『〈マスコミ市民双書〉核とマスコミ-廃絶をめざす報道と世論-』
「マスコミ市民」編集部・編/上田哲、他・著/
日本マスコミ市民会議1978年2刷
今でもある雑誌のようです。
月刊「マスコミ市民」
「「マスコミ市民双書」発刊にあたって」上田哲・著。下「」引用。
「-略-覆面記事と手配りの方法をかたく守るしかない生き方だったのが、一号ずつ重ねてついに十年を数えた。こうなるともうめったに潰れないぞと、中野好夫さんにいわれて、ほっとしたり肩が重くなったりした。」
原爆投下時の広島のNHKのことが書かれてありました。
その後、くわしく調べた本もありますね。
「さんげ」のことが書かれてあった。下「」引用。
「■歌集「さんげ」の出版■
広島の街にバラックが建ちはじめた一九四七年(昭和二十二年)の秋、広島刑務所作業課をたずねてきた気品ある婦人があった。-略-
応待にでた作業印刷主任の中丸忠雄さんは、今でもその歌集の最初の歌を覚えている。-略-自分自身も俳句をたしなむ中丸さんは、その歌に、自分自身も叫びたかったこころねを見いだして感動した。そして、これは容易なものではないぞと直感した。
そのとき、たまたま印刷班は仕事のあまりない時期であり、中丸さん自身の決意もあって印刷にふみ切った。
正田篠枝さんの『さんげ』はこのようにして一九四七年十二月一日歌集として世に出た。活版であったがたった百部の印刷であった。」
index
四国五郎が日本の検閲などを語っている。下「」引用。
「広島市役所の建物は表からみるとかなり立派にみえるが、中庭にまわるとまだ原爆の傷跡が長い間残っていた。『原爆詩集』のさし絵を描いた四国さんは、この市役所の裏手のバラックのまさに戦後が逝き続けてきたという事務所で仕事をしてきた。再び四国さんに語ってもらおう。
「言論の自由だとかいわれても全くなかった時代を生きてきていますからね。絵を描いても子どもの頃は、広島で海の方へ向って風景を描くなんてことはできなかった。要塞地帯を描くことになるわけですから。だから写生に出ても小学校の先生が、『あちらを向いたらいけません、こっちを向いて』と反対側の山の方を向いてみんな写生するということだったのです。だから少々禁止されたり、弾圧されようが、そのことで思いもかけないことだという受けとめ方はしていませんでした。げんに刷ろうと思って刷れば出せるし、追いかけられれば逃げる、ということでできるわけです。
原爆でだんなさんを亡くした人とか、本当に身にしみて悲しみだとか怒りだとかをもっている人に囲まれていたから、原爆に反対したり、反戦の主張をしたりすると、アカだとか何だかという攻撃はあったにしろ、本当に平和のために原水爆に反対して犠牲者のために冥福を祈るんだといえば、文句なしに共鳴してくれる土壌が広島にはあります」
日本がGHQに寛容だったのは、それよりもひどい悪政をひいていた大日本帝国があったからという人は多いと思う……。以前よりも、検閲も緩やかになった……。この比較も忘れてほしくないものですね。
もくじ
「長崎新聞」の人が永井隆批判について書く。下「」引用。
「被爆から三十余年、永井隆博士に対する評価はさまざまにわかれてきている。長崎市立美術博物館長の越中哲也氏は、永井博士を次のように語る。
「永井隆という人は文学青年だったのではないだろうか。もともと戦時中は軍人精神の横溢した人で、敗戦によって転向さぜるをえなくなり、その転向の過程における現実逃避の一つの手段として著作活動があったろうと思う。あの索漠たる時代にセンチメンタルな永井さんの作品が被爆者や日本人の感性をくすぐった役割までも否定すべくもないが、浦上の聖人とあがめられ、国会表彰や天皇の会見に至る過程になるひとつの方向を意識させた演出があったろうし、当時の社会状況からしても永井さんが天皇に会って感涙を流すのも変だ。永井さんが敬虔なカトリックであればあるほど人間宣言をされたとはいえ、つい先頃まで現人神であった人との会見での感激ぶりは矛盾がありすぎる。そのことは長崎における原爆のイメージをねじ曲げてしまったいえるほど決定的なことだと思う。永井さん自身もかつがれたみこしに乗りながらも、その矛盾を感じていたのではないか、永井番といわれた当時の長崎駐在の新聞記者たちは、今、私が感ずる以上にそれを感じているはずだとしたら、その責任は重いといわざるをえまい。
