サイババが帰って来るよ

Count down to the Golden age

そろそろ足を洗いましょう

2017-05-18 16:00:07 | 日記

罪への恐れは減少し、邪悪な行いが昨今の風潮になってしまった。
神への信愛は消え失せてしまった。
言語に絶する悪い行為が増え続けている。
ああ、人間よ! 神の御名を唱えることだけが人に平安と幸福を授けられるということを理解せよ。2/4/2003

ポニョ:日本は五月晴れと言いたいけれど、曇りの日が続いているな。そっちは冬やろ。

ヨシオ:ここは内陸で寒暖の差が大きいんや。朝方は三度ぐらいまで気温が下がって来たな。昼間は二十度近くあるけれど。寒さに弱くて体調を壊しやすい嫁さんは、一週間前にパースに住んでいる子供達のところへ引っ越したので、俺と娘だけの生活が始まったんや。鯉やフナもそろそろ餌止めしようかなと思っているんや。水温は13度に落ちて来たし。娘も毎日仕事で忙しいし、金曜日から月曜日までパースで習い物をしているから、農場にいるのは三日間だけやから普段顔を合わさないし、俺は買い物が嫌いやから街に出ないし。誰とも会わないし、話さない日が三ヶ月間ほど続くんや。

ポニョ:それってあんたにぴったりやないの。

ヨシオ:そうなんや。食事も昼過ぎに一回食べるだけで充分やし、早朝三時に起きてルッドラムを唱えたり、サイラムを唱えたり、家の周りを歩いたり、太陽を拝んだりして午前中を過ごし、昼間は家の修理やら倒木をチェーンソーで切ったり、倉庫の修理をしながら一日が過ぎて行くんや。

ポニョ:それってまるで仙人の生活やぜよ。羨ましいな。一日一食は真似出来ないけれど。

ヨシオ:一日一食の方が身体にはええんやで。特に俺たちのように還暦を過ぎた老体には。

ポニョ:どうぞ御自由に一日一食の食事を楽しんで下さい。ポニョ:ところで六月十一日に石川県でエーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナをやるんや。場所は小松のちょっと北の方かな。
http://www.sathyasai.or.jp/event/20170611kanazawa2.pdf

ヨシオ:小松に俺のお袋が都島の国民小学校から学童疎開してたな。確か正徳寺というお寺で、その時の様子は娘が書いたお袋の伝記TOYOという本に詳しく書いてあったな。粟津温泉の近くやったらしい。

ポニョ:粟津温泉ならすぐ近くやぜよ。駅で言えば三つ目くらいかな。とにかく規模が大きいんや。千五百人も入る円形ホールを借り切ってするんやで。遠方から来た人には弁当も出してくれるんやて。おいらも行こうかな。

ヨシオ:それはすごいな。ポニョは弁当に釣られて行くんか?護摩壇とかも準備されるんやろか?火災警報装置が作動してえらい騒ぎになるやろな。

ポニョ:それは野外でないと無理やぜよ。

ヨシオ:でも火鉢のような小さな護摩壇だったら大丈夫やろ。割り箸とか爪楊枝みたいな小さな白壇の木を燃やすんや。だってエーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナをすると、ありとあらゆる神さんがやって来られるから、ちょっとぐらい手土産を持たせて帰ってもらわないといけないんや。せっかくエーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナをして神さんを呼んだのに、手ぶらで帰らせるわけにはいかないやろ。俺はこの前、シヴァラトリの日に一人でエーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナをしたけれど、サイババさんが言われたように、ルッドラムを唱える時は少なくとも葉っぱを一枚お供えしなければいけないんや。本当は一つの枝から三つに葉っぱが分かれている神聖な木から取って来たやつがええんやけれど、そんな木って日本に無いやろ。

ポニョ:この世界は三つあるから、一つの葉っぱが一つの世界を代表しているんやろな。三つに分かれた葉っぱか?探したらあるかもね。でもたくさんの人たちがやって来てエーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナが出来たら、世界中にすごい波動をまき散らすことが出来て、大艱難が小艱難になるかもしれないぜよ。

ヨシオ:それやったらええよな。エーカーダシャ ルッドラ パーラーヤナか。今、日本で出来る最善の事かもしれないよな。これから世界でいろんなことが起こるしな。俺もそろそろ身を軽くしないと。そういや昨日、末っ子が六才の時から十七年間バスケのトレーニングをして来たけれど、お父さんはそろそろバスケから足を洗うので、これからは自分でトレーニングして下さいというレターを出したんや。だから俺はもうパースに行く理由が無くなったので、これからは毎日、ここで神さんに集中して時間を過ごせることになったんや。

ポニョ:末っ子さんも二十三才やろ。もう立派な大人やぜよ。

ヨシオ:でもバスケのトレーニングをずっと一緒にやって来て、俺は息子のプラベートトレーナーみたいな存在やったんや。だからもう俺とトレーニングが出来ないと知って、少し落ち込んだみたいやな。

