「ヒューマン」は完結し、中学校の特別授業などの動画もアップされ、レギの衣装なども公開されて、次へ次へと進んでいる今日この頃、今更の感がありますが、早々と4月7日にwowow放送が決定したということで、ぽつりぽつりと書きつないでいた下谷のことをまとめておこうかと(最初にお詫び。長いです)。
テレビ画面の雪景色と窓の外の景色が重なりあう、一年に一度あるかないかの稀な日。昨日の夕方から降り始めた雪が一夜明けてもまだ降りやまず、窓の外はうっすら白いベールに覆われています。いつまで続くんでしょうね、この寒さ。渋谷の日ざしは明るかったけれど、風は冷たかった――下谷の千秋楽からもう一週間。緑色のしずくが頭と頬にちょっぴりかかる、などという楽しいような、迷惑なような体験あり、瓢箪池を上から眺める幸せな体験もありで、猥雑と抒情の波打ち際でゆらゆらと、心満たされる遠征から帰ってきました。
芝居を観ていて、あんなに泣いたのって、いつ以来だろう? 思い出せないくらい昔のことのように思えます。これまでずっと芝居を観ても、本を読んでも、映画やドラマを観ても、ほとんどの場合、私が感情移入するのは男性のキャラクターなのですが、下谷に関しては、はっきりキティさんに感情移入していました。これも私としては新鮮な観劇体験でした。万年町のあの世界に後ろ髪ひかれる思いで、約束の時間を気にしつつ劇場を跳び出さなければならなかったのが残念でした。出てくる人、出てくる人、悲しくて愛おしい――恐るべし唐戯曲。
今回の遠征では、ありがたくないお土産までついてきました。楽日の夜、友人宅で足を滑らせ、椅子に鳩尾をぶつけて、肋骨を痛めてしまいました。けっこう痛い、とインシテ撮影時のエピソードなども思い出しつつ、翌日は浅草方面に所要をかねて出かけました。伝法院の横を通りながら、この裏に瓢箪池があったんだなぁとしみじみ。抑えた色調のオレンジ色にライトアップされた浅草寺は昭和な風情を漂わせて、なかなか素敵でした。帰りは浅草六区を通って、隅田川にかかる橋(地図で見ると、駒形橋)の上から「稔おじいちゃん」のスカイツリーをしばらく眺めてきました。翌日は友人宅のある水天宮から横浜へ行き、羽田に戻って帰宅。観劇遠征に用事をプラスするのは考え物ですね。慌ただしすぎて、余韻に浸るどころではなくなるから。万年町に戻りたい気持ちと済ませるべき用事との板挟みになって、ただでさえ容量の少ない脳内がぐちゃぐちゃと分裂状態に・・・でも若い頃、先輩に誘われた花園神社のテント芝居――なんだか怖くて足を踏み入れられなかった世界に驚くほどすんなり入っていけて、何度でも観たいと思わせられる舞台でした。たぶん、あの時代特有の禍々しさが薄められていたからかなと思います。
帰宅後、鳩尾の痛みがひどくなる一方なので、病院でレントゲンを撮ってもらったら、肋骨が一本折れていました。肋骨は自然治癒しかないので、痛み止めと固定バンドをお供に、一カ月ほど痛みとつきあうしかなさそうです。予想外に大きなお土産になってしまい、ややへこみました(二月十九日記)。
万年町の人びとやいろいろなモチーフにどんなイメージを重ねるか、どう解釈するかは、あの世界を目撃した人の数だけあって、そのどれもが正解――そういう芝居だと思うので、これから書くのは、もあくまでも個人の思いつきであり、妄想の範疇に近い解釈みたいなものでしかありません。いわば一人連想ゲーム。あの時あの場で目は舞台の上に釘づけになりながら感じたこと、そしてまた日常に戻ってから、ふと立ち戻る記憶のあれこれに、自分のイメージをつぎはぎにしたもの、ぽつぽつと泡のように浮かんでは消える呪文、そんなものを書くのも躊躇われますが、いったん頭を整理しておかないと、はやぶさにおかえりと言う準備ができない(笑)ので、書いておきます。
