りりあんのめーぷるしろっぷ

季節感あふれる身辺雑記。

五月になりました。

2012-04-29 | Weblog
このブログの主役も、今月とうとう三十台に突入ですね(しみじみ・・・)。
この数年、私的に誕生月の恒例にしてきた詩。今回を最後にしようと思います。二十九歳から三十歳――節目ではありますが、自分のことを考えると、とくにどうということもなかったような・・・いやいや、二十九歳はけっこう好きな年齢だったから、ちょっと別れを惜しんだような気もします。前置きはこのくらいにして――。

 二十才、僕は五月に誕生した
 僕は木の葉をふみ若い樹木たちをよんでみる
 いまこそ時、僕は僕の季節の入口で
 はにかみながら鳥たちへ
 手をあげてみる
 二十才、僕は五月に誕生した

三十歳――どんな季節の入口になるんでしょうね。
絶賛公演中の舞台も思った以上に好評のようで、ますます楽しみになってきました。
こそっと報告。勇気を出して、kiino郵送お願いしました。親切に対応していただきましたよ。つくづく着物がお似合い。

早くも今日は・・・

2012-04-24 | Weblog
もう大阪初日ですね。克実さんとのツーショット(アワブロ)、ふたりともよい笑顔で和みました。
新幹線チケットと宿の予約をすませ、一昨日はチケットが届いて、あとは所定の日に身体を運ぶだけ。数えてみれば、大阪に観劇に行くようになってから、今回で6回目になります。「ロミジュリ」を観た最初の時は冬でしたが、「近代」の時に帰りの列車に乗り遅れまいとして、じりじり焼けつく炎天下の大阪城公園を突っ走った記憶があまりにも鮮明で、私のなかでは、大阪というと地獄の暑さ――とインプットされています。これは多分に暑さが苦手なせいもありますが・・・さて、今回は爽やかな五月なわけですが、でもやっぱり大阪は暑いんでしょうね。暑い大阪、熱い舞台になればいいなと思います。

今回久しぶりの共演となるじゅんさんが書かれていた心のふるさとのこと。どこに留学されていたのだろうと思っていましたが、ボーンマスだったのですね。おぼろな記憶をたぐりよせてみると、私もその町の近くに二週間ほど滞在したことがありました。ボーンマスは海辺の町ですが、私が滞在したのは少し内陸に入った村で、そこからほぼ毎日、車で海まで遊びに行っていたのでした。二階建て石造りのコテッジに、若いイギリス人の夫婦(私が世話になっていた家族の親戚の知り合い)と老夫婦(こちらは夫が車の運転手をやってくれていました)に私と子供ふたりが、夏の休暇をその家で過ごしました。どういう訳で、ごった煮のような組み合わせになったのかは忘れてしまいました。老夫婦に関しては、二人の風貌ももうぼんやり霞んでいますが、夫のこだわりの車――旧式のロールスで、手入れは行き届いていましたが、さほど乗り心地がよかったような記憶はなくて――に子供たちと私を乗せて、海まで送り迎えしてくれたことだけは覚えています。そこだけ記憶に残っているのは、おじちゃんが愛車を見る時の愛おしげな目が印象的だったからかもしれません。
若い新婚ほやほやのカップルはとても気持ちの良い人たちで、特に彼女のことは、年齢も近く、子供を別にすると一緒に過ごす時間が長かったせいか、わりによく覚えています。白いマシュマロのような頬がいつも薔薇色に染まっていて、血色がよくて元気そうに見えた彼女が、明るい陽光にあふれたキッチンで、キッシュを料理しながら、私ね、じつは白血病でそんなに長く生きられないのよ、とごく穏やかな表情で言った時のことは、あれから数十年たった今でも忘れられません。彼がそれでも一緒にいたいと言うから、結婚したの、と料理の手を休めずに話を続けた彼女。私は言葉をなくし、黙って見つめるしかありませんでした。彼女たちがアイルランドに帰って、あれから、どんな人生をたどったのかはわかりません。

つい昔語りが長くなってしまいました。観劇の日までにやるべきことがあって、にんじんを鼻先にぶら下げられた馬みたいな気分ではありますが、気を引き締めて頑張ろう・・・と自分に言い聞かせつつ、今日はこれでおしまい。