県をあげて永井隆個人を賛美しつつ、アンゼラスの金やロザリオという長崎が古くからもつ異国情緒を調味料にして『原爆』を長崎の観光資源へと味覚化してきたのが今の姿ではないか」
また詩人の山田かん氏は「原爆」の捉え方についていう。
「彼の文筆活動そのものに対してどうこういう必要はないが、彼自身の原爆の捉え方が情緒的で、その情緒性も“汝の敵を愛せよ”的な宗教的教義と重なって出てきた。しかもその上に商業ジャーナリズムが乗かかって、全国を風靡したありようは原爆のとり扱い方そのものも、アメリカに対して意識的に追従していったことが今から見ればはっきりしてくる」
「もちろん永井個人の責任ではなく、そういう方向でしか被爆問題を扱いえなかったプレスコード下のジャーナリズムの限界であったかもしれない」(長崎新聞編集委員岩永久氏)」
昭和天皇=悪という公式のようなものを持っている人たちもいますね。
--とても民主主義的な手法ではないとも思います。
もちろん、このような扱い方はヒトラーにもしては、民主主義の手法をとらないので、非民主主義的なことだろうと思います。
--そして、日本よりきちんと戦争責任を分析して理解しているドイツとの違いがここでもあるとボクは思う。
マイナスばかりをみられる永井隆……。
--しかし、そのマイナスを指摘してきた人たちこそ、民主主義にはマイナスだったのではないか?
むろん、クラウゼヴィッツ人にはプラスだったかもしれないが……。
そのような人たちなら、平和にもマイナスだったのではないか?……。
index
しかし、「祈りの長崎」が原爆容認ならば、確かにそれは大きな間違いだろう。下「」引用。
「「広島の市民が常に『怒りの広島』として被爆問題を真正面に見すえてきたことが政治の姿勢にも影響を与えたと思う。前田川長崎市長が『長崎市民は原爆に寛容である』などという無神経な発言がまかりとおる長崎との違いを、広島へ行くたびにひしひしと感じる。
長崎でようやく被爆者の活発な発言が聞かれるようになったのはほんのここ数年のことで、長崎の市民的特性とはいえ、私たちも話してもらうことに苦労することが多かった。それはまた、浦上地区という日本最大のカトリック殉教の地と深くかかわっているのだろう」(浜口長崎新聞報道部長)」
元ABCC……。下「」引用。
「これと同じく、一九五六年九月八日、東京の産経会館で開かれた国際遺伝子学会で、広島ABCCに元勤務していたW・J・シュール氏も「広島・長崎の新生児に六万四千九百六十五人について八年間調査した結果、原爆による放射能の遺伝的影響はない」と発表している。」
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『タイム』報道……。下「」引用。
「米週刊紙『タイム』は一九六二年五月十八日号で広島と長崎を紹介した「二都物語」で「広島は原爆を売り物にしている」と報じた。そのなかで「広島は過去のきのこ雲に依然としてこだわる売名的な都市だが、それに比べ長崎は古くから海外に門戸を開き、キリスト教の長い伝統につちかわれた寛容の精神をもって現在に生きている」と決めつけている。」
もちろん、「祈りの長崎」でも、核兵器廃絶の人がほとんどだろう……。
寛容なのは人にであり、大量虐殺兵器=核兵器にではない!