三人そろってこそのサフラン座。ふと頭をよぎった言葉――三位一体。キリスト教では「父と子と聖霊」キティと文ちゃんと洋ちゃん。俳優と脚本家と演出家。物語もトライアングル。文ちゃんが通過儀礼を経験して、少年から青年へと一歩踏み出すビルドュングロマン。キティという絶望した、哀れな女性の再生の物語。洋一はねぇ、どこか殉教者のような影を感じました。かつてのサフラン摘みの少年がアイデンティティを探す物語。洋一がいなくなった後、血を媒介にキティと一体になって、もう二人だけで・・・と文ちゃんがキティにすがりつく。洋ちゃんに憧れ、洋ちゃんと同化してキティに恋をしていた文ちゃんは青年への一歩を踏み出そうとして、キティに拒まれる。痛々しい文ちゃん。キティが見ているのは三人がいてこそのサフラン座。だから彼女は水の底の劇場を諦めない。キティが強い意思を持って瓢箪池に入るとき、その姿がとても凛々しく、雄々しく、強い光を放っているようでした。ざぶざぶ瓢箪池に入り、洋ちゃんの身体を背負い、文ちゃんに「行こう!」と手を伸ばすキティ。三人の姿が美しすぎて、思い出しても泣けてきます。その三人の場面と、千秋楽のカーテンコールで唐さんが言った「万年町は終わりません」がぴったりと重なる。パンフレットによると、この最後の場面のト書きは、「と、ぬれた手を差しのべる!! 少年もまた。花が、そして風が。」
指に注射器に亀――ストレートに連想するのはリンガ。男性器を象徴する信仰の対象で、蓮の花の中央に屹立する形で表わされるリンガは、それだけでは見えない存在。対になる女性器(花)がなければ形のないものとされている。風――ユングをかじった時に風に揺れる男性器のイメージがあったような・・・そうそう太陽ファルス男。古代イランのミトラ教の祭儀に、太陽から垂れ下がる管が風を起こす、という集団的イメージがあった。管が揺れて風が起こる。風が吹き、花が舞うと、見えないものが形を得る。亀は龍宮への導き手。龍宮は楽園であり、水底の劇場。サフラン座の夢であり幻・・・。銀ヤンマは、戦時下の東京の空を覆ったB29をとっさに連想したけれど、「目玉だけが残って」以下はもうわかりません。銀縁メガネに銀ヤンマ、唐さんの中では銀にも何か思うところがあるのでしょうね。
身体を張ってオカマヤさんを演じる役者さんたち、その役者さんたちが演じるのは身体を張らなければ生きていけなかったオカマヤさんたち――悲しいです。圧倒的な体躯のお市さんに押しつぶされて登場するしめ縄の少年。すでに登場の場面から悲しく痛々しい。自称ターキーのパン助も痛々しかった。その彼女を自分と重ね合わせて、じっと見つめるキティの辛そうな表情。白井にしても兄と同化して、キティと生きようとした男(原作を読んだ感じでは、もう少し若い人をイメージしていましたが)。万年町の人びとは、いろんなものが重なった存在。ただ一人、とってもわかりやすいのがお春さん。一途に洋ちゃんを愛していてぶれないから。それでも生きるためにはその大事なイロを警察に売るお春さん、悲しいです。前楽は二回公演の日とあって、お春さんと座長さん、少し声や動きが弱いように感じました。お疲れだったのでしょうね。千秋楽ではみなさん、気迫みなぎる演技でよかったです。少年の文ちゃんは前楽より丁寧に、洋ちゃんは前楽よりメリハリがあって、さらに素敵でした。とにかく六平さんと同じで、洋一が瓢箪池からキティをすくい上げる場面だけで、もう涙がにじんでくる。繰り返しになりますが、あんなに泣かされるとは思ってもみませんでした。大人の文ちゃんが語るキティらしき人の「その後」は哀れです。ストリップ小屋の楽屋に崩れた壁のレンガを積み上げていた彼女は、サフラン摘みの少年の壁画を再生したら、洋ちゃんが復活すると思っていたのでしょうか――最後もまた涙。