ポニョ:十七年は長いよな。小学生の時からやろ。

ヨシオ:俺は自分の義務をする事しか興味が無いんや。サイババさんは子供が二十一才まで親が責任を持って育てやなあかんと言われているやろ。だからそれまで頑張って来たんや。でももう二十三才やから、もう二年も超過してしまったんや。二年前に息子が二十一才になった時は、これでもう息子への義務が終わったしバスケから足が洗えると思って、半年間パースに行かなかったんや。でも息子が三点シュートのフォームをチェックして欲しいと頼んで来たので、何ヶ月か掛けてフォームを変えたら、今年リーグで三点シュートの入る確率がトップになったんや。それでこのままのシューティングの確率が続けばオールスターゲームに選ばれるし、俺はもうこれで本当に足を洗おうと決意したんや。でないときりが無いやろ。

ポニョ:リーグでトップってすごいよな。アメリカからのインポートも含めた話なんやろ。

ヨシオ:今のところは三点シュートの確率は56%もあるんや。結構ええところを行ってるやろ。三年前は34%やったから大きな進歩や。インポートは全部で三十人ぐらいいるけれど、ほとんどがカレッジを卒業して直接来たり、どこかのプロリーグでやってた連中やな。日本のプロリーグでやってた選手も見かけるし、元NBAプレーヤーもいるで。

ポニョ:でももうバスケから足を洗うって寂しくないか?

ヨシオ:俺はさっきも言ったように、自分の義務をする事しか興味が無いんや。本来バスケに興味なんて無いんや。ただの玉入れやろ。玉入れのプロになる為に、なんでそこまで必死にならないといけないんや。だから末っ子への義務は終わったから、もうゲームも見に行く気は無いな。もちろん見に行けば面白くて楽しめるけれど、この世から得れる楽しみって束の間のものやしな。今日からこの世の束縛の一つが俺の前から消えた行ったので嬉しいな。

ポニョ:そういう風に割り切って考えれるって、なんだか少し冷たいような気がするぜよ。末っ子さんが少し落ち込むのも無理は無いぜよ。

ヨシオ:それじゃ一体どこまで面倒を見ればええんや。きりが無いやないか。サイババさんは子供が二十一才になれば、自分の子供ではなく他人だと思いなさいと言っておられるんやで。

ポニョ:そこまで言われているんか?おいらが読んだ講話には、親の子供に対する義務は子供の結婚相手を見つけて無事に結婚さすまでと書いてあったけれど。

ヨシオ:それってインドやからやろ。ここオーストラリアではほとんどお見合いとかで結婚しないんや。俺の周りの人では少なくとも見かけないな。ヒンドゥー教の教えを守っているインド人やスリランカのタミル人は、ホロスコープをチェックしたりして親が結婚相手を探しているみたいやけれど、インド人の子供でさえオーストラリアで育った子供は自分たちでパートナーを探すのが普通なんや。俺の子供たちもみんなそうしてパートナーを見つけて来たな。良い子ばっかりなので、俺は満足してるけれど。

ポニョ:バスケのゲームも見に行かないって、毎年バスケのシーズンが始まるのを楽しみにしていたのに、よくそこまで割り切れるな。

ヨシオ:人生って一つひとつ世俗的な事を自分から切り離して行かなければいけないんや。だって生まれた時は、何の世俗的な事も持って生まれて来ていないやろ。そういうものを身に付けたのは生まれて来てからなんや。だから死ぬまでにきれいに返却するんや。それに世俗的な事を一つひとつ切り離して行けば、それだけ神さんに近づいて行けるんや。今日、俺の人生で、五人の子供達への義務が終わったんや。万々歳や。お袋への義務も四年前に終わったし、あとは嫁さんとお互いに労わりあいながら、残りの人生を神さんの方に向かって一歩一歩歩んで行くだけなんや。だから朝起きてから夜寝るまで一体どれくらい世俗的な事に巻き込まれずに、神さんの御名を唱えて神さんの事を思い、常に真理のみを口にしながら毎日を過ごしていけるか、という事を検証しながら生きて行こうと思っているんや。今日から人ともほとんど会わないし、それが出来るので嬉しいな。一日にどれくらいサイラムを唱えれるかトライしてみたかったんや。