いろいろ終わった・・・

2012-04-14 | Weblog
日が巡るのは早く、桜はすでに葉桜に、7日~8日の楽しかった週末(ついでに9日月曜日には、ひっそり再放送されていた「それが答えだ!」も最終回でした)も過ぎて早や一週間。なんだかんだで年明けから忙しかったですね。今は舞台の幕が開くのを静かに待つ日々です(遠征までに終わらせるべく、一応仕事をしながら)。
下谷に関してはもう書くこともないのですが、映像版を見て、思ったことを少し――。
私の観劇日は前楽と楽だったので、洋一さん、声を出すのがつらそうだなと思ったけれど、中継の頃にはあんなに声が出ていたのね、とちょっと羨ましかったです。スタパでのご本人発言もありましたが、長い公演、心身のコンディションを維持するのは本当に大変なんですね。
蓄音器の上で指を切断される場面。舞台奥で演じていますが、切断の瞬間に顔まで飛び散る鮮血、苦悶の表情――息をのんで見たあの瞬間が、中継映像では、キティの反応から、血みどろの包帯を巻かれて引きずりだされる洋ちゃんの姿、という流れで、あっ、あの場面もう終わった、とやや、がっかり。洋ちゃん的には殺される前のクライマックスだと思ったので。でも、舞台から離れた座席で観た方々には、こんな感じだったのでしょうね。
生の舞台と映像とは別物、とよく言われます。臨場感は如何ともしがたく、下谷の場合は舞台前方の瓢箪池を使った演出(役者が池に飛び込む時の盛大な水しぶきや水の音など)と、大人数のオカマ屋さん(舞台に立っている誰もが同時に何かしらやったり声を出したり)が観客を下谷の世界へ引き込む大きな要素になっていたことに、映像を見て気づかされました。でも、別物であるとはいえ、聞き逃していた台詞や記憶に残っていなかった台詞、見逃していた表情などいろいろあって、充分に楽しめました。今回は幸いにも観劇することができましたが、いろいろな事情で舞台を観に行けないこともあったりするので、こうして放送で見られるのは、やはりありがたいことですよね。

シェイクスピアと方言、どちらも楽しかったです。シーズン2、最低一回はご出演でしょうから、そちらも楽しみ。でも、シェイクスピアをやろう、から蜷川さんに怒られないですかね、の台本の流れ(アドリブではないですよね。勝・新第4回でも完全にドキュメンタリータッチで進んだのに、すべて台本でしたから)は、やや違和感があって――ここでその名前を出すか、みたいな――業界内の立場のことなど少し考えさせられました。三谷さんの「こんな台詞を書いたら・・・」とか、最近でも「はやぶさ」の本木監督が「演技をさせてもらえなかったと思っているんじゃないか」みたいなことを言われていました。豊田監督にも「蜷川の芝居じゃないないんだから」と言われたんでしたっけ。いくらまっさらな状態でと思っていても、いろんな人から勝手なイメージをくっつけられるのは仕方のないことなのでしょうから、その後の自分の行動なり何なりで、塗り替えていくしかないのでしょうね。原点であることは間違いないので、巨匠の名前が付いて回るのは避けられないし、そのおかげで良い方向に働いたこともたくさんあったでしょう。これからもあるでしょう。その一方で、それが邪魔になることもあったかもしれません。これからもあるかもしれません・・・あれれ、まとまりがつかなくなってきました。ともかく思ったことは、大変なところで戦っているのだな、でした。

この数週間に見た番組でよかったと思ったものを二つ。一つは「オペラ座の怪人25周年記念公演inロンドン」。基本的にミュージカル苦手なのですが、この演目は例外。映画もよかったですし、何より歌がすっと耳に入ってきて、素直に物語に入っていけます。記念公演だけあって、装置も大がかりでドラマティック、何度か鳥肌たちました。
もう一つは、仁左衛門さんのドキュメンタリー。こちらは民放のBSで放送していました。何より印象的だったのが、若手の役者を指導する時に繰り返し指摘されていた「心が入っていない」の言葉でした。この番組を見て、改めて思いました。今のうちに歌舞伎も見ておかないと・・・。