テレビ画面の雪景色と窓の外の景色が重なりあう、一年に一度あるかないかの稀な日。昨日の夕方から降り始めた雪が一夜明けてもまだ降りやまず、窓の外はうっすら白いベールに覆われています。いつまで続くんでしょうね、この寒さ。渋谷の日ざしは明るかったけれど、風は冷たかった――下谷の千秋楽からもう一週間。緑色のしずくが頭と頬にちょっぴりかかる、などという楽しいような、迷惑なような体験あり、瓢箪池を上から眺める幸せな体験もありで、猥雑と抒情の波打ち際でゆらゆらと、心満たされる遠征から帰ってきました。
芝居を観ていて、あんなに泣いたのって、いつ以来だろう? 思い出せないくらい昔のことのように思えます。これまでずっと芝居を観ても、本を読んでも、映画やドラマを観ても、ほとんどの場合、私が感情移入するのは男性のキャラクターなのですが、下谷に関しては、はっきりキティさんに感情移入していました。これも私としては新鮮な観劇体験でした。万年町のあの世界に後ろ髪ひかれる思いで、約束の時間を気にしつつ劇場を跳び出さなければならなかったのが残念でした。出てくる人、出てくる人、悲しくて愛おしい――恐るべし唐戯曲。
今回の遠征では、ありがたくないお土産までついてきました。楽日の夜、友人宅で足を滑らせ、椅子に鳩尾をぶつけて、肋骨を痛めてしまいました。けっこう痛い、とインシテ撮影時のエピソードなども思い出しつつ、翌日は浅草方面に所要をかねて出かけました。伝法院の横を通りながら、この裏に瓢箪池があったんだなぁとしみじみ。抑えた色調のオレンジ色にライトアップされた浅草寺は昭和な風情を漂わせて、なかなか素敵でした。帰りは浅草六区を通って、隅田川にかかる橋(地図で見ると、駒形橋)の上から「稔おじいちゃん」のスカイツリーをしばらく眺めてきました。翌日は友人宅のある水天宮から横浜へ行き、羽田に戻って帰宅。観劇遠征に用事をプラスするのは考え物ですね。慌ただしすぎて、余韻に浸るどころではなくなるから。万年町に戻りたい気持ちと済ませるべき用事との板挟みになって、ただでさえ容量の少ない脳内がぐちゃぐちゃと分裂状態に・・・でも若い頃、先輩に誘われた花園神社のテント芝居――なんだか怖くて足を踏み入れられなかった世界に驚くほどすんなり入っていけて、何度でも観たいと思わせられる舞台でした。たぶん、あの時代特有の禍々しさが薄められていたからかなと思います。
帰宅後、鳩尾の痛みがひどくなる一方なので、病院でレントゲンを撮ってもらったら、肋骨が一本折れていました。肋骨は自然治癒しかないので、痛み止めと固定バンドをお供に、一カ月ほど痛みとつきあうしかなさそうです。予想外に大きなお土産になってしまい、ややへこみました(二月十九日記)。
万年町の人びとやいろいろなモチーフにどんなイメージを重ねるか、どう解釈するかは、あの世界を目撃した人の数だけあって、そのどれもが正解――そういう芝居だと思うので、これから書くのは、もあくまでも個人の思いつきであり、妄想の範疇に近い解釈みたいなものでしかありません。いわば一人連想ゲーム。あの時あの場で目は舞台の上に釘づけになりながら感じたこと、そしてまた日常に戻ってから、ふと立ち戻る記憶のあれこれに、自分のイメージをつぎはぎにしたもの、ぽつぽつと泡のように浮かんでは消える呪文、そんなものを書くのも躊躇われますが、いったん頭を整理しておかないと、はやぶさにおかえりと言う準備ができない(笑)ので、書いておきます。
