磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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ヒロシマを持ちかえった人々 「韓国の広島」はなぜ生まれたのか

2008年02月27日 | 読書日記など
『ヒロシマを持ちかえった人々 「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』
   市場淳子・著/凱風社2000年

『新装増補版 ヒロシマを持ちかえった人々 「韓国の広島」はなぜ生まれたのか』
   市場淳子・著/凱風社2000年、2005年新装増補版


--見捨てられた在韓被爆者(一九四五~一九六六)
「恐るべき原子爆弾」韓国人だろうが日本人だろうが同様。

しかし、社会的状況は日本人内でもさまざま。
「戦争は究極の差別」--戦争を好む人たちがつくった社会。
占領軍もまた同様の人たちであった……。
そんな社会では差別は蔓延。差別があることさえ語られない“自由で平等な社会”だった。

日本人も朝鮮人も見捨てられていた……。
(今も「格差社会」と「差別社会」をすりかえても、結局内容は似たようなもの……。)

--1966年8月に仮称「社団法人・韓国原爆被害者援護協会」(以下、協会)が結成された。下「」引用。

「わたしたちが協会を作ろうと思ったのは、第一に被爆者の被害補償を得ること、そしてつぎに反核平和を訴えるためでした。
 しかし、協会といってもどこからも運営費はでないし、ソウルの本部に被爆者が集まっても貧しい者ばかりで、誰かが少しでもお金をもっていたら、それでちょっとした食べ物を買って分けて食べていました。そして、どこそこに困っている被爆者がいると聞けば、そこへでかけていってなんとか力になろうと、歩きまわっていました(一九九九五年五月、筆者インタビュー)」

1972年8月30日、辛泳洙協会会長が三木(武夫)副総理に会い、補償要望書を手渡す。
--三木副総理「責任を感じている」(『朝日新聞』一九七二年一○月九日)。
同年10月8日、市民の会の会長が大平(正芳)外務大臣と。

しかし内容は惨めなものであった。下「」引用。

「三木副総理、大平外相、二階堂官房長官という政府高官による一連の発言があったこの段階で、日本政府は、孫さんに即座に手帳を交付し、在韓被爆者の日本での治療の道を開くと同時に、韓国における被爆者援護策に着手すべきだった。しかし、日本政府がしたことは、孫さんの手帳裁判を延ばすことだけであった。」

日本政府は、1991年11月に17億円、1993年に23億円と、韓国に。
韓国政府と大韓赤十字社と協会で「福祉増進対策委員会」の協議で、次の施策が在韓被爆者(協会登録被爆者)に実施された。
1 無料治療(保険診察による医療費の自己負担分を支給)
2 年一度の健康診断
3 一人当たり月額一○万ウォン(二○○○年八月現在。実施当初は五万ウォンであった)の診療補助費の支給
4 葬祭料一人当たり一五○万ウォン(二○○○年八月現在。実施当初七○万ウォンであった)
5 陝川(ハプチョン)原爆被害者福祉会館建立(一九九六年一○月完成)」


韓国のヒロシマ』より

--新装増補版の刊行に寄せて
「二一世紀激動の幕開け、在韓被爆者にさしこんだ希望の光」
郭貴勲さん勝訴「被爆者はどこにいても被爆者」
四○二号通達廃止後も崩れなかった属地主義
・「在韓被爆者に関する検討会」の設置
・法外措置の「在外被爆者渡日等支援事業」
・「在外被爆者保健医療助成事業」で医療費支給
・渡日できず亡くなった崔季さんが連続勝訴
・広島高裁が三菱徴用工被爆者への賠償命令
・在韓被爆者問題は日韓協定時の未解決問題
・難航する在韓被爆者の手帳取得
・被爆六○周年に在外被爆者初の実態調査


【挺身隊と慰安婦】にいて、この本を読んでちょっと考えた。
・朝鮮の人たちは、慰安婦ではなく、挺身隊として集められたという。
・日本では、最初に挺身隊と間違ったので、翻訳もそうなり、勧告では挺身隊といわれているという人がいる。
・ボクの父の世代。その韓国人たちは日本語が話せる人たちがいた。父の世代では、日本が韓国を統治しており、日本語による教育を受けた。それなのに、間違うのだろうか? 彼らは日常の言葉も日本語で話せたのに……。
・このことを考えると、韓国の人たちがいう、挺身隊とだまされて、慰安婦にされたというのが、筋が通っているようにボクには思えるのだが、まだまだ文献を読みたいと思っています……。

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