……ボクにはそう思えるが……。
それが平和の道だろうとも思う。
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石原慎太郎は核武装……。下「」引用。
「一九七○年、大阪で開かれた万国博覧会で、「日本館の悲しみの塔」「テーマ館の矛盾の壁」から原爆の悲惨さが抹消され、地方自治体館からは原爆写真が撤去された。
それに歩調を合わせるように政府は“核アレルギーの解消”をうたい、自民党の石原慎太郎氏は日本の核武装すらいいだしてきた。」
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もくじ
「マスコミ市民」編集部・編/上田哲、他・著/
日本マスコミ市民会議1978年2刷
今でもある雑誌のようです。
月刊「マスコミ市民」
「「マスコミ市民双書」発刊にあたって」上田哲・著。下「」引用。
「-略-覆面記事と手配りの方法をかたく守るしかない生き方だったのが、一号ずつ重ねてついに十年を数えた。こうなるともうめったに潰れないぞと、中野好夫さんにいわれて、ほっとしたり肩が重くなったりした。」
原爆投下時の広島のNHKのことが書かれてありました。
その後、くわしく調べた本もありますね。
「さんげ」のことが書かれてあった。下「」引用。
「■歌集「さんげ」の出版■
広島の街にバラックが建ちはじめた一九四七年(昭和二十二年)の秋、広島刑務所作業課をたずねてきた気品ある婦人があった。-略-
応待にでた作業印刷主任の中丸忠雄さんは、今でもその歌集の最初の歌を覚えている。-略-自分自身も俳句をたしなむ中丸さんは、その歌に、自分自身も叫びたかったこころねを見いだして感動した。そして、これは容易なものではないぞと直感した。
そのとき、たまたま印刷班は仕事のあまりない時期であり、中丸さん自身の決意もあって印刷にふみ切った。
正田篠枝さんの『さんげ』はこのようにして一九四七年十二月一日歌集として世に出た。活版であったがたった百部の印刷であった。」
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四国五郎が日本の検閲などを語っている。下「」引用。
「広島市役所の建物は表からみるとかなり立派にみえるが、中庭にまわるとまだ原爆の傷跡が長い間残っていた。『原爆詩集』のさし絵を描いた四国さんは、この市役所の裏手のバラックのまさに戦後が逝き続けてきたという事務所で仕事をしてきた。再び四国さんに語ってもらおう。
「言論の自由だとかいわれても全くなかった時代を生きてきていますからね。絵を描いても子どもの頃は、広島で海の方へ向って風景を描くなんてことはできなかった。要塞地帯を描くことになるわけですから。だから写生に出ても小学校の先生が、『あちらを向いたらいけません、こっちを向いて』と反対側の山の方を向いてみんな写生するということだったのです。だから少々禁止されたり、弾圧されようが、そのことで思いもかけないことだという受けとめ方はしていませんでした。げんに刷ろうと思って刷れば出せるし、追いかけられれば逃げる、ということでできるわけです。
原爆でだんなさんを亡くした人とか、本当に身にしみて悲しみだとか怒りだとかをもっている人に囲まれていたから、原爆に反対したり、反戦の主張をしたりすると、アカだとか何だかという攻撃はあったにしろ、本当に平和のために原水爆に反対して犠牲者のために冥福を祈るんだといえば、文句なしに共鳴してくれる土壌が広島にはあります」
日本がGHQに寛容だったのは、それよりもひどい悪政をひいていた大日本帝国があったからという人は多いと思う……。以前よりも、検閲も緩やかになった……。この比較も忘れてほしくないものですね。
もくじ
「長崎新聞」の人が永井隆批判について書く。下「」引用。
「被爆から三十余年、永井隆博士に対する評価はさまざまにわかれてきている。長崎市立美術博物館長の越中哲也氏は、永井博士を次のように語る。