ポニョ:おいらやったらすぐに飽きてしまうぜよ。一日一食やし。どこが嬉しいのか理解出来ないぜよ。

ヨシオ:サイラムを唱えながらサイババさんの御姿を浮かべるんや。すると神の御名によって心の底から至福感が湧いて来るんや。その至福感を一度体験すると、もう二度とこの世的な喜びを得ようと思わなくなるんや。それくらい強烈な体験やと聖者たちが言ってるな。サイババさんは俺たちは至福そのものと言っておられるけれど、まさしくその通りなんやろな。人は喜びを求めて、世界のあちこちに出かけたり、物や権力、名声や名誉を求めたりするけれど、真の喜びは自分の中にあるんや。それを見つけるのが、それぞれの人の義務なんや。ヨギたちはその喜びが神の御名によってもたらせる事に気付き、時間を惜しんで神の御名を唱えるんや。人がそのヨギに教えを請いにやって来ても、ヨギたちは誰とも話したくないんや。だってそんな事をしたら、神の御名を唱える時間を失ってしまうやろ。その至福感を何度も味わいたいが為に、ヨギたちの舌は神の御名を唱える事に忙しいんや。

ポニョ:そういや昔こんなバジャンを作らなかったか?

サイの御名甘く、心溶かせる

唇にサイラムまるで甘露のよう

It's sweeter and sweeter as a days goes by

私の心、サイに溶け込む

My Sai and I ,My Sai and I

私の心、サイに溶け込む


ヨシオ:ところで昨夜、俺が今まで見たサイババさんの動画の中で、トップファイブに入るぐらい素晴らしい動画を見つけたんや。それを感激しながら十回近くも見ながら寝たんやけれど、目をつぶってもサイババさんの素晴らしい御姿が目の前に浮かんでいるんや。めちゃ良かったで。バックグランドミュージックも良かったし。
https://m.youtube.com/watch?list=LLDL1lSpbSYvJ9H2T8iPewzA&v=6hDOHzDHFhA
ポニョ:へえ〜。今晩見てみようかな。

ヨシオ:この動画はとても良かったので、今日から寝る前に毎日見ようと思ったんや。ところで今日から嫁さんがいなし、午後から天気も良かったので、俺の担当は魚やけれど、久々に嫁さんの担当だったアクアポニックスでも働いたんや。ナスビやキュウリやいろんな豆やらトマトやらレタスやセロリや名も知らない薬草が生えていたな。どこを掘ってもミミズだらけやし。ミミズ農場みたいやったな。このアクアポニックスのシステムを作ったところは、元々バスケットコートだったところで、床を見るとフリースローラインやら、三点シュートのライン。センタージャンプのラインなど、巻き尺で測って一日中ペンキで線を引いた跡が、まだはっきりと残っているんや。俺はそれを見ながら息子たちとここでバスケをした日々を思い返していたんや。あれからもう十七年も経ったって信じられなかったな。まだ末っ子はその当時小学生の低学年で、次男は高学年、次女は中学生、長男と長女は高校生やったんや。それに俺たち夫婦とお袋が加わって一つのチームが四人で二つのチームを作ってゲームをして遊んだんや。目を閉じるとその時の情景が浮かんで来たな。子供達の歓声やら、嫁さんやお袋の笑顔、そしてゲームに勝った時の子供達の喜ぶ顔などが目の前に浮かんで来たんや。お袋はその頃、今の俺と同じくらいの年やったけれど、あの大きなバスケットボールを投げれるだけの力は無かったので、ディフェンス専門やったんや。俺はあの時のお袋と同じくらいの年になったって自分でも驚くな。お袋のディフェンスは立って手をバタバタ動かしているだけやけれど、それでも子供達にはプレッシャーになっていたな。めちゃ笑ったで。子供がお袋のディフェンスでシュートを落とした時。お腹の皮がよじけるぐらい面白かった。コートに寝転がって笑ったんや。可笑しくて涙がチョチョ切れたな。バスケのコートには夜でもバスケが出来るように、ハロゲンランプの照明を点け、夕食のあと、毎日のように三時間くらい時間を忘れて家族全員でバスケで汗を流したんや。あの頃が俺の人生で一番楽しかった時やったな。その幸せだった時の光景を思い出して暫くの間、アクアポニックスで働く手を休めて思いに耽っていたんや。そして俺は、サイババさんの恩寵で、この世で一番幸せな家族と一緒に暮らさせてもらっていたと実感し、サイババさんへの感謝の気持ちで心が一杯になって、至福感が込み上げてきたんや。

人は永遠に続く恒久的な幸福をどこで見つけることができるのか、よく理解しなければいけません。
それはアートマの相の中で、そして、神を思うことの中でのみ、見つけることができます。
永遠の幸福は、永遠のものからしか得ることはできません。
はかないものからは、決して永遠の幸福は得ることはできません。
真の至福は、永遠の幸福を味わってから初めて得られるものです。
どこかにその真の至福を探しに行くことはできません。
それは魚市場にダイヤモンドを探しに行くようなものです。
魚市場で見つかるのは魚だけで、ダイヤモンドは見つかりません。
この世は一時のものであり、諸行無常なのですから、この世界で永遠の幸福を見つけることはできません。78夏期講習



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