヤも空気の弾力を失っていた。母が再びこの自転車に乗ることは、父の看病からの解放を象徴するように私にはうつった。残された家族の中をようやく日常的時間が動き始めたようだ。見通し暗い病を受け、その死を待たれる状況に苦しみつつ、父はやっと母を解放することが出来た。いや父自身が解紋されたのだった。こうして父の死は縁者達それぞれの心の中で、何か誤魔化しに似た操作を受けて、美しい想い出に変わり、あるいは忘却されてしまうのだろう。
 「じゃあ、あんたはあっちに乗りぃ。母さんはこれが乗り慣れとるし。空気入れてくれたら早うに寺山さん(付近一帯の墓所)へお参りに行こう。あんな淋しい所にほっとかれて、父さん心細いやろうからの」
 ハンドル籠に開伽(あか)水を汲む薬缶を入れて二人は出発した。ここ十年ばかり私は帰郷しても、村全体を見歩くことをしなかった。その間に村を一周する道路は立派な二車線になってい、以前なら凸凹道に音立てて踊った薬缶の蓋も、今日は静かに運ばれていく。一月の午前の冷気は風はなくとも山蔭に入ると懐まで凍みてき、私はしばしば母を捨て置き日蔭をつっ切り、小山を巡って陽溜まりに一息ついては母を待った。例の微笑が近づいた。路傍の畑に菜の花が見えた。盛りの時節とはちがって畑の隅にひっそりと忘れられたような微かな風情であった。
 「あれを採って行こうよ、いいよあれは」
 「綺麗やけど、だまって持っていったらいかんの」「いいさこれくらい、別に売物じやなし」その時、ちょうど持主のおばさんが少し離れた畑に伏せていた顔を上げた。「ちょっとこの綺麗な菜の花、お父ちゃんに祭るのんにもらいますよォー」。おばさんは何か言いながら幾度もうなずいていた。
 寺山は村を囲む小山の一つで、そこは蔭りになっていたが不思議に暖かかった。自然石を置いた仮り墓は、一夜のうちに野鳥に荒らされ、祭り物の果実や菓子が散乱していた。母が新しく供え直し、菜の花を手向けて瞑目している後ろで、私は限下に広がる故都の変貌に感傷的になっていた。耕地の七割近くを荒した村の姿は、そこを捨て、帰郷してもろくに顧みようともしなかった私を、無責任な感傷に浸らせるのに十分だった。田畑を耕すことで妻子を養えたのは父まで、それも短い一時期のみであった。
 父の死はある意味では、私にも待たれたものであった。それは、東京に居てその容態の情報に一喜一憂する時々に、否定しても忍び込み、しだいに飼い慣らされた思いだった。その感情は、私をちょつと不愉快にし、私はそれを取るに足りぬ詰まらぬことだと思おうとした。確かに私は、安穏な日常に加えられるであろう衝撃を秘かに期待し、父の死に身構えていたのだった。
 山を降りると少し風が出ていた。死者の寝所(しんじょ)は穏やかな夢に包まれて、としみじみ振返ると、遙かな山々の峰に、雪を孕んだ雲が寄せていた。帰宅までには捕まりそうな所まで雲は迫っていた。東京育ちの博子に菜の花を見せてやろうと思っていたが、そのための道草を厭うほどに寒風は増して厳しくなってきた。「博子へはもういいでしょう。風邪をひかないうちに帰ろうよ母さん」言いざま私は発車。往きと同様に少し走っては無風地に母を待った。母のペースは崩れない。四度目に追い付いた時、母の籠に菜の花が一束差し込んであった。私は薬缶とそれを交換させられた。
 父の死は穏やかに、嘘のようにあっけなく訪れた。私の心には微かに不謹慎な不満が残された。父の病室は翌日すぐ別の患者でふさがった。名残りを惜しみ、見送ってくれた人々に慌しく告別した父は、ニ時間足らずに煙となった。父は巧妙に厳粛に忘れ去られた。
 帰り着くと、博子は嫂と何かおかしそうに話しながら洗濯物を取入れていたが、私の前の菜の花を見つけると果して駆け寄ってきた。
「からだ大丈天、お寝坊さん」「あら、すみません」と丁寧にお辞儀をして、「いやね、健康になつていくって、ぐっすり眠れることだったのです」と甘く笑った。博子は嫂にも菜の花を見せながら、「でも四国は本当に暖かいのね、こんな頃に菜の花が咲くのね」。母が実はこれは野沢菜の花だと教えている。
 父は私に、私の生き様の皮相さを示してくれたように思う。父の死は私にとって何でもなかった。何の傷みも私は受けなかった。そういう不遜な事実を私に気付かせて父は逝った。気付くことが即ち改まることではないだろう。がしかし、博子に菜の花を手渡す時、私の心は僅かではあるが“貧しく”なれたと思った。

                     〈完〉(c) 2006, Skyfull Stars

※ 徳島新聞『とくしまの小説』に投稿掲載されました。

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1 コメント

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小説も・・・。 (世界の花)
2006-01-26 23:09:44
俳句の次は、小説・・・。ブログを開けるたびにセクションが増えていくのは楽しいですね。何が書いてあるのだろうと、最後まで読んでしまいました。何だか心が柔らかくなるようです。ドイツでも楽しみにしています。
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