三人そろってこそのサフラン座。ふと頭をよぎった言葉――三位一体。キリスト教では「父と子と聖霊」キティと文ちゃんと洋ちゃん。俳優と脚本家と演出家。物語もトライアングル。文ちゃんが通過儀礼を経験して、少年から青年へと一歩踏み出すビルドュングロマン。キティという絶望した、哀れな女性の再生の物語。洋一はねぇ、どこか殉教者のような影を感じました。かつてのサフラン摘みの少年がアイデンティティを探す物語。洋一がいなくなった後、血を媒介にキティと一体になって、もう二人だけで・・・と文ちゃんがキティにすがりつく。洋ちゃんに憧れ、洋ちゃんと同化してキティに恋をしていた文ちゃんは青年への一歩を踏み出そうとして、キティに拒まれる。痛々しい文ちゃん。キティが見ているのは三人がいてこそのサフラン座。だから彼女は水の底の劇場を諦めない。キティが強い意思を持って瓢箪池に入るとき、その姿がとても凛々しく、雄々しく、強い光を放っているようでした。ざぶざぶ瓢箪池に入り、洋ちゃんの身体を背負い、文ちゃんに「行こう!」と手を伸ばすキティ。三人の姿が美しすぎて、思い出しても泣けてきます。その三人の場面と、千秋楽のカーテンコールで唐さんが言った「万年町は終わりません」がぴったりと重なる。パンフレットによると、この最後の場面のト書きは、「と、ぬれた手を差しのべる!! 少年もまた。花が、そして風が。」
指に注射器に亀――ストレートに連想するのはリンガ。男性器を象徴する信仰の対象で、蓮の花の中央に屹立する形で表わされるリンガは、それだけでは見えない存在。対になる女性器(花)がなければ形のないものとされている。風――ユングをかじった時に風に揺れる男性器のイメージがあったような・・・そうそう太陽ファルス男。古代イランのミトラ教の祭儀に、太陽から垂れ下がる管が風を起こす、という集団的イメージがあった。管が揺れて風が起こる。風が吹き、花が舞うと、見えないものが形を得る。亀は龍宮への導き手。龍宮は楽園であり、水底の劇場。サフラン座の夢であり幻・・・。銀ヤンマは、戦時下の東京の空を覆ったB29をとっさに連想したけれど、「目玉だけが残って」以下はもうわかりません。銀縁メガネに銀ヤンマ、唐さんの中では銀にも何か思うところがあるのでしょうね。
身体を張ってオカマヤさんを演じる役者さんたち、その役者さんたちが演じるのは身体を張らなければ生きていけなかったオカマヤさんたち――悲しいです。圧倒的な体躯のお市さんに押しつぶされて登場するしめ縄の少年。すでに登場の場面から悲しく痛々しい。自称ターキーのパン助も痛々しかった。その彼女を自分と重ね合わせて、じっと見つめるキティの辛そうな表情。白井にしても兄と同化して、キティと生きようとした男(原作を読んだ感じでは、もう少し若い人をイメージしていましたが)。万年町の人びとは、いろんなものが重なった存在。ただ一人、とってもわかりやすいのがお春さん。一途に洋ちゃんを愛していてぶれないから。それでも生きるためにはその大事なイロを警察に売るお春さん、悲しいです。前楽は二回公演の日とあって、お春さんと座長さん、少し声や動きが弱いように感じました。お疲れだったのでしょうね。千秋楽ではみなさん、気迫みなぎる演技でよかったです。少年の文ちゃんは前楽より丁寧に、洋ちゃんは前楽よりメリハリがあって、さらに素敵でした。とにかく六平さんと同じで、洋一が瓢箪池からキティをすくい上げる場面だけで、もう涙がにじんでくる。繰り返しになりますが、あんなに泣かされるとは思ってもみませんでした。大人の文ちゃんが語るキティらしき人の「その後」は哀れです。ストリップ小屋の楽屋に崩れた壁のレンガを積み上げていた彼女は、サフラン摘みの少年の壁画を再生したら、洋ちゃんが復活すると思っていたのでしょうか――最後もまた涙。