「永井隆という人は文学青年だったのではないだろうか。もともと戦時中は軍人精神の横溢した人で、敗戦によって転向さぜるをえなくなり、その転向の過程における現実逃避の一つの手段として著作活動があったろうと思う。あの索漠たる時代にセンチメンタルな永井さんの作品が被爆者や日本人の感性をくすぐった役割までも否定すべくもないが、浦上の聖人とあがめられ、国会表彰や天皇の会見に至る過程になるひとつの方向を意識させた演出があったろうし、当時の社会状況からしても永井さんが天皇に会って感涙を流すのも変だ。永井さんが敬虔なカトリックであればあるほど人間宣言をされたとはいえ、つい先頃まで現人神であった人との会見での感激ぶりは矛盾がありすぎる。そのことは長崎における原爆のイメージをねじ曲げてしまったいえるほど決定的なことだと思う。永井さん自身もかつがれたみこしに乗りながらも、その矛盾を感じていたのではないか、永井番といわれた当時の長崎駐在の新聞記者たちは、今、私が感ずる以上にそれを感じているはずだとしたら、その責任は重いといわざるをえまい。
県をあげて永井隆個人を賛美しつつ、アンゼラスの金やロザリオという長崎が古くからもつ異国情緒を調味料にして『原爆』を長崎の観光資源へと味覚化してきたのが今の姿ではないか」
また詩人の山田かん氏は「原爆」の捉え方についていう。
「彼の文筆活動そのものに対してどうこういう必要はないが、彼自身の原爆の捉え方が情緒的で、その情緒性も“汝の敵を愛せよ”的な宗教的教義と重なって出てきた。しかもその上に商業ジャーナリズムが乗かかって、全国を風靡したありようは原爆のとり扱い方そのものも、アメリカに対して意識的に追従していったことが今から見ればはっきりしてくる」
「もちろん永井個人の責任ではなく、そういう方向でしか被爆問題を扱いえなかったプレスコード下のジャーナリズムの限界であったかもしれない」(長崎新聞編集委員岩永久氏)」
昭和天皇=悪という公式のようなものを持っている人たちもいますね。
--とても民主主義的な手法ではないとも思います。
もちろん、このような扱い方はヒトラーにもしては、民主主義の手法をとらないので、非民主主義的なことだろうと思います。
--そして、日本よりきちんと戦争責任を分析して理解しているドイツとの違いがここでもあるとボクは思う。
マイナスばかりをみられる永井隆……。
--しかし、そのマイナスを指摘してきた人たちこそ、民主主義にはマイナスだったのではないか?
むろん、クラウゼヴィッツ人にはプラスだったかもしれないが……。
そのような人たちなら、平和にもマイナスだったのではないか?……。
index
しかし、「祈りの長崎」が原爆容認ならば、確かにそれは大きな間違いだろう。下「」引用。
「「広島の市民が常に『怒りの広島』として被爆問題を真正面に見すえてきたことが政治の姿勢にも影響を与えたと思う。前田川長崎市長が『長崎市民は原爆に寛容である』などという無神経な発言がまかりとおる長崎との違いを、広島へ行くたびにひしひしと感じる。
長崎でようやく被爆者の活発な発言が聞かれるようになったのはほんのここ数年のことで、長崎の市民的特性とはいえ、私たちも話してもらうことに苦労することが多かった。それはまた、浦上地区という日本最大のカトリック殉教の地と深くかかわっているのだろう」(浜口長崎新聞報道部長)」
元ABCC……。下「」引用。
「これと同じく、一九五六年九月八日、東京の産経会館で開かれた国際遺伝子学会で、広島ABCCに元勤務していたW・J・シュール氏も「広島・長崎の新生児に六万四千九百六十五人について八年間調査した結果、原爆による放射能の遺伝的影響はない」と発表している。」
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『タイム』報道……。下「」引用。
「米週刊紙『タイム』は一九六二年五月十八日号で広島と長崎を紹介した「二都物語」で「広島は原爆を売り物にしている」と報じた。そのなかで「広島は過去のきのこ雲に依然としてこだわる売名的な都市だが、それに比べ長崎は古くから海外に門戸を開き、キリスト教の長い伝統につちかわれた寛容の精神をもって現在に生きている」と決めつけている。」
もちろん、「祈りの長崎」でも、核兵器廃絶の人がほとんどだろう……。
寛容なのは人にであり、大量虐殺兵器=核兵器にではない!
……ボクにはそう思えるが……。
それが平和の道だろうとも思う。
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石原慎太郎は核武装……。下「」引用。
「一九七○年、大阪で開かれた万国博覧会で、「日本館の悲しみの塔」「テーマ館の矛盾の壁」から原爆の悲惨さが抹消され、地方自治体館からは原爆写真が撤去された。
それに歩調を合わせるように政府は“核アレルギーの解消”をうたい、自民党の石原慎太郎氏は日本の核武装すらいいだしてきた。」
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