今年の桜は見られても・・・

2012-04-04 | Weblog
今年の桜は見られても、来年の桜はわからない――今年はとくに、(三谷さんによる)総司のこの言葉が胸にしみるような気がします。私の花見スポットの桜も、二、三日前にようやく蕾がほころんできたと思ったら、今日は一気に三分咲きに。週末は花冷えの予報が出ていたので、お花見の約束を5日にしたのですが、ちょっと焦るくらいに開花が早くて、やきもきしています。最寄りの神社の境内では、咲くのが遅かった臥竜梅の花がまだ五、六輪けなげに残っていました。
大いに楽しめたシューイチを最後に、はやぶさ関連のテレビ出演も終わり、静かにwowowの勝・新と下谷を待ちながら、徐々に仕事モードに入っている今日この頃。下谷も長いバージョンの予告が流れるようになりましたね。昨日は勝・新の来週の予告。藤○ドラゴンなどと古田さんに呼ばれ、勝・新おふたりにサンドイッチにされて困った顔つきをしながらも楽しそうでした。最近は新しい顔を拝見するたびに、ああ、いい顔だな、と咄嗟に感じるので、「無理をするのをやめた」(「家の光」の記事だったでしょうか?)という姿勢が最近の表情に表れているとすれば、いい感じで自然体へと向かっているのかな、などと憶測しています。話をすることで悩みや問題を整理するタイプなのか、悩みがほぼ解決してはじめて口にするタイプなのかはわかりませんが、いろいろ大変なことがあっても、今の曇りのない表情(あくまでも私の目から観て)がよけいな心配など払拭してくれます。まあ、心配といっても、この10年近く、さして心配することもなく楽しませていただいていますけど――ちょっと恥ずかしくなってきたので、話を変えます。

1612年4月13日――武蔵と小次郎が船島で果たし合いをしたのは、400年前のこの日なのだそうです。地元が船島(いまの巌流島)に近いので、今年に入って、「決闘400年」の文字を見かけるようになりました。下関の和菓子屋さんのドラ焼き「おそいぞ、武蔵」を見つけた話は前にも書いたことがあったでしょうか。このお店が作った最初のドラ焼きは小次郎にちなんで「巌流焼」。どちらかというと小次郎よりの土地柄かと思っていましたが、「決闘」の場面の銅像のある北九州小倉の手向山には、武蔵の養子伊織が建てた「小倉碑文」と呼ばれる武蔵顕彰碑があるそうです。小次郎が小倉藩細川家の剣術指南をしていたのは知っていましたが(「細川御家中の方、お手当を!」というムサシの台詞がありました)、伊織が小倉藩小笠原家の筆頭家老を務めていたというのは知らなくて、ちょっと驚きました。あまり部屋の中に飾り物はしないのですが、例外は次の舞台や出演映画のチラシ(手に入ったら・・・ですが)と、気に入りのポストカード。これはムサシの舞台写真です。小次郎と雌雄を決するべく、鼠色の長い鉢巻をきりっと巻いて、二刀流を手に身構えている場面。kiinoの写真といい、着物お似合いですよね。写真撮影の時に着付けの方と着物の話でもりあがっていたとか。舞台はラギが控えていますが、映像でもまた着物姿を披露してほしいですね。

蜷川演出のシンベリンがテレビで紹介されていて、被災地に残った一本松(原作では杉)を舞台に登場させているのを知りました。ロンドンの観客はどう受け止めるのだろうと思って見ていましたが、今朝のニュースで、この一本松の種をふくむ植物の種を陸前高田の子供たちがイギリスの王立植物園に届けにいったという話を伝えていました。最近、読んだ「野いばら」という小説は幕末(1862~63年)の横浜と2009年のコッツウォルドが野いばらでつながる物語でした。クライマックスの野いばらの場面の「動」とラストのコッツウォルドの情景の「静」が際立つ、美しい小説でした。今年、海を渡った植物の種もゆっくり時間をかけて、しっかり根付いてくれるといいなと思います。